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「痛みはないのか?」
「あんた、|蟲《むし》を背負うのは初めてかい?」
そう言って案内人の老婆は、ランプをあげ、洞窟の奥を照らした。
|生体陸《トルダダ》の入口が、黒い傷口のように、ぬらぬらと光りながら異臭を放っている。
生体陸は海に浮かぶ、黒い島のような生物。全長七キロ半。巨大な生きた肉の塊である。
「首の後ろを噛まれるとき、少しチクリとするだけさ。それが麻酔みたいなものでね、そのあと、蟲が八本の触手をあんたの背に突き立てるけど、あんたはなにも感じないよ。少し出血するけど、すぐに止まるさ。トルダダへ入るパスポートだからね我慢しなきゃ。それよりも……」
老婆は洞窟の壁にぶらさがる巨大な黒い繭を撫でまわし、蟲を選びはじめる。
「それよりも気をつけなきゃならないのは、蟲に騙されて、子の餌になっちまうことだよ」
老婆は繭のひとつに手を止め「うむ、これがよさそうだね。大きくて艶があって……」
ナイフを抜き、繭を裂く。
男は寒気のような恐怖感に、ガチガチと鳴りだした歯を、止めることができない。
「さあ、ぼやぼやしてないで、上着を脱いで背中をだすんだよ。蟲は見ない方がいいよ。怖じ気づいて逃げだす腰抜けもいるからね」
男は言われた通り、上着を脱ぎ、老婆に背をむけた。
老婆は男の背をなでながら言う。
「いい背だね。筋肉質のがっしりとした、いい背だね。さぞ、蟲も喜ぶだろうよ」
ひんやりとした固い物が、彼の背にあたる。
「さあ、いい子だから、目をお覚まし、特上の背中だよ」
呪文のように小声で老婆がそう言うと、微かな痛みが男の首筋に走った。
やがて静かに、幾本もの、固く細長い枝のような触手が開き、男の背を覆うように抱きしめる。
男は振り返って蟲の姿を見ようとしたが、思うように首がまわらなくなっていた。わずかに、黒く丸い蟲の背が見えるような気がする。
ピーピー、と蟲の鳴き声が聞こえた。
「ほーら、うまそうに血を吸ってるよ」
背中が、じわじわと熱くなるのを感じた。
「食い殺されることはないのか?」
「そんなことはしないさ。あんたが死ねば、背の蟲も飢え死にしちまうんだからね。蟲はね、生きてる男の血を、ほんの少ししか吸えないんだよ。さあ、お行き。準備はいいよ。これで、あんたは背の蟲を降ろさない限り、トルダダの消化液に溶かされる心配はないんだよ」
「それで? 肝心の奇宝石はどこに?」
「それも、蟲が教えてくれるよ。とにかくお宝は、トルダダの奥の奥だよ。さあ早くお行き」
老婆はそう言って、トルダダの入口を左右に押し広げる。そこから、唸り声のような響きと共に、悪臭をおびた体液が流れだす。
「酷い、臭いだ……」男は鼻を押さえる。
「すぐに慣れちまうよ。わかってるとは思うけど、貴宝石はひとり三個までだからね。一個は通行料としてギルドへ納めてもらうよ。二個もありゃ充分、あんたは一生遊んで暮らせるよ。欲をかいて、命を落とさんようにしなよ。帰ったなら、大声でこの婆を呼びな。婆は洞窟の外にいつもいるからね」
男はうなずき、大きく息を吸い、トルダダの体内へ、体をすべり込ませた。
這い進まなければいけないほど、中は狭い。しかしトルダダの体液が潤滑剤の役目をし、体をすべらせて進むことができる。
生暖かいあばら骨のような固い肉ヒダが、男の腹をこする。
「なにも怖いことはないよ。そのまま奥へ進みな。怖いのはただひとつ、蟲にたぶらかされて、その娘の子を、背負わされることだよ。わかったかい? それだけは気をつけるんだよ。いいね」
男はヒダに手をかけ、奥へ――、奥へ――、呑みこまれてゆくように、進む。
光はない。男はただ、闇雲に前へ進むだけ。
路はわずかにうねるものの、大きな変化は見られない。
鼻があたりの異臭に慣れ、まったく気にならなくなりはじめた頃――。
男はふと、耳もとで女の溜め息を聞いた。
『あなたの背は、とても、温かいわ……』
男は手を止め、耳をすませた。
蟲が言ったのであろうか?
