「日本の近代史を勉強する」 その1



この数年(かれこれ10年くらいですが)個人的に日本の近代史を勉強しています。
といっても本を読むだけなんですけどね。いろんな切り口があって面白いんですが、
幕末から明治時代くらいまでだとあまり所謂「自虐史観」が出てこないんですね。(笑)
あと、子供の学校の教科書もかなり印象操作を感じます。まず、史実とその動きの理由とか
地政学的な知識を併せて教えないと「歴史」から何を学ぶのか?分からなくなると思います。
つまり、「過去の歴史に学び、未来をよりよくする」というのが、歴史を学ぶ重要な理由
であると信じます。

さて、僕も時々読ませて頂いているTVでも御馴染みの武田邦彦氏中部大学教授のサイトに
「尖閣諸島事件を機に日本の近代史を勉強する」という文章があり、なかなか面白いので
大盛り引用させて頂きます。(「 (C)引用はご自由にどうぞ。」だそうです。)
(本当はちょっと御本家が読みにくいので自分のために読みやすいように直してます)

Wikiとか見るとすっかり"とんでも教授"扱いですが、僕個人的には武田邦彦氏の主張は、
それほど間違っていないと思っています。(炭酸ガスによる地球温暖化の嘘など)

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第1章  勝海舟、スームビング号を自力回航

明治2年4月9日正午,参謀・山田市之充の指揮する1500人の官軍・第1梯団が蝦夷・
江差の北方,乙部に上陸したところから世に有名な五稜郭の戦いの大詰めを迎える.
戦いは今の北海道、函館北方で始まり、時は明治維新直後である。官軍の戦闘部隊は、右縦
隊が江差から松前へ,中央縦隊は上ノ国から木古内へ,そして左縦隊は厚礼部から大野二股
口へと,部隊は五稜郭を目指して春の蝦夷地を行軍した。

すでにこのとき,江戸幕府は大政奉還によって崩壊していたが,迎え撃つ旧幕府軍は五稜郭
に立てこもり,その大将は中央に陸軍奉行大鳥圭介,右翼に陸軍奉行並、あの新撰組の切れ
者・土方歳三であった.旧幕府軍の大将たちは歴戦の勇士で傑物揃いであり,相手がいかに
「官軍」であろうとも、緒戦の木古内口,二股口の戦いから暫くは旧幕府軍が優勢のうちに
函館戦争が進んだのも頷ける.しかし,蕩々と流れる歴史の流れは少々の勇士が集まったか
らと言って押しとどめることはできない.官軍は第3梯団,第4梯団を増強し,次第に旧幕
府軍を圧迫して函館に到るのである.

戦闘は5月11日に移り,いよいよ官軍の函館総攻撃が始まり,旧幕府軍は次第に追いつめ
られて函館市にある五稜郭.現在は公園になっている弁天台場に後退する.その後も、旧幕
府軍の応戦,利あらず,名だたる武将,栗原仙之助,津田丑五郎,武部銀治郎,長島五郎作
が相次いで討死していく.戦況を案じた土方歳三が額兵隊,伝習隊,見国隊,神木隊を率い
て出陣したが,敵弾を腹部に受け馬上からもんどり打って転落,あっさり戦死した。

実に運命の流れとはかくのごときものだ。
土方歳三は,かの有名な新撰組の副長であり,旧幕府軍の中核であったから、土方を失いま
もなく旧幕府群が崩壊したのは当然でもあった.弁天台場が降伏して4日後には,さしもの
五稜郭も落ちて「五稜郭の戦い」,これを正式には「函館戦争」と呼ぶのだが・・・それが
終わりをつげた.弁天台場の戦いで函館奉行・永野玄蕃頭(あまり知られていないが、是非、
この名前を覚えてもらいたい),さらに最後の五稜郭では総大将・榎本武揚の2人の大物が
捕虜となり,東京に送られて投獄された.

さて,もともと大政奉還で政治権力のすべてを明治新政府に渡したはずの幕府軍が,当時は
地の果てだった函館でこれほど大規模な抵抗ができたのはなぜだろうか?

すでに、勝海舟と西郷隆盛の会見によって,江戸城は無血開城され,徳川第15代将軍慶喜
は将軍職を解かれて隠居した.日本人ほど潔く,武士は面目を重んじてたちまちに切腹する
ことを思い起こせば,江戸城の無血開城はおどろくべき事件である.しかし,これほどの事
件がそれに関係するすべての人を忽ちの内に納得させることはできない。上野の山では彰義
隊が意地を見せて敗退し,会津藩や東北親藩も白虎隊などの決死隊を立てての激しい抵抗が
それを示していた.

