「中国の歴史」



武田邦彦氏中部大学教授のサイトに昨年掲載された中国の歴史も非常に参考に
なると思われますので、こちらでもまとめておきたいと思います。
オリジナルは、 こちら!

武田邦彦 (中部大学)
http://takedanet.com/

以前にも書きましたが、「中国」に対する間違った認識を正す助けになると思います。
日本人必読の文章です!!!!

(注)画像は、掲載しておりません。必要な方はぜひ武田先生のサイトを訪問ください。

第1章  おとなりの中国

第1節  支那が中国だった昔のはなし

「項羽と劉邦(「こうう」と「りゅうほう」)の物語」は、多くの人が知って
いる有名な英雄伝説だ. 特に、項羽といえば背の高さ185センチ、筋肉隆々
とした大将軍で、戦をすれば負けることはなく、酒を飲めば2升は簡単、豪快で
サッパリしていて、生涯ただ一人の女性を愛し、その女性と運命をともにした。
女性なら誰でもポッとなるという人物だった。

 その項羽が馬上にまたがり数10騎の家来を引き連れてある川の畔を通ろう
としたときだった。川辺に水をくみに来た一人の少女が項羽たちをやり過ごす
ために少し離れたところにポツンと立っていた。

 運命というのはそういうものなのだろう。項羽はふとその娘の方を見て初々
しい可愛らしさに馬を止めた.「近くのものか、それとも胡人か?」と聞いた.
川に水をくみに来ているのだから、近くの娘には違いないのだが、その少女の
目は項羽から見ると青色がかって見えたからだ。「近くのものです・・・」
 その少女の名前は「虞(ぐ)」、年は14. 早速、項羽は娘を馬に乗せて少
女の家に訪れ、軍資金として持っていた金を与えて「虞」をもらった。 この
「虞」こそが2200年後の今日に至っても語り継がれている武将、項羽が生
涯、愛し続けたたった一人の女性だった。後に「虞美人」と呼ばれ、中国では
ヒナゲシのことを虞美人草と呼ぶ.

 さらに明治の文豪・夏目漱石は処女作に「虞美人」という題名をつけている。
虞美人は中国4美人にカウントされることもあるが、虞美人の「美人」は美し
い人という意味ではなく、大将のご夫人というような意味で、「虞妃」(虞とい
う名前の妃)と同じような意味である.

 この項羽、武勇も優れ、気っぷに優れ、部下にも慕われていたようだし、さら
に虞美人との仲も良かったが、最初は盟友であり、最後は仇敵となる劉邦との
天下分け目の戦いに敗れ、虞美人を抱きながら自害する。 その時の項羽の歌と
伝えられる漢詩を紹介しよう。

力拔山兮   力、山を抜き,
氣蓋世。   気力は世を覆うほどだった。
時不利兮,  でも時は味方せず、
騅不逝。   愛馬も進もうとしない。
騅不逝兮,  儂の愛馬が進まないのだから、
可何,    どうしようもない。
虞兮虞兮,  それにしても虞よ、虞よ、
奈若何 !   おまえをどうしようか!

 この詩も歴史的に名高い「垓下歌(がいかの歌)」である。劉邦との最後の戦
いは垓下で行われ、項羽は敗れて虞美人とともに死んだのだ。 虞美人は項羽の
詩に次のように返して死ぬ.

漢兵已略地,
四方楚歌聲。
大王意氣盡,
賤妾何聊生

 周囲をすべて敵に囲まれ、将軍の運命もつきたというような意味だが、「さす
が、虞美人。死ぬ前に詩を詠むとは」と感心するところだ.

 ところで、詩の2番目に「四面楚歌」という4文字熟語があるが、今、日本の高
等学校の入学試験にでた場合は「あたり一面、敵だらけ」という意味を書かない
と×になる。本当はもう少し含蓄があるが機会があったら説明したい。

 ともかく項羽は死んで一件落着し、中国の最初の長期王朝「漢(前漢)」が誕
生するのである。時、紀元前2200年だ。

 この「項羽と劉邦」の話はロマンあふれるが、ここで覚えておかなければなら
ないことが2,3ある。 まず四面楚歌の「楚」という国だ。中国の国の名前は、
大きく「南の方の国というと、楚、呉、宋などの名前が出てくる。だいたいは揚
子江の近くの地域で、海側は上海、内陸では南京、重慶などの都市の名前が浮か
ぶ地帯だ。また、時によってはもっと南の広州なども含むことがある。とにかく、
楚、呉、宋などという名前がでてきたら「ああ、南の方だな」と思えば中国の歴
史はわかりやすい.

ところで項羽と劉邦が戦った20年ほど前には、中国を初めて統一した「秦」の
始皇帝がいた。「秦」と聞くと「チベットの方」という感じだが、そこまでは行
かないがやや山の方からでてきた王朝である.この秦の始皇帝が中国で初めての
皇帝になったのが、項羽が死んだ年よりわずか18年前だった。なにしろ中国で
初めて国が統一されたので、中国の名前を「秦(しん)」を少しもじって「シナ」
と呼ぶことになり、英語ではチャイナ、日本語では支那と呼ぶようになった。

「中国」というのは20世紀になってからの名前で、中国の歴史を尊重し、中国を
尊敬する場合は「支那」と呼ばなければならない。歴史をよく知らない人は「支
那」という名前は中国を蔑視したものと思っているが、「支店」などで使う「支」
という意味で使われていたのではなく、秦の音から来ている.

