さて、皆さんは長篠の戦いと聞けば何を思い出すでしょう。教科書的に答えればこんな所か。

1.織田信長の考案した鉄砲三段射撃を鉄砲隊三千に行わせて精強武田騎馬軍を壊滅させた歴史的な戦い。

2.無能な武田勝頼が有能な老臣の諌言を聞かず大敗した武田家衰退の原因となった戦い。

イメージ的には黒沢明監督の『影武者』のラストシーンのようなものだろうか。でも最近の研究で長篠の戦いは我々が教科書で教わった事とは随分違うらしいという事が分かり始めている。それはどのような点で我々が学んだ歴史と違うのだろうか。

まず、武田軍は負けるべくして負けたという事実である。単純に兵力差を見てもらいたい。織田軍三万、徳川軍八千の連合軍に対する武田軍は一万二千。もっとも最近では両軍ともこの数字の半分〜三分の二程度だったのではと言われているが、それでも武田軍が織田・徳川連合軍の三分の一の寡兵で戦ったという事は教科書などで無視されている重要なポイントであると思う。

普通の考えれば、野戦でもこれだけの兵力差があれば鎧袖一触で兵力の少ない方が敗れるはずである。しかし、信長はそれでもまだ慎重に戦いを進める。川などの天然の障害を壕とみなして、塀の代りに丸太の杭で馬防柵を巡らせた。つまり即席の城を決戦場に作り上げたのだ(いわゆる野戦築城)。これは三倍の兵力を持ちながらも信長が野戦で絶対に武田軍を破る事ができると考えていなかった事の表れであろう。しかし武田軍はこの「城」に三分の一の兵力で突撃を繰り返した。何故か?これは決戦の直前に徳川軍の酒井忠次等が行った鳶の巣山の武田軍の兵站基地への夜襲によって、武田軍は正面の織田・徳川連合軍を撃破または撤退させなければ撤退すらままならぬ状況に追い詰められたのであった。また、ここまで勝頼は連戦連勝でこの戦いを迎えている。戦には時の勢いというものも重要なのである。しかも勝頼には戦い続けて勝ち続けなければならない理由があった。その原因を作ったのは他ならぬ勝頼の父・武田信玄であったのだ。

あまり知られていないのだが、信玄は勝頼を自分の後継としなかった。信玄は勝頼の嫡子武田信勝が成人するまで、勝頼に家政を代行させたに過ぎなかったのだ。これでは武田家の重臣達が勝頼をナメるのも当たり前である。信玄は己の死後に武田家を率いなければならない男に、全権を委譲しないで死んだのだった。名将武田信玄最大の失策である。

では何故武田軍は正面からの突撃を繰り返したのか?それは武田軍が強敵と戦った過去の戦さを見てみれば解るはずだ。村上義清と戦った上田原の戦いでは板垣信方、甘利虎安といった重臣筆頭クラスの武将が討ち死にをしている。また上杉謙信と戦った第四次川中島の合戦では弟であり武田軍副将である武田信繁や両角豊後守、山本勘助などが討ち死にしている。つまり武田軍はいざ戦いになると猪突猛進的に自分の生死を顧みず突出して戦う性癖があるのではないだろうか?でなければ名将武田信玄が指揮した川中島の戦いで損耗率80%(普通考えれば全滅と言ってよい数字である)などというデタラメな数字が出てくるわけがないのだ。つまりもともと重臣それぞれが独立した指揮系統を持つ部隊を指揮している上に、勝頼への不信感から本陣のコントロールが全く出来ない状態で戦いの突入した結果、あのような戦いぶりになってしまったのではなかっただろうか。

ついでなので武田軍の実情について書いてしまおう。一般に武田軍と言えば武田騎馬隊を思い浮かべる人は多いはずだ。これが端的に現れているのが前出した黒沢明監督の『影武者』なのだろう。では実際はどうだったのであろうか。結論から言えば映画のような風景は存在しなかった。単純に武田家の騎馬保有率を見てみると他の戦国大名家と数%しか違わないのだ。またその騎馬武者も各家臣がそれぞれの知行に応じて「◯◯◯は騎馬武者△騎、槍足軽□人……」という具合に集められるのである。なのでそれぞれの家臣の騎馬武者同士が連係して集団戦法で戦うなどという事は不可能だったのである。では何故武田軍=騎馬隊というイメージが作られたのか?信玄の若い頃の戦で、電撃戦を使ったことがあった。敵の領内まで十日で行けるとしたら八日分の行程を二十日かけて進軍する。敵が油断したところで騎馬武者を有効に使って残り二日分の行程を一日で進み、敵を急襲するやり方である。この戦法はよほど周りの大名達にインパクトを与えたのか、そのイメージが強く残ったのではないだろうか。また武田側でも疾風怒濤の武田隊のイメージを植え付けるために大きく喧伝したのだろう。また西国の武者達に比べて東国の武者達は騎馬の扱いが抜群に上手かった。それを見た西国の兵達(当時は尾張、美濃も西国だ)は驚き、恐れて書物などに書き記したのであった。では長篠の戦いで武田軍はその騎馬を使用した電撃的な突撃を行ったのだろうか?『甲陽軍鑑』は信憑性の低い部分が多いのだが、小幡勘兵衛が記していない部分はかなり信頼が置ける書物であるとされる(信玄の側近中の側近である高坂昌信が記したと言われる)。その『甲陽軍鑑』によると「長篠合戦で武田軍の各部隊の大将や目付と七、八人の部隊長のみが乗馬し、他の者は騎馬を後に残し、徒歩で槍を取って戦った」と記されている。また、宣教師のルイス・フロイスは「騎馬武者は西洋では騎乗したまま戦うが、日本では騎馬から降りて戦う」と記している。つまりほとんどの武田軍将兵は下馬して突撃を行っていたのであった。

