2001年GW
九州の旅(後編)


平戸の聖フランシスコザビエル像

 朝9時頃、串木野駅前のホテルを出て、雨の国道3号を北上する。横手には東シナ海が広がっている。
 阿久根市を過ぎて国道389号に入る。猛スピードで飛ばしたせいか、1時間ほどで長島町の蔵之元港の天草鹿児島国道フェリー乗り場に着いた。
 朝食代わりに売店で買った弁当を船内で食べる。
 30分程で対岸の牛深港に着いた。
 頭上には、巨大な牛深ハイヤ大橋が弧を描いている。
 関西国際空港を手がけたイタリアの建築家レンゾ・ビアノ氏の設計によるものだそうだが、こんなのどかな漁港の入り口にふさわしくないデザインのように思えた。
 国道266号で天草下島を北上する。
 途中で国道389号に入り、海沿いの道を走る。
 しばらく走ると、何気ないごく普通の漁村の真ん中に崎津天主堂が見えてきた。
 昭和9年、ハルブ神父によって建てられ、教会には併設して、隠れキリシタンに関する書物が集められた資料館も設けられている。 この小さな漁村にこのように立派な天主堂が建てられているのは、隠れキリシタン時代から延々と続く、天草のキリスト教信仰の根強さを表しているように思えた。
 国道389号を北上する。
 雨が強くなってくる。
 大江天主堂に着いたときには、もう大雨だった。
 白亜のロマネスク調の美しい天主堂だが、体中ずぶぬれでレインウェアーの中にも水がしみこんでいて、とても中を見物できる状態ではないのであきらめて、駐車場から写真だけ取って出発する。
 大雨の中、国道389号、324号を北上し、鬼池港より島鉄フェリーに乗る。
 船内でレインウェアーを脱いで服を乾かしていると対岸の島原半島の口之津港に着いた。
 国道251号で半島の西岸を北上、しばらく行くと原城跡があった。
 島原の乱では、この城にキリシタンや農夫2万人が立てこもったが、幕府軍の総攻撃を受け、5ヶ月にわたる戦いの末落城、女子供にいたるまで皆殺しにされたという。
 乱後、城は跡形も無いくらい徹底的に破壊されたが、今では本丸跡に天草四郎の墓や像が建ち、わずかに残る石垣が当時を偲ばせる。
 国道251号で島原半島を半時計回りに一周する。
 雨で曇っていて、雲仙普賢岳は見えない。
 島原城に行く。
 松倉重政が7年以上の歳月をかけて築いたこの城は、身分不相応に大きく、このため領民が疲弊し、島原の乱の一因ともなったという。
 高校サッカーで有名な国見町を抜け国道57号に入り、干拓が問題になっている諫早市で国道34号に入り長崎市を目指す。
 この天気ではキャンプは無理なので、長崎駅の公衆電話のイエローページでめぼしいホテルの電話番号を調べて電話する。
 結局中華街入り口にあるホテルに決めて、5時ごろチェックインする。
 シャワーを浴びてから中華街に出て名物の長崎ちゃんぽんを食べる。野菜入り白湯麺といった感じの味で、思っていたよりもあっさりしていた。
 疲れていたので部屋に8時ごろ帰り、そのまま寝た。
 朝8時過ぎにホテルを出発、国道202号を北上する。
 雨もやんで、左手に海を臨みながらシーサイドを快走する。
 西彼杵半島と針尾島とも結ぶ西海橋を渡る。
 橋の下は日本三大急潮で知られる伊の浦瀬戸で渦潮が見える。
 佐世保市を抜け国道204号に入る。松浦鉄道沿いの道を淡々と走る。
 朱色のつり橋の平戸大橋を渡り、平戸の町に行く。
 平戸は、大陸との中継地として栄えた港町で、古くは遣唐使も寄稿したという。
 中世には、オランダやイギリスの商館が設けられ大いに賑わったという。
 しかし江戸幕府の鎖国政策により、貿易港は長崎港だけに定められ、平戸の繁栄は終わりを遂げたという。
 しかし町のあちこちに異国情緒の漂う協会や石橋、石塀の続く歩道が残り、往時を偲ばせる。

