男性アーチストま行

増沢末夫 さらばハイセイコー 75年 当時JRAの主戦を務めていた増沢末夫騎手(現・調教師)が歌って、
名馬ハイセイコー人気に乗っかり大ヒット
した曲です。
昭和40年代の後半、地方競馬から中央競馬界に転身し「怪物」と呼ばれたハイセイ
コーは、70年3月6日、チャイナロックを父に、ハイユウを母に北海道で生まれた名馬。
73年の弥生賞、皐月賞を制し、中央での戦績十六戦七勝の輝かしい記録を打ち立てた
名馬も、2000年5月4日、余生を過ごしていた牧場で心臓麻痺により息を引き取った。
馬齢三十一歳(満三十歳)、人間なら百歳を超えている年齢でした。
丸山明宏(三輪明宏) ヨイトマケの唄 65年 彼の自作によるヒット曲です。放送禁止の指定を受けましたよね?
”ヨイトマケ”って意味は、建築場や道・橋などの土木工事などの地固めのために、数人
で重い槌(つち)を滑車であげおろしする時の掛け声。または、そのような労働に従事す
る人のことを言うんだよ。
丸山さんは45年に長崎で被爆
。11歳の頃から声楽とピアノのレッスンを始め、中学卒
業後上京。銀座のシャンソン喫茶・銀巴里で歌っているところをスカウトされて丸山明宏
の芸名で57年「メケ・メケ」って曲でデビュー。全身紫を配した異様な女装が評判となっ
て、「神武以来の美少年」などと呼ばれました。
67年には劇団天井桟敷の「毛皮のマリー」に出演、翌年の三島由紀夫作品「黒蜥蜴」
などの舞台で女装の美しさを存分に示しました。その後72年に三輪明宏と改名して、
テレビや舞台で活躍。また、演出も手掛けておられます。
87年、シャンソン歌手としてフランス、スペイン、旧西ドイツ公演を行い、シャンソン歌手
として国際的な評価を得ました。
松島アキラ 湖愁 61年 日本レコード大賞新人奨励賞を受賞したデビュー曲であります。
いきなり50万枚の大ヒットとなって紅白にも出場。他に「さくら貝の歌」等のヒットも
・・・
昭和30年代半ばのロカビリー全盛期に、ロックバンド・ウェスタンキャラバンのリード
ボーカルとして活躍した後、この曲でレコードデビューを飾りました。
甘いマスクが若い女性に大人気で、鼻が少し上向いてたことから「スピッツ」の愛称で
親しまれながら、シングル38枚、LP6枚を出す活躍ぶりを見せました。
後、「松島アキラとワイターワン」などのバンドを経て88年、木村章とアメリカンポップス
を歌う「アキラバンド」を結成、日本各地のライブハウスなどで活躍。
マイク真木 バラが咲いた 66年 ジャケット見てると作曲もこなしそうに見えるけど、実はダメなのだそうな。
68年には前田美波里と結婚したが、のちに離婚。
その後、テレビの子供番組の司会などをされてました。
バイクが趣味で、モトクロス場を経営している話は有名。
マリア四郎 傷恋 68年 粘液的すぎる性格をエゲツないほど美しく表現しえる歌唱力・・・どんなんや!?