 ところで秦の始皇帝は、なにしろ初めて国を統一したのだから、やることも多
い.まず国の仕事を、行政、軍事、監察の3つに分けてそれぞれの長を決めた。地方
は「藩」を作って地方分権にしようという人と、「県にして中央集権」という人が
いて対立したが、結局、36県をおいて中央集権にした。なんでも最初は大変で、
トライアンドエラー、つまり「やってみなければ分からない」ということが多い.
今なら北京から上海までヒコーキで楽々と行けるが、当時は大きな国になると周
辺まで行くのが大変だ。 生物でもそうで、今から6億年前に多細胞動物が最初に
できたときには、体の形、目の数、足のつける方向などなにも分からなかった。そ
こで、目の数は1ヶから5ヶの生物を作ってみたが、どうも2つが一番、都合が良
いようだということになって、目は2つになった。 足も最初は四方八方についた
動物もいたが、移動するときには体の下の足だけで良いらしいと言うことが分かっ
て、足も体の下だけにつくようになったのである。さらに外敵にも備えなければな
らないので、始皇帝は、万里の長城を作ったり(北の守り)、全国を巡回したりし
た。かなり努力はしているのだが、何しろ最初のことだから、上手くいくはずもない。
始皇帝が旅先で死んでから2200年も経つけれど、未だに「暴君、始皇帝」という
イメージが強い.

私には名君に見えるが、「時代を拓く第一陣は、結局は報われない」という人間社
会の原則がここにも生きているようだ。秦の始皇帝がやや失敗して死んだ後、項羽
と劉邦が登場してくる.

前回に書いたように、血筋のよい項羽に勝った劉邦はもともとは中流農民のせがれ
で、若い頃は荒くれ者で行状も良くなかったのだが、だんだん大将になっていくにし
たがって策略や深慮遠謀に富むようになった。女癖は最後まで悪かったようだが、
それでも信望があり、ついに項羽を倒して「漢」の国を建てて初代皇帝にになった。

 今では、劉邦がたてた「漢」を「前漢」と言うけれど、もちろんそれは後に「後漢
(「ごかん」と呼ぶ)」ができたから前漢というのであって、最初から前漢ではない。
だから、面倒な人は前漢も後漢も「漢」と呼んでも中国の歴史を知る上ではあまり
関係がない。 前漢を作ったのが劉邦で、後漢は同じ「劉」の姓を持つ劉秀だから、
いわば親戚筋だ.それにこの劉秀は皇帝になって光武帝という名前を名乗るが、前漢
の政治体制を引き継いでいる.だから、「紀元前200年から紀元後200年までの
400年間、中国には「漢」という国があった。」と覚えるのが一番、簡単でかつ役
に立つ.そして、「その「漢」の前に、中国は初めて統一され、「秦」という国がで
き、その「秦」という名前からチャイナ、シナという中国の国の名前ができ、「漢」
の人を「漢人」と呼ぶ。」の2つを覚えれば古代中国ばかりでは無く、現代の用語に
も少しは詳しくなる.

 ここでもう一つ、重要なことを整理しておかなければならない。
秦の始皇帝が支那を全国統一するまでは、中国の中心部に王朝があったが小さかった.
その人たちがいわゆる「現地人」で、現地人の多くの国の内、西に「秦」があり、南に
「楚」があった。だから、「秦」、「漢」の王朝ができるまでは、「支那には現地人
がいた」ということになる。どこの土地にも統一国家のようなものができるまでは「現
地人」がいる。日本も大和朝廷ができるまでは九州に小さな国はあったけれど、それ以
外は現地人だった。

北海道にはアイヌが、アメリカにはインディアンが、そしてオーストラリアにはアボリ
ジニがいて、いずれも集落や小さな地方都市はあったけれど、国家というハッキリした
ものは無かった。どの国も、例外なく「最初の現地人の時代」からやがて「国」として
の体裁を整えてくる。先進国が書いた書物を見ると、「開発途上国」の地域には「現地
人」という呼び名が出てくるが、先進国が「国」としての体裁を整える前は「現地人」
とは呼んでいない。これは無意識のうちに先進国と開発途上国の区別をしているのだろ
う。中国の歴史では殷、周などの古い時代の王朝を国と呼んでいるが、支那全体の大き
さから言えば、まだホンの一部だった。また、支那を秦の始皇帝が中国を統一したとい
っても、それは現代の国家とはずいぶん違う.なにしろあの広い支那に5000万人ぐら
いしかいないのだから、人間がいるといっても大陸全体は人が少なく閑散としていた。
さらに、その少ない人のほとんどは「城壁に囲まれた集落」に住んでいて、住民は朝に
なると門をあけて畑まで歩いていき、そこで畑を耕したり収穫したりしていた。今でも
当時とあまり変わらない集落があるので、その写真を示したい。

