第1回Vリーグ

第1回Vリーグ、外国人にも門戸が開放され(ただし、過去の日本リーグの個人表彰を見ると、外国人選手の名前も少なくない。日本リーグ時代に完全な鎖国政策をしいていたというのは嘘のようである。おそらく、これは、Vリーグになったときに「外国人選手とプロ契約を結ぶことが認められた」ということだと思う。)、キューバあるいはロシアなど、世界トップのナショナルチームのメンバーも多く来日した。しかし、独立して間もない人口数百万の小さな国、もちろんバレーボールの世界大会での実績などない国の出身、当時17歳の少女が、そのような選手をしのぐ活躍を見せ、「世界の大砲」の名をほしいままにするとは、いったい誰が予想できただろうか。

大きなタイトルは何一つなくとも、プレーは誰よりも熱く華々しいバーバラが、日本のファンに知られるようになったのは、第1回Vリーグのことである。このとき彼女はまだ17歳、高校を休学しての来日だった。彼女の所属は「日本電装(現デンソー)」、Vリーグの下にあたる実業団リーグから昇格したばかりのチームである。当時17歳でありながら、彼女の活躍は(私の知る限り)世界一のアタッカーといわれたミレーヤ・ルイスにも勝るとも劣らないものである。

実家帰省中に新聞縮刷版(朝日新聞)を調べた。おぼろげながら記憶にはあったのだが、バーバラは1シーズンで何度も登場した。名古屋で調べた理由は、Vリーグの記事はローカルでないようで意外とローカルの場合もあるからである。例えば、ダイエー休部のドキュメントは大阪地区版にしか出ていない。だから、日本電装(現デンソー)のバーバラの記事は当然名古屋ローカルの可能性がある。しかし、名古屋で調べたにもかかわらず、おいてある縮刷版は東京版だった。それでもバーバラの記事は載っていた。バーバラは全国区で何度も出ていたのだ。記事の分量は、外国人選手としては間違いなくもっとも多い。バーバラ、すごすぎる!
当時は、鳴り物入りで始まったこともあり、毎回試合結果だけでなく数段、もっとも大きいときには(もちろん、決勝トーナメントではない)広告を除くページの半分近くをVリーグの記事が占めていたこともあった。よい時代だった。

彼女の活躍でチームも途中までは10勝7敗と大きく勝ち越し、4位以内・プレーオフ進出さえ十分可能性があった。ところがそこから4連敗した。それも、最終戦は2セットを先取しながら、そこから3セットを落としての逆転負けだった。まさに悪魔に魅入られたかのような転落で、得失セット率で7位となって入れ替え戦に回ってしまった。エアリービーズは入れ替え戦の初戦に3-1で勝った。しかし、疫病神はなおもこのチームから離れていなかった。第2戦は1-3で負け。得失セットまで同じ。そして得点がエアリービーズのほうが少なかった。

かくしてこのチームは1年で実業団リーグに逆戻りとなってしまった。悪夢のような降格である。となればバーバラの名前を聞く機会も当然なくなる。私は、彼女はとっくにこのチームから抜けたものと思っていた。

このシーズン、バーバラはベスト6に選出された。上位チームの選手、日本人選手に偏りがちの記者投票において、このシーズン限りで降格となったチームのしかも外国人選手が獲得するのは、極めて異例である。7位以下のチームからのベスト6選出は、日本リーグ・Vリーグの男女を通して他に例はない。かつて日本リーグが6チームだった時代にも、5位以下からの選出は男女あわせて3回だけである。
もちろん、このシーズンのバーバラの個人成績は非常に立派なものである。猛打賞・サーブ賞の二冠獲得、それも、決定本数部門では、日本リーグ始まって以来の新記録*1だった。サーブ効果率の値も、他のシーズンのサーブ賞獲得者と比べてもかなり高い*2
*1 決定本数については、3回戦総当たり・21試合での新記録。2回戦総当たり・14試合の時代には、1試合当たりに直すとこのシーズンのバーバラより多い記録があった。
*2 Vリーグに入ってからは、このシーズンにバーバラの叩き出した効果率は破られていない。日本リーグ時代との比較のために得点率(= サーブ得点 / 打数)を出すと10.29%である。日本リーグ初期では10%以上の得点率が珍しくなかったけれども、Vリーグに変わる直前の日本リーグ10年では、10%以上の得点率はわずか2度しかない。近年の国際大会でも、10%以上の得点率は滅多にない。また、古い時代に高い得点率が珍しくなかったのは、6チーム総当たり2回・10試合と試合数が少なかったことも大きな要因である。シーズン21試合で得点率10%以上を記録したのは、バーバラを含めわずか3度しかない。