松野浩司 東名高速の歌 69年 63年から建設に取り掛かり、この年に全線開通した東名高速を歌ったもの。
レコード代金の中から20円を交通遺児育英会に寄付してたんだと。
まりちゃんズ ブスにもブスの生き方がある 00年 ”ELEC”ってレコード会社には変な曲が多く、僕は好きだった。
”ユピテル音楽工業”が出すレコードにも変なのが多かったな?やっぱり好きでした。
満身の力をこめて”ブス”
って歌うところが最高の曲です。
真鍋公一 別府夜霧 00年 別府市観光課、別府市観光協会、商工会議所、地獄組合、関西汽船、と、
オール別府関連の協力で作られているレコード。別府みやげとして買ったもの。
ジャケットの別府の夜景が綺麗だよ。真鍋ってオッサンの顔が邪魔だけど・・・
円 広志 夢想花 78年 第9回世界歌謡祭グランプリ受賞曲
ミス花子 好っきやねん 81年 こじつけにこじつけて、東京より大阪の方が素晴らしいと主張しまくって
関西では大ウケした一枚。

彼のキャラクターって大好きなんですよ。何とか返り咲いてほしいでちゅー。
ミス花子 河内のオッサンの唄 76年 河内弁はこんなに汚くない!と、反発がかなりあったにもかかわらず、
ヒットチャートで最高5位を記録するなど、28万枚近くも売れた一枚なのです。
同年、斎藤武市監督、川谷拓三主演で(徳山松太郎役)映画にもなりました。
彼は昭和28年奈良で生まれ、高校を出てからはキコリや土木関係に従事。
その後もバーテン、運転手、電気屋の店員などを転々とした後、この曲でコロムビア
より歌手デビューを果たしました。
81年にはポニーキャニオンに移籍。「好っきやねん」をヒットさせた。
三音英次 釜ヶ崎人情 68年 釜ヶ崎から河内音頭の稽古に通い62年デビュー。
タクシーの運転手をしていた97年8月3日、スピード違反の
取り締まりにあたっていた警察車両に放火して逮捕。

ちなみに、この曲の作詞者は「もず昌平」さんです。
三浦弘とハニー・シックス よせばいいのに 79年 昭和32年に長男三浦弘の指導の元に結成された兄弟グループです。
フィンガーファイブなんかもそうだったよね。
ハワイアンミュージックが盛んだったその昔、それらメロディーに刺激され、バッキー白
方、大橋節夫を初めとする先生方にプロの道を教えられて66年に男性兄弟だけでプロ
歌手としてのスタートを切りました。
後に妹さんである「京子」さんが参加して現在のハニーシックスに至っています。
2001年現在、レコーディングも400曲近くにのぼり、他のヒット曲に「お嫁に行けない私」
「オールナイトで朝帰り」「飛んでゆきたいラブコール」「おもいでの東京」等があります。
現在のリーダーは亡き三浦弘さんの跡を継いで三浦貞夫さんです。
彼らが籍を置くブラザー音楽事務所の社長さんはボーカル&ベースを担当している
三浦春男さんです。正に全てがオール兄弟ってところにびっくりしちゃいますね。
港のヨーコを守る会一同 アンタ私の何んなのさ 75年 サブタイトルは「港のヨーコ 逃亡編」。
ジャケットに載っている尋ね人広告は本物なのでしょうか?
三浦洸一 東京の人 (アンコール盤) 56年 片面の「異国の丘」は48年に竹山逸郎・中村耕造さんらが歌ってヒットした曲。
吉田正門下、いわゆる「吉田学校」の第一期生である彼は53年に「さすらいの恋唄」で
デビュー。第二弾の「落葉しぐれ」が大ヒットとなって、以後「弁天小僧」「踊子」「ああダ
ムの町」、そしてこの曲と、折り目正しい正統派の歌唱法で堅実にヒットを放ちました。
91年頃、テレビの「笑っていいとも」に出演し、その飄々としたキャラクターで再び人気を
集めたこともありました。
神奈川県三浦三崎のお寺の生まれで、芸名はここから取ったということです。
南こうせつ 夢一夜 78年 化粧品のCMソングでした。75年にソロになってからのヒットです。
彼は「かぐや姫」を結成するずっとずっと以前、「最後の世界」という曲でソロでデビュー
したんですよね。ところが全くヒットせず、その後、かぐや姫の前身とも言える「酔いど
れかぐや姫」で再デビューし、更に71年に、あのメンバーで「青春」という曲を携えて
再々デビューしたってわけです。それが「かぐや姫」なのよ。
南こうせつ 上海エレジー 83年 
三田 明 美しい十代 63年 テレビのスカウト番組がきっかけで、63年この曲でデビュー。
初々しい美少年っぽいルックスと、歌の上手さで大ヒット
しました。
その後も下記の「ごめんねチコちゃん」「あなたの涙」他、一連の青春歌謡でスターの
座を獲得。常に「橋幸夫」「舟木一夫」「西郷輝彦」といった御三家にプラスされるという
悲しい存在の彼だったが、やはり、そのルックスのよさとポップスをもこなす歌のうまさ
を生かして、かなり長期間人気が持続しました。
83年日本テレビ「長七郎江戸日記」に出演してからは俳優として舞台、テレビドラマで
活躍。90年には新曲の「アカシアは咲いた」を久々にリリースされました。
三田 明 ごめんねチコちゃん 64年 彼の顔は整形手術を受けた顔なんだそうな・・・
三田 明 アイビー東京 00年 ここに掲載した3曲の他に、「アルディラ」なんて名曲もありますねん。
水原 弘 黒い花びら 59年 夏木陽介主演の映画「青春に賭けろ」にロカビリー歌手役で出演した時の挿入
歌であります。
水原さんはハワイアン・バンドからダニー飯田とともにパラダイスに移ったあと、
日劇のウェスタンカーニバルで熱狂的な人気を浴びて有名になった。
この「黒い花びら」は、第一回日本レコード大賞を受賞した曲で、彼独特のサビの効い
た低音の魅力によるところが受賞の理由として大でありました。
水原 弘 君こそわが命 67年 黒い花びらヒット以降、次第にヒノキ舞台から姿を消していたが、8年後、
この曲がレコード大賞歌唱賞を受賞したことによって華々しくカムバックした。
彼は無類の酒好きで知られ、それに関するエピソードも数多いが、結局それが命取りと
なって、78年7月5日、食道静脈瘤破裂で亡くなられました。45歳の若さだった・・・
水原 弘 さいはての慕情 00年 他の代表曲に「へんな女」「お嫁に行くんだね」など。
三善英史 73年 母が小唄の師匠だけに歌唱力は抜群だったが、ちとジミすぎたか?