背中の蟲の感触が、温かく、柔らかい女の肌のように感じられた。
男は頭をふり、前進を続ける。
ふいに――。
さらさらとした女の髪が、男の肩に落ちた。
――女の甘い匂い。
男はギクリとして、それを払い除けようとした。肩にはなにもない。幻である。蟲が触手を通して、男の脳へ幻覚を送りこんでいるのだ。
首筋にあたる女の吐息。肩を撫でまわす、しなやかな冷たい手。男は、はっきりとそれを感じはじめた。
『わたしを、愛して……』
「やめろ!」
男が怒鳴ると、幻覚は消えた。
男は前進を続けた。
ふいに、路がふたつに分かれた。奥は見えない。
どちらへ行けばいいのだろうか?
女が答える。
『右へ……』
男は女の言葉に逆らい、左へ進もうとした。
『その路は、危ないわ……』
光がなく、なにも見えないはずなのに、ぼんやりと赤く、男の脳裏へ路の情景が映しだされた。女が目にしている映像が、触手を通じて男の脳内に流れこんでくる。
『ほら、見えるでしょ……』
路の先でなにか黒い物が、消化液で溶かされている。
男は路を変え、右の路を進む。
『わたしを、信じて…… あなたを騙すつもりはない……』
騙されるな! 騙されるな! こいつは俺の背に、蟲の子を産みつけたいだけだ!
路が三つに分かれた。
『真ん中の路へ……』
男はしばらく考え、真ん中の路を選ぶ。
奇宝石の場所は蟲にしかわからない。蟲をおだてて、早く仕事を終わらせた方が利口だ。男はそう考えた。
路がまた、ふたつに分かれている。
「どっちだ?」男はたずねた。
『右よ……』女は答える。
男は迷わず、右へ進む。
『うれしいわ……。あたしを、信じてくれるのね……』
女のしなやかな腕が、男の胸を抱きしめる。
払い除けたい感情を堪えて、男はそのまま先へ進んだ。
しだいに路が、網の目状に広がってゆく。
目の前の路のひとつから、ふいに人があらわれた。髪の延びきった、浮浪者のような老人である。
男は突然のことに、悲鳴をあげた。
老人は黒い顔をあげると、にこやかに頭を垂れ、前を横切って路のひとつへ消える。
老人の背には、半円状の小さな蟲が無数にめりこんでいた。
「あれは、なんだ?」
『子供を育ててるのよ……』
「そうか、あれがおまえらに騙された、成れの果てというわけか」
『ちがうわ……。ああすることを、自ら望んだのよ……。追いかけて、たずねてみればわかるわ』
「聞いたところで、どうせ、背中の蟲どもに操られてるだけだろうさ。自分から、蟲の子の餌になりたがる奴がいるものか」
『餌じゃないわ! 彼は父親よ……。彼は子供たちと対話して、間違いをただし、知識をあたえてるのよ……。わたしも、父から、人の言葉を教わったのよ……。わたしの父はサントロワの小さな古本屋で生まれて……』
「やめろ! そんな話は聞きたくない!」
蟲は蟲だ! 人の感情など、あるはずがない! そう思わせて、俺を騙そうとしているだけだ!
男は背中に手をまわし、蟲を触ろうとした。
自分の背に乗っている物が、おぞましい蟲であることを確認したかったからである。
けれど、男の手に触れたものは、柔らかい女の肌。
男は体を震わせ、脅える。
幻覚だ! 幻覚だ! ならばどこまでが幻覚だ? 俺に見せている映像すべて、作り物じゃないのか? 女は本当に、俺を奇宝石のある場所へ導いているのか?