江戸にいた榎本武揚率いる幕府海軍も降伏しなかったが、これは上野で抵抗した武士団と同
列ではない。榎本の海軍は幕府の正規軍であり,しかも江戸開城の時に東京湾内にいたので,
江戸城開城とともに降伏するのが筋だ.ところが,榎本は徳川家処分を睨んで海上にとどま
り,主君の行く末を見て,敗残兵を収容して東北に向かった.このとき,官軍が榎本武揚の
軍勢に手も足も出せなかったのは,幕府は過ぐる数年前,オランダに400馬力,大砲26
門という世界でも最大級の戦艦開成丸を発注して保持していたからである.

これでは、陸上で圧倒的な勝利を収めた官軍もどうにもならない.簡単にいうと江戸城は開
城されたが、海上はまだ江戸幕府だった.このことを振り返ると、源平合戦のあとの平家滅
亡の時、つまり幕末から650年を遡った時代を思い起こす.

平家もまた,その最後に天皇を海上に擁し,そして海上で散ったのである.日本人は海の民
族だから、平家も榎本も破れはしたものの、海に散るのは日本人の本懐だ.榎本武揚,勝海
舟はこのように歴史の表舞台に立ったが,大政奉還の原稿執筆に当たったのは,(さきほど
覚えておいて欲しいと言った)永井玄蕃頭であり,彼こそは日本海軍の生みの親となる長崎
海軍伝習所を経営し,榎本武揚,勝海舟を育てた人物でもあった.それでは,彼らの数奇な
運命をたどって函館戦争から長崎海軍伝習所まで遡ることとする.

永井玄蕃頭は三河の国・奥殿の大名・松平乗尹の子であった.日本では藩の大きさはそこで
とれる米の量(石高)で決めていたのが,奥殿藩は3万石と小さく,おまけに玄蕃は庶子で
日陰の身.類い希な才能をもつこの男は,その才能にそぐわない出生から始まる運命だった.

やがて,玄蕃は旗本・永井求馬尚徳の養子となり,永井姓を名乗る.もともと頭脳明晰で穏
やか,その永井が江戸末期の昌平黌で学んだのだから,老中・阿部正弘に見出されて徒士頭,
目付けと進んだのも頷ける。

この永井玄蕃頭が長崎海軍伝習所の初代の諸取締で,お役目が終わって江戸に帰った後は,
勘定奉行,外国奉行,軍艦奉行と位を進め,ついには旗本の最高位である若年寄になる.そ
して,江戸幕府を終焉させた、かの有名な大政奉還の執筆まで担当し、最後には函館戦争で
捕虜となった.

実に数奇な運命だ。

そしてひとこと付け加えれば、後の述べる吉田松陰の第二列目の弟子、天野正三郎こそがこ
の長崎造船所を作り、そこに幕府側で最後まで抵抗した永井玄蕃頭が初代取り締まりとして
赴任している. 日本では幕末から明治維新にかけて激しく歴史が動いた.そこでは多くの
英傑が輩出し,また数奇な運命にもてあそばれた。それはまさにトルストイの著作に表現さ
れていること,「人間は独立した存在ではなく、歴史の中に翻弄される存在に過ぎない」と
いう真理がこの東洋の国でも同じように見いだされる。永井玄蕃頭という切れ者の人生が幾
多の波乱を経て函館戦争で終焉するのは,まさに歴史の力である。

ところで、永井玄蕃頭が「長崎海軍伝習所」・・・後の三菱重工長崎造船所だが・・・その
諸取締に命ぜられたのは安政2年.この伝習所が出現したのは,他でもない,その前々年の
6月3日にアメリカ合衆国のペリー提督が2隻の蒸気船・旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号
と,2隻の帆船・サラトガ号・プリマス号を引き連れて伊豆の下田に出現したことがきっか
けである.これを国際的に見れば、旧式軍艦をひっさげてのペリー提督の日本威喝であった。

このときペリー提督が乗ってきたサスケハナ号は時代遅れの戦艦だったが、鎖国のもとにあ
って外国からの情報が少なかった江戸幕府はもちろん知るよしもなかった。そして真っ黒に
塗装した蒸気船の効果は抜群で江戸幕府は震え上がり、その後の薩英戦争、下関戦争を経て、
日本人は「攘夷」(外国を排斥する)と呼ばれる政策がすでに時代錯誤であることを知った
のだった。

それはともかく、ペリーの浦賀来航に驚愕した幕府はオランダに助けを求め,早くも嘉永6
年10月には,長崎奉行・水野筑後守忠徳に命じて,長崎出島のオランダ商館長ドンクル・
キルシュスに協力と援助を頼んだ.江戸幕府は250年を経ていたが、案外、対応は素早い。

オランダはさっそく江戸将軍の求めに応じて,安政元年8月,ちょうどその時に東洋にいた
オランダ東洋艦隊の軍艦スームビング号を訓練用に回航させた.オランダ国王ビレム三世か
ら将軍にあてたこの豪華な献上品は,当時のヨーロッパ情勢から見ると納得できるものであ
る.