この写真は現代の甘粛省の農村で、今から2000年前と比べれば細かくは違うが、おお
よそ漢の時代の集落の様子を思い浮かべる事ぐらいはできる。

 写真の下の方に小高い丘があり、その中に集落が写っている。村壁(壁の中にお城が
あるかどうかは問題ではないので、城壁というより村壁の方が用語としては正しい)は
2重になっていて、数10ヶの家屋が二重壁の中にある。

 日本の常識では、このような「壁」の中には殿様がいるのが普通だが、それは世界でほ
ぼ日本だけで、多くの国では「村や町」を壁で囲っている。つまり、壁の中に住んでいる
のは村人で、同時にある程度の自衛的な武器などを備えている. 村民は朝になると城壁
の扉を開けて畑に農作業に行く.そして夕刻になると慌てて畑から帰り、城壁の扉が閉じ
られるまでに村壁内に戻るのである. どうしてこんな面倒なことをしているかというと、
「中国」という国がないことによる。「国がない」というと抵抗がある人には、「国はあ
るが無政府状態」と言っても良いし、「国はあるが無警察状態」と言っても良い。
 「そんなことはない」と疑問を持つ人もいるだろう.地図を見ると「漢」という国の領
土はシッカリしているし、歴史書には「秦の始皇帝は郡県制度を採用し、全国を36郡に
分け、郡の下に県をおいて、県令、県長にその県を治めさせた」とある。

 歴史を学ぶときに気をつけなければならないのは、「用語が同じでも時代とともに内容
が変化する」ということだ。なにしろ漢の時代は今から2000年も前だから「県」と言
っても愛知県や徳島県などと違うし、今の知事、つまり県令は同じ権限を持っているわけで
も、警察が隅々まで見ている分けでもない。

 現代のアメリカですら、「ピストルを所持しないと不安だ」ということで銃器の携帯が
許されているぐらいだから、2000年前の中国が村人の安全を守るために「村壁」を必
要としていたのは当然だろう.

 また、この写真では集落とその付近の畑だけが写っているが、もちろん森林もあり、荒
れ地もあった。つまり、「都市、村落、その周辺の畑」だけで「国」ができていたのである.
いわば「点と線」だけが国土でそれを道路でつないでいたという状態だった。 

20世紀におきた日中戦争の時に、「日本軍は中国の都市と道路を抑えただけで、それは
点と線の占領に過ぎない.だから日本が中国の一部を占領したというのは事実ではない」と
いう「思想をもった歴史観」というのがあるが、もともと点と線で成り立っている中国を
日本と同じように面で占領しようということ自体が不可能なのである.

 でも、日本人が誤解したのは仕方がないかも知れない。この写真はある地方の「城下町」
(現在)のものだ。日本人にとっては当たり前の風景だが、これを中国人やゲルマン人に
見せるとさぞかしビックリすることだろう。 平野の中心にお城があり、その周りに民家
と畑がある。お城はお堀と石垣に守られているが、周囲の民家は無防備だ。「なんのため
にお城があるの!」と中国人なら叫ぶだろう.「お殿様は自分だけ守って、住民はほった
らかし!それはひどい。日本というのはどういう国なんだろうか!」と日本に不信感を持
つだろう. 日本のお城はなぜお殿様だけが入っているのか?なぜ、住民を守らないのか?
何のための城なのか? 国家というものをハッキリ持っていない国、それは世界のほとん
どの国なのだが、それらの国に住んでいる人にとっては日本が一つの国であるということ
に驚く.そして、戦争があっても戦いは武士同士であり、まれに住民に被害が及ぶことが
あってもそれは希であり、また偶然だと言うことは分からない。

(このシリーズは尖閣諸島の事件を切っ掛けにして、もう少し中国や満洲、ロシアのこと
を良く理解するために始めたものです。一般の歴史書は多く出版されていますので、それ
とは少し角度を変えるようにしています.)

 紫禁城の黄昏の時代・・つまり支那の大清国の終わりだが、その頃、義和団事件が起こ
り、各国の軍隊が義和団事件に介入した。そして、義和団を滅ぼした後、ドイツの軍隊は
周辺の住民を皆殺しにして、宝物を略奪した。 もともと命をかけて戦争するという動機
の一つは他国の軍隊をやっつけた後、そこに住む住民を皆殺しにし、女と財宝を略奪するの
が楽しみで、命をかけている。 まさか、国を代表して命をかけるなどということはあり得
ないのだ。 ところが、各国の軍隊の中で日本の兵士だけが違った。日本の軍隊は将校ばか
りでなく、一兵卒に到るまで軍律厳しく、勝利のあとでも略奪どころか、まったく立派だっ
た。 ある兵士は一時的に中国の農家を借りたお礼に、庭を掃除して帰ったと伝えられて
いる.これには庭を掃除してもらった中国人はビックリ仰天して日本人を心の底から尊敬
したと記録されている. 残念ながら日清、日露、そして第一次世界大戦に勝ってから日本
人の意識は徐々に変化し、満州事変が起こる頃には中国人を「チャンコロ」と呼んで軽蔑
し始めた。 歴史に「もし」はないが、「もし、日本人が明治のはじめのような謙虚な心
を持っていたら」、日本人はその技術、力、誠実さでアジアでもっとも尊敬される民族に
なっただろう.  そのためには「人は誰もが生きているというだけで価値があり、人の
価値はその人の能力などによらない」ということが心の底から分かっている必要がある。
663年の白村江の戦い(かつては「はくすきのえのたたかい」と呼んだ)に負けて、日
本は天智天皇の時代だったが、壬申の乱を経て「日本国、天皇陛下」の体制が固まってい
った。それから後は天皇陛下だけが特別な存在とし、それ以外の人はまったく同じ人間と
して「和をもって尊し」となして生きてきた。 惜しい!それが明治以後も続いていたら
と残念に思う.

