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レイ・ハリーハウゼン


現在世界で活躍する映画のエフェクトマンは、この人に足を向けて寝るなどということは死んでもできない(そんなことするやつはオレが殺す)。オブライエンなくしてストップモーション技術の存在はありえなかったかもしれないが、ハリーハウゼンなくしてストップモーションの歴史そのものが成立しなかったと言い切ってよいほどの影響力を持った人物である。とにかく俺のようなモンキチ(モンスターキチガイ)には神様のような御大。
ちなみに以下の紹介文はかつて白夜書房より発売されていた『コンプリート・レイ・ハリーハウゼン』をプロT流に読解しながら書いております。


『猿人ジョー・ヤング』 (Mighty Joe Young)

『キングコング』を観てStopMotionに魅せられた13歳のハリーハウゼン少年は16mmカメラを購入し作品を作っていた。ハリーハウゼンは第二次世界大戦の前(正確な年は不明)にオブライエンと出会い、『猿人ジョー・ヤング』ではオブライエンのアシスタントとして採用された。そしてプロダクションの問題で身動きの取れなくなっていたオブライエンに代わってモデル・アニメートの8割以上を担当したのだった。ちなみにこの映画は1949年のアカデミー特殊効果賞を受賞している。


子供向けモデルアニメ (Mother Goose Stories/Little Red Rinding Hood/Hansel and Gretel/The Story of Rapunzel/The Story of King Midas)

その後『マザー・グース物語』、『赤ずきんちゃん』、『ヘンゼルとグレーテル』、『ラプンツェル姫のお話』、『ミダス王のお話』といった子供向けのモデルアニメの仕事をいくつかこなしたハリーハウゼンはいよいよ1952年公開の『原始怪獣現わる』に着手する。


『原始怪獣現わる』 (The Beast from 20,000 Fathoms)

原作はレイ・ブラッドペリの『霧笛』だが短編のため設定のみを流用し殆どオリジナルストーリーとなった。また、この映画はワーナー・ブラザース製作の映画であったが、非常に低予算の映画であった。しかしそれゆえにハリーハウゼンはコストを抑え効果の大きな手法を研究していく。その結果後に彼が「ダイナメーション」と名付ける手法の基礎がここで確立されるのである。

この時グラス・ペインティング(ガラスに不透明絵の具で絵を描き足りない所を補足する手法)とミニチュア撮影用のリア・プロジェクションを組み合わせて使うという、当時ポピュラーだが高価だった手法は使わず、フロント・プロジェクション(リア・プロジェクションはスクリーンの裏側から投写するのに対してフロント・プロジェクションは手前側から投写する手法)を使用することにより大幅なコスト・ダウンに成功し、当時としては格段に安い20万ドルという制作費で完成した。この映画は大ヒットし、その年の稼ぎ頭となったのだった。


『水爆と深海の怪物』 (It Cames from Beneath the Sea)

その後、一連のおとぎばなしシリーズの一作『ウサギとカメ』を作成していたハリーハウゼンの元に軍隊時代の旧友(ハリーハウゼンは1945年半ばまで陸軍に所属していた)からサンフランシスコが大タコに襲われる映画を撮りたがっている若いプロデューサーに引き合わせたいとの電話があった。その若きプロデューサーこそ後にハリーハウゼンのほとんどの作品をプロデュースすることになるチャールズ・H・シュニーアだった。ハリーハウゼンは最初のうちはとにかく「ウサギとカメ」を完成させたいと思って断ろうと思っていたが、本人も覚えていない理由で突然その作品に参加することを決意する。その作品が『水爆と深海の怪物』である。

ところでこの作品ではタコの足は6本しか登場しない。これは予算の関係でそうなったものなのだが、たとえそれがどんなに馬鹿馬鹿しく思われようと、足を2本少なくしたことは、それが数ある妥協案の中でももっとも有効な案だった。サンフランシスコの様々な建物を撮影するには市当局の許可が必要なのだが、この映画では市のシンボルであるゴールデン・ゲート・ブリッジをタコに破壊されるシーンがあるため許可が下りなかった。しかし、たくさん保管されていたニュース映画のフィルムを活用して、結果的にはそれがうまくいったのであった。(この手法は低予算映画の常套手段であり、エド・ウッドも多用していた)


『世紀の謎・空飛ぶ円盤地球を襲撃す』 (Earth vs. the Flying Saucers)

1950年代は初めて空飛ぶ円盤目撃のニュースが大々的に報じられ始めた頃である。他の幾多のプロデューサーと同じくチャールズ・シュニーアはこれは儲かると考えたようである。さっそく地球が宇宙から飛来した円盤によって蹂躪される映画の製作がスタートした。この映画はあまりにも急速に製作されたためハリーハウゼン自身も指摘しているとおり、音楽にもストーリーにも満足のいく作品とは言い難い作品となった。

この映画で観るべき点と言えば、それまでストップ・モーションと言えば生物であったのに対してこの作品では金属製の円盤や円盤の発するレーザー光線、さらには崩れ落ちるビルのレンガの一つ一つまでもがコマ撮りで撮られたことであろう。