少し鼻にかかった女性的な歌い方に特徴がありました。
他の代表曲に「円山 花町 母の町」「細雪」など、日本情緒あふれる曲があります。
すっかり消えちゃったのかと思ってたら、今でも各種イベントなどで活躍中。
三波伸介 シンスケさんてえらいのネ 71年 題名どおりに、自分で自分を誉める唄。今は亡き、伊丹十三さんの作詞です。
45年に劇団人間座というところに入って芸能人としてのスタートを切った伸介さん。
その後、東京少年劇団を結成したり、地方巡業の劇団などに出演ののち、57年、新宿
フランス座に入って、62年には戸塚睦夫、伊東四郎と「てんぷくトリオ」を結成。
彼の「びっくりしたな、もう」の流行語とともに茶の間の人気者となりました。
その後はNHKテレビのお笑いオンステージにおける「減点パパ」コーナーや、テレビ東
京「三波伸介の凸凹大学校」、「スター・ドッキリ・マル秘報告」、「君こそスターだ!」等
の司会、ミッカン味ポンのCMなどで人気を集めていたが、82年12月8日に死去。
僕自身は、66年から始まった日本テレビの長寿番組「笑点」での司会が記憶に深い。
彼は立川談志、前田武彦に続く三代目の司会者だった。
美樹克彦 花はおそかった 67年 ♪かおるちゃん 遅くな〜ってゴメンね♪で始まるアノ曲だす。
冒頭のセリフを真剣に言うだけでギャグになってた

以前の芸名は目方誠という。6歳で劇団ペチカってところに入団して、以後中学2年ま
で本名の「目方誠」で子役として70本ほどの映画に出演していた。
62年に上京し、「トランジスター・シスター」って曲で歌手デビュー。
高校2年になった65年、芸名を「美樹克彦」と改め、「俺のなみだは俺がふく」で歌手と
して再デビュー。続いて出したこの曲と、「赤いヘルメット」がヒットし、アイドル歌手とし
て活躍しました。
比較的新しいデュエット曲の「もしかしてパート2」、そこでの彼は一応ロック歌手だった
けど、この曲を歌っていた頃は本当にシリアスに取り組んでおられました。
三波春夫 世界の国からこんにちは 67年 万博テーマ曲。国民歌謡はやはりこの方。大阪オリンピックは?・・・
三波先生はお父さんの事業が失敗したことで上京。
小学校を出てからは米屋や魚河岸で働く。39年16歳で日本浪曲学校に入学。
約1年半後、南条文若の名で浪曲界入り。その後出征し敗戦後の4年間はシベリア
抑留生活を体験。51年より座長として全国的な巡業生活を始める。
57年に三波春夫と改名し、「メノコ船頭さん」「チャンチキおけさ」「船方さんよ」で歌手
デビュー。以後、”お客様は神様です”の名セリフと美声で数々のヒット曲をとばした。
戦後の”国民歌手”の一人。代表作は「雪の渡り鳥」「東京五輪音頭」、そしてこの曲、
「世界の国からこんにちは」がある。歌手芝居の草分け的存在でありました。
2001年4月14日、前立腺癌のため死去。77歳であった。
長男は元アイドル歌手の「三波豊和」。長女は女優の「三波美夕紀」。
三波春夫 東京五輪音頭 63年 この頃の東京は、オリンピック絡みで湧いて湧いて。
首都高速も一気に伸びたっけ。
ミラクル・ヴォイス 東京333米 59年 58年12月に完成の東京タワー。今ではその高さも珍しくはないけど、
当時はこのように歌にもなるほど高い存在だったのだよ。
ところで・・・このジャケットのオッサン。
SM愛好家かえ?