幕府はスームビング号を「観光丸」と命名,長崎奉行所の一部に伝習所を造り,これを長崎
海軍伝習所とした.さらに諸取締に永井玄蕃頭尚志,ペルス・レイケン元艦長と下士官,水
兵,機関兵22名を教官として雇い,ここに教練を始めたのである.

だが,かのカッテンディーケ卿が記した「長崎伝習所の日々」によると,

「日本人の悠長さと言ったら,あきれるぐらいだ」

とある.カッテンディーケ卿はある時には日本人に辛く,ある時には甘い.だから,卿の記
録をそのまま信じることにはできないが,伝習所開設の時に250年の鎖国の眠りから醒め
たばかりの日本人の描写としては,あながち間違ってはいないだろう.

そのような日本人ではあったが,ペリー提督の浦賀侵入から2年後には幕府や諸藩から優れ
た者を選りすぐって長崎海軍伝習所に伝習生を送ったのは特筆に値する.

しかも初期の伝習生から明治の英傑が輩出している.

初代海軍卿・勝海舟,
明治政府になって海軍卿(大臣)に返り咲いた榎本武揚,
初代海軍軍令部長・中牟田倉之助,
大将で海軍卿・川村純義,
初代海軍機技総監・肥田浜五郎,
初代軍医総監・松本良順

など蒼々たるメンバーで,その中で第1期伝習生の学生長はかの勝海舟だ.
余談になるが,函館戦争の時,最後の抵抗をする榎本武揚に正面から幕府海軍をもって弁天
台場に猛攻をかけたのは,軍艦・朝陽丸を指揮していた中牟田倉之助,つまり榎本の同期伝
習生でもある.

先回、東洋のはずれ、長崎海軍伝習所で武士を相手にオランダ技師の教練が始まった頃,ア
ームストロング砲がイギリス国で発明されていた.日本語で言うと「後装施条砲」・・・後
ろから詰めて砲身に条が切り込まれているという意味だが・・・という概念はアームストロ
ング砲の出現によって完成し,その後の戦闘に大きな影響を与えた.

何しろ,それまでのように,大砲の弾を撃つたびに筒を掃除したあと、砲兵が砲身の前に出
て,砲弾を込めるのは大変だし,そのたびごとに砲身が動くので照準を定めにくい.それに
較べるとアームストロング砲は,砲身の後ろから連続的に砲弾を込め,螺旋状に切った条溝
を通過して回転しながら飛び出す仕組みである.

なにかの物を空中に飛ばすときには「回転」が必要だ。野球でもボールが回転していないと
「ナックルボール」というようにどちらに行くかわからない・・・バッターには打ちにくい
が、標的に正確に届かせるにはとても不都合だ。それがこの時期に分かってきたので、弾丸
が回りながら筒先からでる大砲が出現したのだった。

ところで、佐賀藩は進取の気風に富み,長崎防衛の任にあったこともあり,アームストロン
グ砲にことのほか熱心だった.戊申戦役・上野の山の戦いでは,長州藩の大村益次郎が攻撃
の指揮を執り、2門のアームストロング砲が本郷台から不忍池を越して寛永寺に打ち込まれ
て,彰義隊が大いに精神的に打撃を受けたが、これも佐賀藩のものだった.さらに,会津戦
争では会津鶴ヶ城攻城戦で同じアームストロング砲が小田山に据えられて城の攻城に参加し
ている.

佐賀藩主・鍋島直正はペリーの浦賀来航の3年前には,すでに領内に日本最初の反射炉を建
設し鋼の製造を重ね,自らの藩でアームストロング砲を鋳造した.この佐賀藩の「アームス
トロング砲鋳造」は佐賀藩の反射炉で製造した鉄を使った砲で、19世紀の半ばにアジアの
一国、それも佐賀藩というさして大きく無い地方の政府が独力で製造したことに「ものづく
り」に特別の関心を寄せる日本社会があったと考えられる.