オランダ商館跡の石畳の坂道を登り、崎方公園に行く。
 公園内には、平戸の海外通商に貢献した三浦按針とその妻の墓や、ザビエル記念碑が建てられている。
 公園内の遠見展望台から眺めると、遠めに平戸の町の風景がパノラマのように広がっていた。

 国道383号で平戸島の最先端を目指す。
 他に車はほとんど走っていない道を調子よく飛ばしていると、道端に鄭成功廟と書かれた看板があったので、あわててバイクを停めて見にいく。
 近松門左衛門の国姓爺合戦のモデルとなった台湾建国の父、鄭成功はこの平戸で、中国の商人と日本人女性との間に生まれた。
 父の鄭芝竜の活動の拠点となった川内港の入り口の丘に設けられたこの鄭成功廟では、毎年7月14日にゆかりの台湾からも人々が参加して、生誕祭が開かれているという。
 途中に有名な紐差協会があったが、改装工事中だった。
 県道19号に入りしばらくすると道は行き止まりになり、そこが橋で結ばれた日本最西端の港町宮ノ浦だった。
 日本最西端と書いた看板が誇らしげに掲げられていた。
 平戸まで引き返して国道204号を東に進む。
 伊万里で国道202号に入る。去年のGWにも行った虹の松原がもう一度見たくて、再度唐津を目指す。
 結局5時過ぎに虹の松原に着いた。
 唐津湾に沿って見渡す限り松原が連なっている。
 しばらく散策した後、再び出発する。
 国道323号を南下し、佐賀大和インターより長崎自動車道に乗る。
 鳥栖インターより九州自動車道に入り、夜の高速を走る。
 熊本インターで高速を降りて、国道57号を西に向かう。
 結局、阿蘇の坊中キャンプ場には9時すぎに着いた。
 あわててテントを張り、近くの阿蘇駅前の温泉に行く。
 10時までの営業で、あわてて入ったが、硫黄質の湯で短時間だが結構温まった。
 疲れていたせいか、テントに戻るとすぐに寝てしまった。

朝6時ごろ起きて、キャンプ場の周りを散歩する。
 キャンプ場の駐車場には、どういう訳か大型バイクがたくさん停まっている。ビモータのように珍しいバイクもあった。
 キャンプ場に隣接して、夏目漱石二百十日記念碑があった。
 漱石は、明治32年9月に友人と阿蘇に登り、そのときの体験を基に小説二百十日を書いたらしいが、このキャンプ場のあたりが、道を探して穴に落ちた場所らしい。

 次の日は仕事があり、今日中に家まで帰らないといけないので、あわててテントを片付けて、7時前にキャンプ場を出発する。
 阿蘇の火口を一周してから、やまなみハイウェイを走る。
 まるで西部劇に出てくるような風景の中を、ハイペースで飛ばしてゆく。
 湯布院で大分道に乗る。霧の高速を走る。
 大分インターで高速を降りて、国道197号に入り、佐賀関を目指す。
 佐賀の関の九四フェリー乗り場には、11時半ごろ着いた。
フェリーが出た後で、食事したりして1時間ほど時間を潰す。
 佐賀の関の九四フェリーに乗って、佐田岬へ渡る。
 佐田岬メロディ−ラインを高速道路のようなペースで走って八幡浜に出て、国道197号で大洲市を目指す。
 大洲より松山自動車道に乗って、四国を横断する。
 結局徳島には6時過ぎに着いた。
 国道55号で鳴門まで行き、鳴門から神戸淡路鳴門道に乗る。
 高速をノンストップで飛ばして、8時前に家に帰れた。

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