内田 朝雄

今回はメジャーだなあ。メジャー過ぎるかもしれない。この人の事を観たことがないという邦画ファンはモグリだ。黒幕役をやらせれば天下一品でありながら、一方で『女必殺拳』で演じたような主人公を助けるような役割を演じることも結構ある演技の幅の広い役者さんである。

朝鮮の平壌で生まれ育ち満州炭坑で働き、戦争中は久留米戦車第一連隊に入隊。終戦時は戦車隊に入ったのに何故か朝鮮の仁川船舶潜水輸送隊にいたという。それからの人生が波乱万丈。まずは酪農でひと旗あげようと北海道でデンマーク式農法を学び長野県富士里村に集団入植。そのまま農協職員になるが途中で気が変わったのか、宇部興産に就職しサラリーマンとなる。1958年に芝居好きのサラリーマンを集めて月光会を主宰。翌年サラリーマンを辞めて役者で食っていくことを決意する。この時既に39歳。会社を辞めた時の退職金で芝居の公演を行ったところ、シャレにならないくらいの大赤字となり、食うものも食えない状態で生死の境をさまよったりした。その後、和田勉らの取りなしで仕事も順調となり大小様々な映画で活躍をしたが、1996年9月30日に胃癌のため亡くなった。享年は76歳だった。医師に癌を告知された時、家族に電話で「お土産持って帰るからな。何かって? 癌だよ、癌」と伝えたという。

この人は宮沢賢治の研究家としても知られ、その縁で秋田桂城短大(秋田県大館市)の正規教員に就任していた。著書には『私の宮沢賢治』がある。死ぬ直前の最期の言葉は「賢治は…」だったという。1990年には青山学院女子短大に講師として招かれ演劇論の講義をしたこともあった。

とにかく存在感のある役者さんであった。金子信雄等の演じる悪党とは違い、いかにも大物といった風格を持った悪役を演じていた。そのくせ『不良番長』のようなプログラムピクチャーで黒幕を演じることも多く、オレのような東映プログラムピクチャーのファンが映画を観ていれば5本に4本はこの人が出演しているくらい大活躍をしていた俳優だった。

昔の邦画界には「狡猾な黒幕を演じるのはこの人」「仁義を踏み外した悪役を演じるのはこの人」といった具合にその道のエキスパートというか「もうこの人が画面に出て来ただけで、どんな役か分かってしまう」という役者さんが沢山いた。その中でもこの人は出てきただけで「あ、もう最後の敵は決まったな」と思わせてくれる人だった。だから、たまに『女必殺拳』のように良い人の役をやっていても「実はこの館長が黒幕で……」とかよからぬことを考えながら観てしまったりしてしまうのだが……。おそらく今の映画ではこういった出て来るだけで役が分かっちゃう役者さんというのは、あまり必要とされないであろう。でもオレは、この文章を書きながら「そういう映画ってつまらないかね?」と思ってしまうのだ。オレはこういう役者さんが出てくる映画をもっと観たいぞ!