宮崎一男と I・O・K 昭和の朝 00年 思わず「お母さん〜・・・ハナマルキ」と叫びたくなるようなジャケットだす。
間奏の代わりに東北の寒村で父を待つ少女の作文朗読が挿入されているという
一風変わった”問題定義ルポルタージュ歌謡
曲”。 よー分からんな(・o・)
美川憲一 スカーレット・ドリーマー 79年 このしと、昔から全然年取ってないような気がする。バケモノか?
東宝芸能学校を経て、大映ニューフェイスとなり、65年6月「だけどだけどだけど」で歌手
デビュー。翌66年に歌った「柳ケ瀬ブルース」が大ヒットとなり、一躍脚光を浴びた。
以後、「釧路の女」「さそり座の女」など次々にヒットをとばした。
その後、大麻や覚醒剤取締法違反などの事件で低迷していたが、タレントのコロッケの
モノマネで人気が復活して現在に至る。
水谷 豊 表参道軟派ストリート 78年 バンパイヤ、傷だらけの天使、熱中時代と、僕にとっては強烈な印象が残ってい
る俳優の一人です。89年に伊藤蘭さんと再婚されましたね。
65年、劇団ひまわりに入団。14歳の時、例のバンパイヤに初主演。
大学を受けるものの失敗。放浪の後、関根恵子主演の「新・高校生ブルース」(大映)に
出演。その後テレビの「泣くな青春」「傷だらけの天使」などで注目を浴びた。
76年には長谷川和彦監督のデビュー作「青春の殺人者」(ATG)で主役を演じ、
キネマ旬報主演男優賞に史上最年少で選ばれた。さらにNTV「熱中時代」の北野先生
が当たり役となり、茶の間の人気を得る。つづく「熱中時代・刑事編」もヒット。
他に同じくテレビドラマの「刑事貴族」などでも活躍。共演のアメリカ人、ミッキー・マッケ
ンジーと結婚したが86年に離婚。89年元キャンディーズの伊藤蘭と再婚。
村木賢吉 おやじの海 79年 ”一発屋”といえば一発屋の村木賢吉さん。
精錬所に勤め、転勤先の瀬戸内海は直島(香川県北部の島)で佐義達雄氏と出会い、
その作詞・作曲になる「おやじの海」をテープに入れる。
それが有線放送で全国に流れ、知らぬ間に有名になっていた。
それを機会に79年9月、32年間のサラリーマン生活から足を洗い歌手となった。
46歳の新人歌手と話題になった彼には、他に「おやじの心」「春の花嫁」「げんこの詩」
「冬越えの町」等、多数の作品があります。
ムスタング ゲルピン・ロック 68年 サイケデリックな出で立ちに白いブーツ姿という、どことなく不気味な存在だった。
カルト&B級グループサウンズファンには飛びっきりウケがいいバンドであります。
かのミック・ジャガーと対談したことがあるっていうのはあまり知られてない話で・・・
メッツ レディ・レイは最高さ! 75年 それまでジャニーズファミリーの一員だった郷ひろみの移籍と同時期にジャニー
ズジュニアを飛び出したのがこの6人。
解散後もマチャルだけはテレビドラマなどに出てましたっけ。
ちなみにジャニーズジュニアの残りのメンバーはジャニーズ・ジュニア・スペシャルとし
てデビューした。
目方 誠 アダムとリンゴ 62年 ”かおるちゃん おそくなぁってごめんね”で知られる「花はおそかった」のヒットを
放った美樹克彦が16歳の時の「トランジスターシスター」に続く2枚目のシングルで、
「涙の日記」がヒットしたバリー・ダーベルの曲です。
目方誠の芸名から美樹克彦へと改名したのは65年のこと。
モモファンクラブバンド グッバイ・ミスMOMOE 80年 引退する百恵に対してファンの心境を綴ったという曲です。
B面は山口百恵が歌った曲の題名を羅列したもの。
森田公一とトップギヤラン 青春時代 76年 69年に結成され81年に解散。90年には「森田公一とトップギャラン2」何てのも
結成されましたっけ?
