2003年GW
東北の旅 (PART 2)
心の平和
青森県津軽郡小泊村
小説「津軽」の像記念館にて
朝9時ごろに五所川原のホテルを出発、国道339号小泊道を北上する。
道の両側には、米どころ津軽の広々とした田んぼが連なっている。
金木の町の入り口に近づくと、前方にいきなり太宰治の銅像が現れ驚いた。
金木町出身の作家太宰治は、小説津軽で「金木は私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、これという特徴もないが、どこやら都会風に気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである」と書いている。金木の街中を少し進むと、太宰治の生家として有名な斜陽館があった。
斜陽館は、太宰治の父、津島源右衛門が明治40年に、当時のお金で工事費約4万円をかけて建てた、ヒバ造りの、1階11室278坪、2階8室116坪、付属建物を合わせて宅地約680坪の豪邸で、戦後になって津島家が手放し、昭和25年からは旅館「斜陽館」として営業され、町の観光名所となっていたが、平成8年3月に町が買い取り、現在は金木町太宰治資料館「斜陽館」として、太宰治が生活していた頃に忠実に復元され、太宰の由来の品々が多く展示されている。
太宰修はこの家について、「苦悩の年鑑」で、「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである」と書いている。
金木町の郊外にある芦野公園へと向かう。
芦野公園は桜が満開で、花見の人でにぎわっている。
人ごみの中を抜け、公園の中に入ると、以外に静かで、湖のほとりを歩いていくと、太宰治文学碑が建っていた。
碑には、太宰が敬愛した、フランスの詩人ヴェルレーヌの詩の一節、「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」と刻まれていた。
太宰治は幼少のころ、この公園でよく遊んだという。
ストーブ列車で有名な、津軽鉄道の芦野公園駅。
太宰治はこの駅について、小説津軽で、「やがて金木を過ぎ、芦野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し(中略)、こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思った。」と書いている。
駅舎の隣には、旧の駅舎を利用した喫茶店「ラ・メロス」もある。金木の町を出て、国道339号に入る。のどかな田園地帯を北上する。
津軽鉄道の終点、中里の町を過ぎて、しばらく行くと左手に十三湖が見えてきた。非常に静かな湖だ。湖に入ってシジミをとっている人がいる。
太宰治は、この十三湖のことを小説津軽で「浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。」と書いている。言い得て妙な表現だと思った。十三湖を過ぎると、国道339号は海辺を通る。シーサイドを快走する。
やがて道は内陸部に入り、少し急な峠道を越えると、そこが小泊の村だった。
太宰治は小泊について、小説津軽で「お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。・・・ ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって仮泊する事になっていたという。」と書いている。
太宰治は「津軽」のクライマックスで、育ての親の越野タケを尋ねてこの村を訪れ、小泊の小学校(当時国民学校)の運動会の場で再開した。
小泊小学校の校庭を見下ろす高台に、小説「津軽」の像記念館があった。
小説「津軽」より。
「修治だ」私は笑って帽子をとった。
「あらあ」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりませえ」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正坐してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思うことが無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。国道339号龍泊ラインを進む。
小泊の村を過ぎると、道は再び山中に入る。急な峠道を越えると、今度は海沿いに出て、穏やかな春の日本海の風を浴びながら快走する。。
途中、道路沿いに七つ滝と呼ばれる滝があった。
緑の岩の上を、滝が滑らかに流れ落ちていた。津軽半島の先端、龍飛崎に近づくと、断崖絶壁上、360度視界が開けたすばらしいワインディングが続く。
ただ風が強くて、少しでも気を抜くと飛ばされそうな感じがして、風の岬とも呼ばれる津軽半島の厳しさを体で感じる。
途中の眺瞰台より龍飛を眺瞰する。遠くのほうに、微かに北海道も見えた。龍飛崎の展望台付近は、観光客で一杯だった。
