いざ国分寺寮へ
 拓大に入学が決まり、さて、どこに住もうかと思案していると、親父が一言「金がかかるのはダメだ。寮があるなら入れ」これで学寮にはいることが決定しました。しかし、そこは拓大の寮ですので伝統なんかあったら大変なことになると私は新しくできたことに小さな希望を見つけ国分寺寮を希望したのでした。いわゆる体育会的な上下関係が苦手な管理人には死活問題でした。
玄関にて
 どきどきしながら玄関を入ったんだろうと思います。どんな挨拶をしたのか何も覚えていませんが出迎えてくれたのは中野学校出身の舎監と東北の副寮長でした。小柄ですが貫禄とやさしが同居する舎監と副寮長でした。大きな荷物を部屋に運ぶと部屋の相棒は誰かというのが心配になりました。しかし、国分寺寮は同年同士の相部屋だと聞いて胸をなでおろしました。
仲間たち
 全国から集まってくるので微妙な緊張感と相手を探る会話を交わしながら友達になれそうな人をみつけようとしていたと思います。ほとんどの人間がはじめて家を離れたわけですから。同室は埼玉のキエダ君で大きな体のハンサムボーイでした。隣室には足柄山のコバ君、向かいには茨城と三重のでこぼこコンビがいたようです。出身地を北から見てみると、北海道が長身のキム○君、○野君、青森が○ヤモリ君とホストのような○○、秋田が夜の蛾君と競馬好きの古都君、宮城が小柄な副寮長、山形が真面目な雰囲気の○べ君、新潟のなぜか女性に縁の多い○○、茨城が貫禄の博士君、海外雄飛を語る牛君、石川のもてもて野球少年、千葉が真面目な雰囲気の好青年、埼玉が加山雄三大好きのキエダ君、長野が陸上の自慢屋と小柄な武道家とブラスバンドの黒ぶちめがね君、不思議なことに東京出身が二人、神奈川が足柄山のコバ君、静岡が寮長、ジュンのバギーパンツで話題を独占したバード君、関西は少なく管理人と三重の石屋さん、福井にもいたような・・・広島のボンがいて九州に少林寺の達人と自称空手の達人の正体不明君、フォークソングの○野君、出身地を思い出せせないけれどオールバックの○森君やら大きなバイクに乗っていたヒゲ兄もいたなぁ
驚愕の野球部
国分寺寮には野球部が合宿をしていました。のんびりとした穏健派の学生にはばりばりの体育会はカルチャーショックでした。まずは押忍の挨拶、「はい」の代わりが「押忍」なのです。「こんにちは」も「押忍」「ありがとうございます」が「押忍、ごっつぁんです」・・・めまいがしました。外出する時は長ーい学生服に潰した学帽で野球で鍛えた頑強な体つき、まさに拓大の体育会でした。ところが一緒に過ごしてみると気さくでやさしいので、またまたびっくりしました。もちろん部外者だから遠慮してくれてたんですけど、本質的にナイスガイたちでした。
日常生活
 起床はたぶん6時半ごろだと思います。朝ごはんを食べて一時限に間に合うための時刻ですからね。朝の点呼を玄関前に並んでやります。病気とかの特別の事情がない限り全員集合です。寮のなかが何班かに分かれていて野球部も参加です。順番に12345・・・満or欠の掛け声は陸軍中野学校出身の噂がある舎監ならではでしょうか。寝坊は当然ありますが、ほとんど同じ人間で夜の蛾の異名をもつ人物が常習犯でした。掃除をして朝飯を食べて授業があれば通学、なければ布団にもどるの二択でした。昼飯は当然ないので授業がなくても学食で昼飯がお決まりのパターンでした。普通の外食ができるような金は多くの寮生が持っていませんでした。お金がない時の選択に人柄が出ますが、節約、バイト、借金のどれかになると思います。関西人にはなじみがなかったマルイを知ったのもこの頃です。
アルバイト
 みんな小額の仕送りだったので(そうじゃなけりゃ寮には入りません)アルバイトを始めることになります。晴海の見本市の警備員とか当時拡大中のイトーヨーカ堂の開店の警備員が多かったです。警備員ってところがいかにも拓大ですが、人のいい田舎出の学生を集める手配師のような学生がいたらしいです。とはいえ授業の多いので今思えば真面目な学生をやっていたと思います。
何故ばれるんだ?