『脅えないで……。脅えないで……。わたしは、なにもしないわ……』
男はしゃにむに、路を急いだ。女の導きにしたがい、路を急いだ。今は女の言葉を信じる以外に、どうすることもできない。
とにかく、この仕事を早く終わらせたかった。
路がしだいに太くなりはじめた。
ふいに、微かに明かりのある広い部屋のような場所へ出た。
『着いたわ……』
緑色の液体を溜めたクレーターが、階段状に積み重なっている。その底にいくつも、虹色に光る丸い奇宝石が沈んでいた。
男は腰の袋を開け、手を延ばそうとした。
『だめ! その水には、消化液がまじってる……。あなたの手が溶けるわ……。わたしが、取ってあげるから、もっと……、もっと、そばへ近づけて……』
男はうなずき、皿のひとつへ近づき、背をむけた。
シューっと、なにかの溶ける音がした。男は微かに、蟲の呻き声を聞く。
奇宝石が三つ、足元に転がった。
男はそれを袋に詰める。
ふと気にかかって後ろを見ると、くぼみのふちに、黒い枝のような蟲の足が一本、溶け落ちていた。
「だいじょうぶなのか?」
『ええ……、だいじょうぶ……。わたしのこと、心配してくれるの? やさしいのね……』
「おまえに死なれたら、俺の命にかかわるからな」
『わたしが死んでも、体を背負ってれば、消化液は流れてこないわ……。腐り落ちる、までは……』
男は来た路をひき返した。女に聞かなくともある程度、道順を覚えていた。なによりも首からさげた袋の中の奇宝石が、淡くあたりを照らしてくれている。
『ねぇ……、お願い……、あなたの名が、知りたいの……』
男は答えない。もはや女に頼る必要はない。
女が急に、脅えた声で言う。
『早く! 左の路へ……』
「なんだ?」
『地蟲が来るわ……』
前方から、不思議な地響きが迫って来る。
男は急いで、路をそれた。
巨大なムカデのような蟲が、ズルズルと路を通り過ぎてゆく。
「なんだあれは? ここは、あんなのがゴロゴロしてるのか?」
そうたずねながら、男はもとの路へ戻った。
『地蟲はこの世界の掃除屋よ……。抵抗しなければ襲うことはないわ……』
しばらく行くと、また後ろから地響きが聞こえてきた。地蟲が路をひき返してきたのである。
男はあわてて、逃げこめる路を捜して、先を急いだ。
けれど横路はどこにも見当たらない。
すぐ後ろに地蟲が迫った。
『動かないで……。じっとしてれば、上を通過するだけだから……』
男は頭を押さえて、息をひそめた。
巨大なムカデが、男を踏みつけ、体の上を通り過ぎてゆく。鋭い爪のひとつが、男の腕に刺さり、掻きむしった。男は声を堪えた。
地響きが、前方へ遠ざかってゆく。
『だいじょうぶよ……。あの爪に、毒はないわ……。痛みはわたしが、消してあげる……』
腕が微かに痺れ、痛みがやわらいだ。
男は止血用のテープを傷口へ貼り、路を進んだ。
男はふと気づく。青い液体が肩からこぼれ落ちている。
「なんだこれは? あの蟲の体液か? 害はないのか?」
女は答えない。
男は怒鳴った。
「おい! どうなんだ? これはなんだ!」
『だいじょうぶよ……。それは、わたしの血……』
「おまえも、やられてたのか?」
『……』
女の血が、男の腕をつたい、手の甲を青く染めた。
男の上にいた女の方が直接、被害を受けたはずである。
止血テープを広げ、男はそれへ背をむけた。
「おい、自分で貼れるか?」
女は答えない。
「おい!」
答えない。
男がふりむくと、止血テープが無くなっていた。
『ありがとう……。うれしいわ……』
「おまえに死なれると、帰り路がわからなくなるからな」
男はそう言って路を進んだ。
獣の唸るような音を響かせ、路がわずかにうごめいた。
「なんだ?」
『体動がはじまったわ……。路が変化してるの……。この路はもう通れないわ……』
路の数メートル先が、握りつぶされるように収縮し、ゆっくりと閉じてゆく。
男は路をひき返した。
路がふたつに分かれる。
「どっちだ?」
『お願い……。あなたの名が、知りたいの……』
路がうごめく。
「アモス。俺の名はアモス・デュー。路はどっちだ?」
『右へ……』
男は路を急ぐ。
『アモス……、アモス……、とても素敵な名前……』
「やめろ!」
路がふたつに分かれる。
「どっちだ?」
『アモス……、奥さんはいるの?』
「そんなものいない。どっちだ?」
『左へ……。それじゃ、恋人は?』
左の路の先、路がまたふたつに分かれていた。
「どっちだ!」
『ねぇ……、アモス……、恋人は? 好きな人はいないの……? ねぇ……、アモス……』
男は答えず、右の路を進んだ。