 もう一つ、中国を理解するために知っておくことがある。それは、日本人は「できるだ
け正確に過去の歴史を調べる必要がある」と考え、中国人は「自分に都合の良いように書
いたのが歴史書だ」ということだ。

 このように言うと中国人の悪口を言っているように感じる人がいるが、それは中国のや
り方を評価する人が日本人だからである。仮に学問というものが「現在、生きている人の
ためにある」ということになれば、一時代前の殿様がどんなに悪行をしても、それを書か
ないという選択肢もあって良い。

 歴史は現代の人のものだ、自分に有利に書いても良いとしているのが中国だから、「劉
邦が天下を統一して漢王朝を作った.地方には36の県をおき・・・」と歴史書に書いて
あれば日本人は批判精神無く、そのまま信じてしまう.

 でも、それが歴史的事実であるかどうか、また別の問題だ.

 お人好しといえばお人好し、まじめと言えば真面目だが、中国の人の言うことや歴史は必
ずしも真正面から信じることはできない。中国では常に「自分にとって得か損か」が最優先
で、すべてはそれで決まる。
 現代でも、中国料理には油を多く使うので、下水には油が流れる.その油を回収して食用
油として売っている.また、高い値段の蟹として販売するために、食用には適さない蟹を
強い化学薬品を使って表面を化粧して売る。
 日本の食品偽装といえば、産地や添加物のわずかな偽装だが、中国ではあっと驚くよう
なことがある。これも、「お金を盗む方が悪い」という日本社会と、「お金を取られる方が
悪い」という中国文化の差である.
 他国の文化は、他国のものとして理解し、自分の国の常識や倫理で判断しないことが大切
だろう.

 秦の始皇帝が中国を統一し、さらに劉邦が漢を建国して400年、紀元後200年まで、
支那は順調に「国」として独立してきた。漢は中国の中原と呼ばれる地域・・・洛陽を中
心とした盆地だが・・・を支配し、南は揚子江の先まで、北は黄河、そして西は山が始まる
ところまでを支配下に置いていたので、いわば「中国の平野の良いところをすべて「支那」
とした」という状態だった。

 北の方には女真族、モンゴル、西にはチベット、南には今のタイやベトナムがあったが、
文明が発達した地域はなく、これで支那は安泰のように思えた ところが、漢も前漢・後
漢と400年も続く内には悲劇も不運も重なるときがある。 後漢はスタートこそ光武帝が
力をふるってなかなかの王朝を作ったのだが、早くも4代目の章帝からおかしくなってくる.
章帝の時代というとおおよそ紀元80年だから、後漢200年といっても、まあまあ通常の
概念で言う国として通用したのはわずか80年だけと言っても良い。

 支那の政府がこのような状態になったのは、原理原則に基づく構造的なものだったのか、
それとも運命なのか、4代目からの皇帝は若くして死ぬ.なにしろ皇帝になった人はドンド
ン死に、30才を越える皇帝が出なかったぐらいだから、大変なものだ。もしかすると宮廷
内の争いで毒を盛られたのかも知れないし、将来の皇帝ということで運動もせず、栄養も偏
っていたので糖尿病などになったのかも知れない.ともかく、皇帝の寿命は非常に短かった。

 そうなると、皇帝が死んでも残る人、つまり皇帝の母親が権力を握る.でも当時は女性は
政治などをする時代ではなかったので、自ら政治を行うというより自分の父親とかお兄さん
(外戚)を登用するので、混乱が起きる

 さらに中国では男性が皇帝と一緒にいるとごたごたするので睾丸を抜き取って女性化した
官僚(宦官)を使っていたが、男性でありながら男性らしいサッパリしたところが無いのだ
から、これも内紛の原因になる 嫉妬、ねたみ、陰口・・・際限なき宮廷内の戦いが国を乱す
のは当然である.後漢の終わりには漢の領土の中はめちゃくちゃになった。

 有名な反乱は、黄巾の乱や五斗米道の乱だが、その他にも黒山・白波の賊、雷公、飛燕、
李大目の騒動など、いくらでもあった。 そんな事が120年も続き、さすがの支那の最初
の大帝国も紀元200年頃に滅びてしまった。 さらに混乱の中に滅びてしまったので、そ
の後、実に400年も戦乱の日が続いたのである.その戦乱の全体をまずは年表を図にした
もので見てみよう。