「ごらんあれが龍飛岬 北のはずれとー、見知らぬ人が指を指す・・・。」と、近くの津軽海峡冬景色歌謡碑より石川さゆりの歌声が流れてはいるが、とても北のはずれにいるとは、実感できなかった。有名な階段国道、国道339号の終点にて。
ここも有名なスポットで、記念撮影する人が多く、人が途切れたところで、何とか一枚撮影できた。
この階段国道は、国道指定の際、当時の担当者が地図の図面上だけで国道のルートを設定したことにより誕生したという。
階段国道終点付近は、急な階段が続く、文字通りの階段国道だ。龍飛崎の先端、龍飛漁港の集落にある階段国道入り口にて。
こちらは訪れる人も少なく、とても静かだ。
また、階段国道の入り口付近は、時代の流れのせいか、、バリアフリー化が進められている。龍飛崎の先端、太宰治の「津軽」の文学碑前より、龍飛漁港を望む。
「ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘記せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に至り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」小説津軽より。
国道339号を東に進む。。所々で道は狭くなり、海沿いの漁港の間を抜けて行く。
しばらく行くと、道路沿いに厩石と呼ばれる巨大な岩があった。
伝説では、源義経が衣川の舘から北へ逃げ延び、この地より蝦夷地へ渡ろうとしたが、海峡が荒れていたため渡れず、この岩の上で三日三晩祈った。すると白髪の老人が現れ、「3頭の龍馬がある。それに乗って渡るがいい」と言った。翌日、岩穴には3頭の竜馬がつながれ、この竜馬に乗って義経は、弁慶と亀井六郎の二人の郎党とともに、無事海峡を渡ったという。
三厩で、国道は280号へと名を変える。
今別を過ぎると、再び断崖絶壁の海岸線を走る。
しばらく行くと高野崎があった。
津軽海峡に突き出した細長い岬で、灯台から、潮騒橋・渚橋と呼ばれる橋を渡り、岬の先端まで行くことができる。
再び、前方、幽かに北海道が見えた。
国道280号松前街道を南下する。津軽海峡の陸奥湾沿い、外ヶ浜と呼ばれる海岸線を走る。
いくつか小さな漁村を抜け、蟹田の町に着いた。
小説「津軽」の主要舞台でもある蟹田の町について太宰治は、「外ヶ浜に於いて最も大きな町だが、おとなしく、しんと静まりかへって何か物憂い」と書いている。
対岸の下北半島に渡ろうとフェリー乗り場へ行くが、昼からの船が出た後で、明日までもう船はない。
とりあえず観覧山公園で少し休憩する。
観覧山公園には、太宰治の碑が建っている。
「かれは 人を喜ばせるのが 何よりも好きであつた」井伏鱒二氏が碑文を選び、佐藤春夫氏が筆を執ったという。
南には、蟹田の町が拡がり、東には青森湾が青々と広がる。
ここからの眺めを、太宰治は、「青森湾の向うに夏泊岬が見え、また平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。(中略)この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる」と小説「津軽」の中で述べている。
太宰治は、この公園で桜を眺めながら、友人達と酒を酌み交わし、楽しい一時を過ごしたという。結局、国道280号を南下し、青森市内に入った。
GSで給油をしながら地図を見る。国道103号で八甲田山の麓を抜け、十和田湖に向かうことにする。
青森市を抜け郊外に出ると、前方に八甲田の峰々が拡がり、右手はるかに岩木山を遠望する。贅沢な景色の中を抜けてゆく。
八甲田山の麓の、広大な樹海の中を走る。
標高が高くなるにつれて、残雪が樹海を覆うようになる。
千人風呂で有名な酸ヶ湯温泉のそばを通り抜ける。
標高が高くなると、道路の両側に、雪が白い壁のように積もっている。
所々、道路上を雪解けの水が、川のように流れている。
標高1020mの傘松峠を過ぎると、道は下りになって、雪の壁の間を、ボブスレーのように駆け下りていく。
八甲田山の麓を過ぎて、国道102号に合流し、奥入瀬渓流に沿って走る。
ブナの原生林の中を渓流が静かに流れているが、観光客が非常に多くて、渓流のそばの国道は、観光バスやマイカーで渋滞している。
この渓流の自然を守るため、早急に何らかの策を講じないといけないと思った。奥入瀬渓流の渋滞を抜け、何とか十和田湖に着いた。
静かな湖畔をしばらく走り、駐車場にバイクを停め、歩いて十和田湖のシンボル、乙女の像を見に行く。
この乙女の像は、智恵子抄で有名な詩人、高村光太郎が、智恵子夫人をモデルに作ったといわれている。ツーリングマップルを拡げ、ルートを考える。明日は陸中海岸に行きたかったので、国道454号で八戸に抜けることにする。
国道454号は、しばらく1.5車線の険しい山道だったが、しばらく走ると、快適な田舎道になった。
飛ばしたせいか、1時間ほどで八戸市内のビジネスホテルにチェックインすることができた。