実は、この時期、後の日本が歴史を刻んできた驚くべきこと・・・日本海海戦、プリンスオ
ブウェールズの撃沈、ホンダのマン島レースの制覇・・・の萌芽が見られた時期でもあった。
それが、このシリーズで触れる「蒸気機関の製作」,「スームビング号の江戸回航」、そし
て佐賀藩の「アームストロング砲」だった。

余談だが、幕末には伊豆の韮山や佐賀の反射炉は立派なものだった、それに続こうと諸藩が
急ごしらえで作った反射炉には役立たずもあった。たとえば長州藩の萩にも反射炉があった
が、筆者が詳しい調査したところによると、萩市の反射炉には火を入れた形跡はなかった。
下関戦争で使った青銅砲も砲弾もともに輸入品と思われる。

製鉄と言えば、安政2年にイギリス国のベッセマーが転炉を発明している.19世紀の初め、
トレヴィシクの発明した高圧蒸気機関発明は巨大な鉄の容器を求めたのでイギリス国の鉄工
業は隆盛を極めていて,それがベッセマーの転炉の発明につながる.

この製鉄の技術は戦闘用武器の発展に結びつき、ヨーロッパの軍事力を飛躍的に高めていっ
た。これに対して,アジア・アフリカで追従できる国は日本以外にはただの1カ国も存在し
なかった。

「近代鉄鋼技術の罪」は重い.それはヨーロッパ,アメリカにとっては「優れた」技術だっ
たが,アジア、アフリカ人にとっては「悪魔の」技術になった。技術とは,かくも難しいも
のである.技術の話と言えば白人しか視野に入っていないが、本当の意味の「技術の受け手
」は白人の数倍の人口を要していた有色人種だったのである.

鉄鋼の技術を擁して、ヨーロッパ列強がアジア・アフリカを席巻し植民地化した勢いから考
えれば,開国からまもなくして,日本が植民地になるのは確実と思われた.日本というこの
小さな東洋の島国は,250年にわたって鎖国を続け,蒸気機関や火力の強い武器もなく,
サムライと呼ばれる刀を差し,甲冑に抜刀という弓矢で戦う武士軍団を形成していた.

それらはヨーロッパの圧倒的火力の前に,これまでのアジアの諸国と同様,たちまち植民地
となり傀儡政権ができて何らの不思議もない.北海道はロシア,本州はアメリカ,四国はイ
ギリス,そして九州はオランダに分割統治されるであろうと感じるのは当然でもあった。

イギリスが中国を理不尽な理由で攻めたアヘン戦争の激戦,鎮江の戦いでは,イギリス軍の
損害37名に対し,清国は1600名の損害をこうむっている.それが19世紀のヨーロッ
パ列強とアジア諸国との間の戦いの哀しい現実であったのだから、日本の植民地化は時間の
問題だった。

今の日本人に「日本は植民地にならなくて良かった」と言うとキョトンとする人が多いだろ
う.でも、20世紀の初め、アジアで本当の意味で独立していたのは日本だけと言っても良いほ
ど、ほとんどの国は植民地になり、だから発展が遅れた.

では、「なぜ日本だけ」なのだろうか?その一つの答えが長崎海軍伝習所にあった。

伝習所での勉学の第1の難関は言語であった.通訳がオランダ語を訳すのだが,技術の言葉
が分からない.ましてアラビア数字が混じった数式がでてくるので、当時の武士には理解は
できなかった.ただ,勝海舟など優れた日本人数名がオランダ語に通じていて,何とか教練
は続いていた。オランダ人教官の名誉のために付け加えれば,日本人を教える教官の使命感
と忍耐力も驚嘆すべきものであると言わざるをえない.

語学での苦労に加えて,次は学問そのものの基礎という意味でも苦労の連続だった。
第1期の武士が学んだ長崎海軍伝習所ではオランダ海尉艦長ペルス・ライケンが高等代数学
を教え,教科書にはオランダ海軍のピラールの航海術書を使った.航海術に必要な学術は、
基礎算術、代数、幾何、そして三角関数で、どれももとより西洋数学であった。

日本には「和算」と呼ばれる独自に発達した数学があったが、和算と西洋数学ではその概念
も数式もまるで違っていた。それでも、結果的にみると、そろばんという和算に長けていた
小野友五郎が最初に数学を覚えたと記録されている。

どうも、数学が得意というのは先天的で、和算の小野が洋式算術でもトップだった。
さらに教育が難しくなって、微積分を学ぶようになるときに、ニュートンの微分からはじめ
て積分に至る。著者が大学で数学を学んだ経験から言えば、微分より積分の方がやっかいだ
が、日本には積分学を関孝和の流派がかなりの程度まで進めていて、日本人には積分の方が
なじみがあったようだった。

積分をこなすアジア人、これもオランダ人にとっては脅威だっただろう.そして、幕府から
命ぜられて伝習所に集まった諸藩の武士の中でも佐賀藩士が抜群だった。佐賀藩にある反射
炉での大砲鋳造の経験のある本島藤太夫や島内栄之助,理化学研究所・精煉方から佐野常民
や中村奇輔,石黒寛次,田中儀右衛門親子が参加していた.しかも佐野常民と石黒寛次が造
船と蒸気学,本島藤太夫は砲術と数学などと専攻科目を分担して学ぶという用意周到さで,
特に勉強家であった中牟田倉之助は航海や数学を専攻していたが,

「オランダ人教師が帰るのを門の外で待ちかまえて専門書を借り,宿に帰ると夜、それを書き
写して勉強した」

と記録されている.