『ごめんなさい……、アモス……。次の路を左へ……』
体動が激しくなり、地響きを立てて、路が上下にうねりはじめる。
『アモス……、動かないで……。危ないわ……。すぐに、やむから……』
男は分かれ路の手前でうずくまり、体動が収まるのを待つ。
左側の路が、急激に収縮し、穴を閉じた。右側の路も、少し先のあたりで下へ折れ曲がって通れなくなる。
振動が止まり、地響きが消えた。
男は慎重に様子をうかがい、路をひき返す。
『アモス……、ねぇ、アモス……』
「やめろ! 俺の名を呼ぶな!」
『わたしに、名前をつけて…… ねぇ、アモス……』
「うるさい!」
男は怒鳴り、唾を吐きすてる。
『わたし、人に生まれたかった……。わたしが蟲じゃなかったら……、あなたに、こんなに嫌われずに、すんだのに……』
わずかに広く、微かに肌寒い場所へ出る。そこから、通じていたと思われるふたつの路が、固く閉じられているのがわかった。
閉じ込められたことに、男は気づく。
「出口はどっちだ!」
『心配しないで、次の体動が起これば……、路が変わり、出られるわ……』
「いつだ! 次の体動はいつだ!」
『わからないわ……。早ければ、二、三十分後……。どんなに遅くても、五十時ほどで……』
「五十時間! こんな所に二日も居れるか! 食料はどうなる? 俺は二日も飲まず食わずか?」
『壁の青い部分に傷をつければ、栄養のある甘い水が出てくるわ……』
「そうか! おまえははじめから、俺をここに閉じ込めるつもりだったんだな! 俺を洗脳して、背に子供を産みつける!」
『ちがうわ……』
「なにがちがう! バケモノめ! 蟲の子を背負うくらいなら、消化液に溶かされて、死んだ方がましだ」
女が泣きだす。
『それなら、殺せばいいわ! わたしを殺せばいいわ! そうすれば……、騙される心配も、子を背負う心配もないわ……。遺体を背負っていれば、溶かされる心配も……。さあ早く……、わたしを殺して……』
涙で、男の肩が濡れる。人と同じ、色のない涙。
『あなたといられるなら、わたし、子供なんか要らないわ……。信じて、わたしを信じて……。あなたを騙して、ここに閉じ込めたわけじゃない……』
女は泣き続ける。
男は冷たい床へ体を横たえ、胎児のように膝を抱いて丸くなる。
「怒鳴りあってもしょうがない。体動がはじまるのを、待とう……」
沈黙が続いた。
女が泣き止むと、川のせせらぎのような音が、おぼろげに聞こえる。
男は、女にたずねた。
「あの音はなんだ? 近くに川でもあるのか?」
『壁のむこう側を、トルダダの冷たい血液が流れているの…… その音……』
「ひとつ、聞きたいんだが……。人の背に子を産みつけた母親はどうなるんだ? あの老人は子供しか背負ってなかった」
『母親は子を産むと、すぐに死んで、子供たちに、父親の背をあけわたすのよ……。だからわたしも、母を知らない……』
男の脳裏に、見知らぬ顔が浮かぶ。
『これが、わたしの父……』
彫りの深い、痩せた男の顔。汚れた鏡の前で、しきりに髪を撫でつけている。甘いポマードの匂い。
『父は腕のいい旋盤職人だったの……。誰よりも早く、正確な球を削りあげることができるの……』
旋盤が、赤い火花を散らす。油臭く、薄暗い工場の中。ときおり、激しく蒸気が吹きあがる。
『でも、戦争で腕を怪我して、もとの職に戻れなかった……』
むせるほど立ち込めた硝煙の中で、誰かが叫んでいる。「弾をよこせ! 弾をよこせ!」銃砲のない戦車が、兵士の死体を押しつぶして、前進してゆく。
『それで、父はここへ奇宝石を取りに来て、母と知りあったのよ……。父は形に捕らわれることなく、母を愛したわ……。母は父の背中で、三年だけ暮らすと、わたしたちを生んで、死んだの……』
草をなでながら、風が丘を登ってゆく。丘の上には、枯れかけた樹が一本。どんよりとした雲が、空を覆っている。
『わたしたちは父の背の上で成長したの……』
鼓動の聞こえる、広い父親の背中の上。温かく、なつかしい香り。限りない安堵感――。
『外の世界のことや、この世界のこと、いろいろなことを父から教わりながら……。十五年の間……』
娘たちを背負った父親。幸福な笑顔。満ち足りた時間。
父親は生大陸の体内をめぐる。娘たちにいろいろな物を見せるために。栄養の高い蜜を得るために。
「それで、父親はどうなった? おまえたちが大きくなったあと、外の世界へ戻ったのか?」
『わたしたちが繭になるとき、父はわたしたちの栄養になることを望んで、わたしたちの体内に入ったわ……』
「つまり、食われたってことだな?」
やはり、しょせんは蟲だ!
