ここ大阪市西成区天下茶屋について自慢できそうなものは何かないかと探しては
見たものの、はっきり言ってな〜んもなかった。まいったよ、トホホのホ・・・・・・・・
人に見せられるものといえば関西フィルの練習場と新しくなった南海電車の駅舎ぐ
らいなもの。そこで、南海電鉄天下茶屋駅を中心に僅かばかりのお話を致します。
2002年3月現在、 商店街のアーケードが改装され、 駅の裏にもスーパーが新しく開店したりと徐々に変化 を遂げているにもかかわらず、その分の更新が未だに 出来ておりません。遅れていることをお詫び致します。 |
なんともはや、訪問者は貴方様でたったの | 人目。この部屋だけはお客少ない。シクシク |
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天下茶屋駅開業当時の、難波から天下茶屋駅間3等車の切符 |
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その、豊臣秀吉が立ち寄ったと言われる「殿下茶屋」であるが、 芽木家がその跡で、邸内に秀吉が名づけた「恵みの水」と呼ぶ井戸 が残っていたが戦災で焼失してしまい、いまは老木と碑がわずかに その跡をとどめています。 左の写真は99年現在の天下茶屋跡。 |
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焼失前の天下茶屋(1938年頃)。 ”天下茶屋”と書かれたちょうちんが下がり、左に「豊太閤遺」まで かすかに読みとることができます・・・。 |
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上記「焼失前の天下茶屋」正面部分の拡大写真 |
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天下茶屋跡に掲げられている史跡説明。 |
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同じ場所に掲げられている、当時の天下茶屋邸説明図 |
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駅前の風景です。 こうしてみるとなかなかに立派なものだと感心いたします。 元々ここに住んでいて、その後府外へ転居された方など、久しぶりに 天下茶屋駅をご覧になると、さぞかし驚かれるでしょうね? それほどに駅前も奇麗に整備されました。一階と二階はちょっとした ショッピング街になっていますが、昔ここに多く住んでいた水商売 関係の人も今は少なく、周辺一帯の人口が減った関係もあり、 お客の入りはもうひとつです |
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天下茶屋駅は南海本線大阪市内連続立体化工事と関連して、将来は 難波駅に次ぐ南海の副ターミナルにしようとの計画があったものの、 現状を見る限り、どうやら企画倒れの感。 この写真は、地下鉄堺筋線・南海電鉄の中央口となっているところで あります。各改札への通路が向かい合わせにあるため、ラッシュ時には 乗り換のため、右へ左へ行きかう人でバリケードのようなものが 築かれ、駅の向こう側へ出るのにも一苦労・・・。 |
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地下鉄堺筋線の改札口です。 ここに延伸される前は一駅向こうの動物園前が始発駅でした。 フェスティバルゲートの近くですね。 朝は3本ほどが京都の河原町から天下茶屋まで堺筋急行線との名称で 直通運転されていて、夕方にはその逆に天下茶屋発河原町行きとして 同じく3本ほどが直通運転されています。万博の年、昭和45年から、この 地下鉄には阪急が乗り入れてます。だからそれが出来るのだ |
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南海電鉄の改札口です。 あ、そうそう、この駅にはラピート(ベータ)が停まります。 なのに普通の特急は止まりません。 急行も停まりません。停まるのは区間急行と準急のみ。 しかし、すべてが停まるってわけでもありまへん。ややこしくって困りますぅ。 |
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どこのホームを見ても、ま、同じか・・・ ご覧になりたい方はどうぞクリックしてください。 昔の古い駅舎の時には、最高で8番線までのホームがありました。 貨物用の引込線もあり、駅の裏側にあった日本通運の営業所との間で、 荷物の上げ下ろしをしていたのが子供の頃の記憶として残っています。 荷物の上に上がってよく怒られました。 |
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駅の中央口に、ほんの少しずれて面する商店街への入り口。 はっきり言って寂れてきています。駅の中にショッピング街が出来た おかげでよけいに寂れてきました。 2〜30年ほど前は、本当に活気ある賑やかな商店街だったのに・・・。 若い方たちが家業を継がないので、今ある店がいったん閉まってしまうと 再開するって事が殆どありません。将来を考えると分かる気もしますが。 この街にコンサートホールなど、ドカーン!としたものが出来ないかな? なんてことをいつも思っています。若者が集まるようなもの・・・ |
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これは21年前に駅舎を背中に撮影したビデオのキャプチャー画像。 撮影位置も違っているため、はっきりと比べるわけにもいきませんが、 しかし、なんとなく上の写真よりも活気があるようにも見えませんか? まだこの頃は子供の数も多かったため、ゲームセンターなども存在し、 現在よりは賑やかだったのであります・・・ |