 日本人というのは本当に素晴らしい.
それでも,オランダの教官の不満はひととおりではない.カッテンディーケ卿や教官のライ
ケンは,「日本人水夫は雨の日には実習を渋り,海に出ようとしない」,「大部分の学生は出
世の足場にしようとしか考えていない.将来士官になるには一通りすべてを学ぶべきなのに
『拙者は運転技術は学ぶが,ほかはやらない』など,勝手なことばかり言っている」とぼや
いている.

ともかく,彼らは蒸気機関とそれにヨーロッパが大航海時代から蓄積してきた航海術,運用
術,造船術,砲術,船具学,測量術,算術,機関学を一から学んだ.日本人は飽きやすいと
いう欠点をもっているが,同時に自分の身の回りに何が起こっておるのか,それをどのよう
に解釈すれば良いのかを直感的に理解する能力には天才的で,世界でも日本人だけといって
も良い。その一つの例が,軍艦スームビング号の理解である.日本人は初めて見るこのお化
けのような鉄の固まりさえ、当時の記録を見ると、

「どうも,この真っ黒で強大な力を出す軍艦というものは完成品ではないらしい.その巨大
さにおいては奈良の大仏殿のようなものであるが,大仏殿を造ってその中に金属で鋳造した
大仏を納めれば,それで終わりである.しかし,オランダの軍艦というものは,たいした威
力ではあるが,絶え間なく破損や故障がおこり,これを直ちに直さなければ木偶の坊のよう
になんにも役立たないもの」とすぐに悟ったような気がする.

 訓練を受ける武士が悪戦苦闘している間、長崎海軍伝習所では「素晴らしい事件」が起こ
っていた.伝習所が作られた安政2年、永井玄蕃頭は、「海軍を興せば,即ち造船所を設け
ざるを得ず,是により在崎の日,長崎奉行とこれを談じて協せず,この故に職権専断,蘭師
に託し造船製鉄の器械を蘭国より購ず」)(永井玄蕃頭尚志手記)として独断専行,造船製
鉄の機械の輸入を決断したのである.

 いや、これには驚いた.国のために自らの出世を危うくするようなことを官僚がするのは
アジア諸国,とりわけその中でも最大の版図を持っていたお隣の清国においても到底,想像
できない.もっともそのような英傑が一つの国に何人もいるとは思えないが、「温和直諒に
して徳あり」と言われた永井玄蕃頭の残された写真を見るとそんな行動を取るような感じは
しない。これも歴史の力かもしれない。ちなみに、永井玄蕃頭の墓は今でも西日暮里の本行
寺にある.

永井玄蕃頭の独断専行により1859年には観光丸のボイラーの取り替え工事ができるまで
になる.この情景を造船所を訪れたイギリスの軍医レニーは驚愕の内に次のように述懐して
いる.

「8月7日長崎の日本蒸気工場を見学.これはオランダ人の管理下にあり,機械類は総てア
ムステルダム製であった.所内の自由見学を許された我々はすみずみまで見て回ったが,な
かなかの広さであった.そして,この世界の果てに,日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造
に関する種々の仕事に従事しているありさまをまのあたりに見たことは確かに驚異であった.」

この鎔鉄所は後に栄光の三菱重工業長崎造船所となり,1942年には世界最大の軍艦「武
蔵」を生むことになる。

いよいよ,安政4年4月,日本名「観光丸」と命名されたスームビング号が江戸表へ回航さ
れる時が訪れる.観光丸は嘉永5年にアムステルダムの国立造船所で建造,全長66メート
ル、排水量730トン・出力150馬力の蒸気外輪船で.現在は復元されてハウステンボス
に係留されている.永井玄蕃頭を艦長として103名の伝習生が乗り組み,日本人がオラン
ダ人の助けを得ることなく単独で洋式軍艦を操舵して,江戸に回航するというのだから,ま
ったく無謀な幕府の計画であった.初めて蒸気機関を見,鉄で作られた「黒船」に驚嘆して
からわずか4年,伝習所で急ごしらえの教練が始まってからわずか2年.東洋の端にあるこ
の小国のサムライが,ヨーロッパ人の助けを一切受けることなく蒸気駆動の軍艦を回航する
などということは常軌に逸している.他のアジアの諸国なら怖々と遠巻きにしているだけの
時期である.

