皆さんは石田三成を知っているだろうか?そう関ヶ原の戦いの西軍の実質的な総大将の石田三成だ。

日本戦史にその名を残す歴史的罪人。豊臣家を滅亡に導いた張本人。戦下手の頭でっかちの官僚。人の心の機微が分からない無能な男。様々な酷評がこの人には浴びせられる。しかし、本当にこの人は酷薄で理以外通らないダメ武将だったのか?

まず石田三成個人の武功であるが、これはほぼ通説通りと言える。賎ヶ岳の戦いでは七本槍に次ぐ戦功を示しているが、これは恐らく三成の家人が倒した首を主人三成が取ったくらいのものであろう。もしかしたら後方支援を三成が任され、その働きが評価されて七本槍に次ぐと評されたのかもしれない。その後武蔵国忍城攻めでも予想以上の豪雨に見舞われたという誤算はあったが、そのような事態を想定しないで豊臣秀吉の真似をそのままやった事による失策であった。

では石田三成が率いる部隊は弱かったかと言えばそのような事は全くない。なぜか?三成はとにかく武功を持つ武将を集めまくった。そのコレクションの将達は一人一人がそれぞれ一城の主になれるほどの器量人ばかりであった。まず『三成に 過ぎたものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城』と詠われた島左近勝猛である。それから文禄二年(1595年)の蒲生氏郷の急死により蒲生領が減封されることになり、三成がその奉行に任ぜられた時に旧蒲生家家臣団の吸収を積極的に行い蒲生郷家舎、舞兵庫といった他家に名を知られた猛将達が三成の軍団に入る。そして彼等は鉄壁の団結で三成に仕えた。一般に関ヶ原の戦いで西軍は石田三成、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継(とその与力であった平塚為広、戸田重政)が東軍全部隊と戦った事になっている。しかし地図や戦史を見てみると、驚いた事に東軍の殆どは石田隊と戦っていたのである。大谷隊三千と戦っていたのは藤堂高虎、京極高知、寺沢広高ら約一万、宇喜多隊一万七千は福島正則、本多忠勝、井伊直政、松平忠吉等約一万三千という東軍最精鋭部隊と戦っており、小西隊六千はその他の細かな東軍約数千と戦っていた。

しかし石田隊に対して東軍は兵力にして本隊を含めた約五万五千の大部隊を投入している。実は関ヶ原の戦いというのは、霧の中で起こった遭遇戦であり、結果的に誰が誰と戦うという明確な指令が無いままに起こった戦いであった。なので最初は他の敵と戦っていた東軍部隊も敵の大将首を狙って石田隊に殺到したのだ。迎え撃つ石田隊は約六千。兵力の差は歴然としていたのだが、驚いた事に石田隊は西軍で最も最後まで抵抗していた部隊となったのだ。つまり、兵力差十倍以上の敵と半日以上戦い続けたのだった。ここで普段三成が自慢していたコレクション達の本領が発揮され、緻密に作られた防御陣地と大筒を使って東軍相手に凄まじい戦いを展開した。石田隊は全員が三成に心酔しており三成が退却するまで逃げるような兵は殆どいなかったと言う。

つまり三成本人には武の才などは全く無かったのだが、大将が武に優れていなくてもその家臣団によって補完されており、「石田は戦には使えぬ」といった批判は的が外れていたのである。

三成の政才に関してはまさか異論を挟む人はいないであろう。太閤検地や九州征伐・小田原征伐・東北遠征時の兵站確保など枚挙にいとまがないほどだ。さらに三成の凄いところは領土的野心が殆ど無かった所だ。もちろん博多奉行や太閤直轄地の経営を任されていたため経済的に逼迫していなかった事もあるだろうが、島左近や蒲生郷舎等を雇い入れる時に平気で一万石や二万石をくれてしまうというほどだ。これはまさに君主の風格である。

まあ、だらだらと述べてきたが結局何が言いたいかというと、石田三成は250年間に渡る徳川政権によって不当にその人物像を歪められて、現代でもその定説を信じてしまっている人が多いという事だ。これはプロTのメインである映画にも言える事で、自分で観てきてないものを他人の意見を聞いただけで観てきたような気分になっていては駄目だという事だ。あまり説得力が無いが、とにかく何にでも探究心を持て!さもないと真実の姿は見えてこないぞ!!って事だ。