では逆に織田・徳川連合軍の方に目を向けてみよう。まず、鉄砲である。三段射撃に着眼し実行したのは織田信長が最初だと言われている。はたしてそれは事実だろうか?実はこの戦いの五年前に織田軍は三段射撃戦法を自身が受けているのだ。織田軍は1570年9月12日の夜半に突然本願寺軍の襲撃を受ける。その際に本願寺側の最前線部隊として戦ったのは雑賀孫一率いる雑賀衆であった。そして当時の日本で最も射撃に熟達していた雑賀衆のとった戦法が三段射撃だったのだ。この戦法によって織田軍は壊滅的な打撃を受け、救援に来た織田信長自身も腿に弾丸を受けて負傷する有り様であった。また鉄砲による三段射撃に限らず、飛び道具の連続射撃方法は古くから熟考されて実用されており、これを信長が発案したというのはちょっと無理があるのではないだろうか。

訂正:雑賀衆が織田軍に対して三段射撃をした事実はありませんでした(物語か何かで読んだ著者創作部分が記憶のどこかにあったのかもしれないっす)。この部分に関しては、後半の飛び道具による交代制連続射撃は、織田信長登場以前または鉄砲登場以前から当然のように使われていた戦術であるということが言いたかっただけです。(2003/09/30)

そして鉄砲三千なのだが、これは現在では一千丁程度だったのではないかというのが定説になっている。鉄砲の数を三千と記しているのは小瀬補安が江戸時代に書いた『信長記』だけである。信頼に足る資料には鉄砲衆一千がかき集められたと書かれているのである。つまり鉄砲衆は諸国の大名からかき集められた混成部隊であり、交代で射撃するなどという戦法の訓練を受けられたはずがないのである。

そして長篠の戦いが実は八時間に及ぶ激闘だった事も重要なポイントである。例えば、八時間の戦いの内の半分の四時間射撃をしていたとして弾丸の数と火薬の量はいったいどれほどになるのだろう。1分で一発発射したとして四時間で240発。火薬の量も半端ではないだろう。それだけの弾丸を鉄砲足軽ひとりひとりが持っていたとは考えづらいのではないだろうか。しかも銃身そのものも、当時の鉄砲の銃身がそれだけの長時間射撃に耐えられたとは思えない。そう考えると鉄砲はピンポイントで使用されただけであって、戦いそのものはオーソドックスな白兵戦が行われていたのではないだろうか。つまり戦いの経緯は『長篠合戦図屏風』で描かれている通り、槍兵が馬防柵の前で武田軍と一定の戦いを行い柵の近くに誘い込んだ後鉄砲隊が射撃を行い武田軍が退却、というのが延々と八時間繰り返されたのではないだろうか。このような消耗戦的な戦いを繰り返していれば、どうしても兵力の多寡がモノを言ったはずだ。

そして消耗した武田軍はとうとう撤退を開始したのである。しかし武田軍に設楽ヶ原(いわゆる長篠の戦いの主戦場)で出した死傷者は驚くほど少ない。部隊長クラスだと土屋昌次くらいか。では武田軍はどこで90%近くの損害を被ったのか。それは撤退に入ってからである。追撃に移った織田・徳川連合軍によって多くの武田兵たちが狩り立てられたのだ。特に勝頼の撤退が完了した後は武田家の宿老クラスの武将達が自殺同然の突撃を連発している。これによって山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、真田信綱、真田昌輝といった武田軍団の要とも言うべき逸材達がここで死んでいる。これによって武田家は跡部、長坂などの姦臣が主導権を握り滅亡への道を突き進んでいくのである。

では、そろそろまとめに入ろう。ポイントになる事柄を列挙する。

1.武田軍はオーソドックスな攻撃を繰り返した。指揮系統が滅茶苦茶だったため奇策や有効な作戦変更が出来ず単純な突撃のみを繰り返した。

2.織田軍に三千の鉄砲による三段射撃で武田軍を撃退した事実はなく、野戦城郭を築城し篭城戦のような戦いを行った。

3.織田軍の勝因は鉄砲隊による波状攻撃よりも鳶の巣山砦の急襲による挟撃作戦、および長篠城篭城部隊(奥平信昌隊)の頑張りによる武田軍の兵力の分割、佐久間信盛らが寝返るという偽の情報による撹乱などであった。

4.武田軍の死傷者の大半は退却時の追撃戦によって出ている。

こんなところだろうか。つまり武田軍は三倍の敵に対して臆する事なくがっぷり四つに組んで戦い、数々の不利な状況がありながらもそれをモノともせずに戦ったという事実において戦国最強の名に恥じない軍団であった事は間違いないだろう。また、織田信長も戦術よりも戦略面でその非凡な才能を存分に発揮し天才戦略家の称号の通りの戦いを見せてくれたのだった。

【追記(2001/06/27)】

●織田・徳川連合軍と同様に武田軍側にも野戦築城の形跡がある。つまり武田勝頼は織田・徳川連合軍に決戦を強要しようとしたものではなく、単純に長篠城落城までの時間稼ぎをおこなおうとしていたのではないか?勝頼にはあの時点で信長に決戦を挑む必要性があったとは思えないからだ。しかし勝頼への不満や侮りがある老臣たちは勝手に戦いを展開し、本陣のコントロールがきかない状態のまま決戦を迎えてしまったのかもしれない。常に有利な状況で戦いを進めていた勝頼が、肝心の長篠の戦いにおいては非常に不利な状況で戦っているのはあまりにも不審だとは言えないだろうか。