しかし、バーバラがベスト6に選ばれた最大の理由は、おそらくそこにはない。第4回Vリーグでは、サーブ賞こそならなかったものの内容的にはこのシーズンを格段に上回る成績を上げながら、ベスト6には選ばれなかった。
第1回Vリーグ当時、バーバラに国際的な知名度があったとは思えない。クロアチアももちろんバレーボールの国際大会での実績は皆無である。その上わずか17歳。このベスト6選出は、数字以上に、このシーズンのバーバラの活躍が日本バレー界全体にいかに大きな衝撃を与えたかの証明にほかならない。

これほど熱い選手が、他にいるものか。96年6月のあの日と全く同じセリフになってしまった。今から思えば、これほど熱い選手の存在を知らなかった、というか、名前を聞いたことがあってもどのような選手か全く知らなかったことは、実に恥じるべき不明だったというしかない。

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95年ワールドカップ

そしてその翌年、舞台を世界大会に移し、バーバラはその衝撃を再現した。

バーバラが国際舞台で最も脚光を浴びたのはこのときだろう。このとき、クロアチアは4位の好成績を上げた。そもそも、このときはなんとロシアを撃破してのワールドカップ出場だったのである。バーバラの最大の好敵手であるエフゲーニャ・アルタモノワがバーバラの存在をはっきりと意識したのも、おそらくこのときに違いない。日本もこのときはフルセットの末にクロアチアに敗戦。もちろん、「バーバラ一人にやられた」(世界最終予選のときの解説)ものだった。残念ながら、当時バーバラの存在は意識の全く外だった。そしてこの試合も当然見ていなかった。ひょっとすると、バーバラにとってこれ以上の晴れ舞台は二度とないかもしれないのだ(もちろん、そうなってほしくはないのだが。)。今から思えば、痛恨などという言葉ではとても言い表せないことである。

この大会、世界大会初登場のクロアチアは初戦のブラジル戦こそストレートで敗れたけれども、次の試合でアメリカを何とストレートで撃沈、「驚くべき」初勝利を上げた。その次の韓国戦では、第1セットを13-15で落とし、第2セットも6-14と大きくリードされ、韓国の一方的な展開になるかとも思われた。しかし、ここで韓国の集中力が切れたのにつけ込んで一気に逆転、17-16でこのセットをとった。その後も2セットを連取し、セットカウント3-1で大逆転勝利。これで完全に波に乗ったクロアチアは驚異的な快進撃を続ける。この後はストレート負けあるいは1-3での負けはない。次のオリンピックの金銀メダルチームであるキューバ・中国にも、勝つことはできなかったもののいずれもフルセットに持ち込んだ。この頃のキューバは、まさに絶頂期である。この大会でも全勝優勝、しかも中国もブラジルもストレートで粉砕している。個人成績でもルイス・ベル・カルバハルの3人がアタック決定率のトップ3を独占するなど、どこから見てもその強さは圧倒的だった。この大会11試合で落としたセットはわずか3セットしかない。そのうち2セットがクロアチア戦である。この大会、キューバが「負けるかもしれない」というところまで追い込まれたただ一度の試合が、クロアチア戦だった。これを見る限り、この大会の予選で当時どん底にあったロシアを破ったのもフロックでは全くない。バレーボール界に大きな衝撃が走ったことは間違いない。