 支那の大戦乱時代、戦いはまず「三国志」で有名な魏呉蜀の対立から始まった。どうも日
本人は漢の最初の「項羽と劉邦の物語」や「三国志」が好きなようだ。この二つの物語はと
もに「戦争ばかりしている」時のことで、日本人は平和を愛すると良いながら、つくづく戦
争の話が好きなことが分かる。 戦争というのは別の言葉で表現すれば「殺し合い」だから、
物語の最初から最後まで、殺し合ってばかりいる。人間の数は決まっているのだから、殺し
合えば人口が減るが、それでも項羽と劉邦の時には一般市民をあまり巻き込まない戦い、
つまり「軍隊だけの戦い」なのでまだ人口に与える影響が少ない。

 でも、後漢の後半に起きた黄巾の乱や五斗米道の乱などは庶民が起こした反乱なので、そ
の被害たるや相当なものだ。歴史家岡田英弘先生の研究によると、前漢と後漢の間の紛争で
支那人(漢人)の人口は6000万人から1500万人に、さらに後漢の混乱から戦乱時代
にさらに10分の1に減少したとされている。 つまり、魏呉蜀が争っていたときにはすで
に支那の中央部には人はまばらにしかいなかった。広大な魏の領土にわずか300万人ぐら
いだったと推定されている. そうなると三国志に出てくるあの膨大な軍隊の数は何を言っ
ているのだろうか? すでに支那という国(日本のように海で囲まれているわけではないの
で、境界はハッキリしていないが、およそ黄河から揚子江までの平地)には人がまばらにし
かいなかった。 そこで、三国志の曹操や諸葛孔明などは、「国の外から人を連れてきて戦
う」ことになった。曹操の魏はもっとも北の国だったから、北方の人を入れたが、支那の北
には「騎馬民族」が多かったので、蜀や呉より強い軍隊ができた.その結果、魏が三国の戦
いに勝ち、短い間だが天下をとった。 しかし、それでも戦火は収まらなかった。その後の
五胡十六国の時代こそが、「支那が無くなった」時期でもあり、支那の隣人としての日本人
がよくよく知っておかなければならない歴史的事実である.

 先回も書いたが、自分の国を理解するより、他国を理解する方がずっと難しい。そして他
国のすることを「あいつらは、何ということをするのだ!」と起こったりするけれど、彼ら
には彼らの歴史、文化、経験などがあり、それは日本とまったく違う。 それなのに、日本
史では豊臣秀吉、織田信長、徳川家康というわずか50年ぐらいの戦国時代に活躍した人のこ
とを詳しく知っているのに、支那の五胡十六国の名前も知らなければ、やはり支那を理解す
るのは難しいだろうからである。

 三国、晋と乱れた時代の後、すぐ五胡十六国の時代が来る.
日本の中学校、高等学校で教える中国の歴史では、王朝を覚えるぐらいがせいぜいで、五胡
十六国など戦乱のときにそれほど時間を割けない.でも、社会が大きく変化するのは、安定
した王朝より戦乱の時の方が顕著かもしれない。中国の歴史は前漢と後漢の間、後漢の終わ
り、そして五胡十六国の時代にすっかり様変わりしてしまった。三国の時代から、さらに14
0年ほど続いた「五胡十六国時代」が続くが、一言で言ってしまえばそれまでだが、攻防の
歴史はすさまじい.

次の「興亡図」を見ればあまり説明も要らないだろう.いちいち説明するのも面倒なぐらい
次々と変わる王朝、しかもその主役を演じたのは漢人ではなく、今の満洲、モンゴル、チベ
ットの人だったのである。もちろん毎日のように戦いは続いていた。それが140年もであ
る. これだけ戦乱を続けていたら、国土は荒廃するし、人間も減ってくる.三国志の時代
が終わって晋という国が一時、支那を統一するが、その時の人口が100万人ぐらいでその
うちの半分がチベット方面の民族だったと言うのだから、まさに支那の「真空時代」だった
のである。

 現代の日本でも1億人を超し、中国は10億人以上である.100万人というと、その10
倍が1000万人、100倍が1億人だから、当時の中国には今の人の1000分の1しか
いない。 宮廷や都市には少しの人がいただろうけれど、それを外れるとまったく人影のな
い土地が続いていた。この時点で、一度、中国という国は消滅したと言ってもそれほど大げ
さではない。 日本のような平和なところに住んでいると、人間の知恵も技術も少しずつま
しになるから、それに伴って人口も徐々にではあるが、増えると思っている.たしかに、奈
良時代から江戸時代にかけて日本の人口は増えて3000万人に達した。

 つまり、日本の江戸時代の人口は、五胡十六国の時代の中国に比較して30倍の人口だっ
たが、「江戸時代は人口の増加が停滞した」と言われるが、それでも減少はしなかった。そ
れに比べると中国の歴史は実にダイナミックであり、「日本の常識を超えている」ということ
が分かる。