そもそも,人間の心というものはその人物の生活の中で形作られ,周囲環境を信じて生きて
いるものだ.だから「黒船」というお化けのような物体は遠巻きにして見るのが人というも
の.それに乗船するのはもちろん,近づくことすら忌避する.しかし,日本人はなぜか化け
物にひるまなかった.特に、細面でやさしい顔つきをしていた永井玄蕃頭をはじめ,伝習所
学生は平然と将軍の命に従って,異国の黒船スームビング号に乗り組み,あのやっかいな外
輪をつけた蒸気船の回航に臨み,江戸に到達したのである.いったい,「日本人」というの
はどういう民族であろうか,驚いたように振る舞って、心の中は驚いていない.恐れおのの
いているように見えて,内心,相手を馬鹿にしている.偉い人に頭を下げても尊敬はしてい
ない、言いようによっては二重人格かも知れず、その懐は深い.後に出てくるが、大東亜戦
争のガダルカナルの激戦で玉砕した20693人の将兵は最初から作戦が無理で、自分が
「犬死に」することは承知で戦地に向かったと感じられる。一兵卒は輸送船の船底で直立不
動のまますし詰めになり、「明治以来の日本の行く末から言えば、ここで俺が輸送船に乗り、
遙か南方の島に上陸して、アメリカ軍の自動小銃の前で死ぬのは運命である.」と覚悟して
いたのだが、その多くは学問のない農民だった。日本の一兵卒は、長い日本の歴史を感じ、
現下の情勢を分析し、そして、死に行く自分の「居場所」を心得ていたのだ。

ところで,日本海軍が自前で軍艦を作るようになるのはまだ先となるが,独力回航の成功に
よって日本は彼らの言う「バテレン」の助けなく海を守ることができるようになった意味は
大きい.じつは海さえ守ることができれば列強もそれほど容易には日本を植民地にできない.
仮に戦争になり、第1回の海戦で日本の船を殲滅させることができれば別だが,かなりの艦
船を残した場合で実力が接近していれば,いつまた日本軍の反撃を受け,遠い異国に上陸し
た自分の国の陸戦隊が孤立するかは予想できることではない.それに,日本に触手を伸ばし
た列強は、すべて白人だったからその意味では一枚板のように見えるが,決してそうではな
かった.アメリカ合衆国とロシア帝国が日本開国の一番乗りでしのぎを削ったように,列強
にはそれぞれの思惑がある.そしてもし日本を植民地にできなければ、商業利権を得ようと
する。じつは薩英戦争については後にその戦闘の状態を描写するが、大英帝国東洋艦隊がア
ジアの小国に負けた戦いだった。奇跡のような結果だが、それは偶然ではないとも思われる.
すでに日本は列強と互角までは行かなかったが、惨めに惨敗を続ける状態ではなくなってい
た.そして、スームビング号の江戸回航の真なる意味は,この回航こそが日本独立のあかし
だったとも考えられる.

さて,幕府が長崎伝習所から観光丸の回航を命じた直接的な理由は,幕府が膝元の江戸にも
海軍教育機関を設置しようとしたことであり,それに長崎という幕府から遠くの地で強大な
軍事力が作られていくことの不安もあった.

ここで、日本海軍の教育のその後について若干触れておきたい.
江戸の学校は明治になって「兵学寮」にかわり,生徒は金釦一行の短上衣を着用するように
なった.海軍省になってから,幼年生徒は予科生徒,壮年生徒は本科生徒となり,後の予科
練へとつながっている.カッテンディーケ卿が長崎海軍伝習所で教えるときには、日本側の
生徒がみな年配者で,カッテンディーケ卿が若い生徒を入れるように幕府に説得したが、だ
めだったが、若年の教育は明治になって実現した.その頃の、日本人の中にまだ「志士,壮
士」という独特の蛮風は残っていて,兵学寮に「生徒に告ぐ自今庭園内に小便するを禁ず」
という禁令が貼られ,教官室で教官と格闘する生徒もいた.当時、日本人は蛮人でもあり近
代人でもあったのだ.その後、日本の海軍教育は運が良かった.それはイギリス国からアー
チボールド・ルシアス・ダグラス海軍少佐という人が士官,下士官,それに水兵を随行して
兵学寮に着任したからで、彼は開口一番、

「士官である前にまず紳士であれ」

と言った。札幌農学校のクラーク博士が、

「青年よ、大志を抱け」

と言ったと伝えられているが、生来,優れた素質をもつ日本人は、一言でその言葉に秘めら
れた意味を理解し、取り込む。海軍ではイギリス国海軍士官の紳士教育,英語と数学の学業
を課したことが次の飛躍を約束したのである。

