今回は湖北浅井氏三代について色々書きたいと思います。

まずは浅井三代のそれぞれのイメージについて考えてみよう。初代の浅井亮政は勇武の将、二代目の浅井久政は凡庸の将、三代目の浅井長政は義理の将というイメージが強いのではないだろうか。では実際それぞれはどのような人物であったのか、プロT的に考えてみたい。

初代の浅井亮政は、一般的な知名度はないが当時北近江の支配者であった京極氏を圧倒し、浅井氏の湖北支配を決定づけた人物である。その意味では全く勇武の人物であり、この人なくては浅井氏は存在し続けえなかったであろう。しかし、亮政は戦には意外と弱かったらしく、京極氏と共に近江佐々木氏の名家である六角氏が亮政に逐われた京極氏を助けて北上を開始すると、しばしば戦には破れていた。ではなぜ亮政は湖北一帯を保てたのであろうか?それは亮政の本当の顔である、内政と外交の賜物であったのだ。

亮政は京極氏の代官である上坂氏を討ち領国を奪い取ると、主家京極氏の来襲に備えて小谷に堅城を築き、民心を安定させて湖北支配を確立させていく。それによって六角・京極連合軍は容易に浅井領に攻め込む事が出来なくなっていた。そして亮政は早々に越前の支配者である朝倉氏に同盟を申し込み、この同盟を成功させてしまう。当時の浅井氏と朝倉氏の力の違いを考えれば臣従関係を強要されるくらいの差があったのだが、これを同盟のレベルでまとめあげたのが亮政の手腕である。その結果、六角・京極連合軍との決戦の際には朝倉家の守護神とも言うべき朝倉教景(宗滴)が出陣。見事六角・京極連合軍の撃退に成功する。しかもここからが亮政の凄い所で、自分が追い出した主家の京極親子を呼び寄せ、小谷城内に京極丸という郭を設けてそこに住ませ懐柔してしまったのだ。これによって浅井氏の湖北支配は完全なものとなる。さらに亮政は当時日の出の勢いだった本願寺勢力と結び(本願寺は朝倉氏とは交戦状態だったにも関わらず!)、六角領内で一揆を扇動するなど次々と手を打ち浅井氏の基盤を完全に確立したのだった。

こうして見てくると亮政は勇武の将でもあるのだが、実は謀略と外交、そして内政によって地盤を築いた鬼謀の将であるという事がよく分かるだろう。その手腕はもちろん素晴らしく優れたものであったのだが、それ以上に根本的な部分で信用に足る人物であったということなのであろう。

さてそうなると二代目の活躍如何では浅井氏はさらなる飛躍を約束されたようなものであった。しかし実際には二代目久政の時代には仇敵である六角氏に臣従するという屈辱な目にあっている。それは名将・六角定頼の逆襲や、朝倉氏の対本願寺戦の本格化などの様々なマイナス要因が含まれているのだが、それ以前に久政自身の資質の問題もあったのあろう。浅井氏はこうして一時的に没落をするのだった。

一般に久政が暗愚である理由として、六角氏への臣従と、織田信長が朝倉攻めを断行した時に長政に織田氏との手切れを強要した事の二点が挙げられる。真実はどうであったのか?六角氏に臣従したという事実は、亮政がそれまで徹底して六角氏と戦い続ける道を選んでいるだけに、なおさら久政の弱腰ぶりが目立ってしまうのだが、実は六角氏に臣従していた時に浅井氏はほとんど不利益を受けていないのである。所領の大幅な削除や家臣団を主家に吸収されるなど、臣従大名(特に敵対し続けた仇敵である浅井家)であるならば当然受けるであろう処置をほとんど受けていないのである。これはもちろん亮政のそれまでの活躍によって六角氏が必要以上に浅井氏に気を使ったという事もあるのだろうが、基本的には久政の政事手腕なのであろう。時局が自分の方に向いていないと判断した時には、即座に六角氏に臣従してしまうというその思い切りの良さというのは評価できる点であると思う。もっとも亮政であったなら、いかに臣従という道を通らずに家名を存続させるかを考え、実際あっと驚くような手を打ったかもしれないのだが……。

そして織田氏の朝倉攻めの際の判断であるが、これが単純に間違った判断だったとは言い切れないのだ。当時の状況を考えると、浅井・朝倉連合軍は桶狭間の戦いを再現しようとしていたし、実際それが可能な状況であったのは確かだった。さらに織田信長と朝倉義景のどちらが天下の実権を握った方が自分達にとって有利であるかという事まで考えていたのかもしれない。歴史は結果論である。結果的に織田信長対朝倉・浅井連合軍は圧倒的有利なまま織田信長の勝利に終わるのだが、俺は当時の状況を考えると久政の推した道は決して間違えていなかったと思う。