 それを次には地図で見てみよう.
 地図からも分かるように支那の北方はすでに漢民族はほとんど見られず、北方の民族の土
地になっていた。つまり、この時代に「支那は消滅した」のである. 人口の減少と並んで、
日本のように「島国」で「単一民族」の「国」の場合、世界のどこにでも「国」があり、そ
の国には同じ「民族」がずっと住んできたと思っている.だから「支那」には「支那人」が
いて、その人たちは「黄河と揚子江の間の平野」には昔から住んでいて国を作っているとい
う頭が抜けない. 実は、日本の歴史の本にはどの本にも、そう書いてある.筆者自身も「漢
唐宋元明清」という「中国王朝」の名前を中学校の時に覚えた。これらの「王朝」は王様は
変わったかも知れないが、そこに住んでいる人は同じ人たちで、もし違うとしても元(モン
ゴル)ぐらいとおもっていた。

ところがよくよく歴史を勉強してみると、日本人が「中国」としてイメージしている国家は
「秦と漢」だけで、その後の三国、晋、五胡十六国の時代にすっかり「黄河と揚子江の間の
平野」に住んでいる人は入れ替わって「モンゴル人とチベット人」の国家になっていたので
ある!

 その意味では「支那」という国名がChineの元になっているということ意外に、もし今の
「中国」と言っているところを「漢人の国」という意味で呼ぶとすると、「支那」の方がず
っと丁寧であることがわかる。

 後に書くつもりだが、今の中国と呼んでいる地域は、清の時代の最大版図に近く、その意
味では、「中国」と呼ぶと「モンゴル帝国」というのにかなり近いからである.

 日本人同士で話をすると、中国人はウソをつくとか、お金に汚いとか、自分のことだけを
考えている、さらには、「恩を忘れる」などと悪口がでる。しかし、考えてみると、日本の
ように「国」があって、襲ってくるとしたら盗賊ぐらいというのんびりした国と、「時には
人口の9割、つまり10人に9人が殺されてしまう」とか、「もともと居た人たちはほとん
ど姿が見えなくなり、その代わり北の方から馬に乗ってきた人ばかりになった」などという
過酷な歴史を背負った民族は甘い生活ができるはずもない.

 江戸末期の日本に来た外国人が一応に「こんなに人柄が良い国があるのか」と驚いている
が、「中国人が特別」なのではなく、実は「日本人が特殊」なのである。だから、日本の基
準で外国を見ることはできないことが歴史を勉強しても分かる.

 さて、先回まで、古代中国では、400年も「戦争の時代」が続き、すっかり人口は減っ
て国が疲弊した。そして、それに終止符を打ったのが「隋」であるが、隋を開いた文帝や有
名な2代目の煬帝(「ようだい」と読む)は、すでに中国古来の人たち・・・つまり漢人
・・・ではなく鮮卑(せんぴ)族の出だった。

 西暦200年から600年の間に、支那はすっかり「モンゴル人とチベット人」のものに
なって、以後、実に1200年というもの、20世紀の中華民国になるまで、「支那(中国)」
という国(漢人の国)は消滅したのである.

 中国(支那)を初めて統一した秦の始皇帝の時代が短かったように、大戦乱時代を統一した
隋もおなじように20年も持たずに滅亡して、「唐」になる。 大きな時代を変えるのは、
大きな力が必要だが、それはもろいことでもあり、秦も隋も短命でおわった。一番手より二
番手、三番手が長続きするのは、織田信長、豊臣秀吉ではなく、徳川家康だったというのと
似ている.

 ところで、唐という国は日本でも、律令制度、遣唐使などの政治面、杜甫や白楽天などの漢
詩、それに焼き物の唐三彩など「中国の代表のような王朝」のイメージが強いが。実はモンゴ
ル人の王朝である. くりかえすが、400年間の戦争で、黄河から揚子江の平野には漢民族
とモンゴル人、満州人、それにチベット人や、それらの人との混血が生まれ、その中から、
「蘆、崔、鄭、王」などの「名家」も誕生していたが、すでにこれらの「漢の名前のついた
名門」も「漢人」というのはあまりに多くの異民族の血が入ってしまっていた。

 さらに唐の後にもう一度、100年ぐらいの戦乱期がやってくる。いわば古代的な中国が崩
壊して、中世的中国に移って行くのだが、一つの国としてはやや広すぎる中国では、漢という
強い王朝が滅びるとしばらく多くの国が乱立して戦乱時代になり、それは唐が滅亡したあとも
同じだった。

 私たちが「歴史」を学ぶとき、なぜか歴史学者は「王朝の交代」とか「戦争」について詳し
く解説を加える.時にはそれが社会に大きな影響を与えることはあるが、一般的には単に「王
様が変わる」というほどの変化しか起こさないことが多い. たとえば、唐の後に80年の
戦乱の時代を経て宋が建国される。その頃の農業のありさまが襖絵として残されている.

 この襖絵を見ると、水稲をつくってるらしいので、揚子江の周囲かその南と思われるが、
いずれにしてもある程度の面積を畦(あぜ)で仕切って耕して水を張り、イネを育てている
風景だ. 中世の農村だが、古代も中世も、そしてつい最近に至るまでそれほど大きくは変
わっていない。明や清の時代も同じだった. そう考えると、我々が慣れ親しんでいる時代区
分、たとえば、「漢族」が支配した秦と漢の時代、北方民族に変わった隋から唐元清の時代はな
にが違うのだろうか? 王様(皇帝)は違う.秦と漢は漢民族であるし、唐元清は北方民族だ。
でも、多くの人は百姓で、もしかするとまったく同じ生活をしているかも知れない。一部の人
がお金を名誉のために殺し合っただけで、秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清などという区分自体
が「権威主義的」であって、何も区別が無い可能性もある。 もしあるとしたら五胡十六国
だけが歴史的に意味があり、その前は「漢族の支那」、その後が「北方民族の支那」の差が
あった、それだけのことかも知れない.