森田さんは日大芸術学部音楽学科で作曲を学び、69年にこのグループを結成。
コンサート活動の傍ら、天地真理の「ひとりじゃないの」、キャンディーズの「ハートのエ
ースが出てこない」、桜田淳子の「夏にご用心」、アグネスチャン「ひなげしの花」など
多数のヒット曲を手掛け、作曲家としての頭角を現した。
81年のグループ解散後は作曲家として独立。DJなどの他、歌謡学院も経営し、
タレント育成にも力を注ぐ。
森田健作 さらば涙と言おう 71年 日本テレビ系「おれは男だ」主題歌。
父親は元警視庁勤務という厳しい家庭環境のもとで育った健作さんです。
浪人中に現在のサンミュージックにスカウトされのが芸能界入りのきっかけ。
後、松竹のオーディションに合格し、68年公開の映画「夕月」の黛ジュンの相手役で
デビューするとともに、同年、「夕陽の恋人」で歌手としてもデビュー。大学入学後も青
春スターとして様々なドラマに出演、71年「おれは男だ!」で爆発的な人気を博した。
86年”青春を大切にしよう”のスローガンのもと、青少年に作法を教える森田塾を開設。
87年には念願の映画製作にも乗り出し、「おれは男だ・完結編」として結実。
以降「グリーンボーイ」「当選確実」などを製作、プロデュースする。
91年4月からはテレビ朝日「熱血テレビ」で初のキャスターをも務めた。
また、子供向け絵本の出版社、(株)森田塾出版を設立した他、森田農場、日本細胞研
究所を創設するなど、青少年の健全育成問題、教育問題をはじめとする社会問題に幅
広く取り組む。
98年、東京都第4選挙区にて衆議院初当選。文部政務次官(2度就任) 。
2000年、衆議員2回目当選 ・・・等々
もんた&ブラザーズ ダンシング・オールナイト 80年 同年の日本レコード大賞金賞、日本レコード大賞中山晋平賞、日本歌謡大賞特
別賞、FNS歌謡音楽祭大賞優秀ヒット賞、全日本有線放送大賞グランプリを受賞した
大ヒット曲。ボーカルの門多頼命(もんたよしのり)は71年に神戸より上京し、初めソロ
シンガーとしてデビューしたが芽が出ず、長い苦労の末に「もんた&ブラザーズ」として
再出発。しゃがれ声で歌ったこの曲が爆発的ヒットをして一躍スターダムにのし上る。
後に作曲依頼などが殺到したが、84年音楽活動を休止。85年に映画「愛しき日々よ」
に初出演。86年ソロ歌手として復帰。「お前が好きやねん」などをマイペースで発表。
※売れてなかった時代の彼と、当時売れっ子だったアイドル歌手の西村まゆ子を比較
したNHKのドキュメント番組のテープを保有しています。見たい人は言ってね!
守屋 浩 僕は泣いちっち 59年 58年の第一回日劇ウェスタン・カーニバルでデビューした彼。
ロカビリーブームに乗っかって人気歌手となり、この曲や「有り難や節」などのナンセン
ス歌謡でヒットを飛ばした。その後映画などにも出演したが、徐々に一線から身を引き、
76年には歌手からスタッフへと転身。ホリプロのスカウト部長となって榊原郁恵などを
育てた。86年2月ホリプロを辞め、再び歌手としてカムバックした。
守屋 浩 檻の中の野郎たち 00年
森繁久彌 しれとこ旅情 65年 36年(昭和11年)東宝劇団に入り、ロッパ一座を経て、39年NHKに入社。
アナウンサーとして旧満州へ。戦後、引き揚げてからヤミ屋で一苦労。
ムーランルージュ(パリのモンマルトルにあったミュージックホールを模した日本の軽
演劇劇場で、昭和6年に佐々木千里が新宿に創設)に入り、NHK「愉快な仲間」で売
り出した。映画「三等重役」「夫婦善哉」「警察日記」「猫と庄造と二人のをんな」「駅前
旅館」などで名演技を見せ、その後、舞台やテレビにおいて独特の人情味でファンを
魅了した。中でも、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」におけるテヴィエ役は
67年9月から86年5月31日まで900回も務め上げた。
テレビでは森繁さん初の連続ドラマ主演作となった「七人の孫(64年放映開始)」を始
め、「だいこんの花」「関ケ原」他、多数に出演。
76年から始まった「徹子の部屋」の第一回目のゲストは森繁さんだったのよ。
歌においても聴けば分かるように独特の”森繁節”が有名です。
91年にはクルーザーの「めいきっす3号」で日本一周をされました。
森繁久彌 ちぎれ千島に雲が飛ぶ 77年
望月 浩 泣かないで 65年 清潔そうなムードで、モッチャンと呼ばれて親しまれてました。
B面の「次男坊」に見られるコミカルな味でも分かるように、暖かい人柄が人気の要因
だったみたいで、かなり長い間活躍していた歌手でありました。
森雄二とサザンクロス 足手まとい 81年 森雄二さんは大学時代にハワイアン・バンドをやり、卒業後は敏いとうのグルー
プでボーカルを担当。75年にこのグループを結成し、この曲や「意気地なし」がヒット。
85年に一度解散た後、二代目のグループが再結成された。