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少しだけ商店街に入ってみました。 目立つのはお年寄りばかりでして、それもそのはず、この天下茶屋は 西成区内でも一番高齢者の多いところなのです。若い人が集まらな ければやっぱり活気は出ませんわ。NHKのふたりっ子をご覧になって この地を訪れた方々は、ドラマとのあまりのギャップに驚いた事と思い ます。私が思うに、あのドラマに出てくるようなハイカラな店がもしもここ に存在していたとしたら多分2〜3ヶ月ほどでつぶれてしまうはず。 商売をするにはそれほど難しい街でもあります。 |
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そうそう、新しい駅舎にある”元祖タコヤキ”で有名な会津屋さん。 昔は駅の裏側をズ〜と行ったところ、国道26号線の向こう側で お店をやっておられました。 僕が小学生の頃から変わらぬこの味、この値段・・・って言いたいところ だけど、値段は高くなった(・_・、)。ガキの小遣いではキビシイぞ〜 |
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こいつが新築なる前の古い駅舎でござい。 カラー写真が手元に無いので(こんな事なら撮っておけばよかった) かーなり昔のビデオからキャプチャーしました。味わいのある建築物 でゲショ?事故も少ない駅でしたが、ただ一つ、昭和43年1月18日、 赤信号を見落として入ってきた急行が、引き込み線に停まっていた 車両に正面衝突し、重軽傷者合わせて252人という惨事が起きました。 この時は家まで衝突音が響き、非常に驚いたものでした。 |
Real Audio→ Real Playerが必要です |
その衝突事故を伝える当時のニュース |
![]() 天下茶屋駅1番線ホームに停まっている天王寺行き天王寺線。 この当時は2両編成で、[天下茶屋]→[今池町]→[天王寺]と、 全3駅の折返し運転を行なっておりました。 ※この写真はあるHPからの拾い物です。 掲載にあたり許可を得たかったのですが いつの間にかHPを閉じておられました。 この写真が掲載されたHPをご存知の方がおられましたら どうぞお知らせ下さいませ。 |
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昔、駅の西側には車両整備等を行うための「南海電鉄天下茶屋工場」 なるものがありました。明治33年6月に建設されしこの工場は、第二次 世界大戦末期の昭和20年3月以来、大阪の大空襲で数回にわたり、 駅舎とともにB29の焼い弾を浴び大きな被害をこうむったそうです。 赤レンガ作りのなかなかの建物でしたが、かなり昔に取り壊されました。 勝手にリンク!→下町の赤煉瓦・南海電鉄天下茶屋工場 |
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この駅に小さなSLが走り始めて10年ほどたった頃、「天下茶屋遊園」 というのが開かれ、以後、料亭やら待合い等が続々と開業し、続いて 船場の豪商たちの豪壮な本宅がたち始め、今でこそその面影すらも 感じられないが、明治末期の駅界隈は一種の高級住宅地でありました。 写真は、明治30年に発行された「南海鉄道案内」より抜粋したもので ありますねん。この公園は今の駅の近くではなく、現在の阿倍野区橋本町 あたりにあったそうです。 |
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こいつは天下茶屋の次(難波方面)に位置する「萩之茶屋」という駅の 明治末期頃の写真。通称愛隣地区のど真ん中に位置する駅です。 昔は住吉へ参拝する人が心斎橋を起点に、途中で今宮戎や廣田神社 にも詣でながら紀州街道を南へ向かいつつ、道すがら茶屋へ立ち寄り、 休憩をしたり食事や酒を楽しんだりしていました。 ここにはそのような茶屋がたくさんあり、「萩の茶屋」もその一つで、 園内に植えられた萩の花が旅人の目を楽しませていたそうです。 その店の名が今でも駅名として残っているのです。 |
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南海電鉄について僅かな説明を・・・ 明治17年、南海の前身である大阪堺間鉄道(後に阪堺鉄道)として会 社は設立された。今日まで永続している私鉄としては最も古い歴史を 持っています。初めは電気化などされておらず、蒸気機関車が花形で、 その時代には何と食堂車まであり、美人ぞろいの給仕さんの元、梅田は 水了軒の西洋料理などが味わえたとの事です。全線電化は明治44年 1月の事。ちなみに、長く親しまれていた南海のシンボル「羽車マーク」 は、昭和47年に現在の物に変更されました。上町線の前身は、明治30年 5月設立の大阪馬車鉄道で、同40年2月に浪速電車軌道と改称し、電化 後に(それまでは文字どおり馬が引っ張ってた)南海鉄道と合併しました。 大正4年には阪堺線と平野線の元となった阪堺電気軌道と合併し、ほぼ 現在の南海電鉄の路線網が固まったのであります。 左の写真は南海電鉄が誇った日本最初の冷房電車です。 |
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私が住んでいるあたりの写真ですぅー。 古い家が軒を連ね、いかにも下町って感じでゴチャゴチャとしております。 地方からきた人は一様に「住みにくい」といいますが、そんな事おまへん。 住めばここも都となります。世間体やら何やらと、その点をあまり気にしない ですむところがマルだと思います。 |