当たり前のことだがハリーハウゼンは本物の円盤を見たことがなく、多くのUFO目撃者および団体と接触しリサーチを行っている。


『動物の世界』 (The Animal World)

この映画にハリーハウゼンは8週間しか係わらなかった。この映画での恐竜のデザインと製作はウィリス・オブライエンでハリーハウゼンはアニメーションだけを担当した。この映画はセミ・ドキュメンタリーで自然カメラマン達が撮った動物のフィルムを組み合わせて完成したもので、その中の先史時代の恐竜のパートをハリーハウゼン等が担当した。この映画に登場する恐竜達は、従来のように金属製のアーマチュアに筋肉をかぶせてそこに皮膚を被せて作るものではなく、全て型抜きで作った複製品である。これによって大幅な時間短縮が可能となった。


『地球へ2千万マイル』 (20 Million Miles to Earth)

1952年頃、ハリーハウゼンは非常に煮詰まっており、休暇を取ってヨーロッパ旅行をしたいと考えていた。しかしそんな事をするだけの金もなかったハリーハウゼンは無理矢理ヨーロッパロケが必要な映画のアイデアをひねり出せば、それを名目にヨーロッパに行けると考えた。そこで考え付いたのは『The Elementals』という映画であった。その時同時に構想を練っていたのが『The Giant Ymir』という作品だったのだが、その時は『The Elementals』の方が先に買い手が見つかり『The Giant Ymir』はハリーハウゼンのネタ帳の中に放り込まれていた。しかしその後『The Elementals』は製作される事は無かった。その数年後、放っておいた『The Giant Ymir』を再び発見したハリーハウゼンは友人の脚本家であるシャーロット・ナイトと共に手直しを行ったが、内容の複雑さと映画にかかる予算がネックとなり買い手は見付からなかった。しかしチャールズ・シュニーアは大いに興味を示し妥当な予算で仕上げる方法を話し合い、結果としてタイトルも変更し『地球へ2千万マイル』となった。結果としてハリーハウゼンは数年来の夢であるヨーロッパ旅行を実現し(ロケ地はローマ)、映画自体も1957年に公開され大ヒットを記録したのだった。


『シンドバッド七回目の航海』 (The 7th Voyage of Sinbad)

過去において『アラビアン・ナイト』を映画化する際には、登場する女性の魅力の表現の方に重きを置かれるのが当たり前の事であった。それがされていない映画は大抵バギー・パンツ姿の登場人物による「泥棒とお巡り」パターンの作品ばかりであった。そういった意味ではこの『シンドバッド七回目の航海』は圧倒的に斬新な映画だったと言えよう。

ハリーハウゼンは様々なプロデューサーやスタジオに『シンドバッド』の企画を持ち込んでいたが、あまり良い反応は得られなかった。数カ月後プロデューサーのチャールズ・シュニーアと将来のプロジェクトに関して話し合っていた時、それまで二人が組んで作った映画は全て現代物か話題性のあるモノばかりである事に関しての話をしていた時、シュニーアはハリーハウゼンの『シンドバッド』の企画に大いに興味を示したのだった。さらにシンドバッドの冒険は一貫性の無いバラバラな話ばかりであるので、そのままでは一本の映画にならないため、ケネス・コルプに撮影用の台本の作成を依頼した。

この映画に登場するサイクロプスはハリーハウゼンの映画の中に登場する全モンスター中最も人気のあるモンスターの一つである。しかしハリーハウゼンがこの映画に登場するモンスターの中で気に入っているのはダンスを踊る蛇女である(もちろんサイクロプスもお気に入りだ)。これは『アラビアン・ナイト』を映画化する際のお決まりの踊り子の代わりに登場したモンスターである。そして何よりこの映画を他の映画との差別化に成功させているのは骸骨兵との戦いであろう。このシーンの撮影の為にオリンピックのフェンシング選手であるエンツォ・ムスメッキ・グレコを招き主演のカーウィン・マシューズのコーチと骸骨兵の殺陣を実演してもらったのであった。それから映画に登場した巨大な石弓は、実際には60cmほどのミニチュアであった。ただし合成の為に台車の車輪1個だけは2.4mの実物大のモノを作成した。この部分の撮影・合成にはかなりの歳月を要したが、出来としては完璧であった。

ハリーハウゼンはシュニーアや映画会社重役に企画を持ち込む時には、ハリーハウゼン自身が映画のハイライトシーンをイラスト化したモノを持参していた。物語がハッキリした段階になってからは、撮影のガイドとして絵コンテやドローイングが使われるのであった。

この頃、アニメーションと言えば、一般的には「アニメートされた漫画」とのイメージが強かった。そこでシュニーアとハリーハウゼンは、実写と一体になった立体アニメーション映画を指す新しい名称を確立することが重要だと考え、『ダイナメーション』との名称を誕生させたのだった。


以下続く……と思います……。