こうして見てくると久政は決して暗愚な武将ではなく、そこそこの判断力は持っていた人物であった。しかし久政の不幸は優秀すぎる父と高名な息子に挟まれたために、必要以上に評価が下がってしまった事ではないだろうか。

そして問題の三代目長政である。長政のパブリックイメージを拾ってみると、「戦に強い」「義理堅い」「美丈夫」うーん、有名なわりに印象が薄いせいか、あんまり浮かんでこないなあ。とにかく実の父ヘの孝と累代の朝倉氏への義理と妻への愛と織田信長への義理という複数の関係の間で大いに苦労した非運の名将というイメージが強いのではないだろうか。これは主に映画や小説などでの長政から受けるイメージなのではなかろうか。でははたして実際の長政はどのような人物だったのであろうか?

長政は戦国大名であった。久政の代に浅井氏は六角氏に臣従しており、長政の元には六角氏の重臣の娘が嫁いできた。しかし、長政はこの嫁を六角氏の元に追い返し、そのまま父久政を強制的に隠居させ浅井家の六角氏からの独立を高らかに宣言したのだった。そして逆縁を切られた事に激怒した六角義賢の軍勢を半数の軍勢で野良田にて撃破。この時長政は弱冠16歳。まさに戦国の申し子のようなデビューである。ちょうどその頃、六角氏の内部では観音寺騒動と呼ばれる大混乱が起こっており、それにも助けられながら長政は着実に勢力を伸ばしていったのである。

さて、長政といえば織田信長の妹であり戦国最高の美女として名高い市姫の夫として有名である。長政と市の間には茶々(豊臣秀吉の側室)、初(京極高次の正室)、江(徳川秀忠の正室)の三人の娘と一人の男が生まれている。天下にその名をとどろかせた市姫の夫である長政は、現在では小説や映画、ゲームなどの影響からか非常に美丈夫として描かれる事が多い。しかし実際の長政は割腹が良く、色白で見た目は今で言うなら「ただのデブ」。長政の息子は成人する前に織田信長によって処刑されているので成長した場合どのようになったのかは分からないが、長政の孫である豊臣秀頼は、伝え聞く長政の風貌にそっくりであったと言われている。

閑話休題。長政の人生で最大の決断と言えば、織田信長の朝倉討伐の際に織田方に付くか朝倉方に付くかの決断である。一般には長政のこの決断は久政や老臣などの朝倉氏の恩顧を忘れられず、時局を見誤った者達に引きずられて結団したものと言われている。はたしてそれは本当であろうか?前述の通り長政は戦国大名である。しかも武田信玄のように父を追放までしなかったとはいえ、弱冠16歳にして父を当主の座から引きずり下ろして引退させ、六角氏と激闘を続けた男である。決して肉親の情や義理人情で動いた人間だとは思えないのだ。そう考えると長政は何を考えて朝倉方に付いたのであろうか。それは間違えなく朝倉方に付いた方が有利であったからであろう。当時の情勢を考えると、浅井が事態のキャスティングボートを握っていたのは間違い無い状況であったのだ。戦況自体は圧倒的に織田方に有利であったとはいえ、実際に長政が行った挟撃作戦によって織田方を壊滅的状況に陥れる事も可能であったし、織田方に味方し不利な状況にある朝倉氏を壊滅する事も可能であった。織田氏は新興勢力であり信長の生死如何でどのようになるのか分からないほどその基盤は脆弱であったし、長政が協力して朝倉氏を打倒した後に与えられる恩賞によっては織田信長の後継者として名乗りを上げる事も可能である状況であったとも言える。そうした事をふまえた上で、どちらに天下を取らせるか(と言うより、どちらが主導権を握った方が自分の天下取りに有利か)という事を考え、その上で長政は朝倉氏に付く事を決めたのではないだろうか。しかし実際には長政等は織田信長を討ち漏らし、乾坤一擲の姉川の戦いでも自身は3倍の織田軍を相手に奮闘するも、加勢である朝倉軍が半分の徳川軍に突き崩されたため敗退してしまう。これによって長政の野望は完全に崩れ去ってしまったのであったのだ。つまり長政は結果的に敗れたとはいえ戦国武将にとっては当たり前のように直面する選択を、綿密に計算を行い決断したのであった。しかし後世の長政を美化しようとする風潮によって長政の決断が他人のせいになってしまったのではないだろうか。しかしそれによって長政は優柔不断な武将との評価をされてしまっている。しかし実際の長政は果断であり、冷酷であり、勇敢であり、そして精神的にタフな男であったはずなのだ。

結局、浅井三代というのはそれぞれ誤った評価をされていたり、過小評価されている人物ばかりである。しかし、三人はそれぞれ傑物であり、もっと正当な評価をしなければならないと思うのだ。