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天下茶屋駅の周りは、みーんなあんなふうにゴチャゴチャとした家並みか と思いきや、駅舎のすぐ左側にはこんな建物も存在してたりします。 いつ頃のものかは知らないけれど、例の高級住宅地であった頃の豪邸の 名残なのでしょうか?現在は質屋さんの看板があがっております。 |
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NHKふたりっ子でロケの中心となっていた町は、実は「天下茶屋」では なく、ここ南海汐見橋線「西天下茶屋駅」を中心とした辺りでした。 大正4年9月18日開業のこの駅、南海高野線が汐見橋駅を起点として いた昔は列車も頻繁に走ってそれなりに賑やかだったようですが、今は すっかり寂れています。 難波が高野線の起点になってからは、たった6駅を折り返す盲腸路線の 途中駅に成り下がり。乗降客も少なく都会のローカル駅としての雰囲気を 悲しい程に醸し出しています。 |
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西天下茶屋駅のホームなり。 この一枚だけでもローカルな気がしませんか? |
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西天下茶屋駅周辺の商店街です。 ここの商店街も天下茶屋の商店街と同じで、どこか寂しい雰囲気が漂っ ています。この日は日曜日だったので、なおさらに人通りが少ないので す。平日はもう少し活気が有ります。この商店街を抜けた、現在高速が 走っている下には昔、十三間堀川という川が流れていました。 NHKふたりっ子を見た事がある人は、左の商店街に見覚えがあるはず。 |
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上と同じく西天下茶屋駅すぐ近くの商店街一角。 ・・・・・や・・・やはり寂しい・・・・・ |
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その昔、天下茶屋駅に地下鉄が延伸してくるまでは、JR天王寺駅へ行く までの支線として「天王寺線」というのがありました。 天下茶屋、今池町、天王寺と、たった3駅しかない線ではありましたが、 地元の人間にとってはJRのターミナルとを直通で結ぶこの線はとても有り 難い存在でした。その後地下鉄工事の関係で、まず最初に天下茶屋− 今池町間が廃止され、暫くの間今池町−天王寺まで、2駅間の折返し運転 (後に大門という駅が臨時で増設されましたが)を行っていましたが、それも 地下鉄開通とともに完全に消え去ってしまいました。左は今は無き昭和24 年6月20日開設の今池町駅です。(北井一夫著「新世界物語」より転載) |
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今池町駅に停車中の、天下茶屋行き南海電鉄天王寺支線。 上を走行しているのは阪堺電車(チンチン電車)です。 55年撮影のビデオからキャプチャー。 |
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南海電鉄天王寺支線の天王寺駅ホームです。 やはり、55年撮影のビデオからキャプチャーしたものであり、画質は最悪。 |
動画もどうぞ・・・ Real Video→ Real Playerが必要です |
今はなき今池町駅に到着する天王寺線、及び、その付近を走っていて 同じく廃止となった阪堺平野線(恵美須町〜阿倍野間)の走行風景 56kモデム&ISDN用 ![]() 平野線のブロードバンド映像を「昭和想い出博物館・大阪編5」に置いてます。 ヨロシク〜! |
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政岡としや作品のマンガ「なみだ壷」双葉社発行ACTION COMICSに登場 する天下茶屋の1シーン。北天下茶屋駅の2カットと商店街内の1カットを ご覧ください。(左の絵をクリック) |
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天下茶屋が舞台となったのはふたりっ子だけじゃ ない!82年NHK銀河テレビ小説で、はるき悦己 原作のこんなのが。 そして他にも・・・ |
天下茶屋商店街を行く太川陽介さんです。 古いテープからのキャプチャーで、画像が悪 いのが残念でありまする。 |
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左の方は誰かいな?右の女の子は熊谷真実さん。 このシーンと、下記の「青空にちんどん」のスライド をこちら置いてます。ご覧下さいませ。RealVideo |
この場所を使ってのシーンはふたりっ子にも登場。 場所はチンチン電車の北天下茶屋駅です。 |
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同じく、北天下茶屋駅に立つ工藤夕貴しゃんです。 NHK、ドラマ新銀河「青空にちんどん」から・・・・・ |
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他の出演者に伊原剛志、西村晃、ミヤコ蝶々など | 西天下茶屋商店街を行く西村晃さん | |||
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ちんどん屋さんを舞台にした青春ものでした | ||||