大航海時代のヴァルトゼーミュラーの世界地図を見ながら、当時の世界の情勢を俯瞰してお
きたい。この世界地図は、かのコロンブスのアメリカ大陸発見の直後、1507年に作られ
たものである。アメリカ大陸はまだ「細く」描かれ、日本のところは「海」になっている。

16世紀に始まった欧州の大航海時代は欧州列強がアジア・アフリカ諸国を制圧しつつ進み,
19世紀初頭には有色人種の国で独立を保っておるのは,エチオピア,タイ,清国(支那)
そして日本の4カ国となっていた.これらの諸国のうち,エチオピアはアビシニア高原の風
土病の地として畏れられ,もともと欧州諸国は侵略の意図はなかった.また,タイ・・・
当時はシャムと称していたが・・・はバンコク朝が成立しイギリス国とフランス国のアジア
支配の緩衝地帯として独立国の面目を保っている状態であった.

一方、「清国」はすでにイギリス国や他のヨーロッパ諸国の餌食となっていて,事実上,独
立国とは言えない状態だった.じつに世界の有色人種の国でその国民が統治しているのは日
本が唯一という異常な状態に追い込まれていたのである。ヨーロッパ人とはいかに膨張主義、
植民地主義、そして帝国主義であったことが分かる。だが,ヨーロッパ諸国の名誉のために
若干の事情を述べ立てると,ヨーロッパ諸国による世界制覇もそれほど容易に進んでいない.

航海術が進歩した大航海時代の「航海」とその前の時代のものは全く違う.その好例がマル
コ・ポーロだが.中国の泉州から1290年にイタリアに帰還する時,彼に従って出帆した
船は14隻,食糧2年分、そして船乗りは600人であったが,3年後にペルシャまで辿り
ついた時には哀れ18人、さらに2年後にヴェネチアに着いている。

このほかにも悲惨なる航海は数知れず,その屍を越えて航海術が発達し、さらに蒸気機関が
加わって彼らに力を与えたのである.ところで、ここでは他の歴史書と違って、政治や経済
の動きを中心にせず、真に近代日本の歴史を動かしたことを、技術や文化、そして日本人の
気質も含めて、バランス良く記述するつもりである.

スームビング号の江戸回航では政治的,経営的に見るべきことがあった.それは,先に書い
たように何でも幕府のお達しを待たなければならなかった時代に,永井玄蕃頭が独断専行で
オランダに製鉄所の建設機械を発注したことに見られる.

アジア諸国があれほど容易にヨーロッパ諸国の荒波に耐えられなかった一つの原因は,宮廷
内の争いに明け暮れ,国を思う忠臣がいなかったこともある.

フィリピン,インドネシア,インドシナ,ビルマなどの東南アジアの国々は,それぞれ王朝
を持ち,政府や軍隊も存在したが,とてもイギリスやオランダの効率的な攻撃に耐えられな
かった.攻撃と外交の攻勢に、ただ右往左往のまま内部崩壊したのである.

アヘン戦争の前後の清国をつぶさに見ると,清国にはかなり前から「洋務運動」というのが
あり,「中体西用」,つまり「支那の儒学に基づく制度や伝統を守りつつ,西洋の科学や技
術を採用する」という命令が皇帝から出されていた.

これは、「西洋は火砲・軍艦では支那にまさるが,政治・社会の制度では遠く支那に及ばぬ.
夷狄の長所を採って支那の短所を補えば自強は達成できる」と考えたのである.ところが清
国が遅れていたのは技術ばかりではなく,精神面、そして政治・社会体制そのものも大変遅
れていた.

日本にもこれに相当する「和魂洋才」という言葉がある.同じく漢字の文化をもつ支那と日
本の四語熟語を比較すると,その後のこの2つの国の運命を納得するのである.社会は「人
民の心,社会のシステム,技術」があるが,中国は「技術」を洋に求め,「心とシステム」
は自分の国に固執した.日本は「システムと技術」を取り入れ,「心」だけは守るとした.
それは清国人が「弁髪」にこだわり,日本人が明治に入るとまもなく「ザンギリ頭」にした
こともその一つと考えられる.