 寮ですので門限や消灯がありました。しかし学生の集団が夜の11時くらいに素直に眠れるわけもありません。それで廊下に面するドアの小さな窓を黒い紙で覆えば大丈夫だろうとやっていると、簡単に「早く消灯しなさい」と注意されてしまいます。ドアの下にも紙をあてて光が漏れないようにしていたのに・・・そして電気を消している窓と比較して納得しました。夜でも真っ黒の窓はありませんでした、紙を貼った真っ黒の窓はとっても不自然だったのです。
怪談話
 古い寮や学校には怪談話がつきもですが、築三年の建物に怪談話があろうはずもありません。それではつまらないので妖怪ぴよぴよなる話をでっち上げました。夜の12時になると全く使っていない階で首のないひよこが走るとゆうバカバカしい話でした。はい、もちろん定着しませんでした。ちなみに作者は私です。
歌唱指導
 寮に入ったことを実感したのは拓大の愛唱歌の練習をさせられたことでした。校歌はもちろん、相当に右よりですが血がさわぐ魔力のある歌詞が多かったです。有名な大学は酒を飲んで校歌を歌い大騒ぎを当然のようにしていますが、我が拓大の校歌は酒を飲んでは歌わないこと、歌詞に大学名が全くはいらないこと、この点が矜持の高さを示しています。偏差値が高けりゃすばらしい大学だと思ったら大間違いです。そうはいっても入寮した早々に全員集合させられて歌の指導をされたときは、とんでもない大学にはいってしまったとおもいました。ふり返ってみれば、この時の拓大愛唱歌と勝ちます踊りがなによりも大きな心の記念品になっています。落ち込んだ時に車の中で歌っていると元気が回復してくる不思議な記念品です。
勝ちます踊り
 興亜の雄図を胸に秘め、紅葉丘の一角にこもれる健児の血は燃えて覇権を握らん時はきぬ♪から始まる拓大の名物です。きっと勝ちます勝たせます♪をくり返しながら、手を天に伸ばし天につながるロープを引き寄せるように踊ります。応援団の正式な踊りと私たち一般学生の踊りとは全然違います。応援団は演武(演舞)として美しいものですが一般学生の勝ちますは体力が続く限り延々と繰り返し一種のエクスタシー状態になります。これを国分寺寮のテニスコートで練習させられたときは地獄のしごきを連想しました。実際は寮の先輩たちは常識人でしたので恥ずかしさを克服したところで合格としていたようです。
 タツノコプロ
 タツノコプロ 兵庫の田舎から出てきて驚いたことは土が黒いこと(関西は赤土が多いのです)、東京なのに畑が広がっていること、テレビで見た有名な会社が近くに普通にあることでした。国分寺寮の入寮案内の地図にタツノコプロが目印となっていました。地図を見ながら歩くのは恥ずかしいので道に迷ったらタツノコプロと唱えながら鷹の台に降りたのは秘密です。残念なことに写真の建物も取り壊されて更地になっているようです。(写真は寺脇笑店さんからいただきました)
 常松先生の思い出
  2012年の1月に舎監の常松先生が亡くなられたそうです。
舎監がいて学生がルールを破って叱らせるという学生時代しか味わうことができない経験ができました。飲み会では無題やアリランを好んで歌っていました。小柄で茫洋とした先生の姿が懐かしく思い出されます。合掌

拓殖大学学友会、故常松先輩を偲ぶ