机の上には写真の入っていないフォトフレームがある。
以前は髪の長かった頃の自分と海が映った写真を飾っていた。
でも、今はない。
想い出は想い出としてしまっておきたかったからだ。
だから写真ははずしてしまった。
あの頃の想いと一緒に。
今は……
突然の電話の呼び出し音に振り返ると3度目のコールで受話器を取る。
「…遅刻ね」
「すみません」
確認しなくとも誰がどういう用件で電話をかけてきたのかわかっていた。
「まだかかるの?」
「いえ、今そちらに向かっているところです」
「そう」
「家の前に着いたらまたかけます。恐らくあと10分といったところでしょう」
「わかったわ」
「では、10分後」
少ない会話でも十分だ。少なくとも今の自分たちにはそれでも十分わかる。
あの頃のように何でも言葉にしなければ分かり合えないということはない。
昔は言葉を貰えないと不安で仕方なかった。
次の瞬間、あの人が何処か他を見ているようで、自分は置いていかれるような
そんな気分になってしまっていた。
でも、今は違う。
鏡の前に立つと丹念にブラッシングする。毎日会っている彼だが、今日は
いつもとは違う。司令と整備主任ではない自分たち2人だけのプライベートな
時間だ。だから、いつもよりも綺麗な自分でいたい。
室内に響く電話の呼び出し音に振り向くと時計はあれから5分経ったところだった。
受話器を取ると部屋の窓から外を見る。車から出てこちらを見上げている彼が居た。
「まぁギリギリ合格かしら」
「厳しいですね」
くすりと微笑むと頷いて見せる。眼鏡の奥の瞳は太陽光の反射で見えないけれど、
彼が珍しく優しく笑っていた。
言葉なんていらない…そんなことは言わないけれど、言葉だけに頼りたくない。
「今日はどこに行くの?」
「行けばわかりますよ」
「まぁ、いいわ。今から降りて行くわね」
「はい」
受話器を元に戻すと上着と鞄を手にして部屋を後にする。
言葉だけに頼りたくなかったら、どうするのかって?
簡単よ。最低限の言葉と…。
「…また、カメラ持ってる」
「私の趣味ですから」
「わかってるわよ。…で、この時間って事は山にでも行こうって事?」
「いえ、海かもしれませんよ?」
「どっちでも一緒でしょ」
「全然違います」
車に乗り込みながら後部座席に置かれたカメラケースを少しだけ睨む。
「あー、厳密には一緒かもしれませんね」
「ほら、ご覧なさい」
「貴女と居ることには違いがありませんから」
いつもと違い少し軽い台詞に大袈裟にため息をつく。もちろんそれが本気で
言っている訳ではないことはわかりきっていた。
「何処でそんな台詞を覚えてきたの?」
「先週の映画ですよ」
「もう、そんな事で誤魔化されないわよ」
「はは、手厳しい」
暗くなり始めた空の下、車を走らせながらラジオから聞こえる音楽に耳を傾ける。
家を出てから会話はない。以前ならば不安のあまり彼に何度も話しかけただろう。
沈黙は自分を不安にさせたから。
今は違う。沈黙も気にならない。
最低限の言葉と、あの人の声や態度でわかるから。
「何よ、結局山じゃない」
「山ではないと否定しませんでしたが」
「…屁理屈ばっかり」
「いえね、先週、貴女の部屋に上がらせてもらったでしょう。その時、
フォトフレームに何も写真が入っていないのが気になりましてね」
「…で、入れる写真を撮り来たのね」
「はい」
想い出は想い出、今と未来はこれから作るもの。
過去に縋るのはやめにした。
「じゃあ、風景だけにして」
「…それでは、貴女と来た意味がありません」
「あら、別にいいわよ。私は貴方を見てるだけでも」
「そうですか?」
「ええ」
写真という過去に、想い出に収まりたくない。
だから、貴方に撮られるのは嫌。
「折角新しいカメラを手に入れたのですが…」
「そうねぇ…貴方と一緒なら映っても良いわよ」
「…ファインダーを覗かずに撮れと?」
「それが嫌なら、諦めてちょうだい」
「そんなに嫌ですか、写真」
「別にそんなこと言ってないわよ」
わかるでしょ、私が写真を撮られたくない理由が。
「『今』は確かに何れ『過去』になるでしょう。でも…」
「でも?」
「『未来』も撮り続けるという事で譲歩して頂けませんか?」
わかってるのに、そういう事言うのね。
まったく、仕方のない人。
「口約束、ちゃんと守ってよ?」
「そうですね、努力します」
本当に仕方ない人。約束を守るのが苦手な癖に。
でも、今は信じてあげる。貴方のその瞳がいつもより優しかったから。
完全に分かり合うのなんて無理。…特に貴方は。だから、私は譲歩するのよ。
貴方のその優しい瞳と声に免じて、ね。そうね、少なくとも今は信じてあげる…。
<あとがき>
サイト6周年記念企画より連続更新SS第三日目は恐らくサイト内で一番大人な
2人のお話になりました。今回のお題は「あの頃の想い出」。
何となく甘い雰囲気のようで少し切ない雰囲気になっていればいいと思って
います。
…ところで写真を小道具に持ち出すと若干暗めの話になるのは、何か法則性でも
あるんでしょうか(苦笑)