 歴史が面白いのは「漢唐宋元明清」を覚えるのではない.また、紀元227年に何が起こ
ったとか、さらにはその時の皇帝がどこに逃げたとか、さらに愚劣なことに愛人がどうした
などまったく興味がないが歴史の本にはやたらとそんなのが多い。

そして歴史の問題では唐を作った人が李淵という人という個人が大切らしい。李淵などはも
うすでに1500年前に死んでいるのだから、歴史学者やマニア以外は「唐を始めた皇帝が
いた」ということで十分のはずだ。

 それよりここでは中国の歴史を4つに分けたい.

1. 漢人の国だった時代(秦、漢)・・・・漢人支那
2. 満州族の国だった時代(隋、唐、金)・満州支那
3. モンゴル人の時代(元、後金)・モンゴル支那
4. 連邦国家の時代(清、中華時代)・・連邦支那

である。特に日本人にはこのような区分けで支那を考えてみることが必要であろう.つまり
日本には「国」があるけれど、支那には「場所」があるだけで「国」はない。「中国400
0年」というのは、実は「支那2200年」であり、それは「支那という場所があった時代」
という事なのだ。

 後に整理しようと思っているが、「国」がないのは中国だけではない。ヨーロッパもその
他の地域も「国」というまとまりがあった地域は世界でも希で、むしろ普通は「国」がない。
その意味では中国は標準的でもある。

 もう一つの時代区分がある。

 それは、「文化の区分」である。文化は人に付随しているし、離れてもいる.ヨーロッパ
文化、インド文化などと、中国文化は違う.都市、服装、絵画、字などを一目見ればそれがヨ
ーロッパかインドか中国かが分かるのだから、文化としての違いがある。

 その意味では、
1. 秦から清までが「漢人文化時代」
2. 中華時代(中華民国と中華人民共和国)が「西洋文化時代」である。

 歴史は記録である.だから、「言ってしまえば勝ち」という事で、中国という国は無いが、
支那という地方はある。そして支那は次の4つの国があった。

1. 原住民時代(紀元前200年まで)
2. 漢人支那国(紀元300年まで)
3. 満蒙支那国(紀元1900年まで)
4. 洋化支那国(現在)

ということだ。

 このような区分は現在の支那人のプライドを著しく傷つけるだろう.

なぜ、傷つくかというと今まで「ウソで固めてきた」からだ。ウソでもつき続けると現実
になるので、それで錯覚する.だから、「事実」は受け入れられない。その気持ちは分か
るが、どこかで事実を認めた方が良い。もともと、今の中国人は漢人の血が少ないのだか
ら、仕方がない。

 中国でも支那でも良いが、もう一つ疑問がある。

 ローマ帝国が一つの世界を統一して以来、ヨーロッパも20世紀まで戦乱が続いたが、
ある程度の地域ごとに「国らしきもの」がまとまっていた。

 イタリアはローマ帝国があったので、何となくイタリア的であり、イタリア人がいる。
ギリシャもギリシャ時代があったので、ギリシャ人がいる。その意味ではフランスはシー
ザーが進撃し、フランコ王国などがあったし、ドイツは野性味あふれる森の人が連合体を
作っていた。ロシアの方に行くとスラブ人、イギリスは島国でアングロ人とサクソン人が
いた。 スペインはなかなか難しいそれでも何となく区別はできるし、ルーマニアはフラ
ンス人と似ている感じがする。

 それに比べると中国人は混じる.
 中国の人に聞くと、「私は西安人で、上海人の言葉は分からない」とか、「私は北京だ
が、南の方はサッパリ」などと言うが、それでも何となく支那人のような気がする.

 ヨーロッパがなぜ細かい国に分かれて、支那は「統一」が問題だったのか? ヨーロッ
パは時々、ローマ帝国、ハフスブルグ、ナポレオン、ヒットラーなどが現れてヨーロッパ統一
にちかい状態もできたが、定着しなかったのか? 

 それも追々、整理していきたい。

 支那という地域を理解するのに、まだまだその歴史を勉強しなければならない。
それはまず、この地図だ。

 この地図は歴史家・宮崎淳子先生が画かれたもので、中華民国ができた時の支那地域の
支配図である。もともと中華民国ができる前の国が「清」だったが、清は満州族の国家で、
モンゴル、新疆、チベットとの「連邦国家」だった。

 清の前の王朝である明が周辺諸国に嫌われ、清は良い状態を保ったのは、清が連邦国家
だったからで、「清の領土」というけれど、モンゴル、新疆、チベットは広い自治権が認
められていたし、満洲はもともと宗主だから、別格だった。

 このような経過があったので、清の終わりの袁世凱や、孫文が中華民国を作った時には、
その支配は「昔の秦」の領域だった。ここで少し歴史的な地域分配を見てみよう.

