中秋の名月 2008/09/14




今日は中秋の名月です。今年の夏は、まるで熱帯〜亜熱帯のような激しい雷雨が毎日のように続き、星の見える日はほとんどありませんでした。さすがに9月に入ると秋の気配を感じるようになって、青空の中、高く高くたなびく高層雲が目立つようになりました。

昔の生活に比べ、今の我々の生活は季節感が薄らいでいるといわれます。昔は冷房も暖房もなく、暑さ寒さはダイレクトに生活に響きました。ほとんどの家は農家でしたから、種まき、田植え、稲刈り、豊穣を祝う秋祭りなど、人々の活動は常に季節と密着していました。
こうした話をすると、我々はどうしても情緒的な一面で捉えてしまう傾向があります。確かに、文学の世界や、上流階級、貴族の人たちの生活はそうだったかもしれません。しかし、一般の人々にとって、季節を感じるとか、月を見るというのは、センチメンタルな感情のためではなく、生活の一部、いわば必然でした。
我々が駅で時刻表を見るとき、そこに期待するのは情報だけです。情感や感傷を求めることはほとんどないでしょう。それと同じように、昔の人々にとって、特に月の形は暦を知るための大切な手段でしたから、好むと好まざるとにかかわらず、誰もが月を見たのです。人工光のほとんど無かった昔は、月の光は夜を過ごすための大切な光でもありました。そうした月と共に生きる長年の習慣と、さまざまな伝承や自然信仰が混ざり合って、月を見る行事が生まれたと考えるのは自然です。

月はうつくしいものです。月の光は神秘的です。これは今も昔も変わりません。必然があって月を見ていた昔の人々も、一息ついたときに月を見上げ、「あー、きれいだ・・・」と感じたことでしょう。
生活に余裕はなくても、わずかばかりの余力でお供えを作り、月が昇るのを待ち、ゆったりと過ごす。村内で集まって、にぎやかに過ごす習慣のある地域もあると聞きます。十五夜だけでなく、十六夜(いざよい)、さらに十七夜以降の月待ちもありました。遅い月の出を、お酒を飲んだり、会話を楽しんだりしながら待つのです。こうした集まりは、つらい農作業の合間のささやかな楽しみでもありました。

それに比べれば、今は毎日がお祭り、ハレの日のようなものです。食べ物も遊びも私たちの周りにはあふれ返っていて、自然の恵みに感謝しようとか、今日はお団子を食べることができてうれしいとか、そうした感情は生まれてきません。夜、外へ出ても、人工光で真昼のようですし(大げさ)、高い建物と明るい街灯に囲まれて、月がどこに見えているのか探すだけでも大変です。皆さんは、十五夜のような特別の日ではなく、普段の日に、今日の月がどのような形か、どの方向に見えるのか、意識したことはありますか?? そんなことを考えなくても、毎日普通に通勤し、登校し、おなか一杯ご飯を食べられますよね。
それが正しい方向だったか、間違っていたかは別として、これまで私たちが求めてきた便利な生活、文化的な生活は、自然界の営みから決別する方向を目指して進んできました。雨が降るたびに道路がぐちゃぐちゃになったら嫌でしょう? 毎日、山へ食べ物を探しに行くより、スーパーへ買い物に行ったほうが楽でしょう? 冬は昼が短いからといって、早寝をしたりはしないでしょう? 私自身の生活を振り返ってみても、日々の生活は季節や天候にほとんど左右されません。今、そうした自然界からの決別を目指した生活は、ほとんど実現したといっていいでしょう。自然を全く意識しないで生活できるなんて、こんな夢のような生活が送れることを、それこそ私たちは神に感謝しなければならないはずです・・・・・

こうした流れへのささやかな抵抗、というほどのことではないのですが、少しでも季節を感じようと、職場の月の見える窓辺に、毎年、生徒たちと一緒にお団子とススキを供えています。もちろん、夜、学校に残ってお月見をするわけにはいきませんから、明るい間だけのお供えです。昼休みや放課後、そこへ来た生徒はお団子を食べていいという特典つきです。残念ながら、今年は中秋の名月が日曜日だったため、お供えはしていません。
写真の月は、今日(9月14日)午後8時40分に撮影しました。十五夜は、旧暦の八月十五日の月です。実際の満月と少しずれることがあります。今回の満月は日付が変わった9月15日です。昇り始めた月を、見た目のイメージに近い構図で撮りましたので、画面の左上が北になっています。
(2008.09.14)

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