これまで、クロアチアのナショナルチームは世界最悪のワンマンチームだと思っていた。しかし、このときはかなり「まともな」チームだったらしい。決定本数でのバーバラへの依存度は41%*に過ぎない。しかも、バーバラよりもバーバラ以外の平均の決定率が高い。やはり、バーバラ一人だけではいくら何でも世界大会で4位ということは不可能である。
* 4割でも世界の常識から言えばかなり重い負担である。この大会でチーム全体の決定数に占めるエースの決定数の割合は、例えばルイス(キューバ)で27%、アナモーゼ(ブラジル)にいたっては21%に過ぎない。バーバラ以外でこの割合が35%以上に達した選手は、上位8チーム中にはいない。この大会のバーバラは断然の最多決定本数・最多得点である。(バーバラのこの大会の総得点は142点、2位の大林選手とは実に50点差があった。内訳はアタック101・ブロック23・サーブ18点で、これら全てで卓越した得点能力を示している。)それでも「・・・に過ぎない」と言わなくてはならないほど、この後の世界最終予選、あるいはデンソーエアリービーズでの使われ方がひどいということである。
(注1)この大会のFIVB公式ページにある技術集計は、クロアチアの選手の名前が全部間違っている。これは、FIVBにあるクロアチア選手の番号と選手名の対応表が間違っており、その間違った表をもとにして技術集計が作成されているためと思われる。つまり、選手の番号は正しい。
正しい番号の表は他のページ(Volleyball World Cupなど)から入手するのが望ましいが、当時のクロアチアチームは交代の極端に少ないチームで、控え選手の出場機会はほとんどなかったため、以下の先発選手の表だけあればおおよそ事足りる。なお、98年の世界選手権においてもこの番号は全員変わっていないため、これは覚えておいて損はない。なお、オズモクロビッチは結婚して姓がレトに変わっている。
参考: '95年当時のクロアチアチーム先発選手
番号 名前
1 OSMOKROVIC Natasa
5 MIJIC Snjezena
7 KUZMANIC Slavica
8 JELIC Barbara
11 CEBUKINA Elena
12 KIRILLOVA Irina
(注2)この大会の技術集計には2つのバージョンが存在する。このページでは、両バージョンをかりにJVA版、FIVB版と呼ぶことにする。JVA版は、JVAの公式ページに過去の大会記録として掲載されているものである(現在も利用可能である。)FIVB版は、FIVB公式ページの95年ワールドカップのページにあるものである。JVA版ではクロアチア選手の名前も正しく記載されており、また、FIVB版にないチーム別技術集計もある(ただし、分野別の全選手の技術集計はない。)。両者には内容にも大きな違いがあり、JVA版は攻撃・防御の全ての分野について成功率ベースで集計しているのに対し、FIVB版はアタックを除く攻撃・防御の全ての分野でセットあたり成功数ベースで集計している。このページは、当初はJVA版をもとに記述し、後にFIVB版を入手して追加・修正している。

世界最終予選のときあれほどひどかったのは、やはりけが人が主な要因らしい。このチームは大きな大会の前にいつもけが人が続出するけれども、このチームの主力で最終予選に来ていたのはバーバラとキリロワだけ。これでは本当にバーバラ以外にトスを上げることなど考えられない。キリロワがいても、そのトス回しを生かせない。
98年の世界選手権のときも相変わらずひどいものだった。このときは主力がそろうことはそろったけれどもやはり元気なのはバーバラだけ。このときは逆にキリロワがけがでフル出場できる状態ではなく、バーバラ一人きりという状況に陥った大きな要因となった。また、サーブレシーブの悪さも相変わらずで、なかなか速攻を使えるパターンに持ち込めなかった。
だいたい、クロアチア生え抜きの選手でまともに使える選手はここ10年ほどでせいぜい3人くらいしかいない。クロアチアの主力選手の半分以上は、旧ソ連またはロシアから帰化した選手、いわば「輸入品」である。このような国から、いったいどうして世界一のエースが出てきたのか。まじめに考えてみれば、そのほうがむしろ謎である。

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