 まず最初に「統一国家」を作った秦であるが、揚子江を中心として北は黄河、南は南シ
ナ海、西は山で囲まれた地域に支配圏があったことがわかる。秦という国がチャイナとい
う国名の元であり、それが漢字で支那と書かれることはすでに書いた。

 それから後、新しい王朝は支配する地域が少し違うけれど、おおよそ秦の領土に近い。
たとえば、秦からかなり年代がたった明は結構、領土が広かったが、それでも次のよう
な図になる.

 秦に比べて少し山岳の方に入っているけれど、そのほかは同じだ。東と南ははともに海
だからあまり検討する必要はないが、問題は「北」である。秦の時代も明の時代も北から
の異民族の侵入が特に怖かったので、その防御のために万里の長城をつくった。

 万里の長城を作ったのが、秦と明だったのはそれほど偶然ではない。秦は漢民族が「統一
国家」を作った時にフト気がつくと「北」だけが危ないことがわかり、秦の始皇帝が「万
里の長城」を作った。

 明の時には国家を作った人にも北方民族の血がかなり流れていたが、それでも当面、元
が北に帰った後の土地をもらったと言うこともあって、やはり北が怖かった。そこで北京
のすぐ北に万里の長城を作ったのである. 「万里の長城」というのは「国境」だから、
支那地域の北の領土は万里の長城という事は確定している.

 その北にはモンゴルと満州がある。中国の歴史で今のところ大失敗しているのが、満州
民族だ。中国というところは普通の常識では考えられないことをする。 たとえば、「漢
人は漢人を平気で殺す」ということで、たとえば前漢の末には国民に4人に3人が殺され
た。 中国人は何でも食べるというけれど、時によっては人間も食べた.約束を破る、裏
切るなども普通に行われるが、それを日本人の倫理観で考えてはダメで、人間は動物だか
ら、動物のように「その時の自分に得になるように動く」のが摂理でもある。

 「尖閣諸島はもともと日本の領土だ」などと言ってもムダで、「尖閣諸島が何も無けれ
ば日本のもの、資源があれば中国のもの」というのが中国流の倫理観なのである.

 そんな倫理観の支那に満州人が侵入した。それが「清」で、大いに繁栄して、モンゴル、
新疆、チベットとも連邦を組んで、大帝国をつくった。モンゴルの時代を除けば、中国で歴
史的な「最大版図」になったのである.

 ところが、不思議なことが起こった。
 清朝はもともと満州族が作ったのだから、支那は満州に占領されていたのが清朝だ。そ
の清朝が衰えて、満州に帰った。そして、もともと漢の時代に「中国」の領土だった「支
那(秦、china)」の地域に中華民国ができた。 その次に驚くべき事が起こったのだ。
 それは「中華民国」が「満洲は俺の領土だ」と言ったことだった。中華民国は支那の国
だから、武力があれば支那を統一するだろう。それは秦や明が万里の長城から南を領土に
したのと同じだから、「支那は中国人の固有の領土」と言っても不思議ではない。
 ところが、満洲はずっと満洲人の領土だから、満洲人が支那地域を占領していたのを引
き上げて、満洲に戻ったのだから、満洲は支那ではない。満洲が支那を占領していたのだか
ら、満洲が支那を「領土」と宣言することはあるが、占領されていた支那が満洲を領土に
するというのは「世界の常識」から言えば「逆」である。 たとえば、次のような話をす
ればさらに理解が深まる. 豊臣秀吉が朝鮮に出兵して北京まで進軍しようとした。日本
では「そんなことはできなかった」と思う人が多いだろうが、さすが豊臣秀吉だ。支那の
地域は漢から三国時代が終わると、支那には人がいなくなり、次々と北方民族が占領して
いたのだ。だから、「支那の北方民族の一つの日本が北京を占領する」というのはごく普
通のことである. そして日本軍が朝鮮を占領し、さらに駒を進めて北京から揚子江ぐら
いを占領したとする。しばらくは秀吉も生きていて、大陸の占領が成功したので、首都も
中間の平壌に移したが、100年ぐらいして大陸にも興味が無くなり、日本軍は日本に引
き揚げたとする. 占領された支那は新しい王朝ができる。そうすると、奇妙な論理が登
場するだろう.それは、「日本は中国だ」ということである。 支那を満洲が占領した。
しばらくして満洲が支那を放棄して故郷に戻ると、支那は「満洲は中国だ」と言った。
 もし、日本が支那を占領し、しばらくして支那を放棄して日本に帰ると、支那は「日本
は中国だ」と言っただろう. つまり、武力にも工業にも頼ることができない支那の人は
それなりに生きるすべを身につけていた。それは「自分のものは自分のもの、他人のもの
は自分のもの、自分の土地を占領した人の土地は自分のもの」という「なんでも自分のも
の」という主義である。

 これを中華思想という。

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先生のサイトもぜひ訪れてみてください。

武田邦彦 (中部大学) http://takedanet.com/ 2011年1月1日

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