下関戦争では若い高杉晋作が、敵の艦船上で戦争敗北後の折衝にあたり、ほとんどは敵の言
うとおりに条件をのんだが、日本の領土の一部を租界地などに提供しなかったと、その後、
伊藤博文が高杉を評価している.そして、永井玄蕃頭は肝心なところで独断専行している。
和魂洋才は貫かれていたのだ。

さて、江戸幕府末期には開成所を中心に基礎科学の重要性が認識されていたが、実際にはヨ
ーロッパから来た書物をそのまま読んだり、中国語に訳されたわずかな書物に接するだけだ
った。維新直後の福沢諭吉の「究理本」が流布したのもそうした間隙をぬったものと言える。

江戸開成所の大阪移転ののち、神田孝平や箕作麟祥、田中芳男らが大阪に行き、府管轄の舎
密局ができた。そして、いよいよ幕府が倒れて社会が騒然となる前からすでに翻訳が開始さ
れていたものに、竹原平次郎訳の「化学入門」や、大阪開成学校でリッテルの口述した「理
化日記」、それに造幣の必要性からこれも大阪開成学校でオランダ人ハラマタの口授した
「金銀成分」が出版されている。大学東校の舎長で、その育ての親の一人、石黒忠直が「化
学訓蒙」を増訂したのもこのころで,日本人の知識欲の旺盛さについて深い敬意を表さなけ
ればならない.

ところで,多くの日本人は,杉田玄白の「解体新書」を知っているが、医学もかなり先取的
だった.明治元年には松山棟庵の「窒扶新論」,大阪医学校発行のバウドインの口述書であ
る「日講記聞」,海軍病院刊行の「講延筆記」などがあり,枚挙にいとまがないといっても
良いほどである.

ところで、長崎海軍伝習所でも同じだったが、維新直後の数学は他の自然科学に比べて著し
い特異性を持っていた。それは物理化学工学などの分野では、日本はもともと欧米に対抗で
きるものは皆無で、総てが欧米の一方的輸入直訳だったのに対して、数学は日本国内に固有
にものを持っていたからである。即ち俗に言う「読み書きそろばん」の一つとして商算が根
強く庶民の間に浸透していた。その基盤の上に確固とした和算が学問としてあった。

そして、既に算術関係では「塵劫記」のような名著が存在していたので、洋書系の書物にも
程度の高いものがあり、その一つとして「洋算発微」があげられる。スームビング号の学習
の際にも和算の専門家である小野友五郎が西洋数学の修得も一番だったことが思い起こされ
る.

数学、理学、医学対して、いわゆる「工業技術」はさんさんたるものだった。わずかに、電
信,鉄道,造船,造幣の輸入が進み,明治のはじめには「機械事始」が出版されている.こ
の書物には蒸気機関についての解説が載せられている。

実は、嘉永4年,この年は後に述べるように、吉田松陰が水戸学に接した年であるが、日本
人はフェルダム教授の執筆になる蒸気機関の解説書を独力で読み,じつに12馬力の蒸気機
関を日本人だけで製作している.この蒸気機関はシリンダーや弁に漏洩があり,現実には2
馬力ほどしか出なかったとされているが,簡単な図面だけを頼りに蒸気機関を作り上げる日
本人技術者の非凡な才能に驚嘆せざるをえない.

当時は、ヨーロッパ人ですら,蒸気機関の原理を学び,図面を読むのはよほど骨の折れる仕
事であった.蒸気機関は1712年にニューコメンが原型を作り、1789年にジェームス
ワットが復水器を考案した。ワットは「蒸気機関の父」と言われるが、彼は慎重派だったの
で「加圧装置」を使うのを嫌い、それが結果的に蒸気機関の価値を下げていた。だから、
1803年にトレヴィシクが高圧蒸気機関を製作して初めて、人間の社会を変えたこの蒸気
機関というものが実用的な機械となったのである。

しかし、原理的に蒸気機関を理解しても、、それを現実に作るためには、設計、鉄の部品製
作、シリンダの精度を保つことなど「基盤となる技術」を多く要する.よくそんなものを嘉
永年間にやったものだと舌を巻く.

さらに薩摩藩、佐賀藩、伊予宇和島藩が蒸気機関を乗せた黒船を独力で作っている.

21世紀になった現在、日本が「ものづくり」に固執する必要があるかは難しいところだが、
明治維新以来、日本が戦争に勝ち続けて一流国になり、戦後、大打撃を受けても工業技術で
世界一になり、”Japan as No.1”とまで称されるようになったのは、この江戸末期から明治
初期にハッキリとその萌芽が見えているということである。

なにごとにも、「そうなる理由」というものが存在する.そして、「そうなる理由」を良く
理解し、日本の国力、日本の特長をとらえておくことこそ、歴史の教える大切なことでもあ
る。

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まだまだ続いていますが、今月はここまで。
先生のサイトもぜひ訪れてみてください。

尖閣諸島事件を機に日本の近代史を勉強する 
武田邦彦 (中部大学)
http://takedanet.com/

2010年11月1日

平川丈二は最近こんなことを考えている!
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