『ちがうわ!』
女が情景を男へ見せる。
父親を食うことを拒み、娘たちが泣く。
やさしく父親が言う。
『おまえたちに食べてもらえないと、父さんは、ひとりぼっちになってしまうよ』
「やめろ!」
男はその情景を拒み、頭を強くふった。
『信じて……、これは嘘じゃないわ……』
「もういい。わかった。そういう考え方をする男がいて君の父親になった。それだけだ。その男の考え方が理解できない男がここにいる。ただそれだけのことだ」
男はふと、路の中であった老人の満ち足りた笑みを思いだした。なぜかそれが、みょうに気にかかる。
「考え方のちがいだ」
そう言葉をくり返して、男は黙った。
『父さんの背にいた頃……、姉妹のひとりが、父にたずねたことがあるの……。母さんのどこがよくて、一緒になったのかって……』
父親が寂しげに答える。
『母さんといると、安心するんだ。僕が鍋で、母さんは僕の蓋なんだ。なにもしなくても、一緒にいるだけでしっくりきて、安心なんだ。どうしてそうなのかは、僕にもわからなかったよ』
映像が消え、女は黙った。
水の流れる音が響く。
「俺の母も、死ぬとき、俺に同じようなことを言ってたな」
男はひとり言のように、静かに、話しはじめる。
「君の父親とちがって、俺の親父は、酷い親父だった。典型的な飲んだくれの、仕事嫌い。金もないくせに飲み歩き、酒代が無くなると、家財道具や俺の貯金箱まで勝手に持ちだすんだ。そのくせ……」
ある日、父親にいきなり殴られた。机の上に置いた父親の銀貨を一枚くすねたと言う。知らないって言っても、父親は少しも信じなかった。
「容赦なく、殴る蹴るだ。早く金を戻せと言いやがる。俺の貯金箱を平気でくすねる親父が、親の物を盗むのは悪いことだと言いやがる。かばってくれた母まで、親父は殴りやがった。結局、金は机の下に落ちてたんだ。それでも親父は、一言も謝らず、その金を持って飲みに出かけちまった」
男はその夜、父親を殺すか家を出るかを、本気で考えた。
「俺はまだ幼かった。結局、なにもできなかった……」
そんな父親がある日、真面目に働くと言いだし、出稼ぎの船に乗った。母親は見送ったが、男は行かなかった。そのまま船は波に飲まれ、父親は戻らぬ人となった。
「それから四年後、きっちり四年だ。親父の命日に、母も病気で、死んだ。死ぬ前に母は、親父のことばかり言いやがるんだ。だから俺は、母をなぐさめるつもりで、言ってやったんだ。親父にはずいぶん苦労したけど、俺は嫌いじゃなかったってな。そしたら母が、怒りながら『あの人はあたしの瓶の蓋で、あたしはあの人の財布の紐だった。おまえに、あの人のよさはわからない』って、俺に言ったんだ」
男が口を閉ざすと、しばらく待ってから、女が頼んだ。
『ねぇ……、もっと聞かせて……。あなたのことが、もっと知りたいの……。アモス……、なぜ? なぜあなたは、ここに来たの?』
「別にたいした意味はない。金が欲しかったんだ。働かなくても、食っていけるだけの、金が欲しかったんだ。いや……、ちがう。俺が欲しいのは金じゃないはずだ……」
よくわからない。
脳裏に親友の幼い頃の笑顔が浮かんだ。
「子供の頃から、ずっと一緒に遊んだ兄弟みたいな奴がいて……、本当にいい奴だった。母の葬式代を、奴が無理して集めてくれたんだ。そいつと会社を作ったんだ。折り畳み式のコートハンガーと、それを止めるコートが絶対にずれ落ちないフックを考案して、販売した。あいつのデザインがよかったから、嘘みたいに大当たりして、会社がどんどんでかくなった」
なにもかもが楽しかった。死ぬまでずっと、そんな生活と兄弟のような関係が続くと、男は信じていた。
「けれど……、奴が裏切ったんだ……。俺から、商品の特許権をとりあげて、俺を会社から追いだしたそのとき、俺には婚約者がいて、俺が勝手にそう思い込んでいただけだけど。どうも、その女の入れ知恵だったらしい」
内緒で作らせた白いウエディングドレスが無駄になった。女は赤いウエディングドレスに身を包んで、親友と式をあげた。
「弁護士は、絶対勝てるから裁判にしろ、って言ったけど、俺は急に、どうでもよくなって、放りなげちまった」
『それで……?』
「それでここに来た。どこかに、小さな家でも買って、のんびり暮らしたいと思ってね。ここに来たんだ」
『友達のこと、恨んでないの……?』
「あれは、あれで正解だよ。俺がいたんじゃあの会社はあれ以上でかくなれなかったし、友達を喰うくらいの商魂がなきゃ、大会社の社長は勤まらないさ。もうよそう。場違いで、つまらない話だ。それに……、少し眠くなった」
そう言って、男が黙る。
女も黙った。
血液の流れる音だけが、あたりに響いていた。
どこからか冷たい空気が流れこみ、男が固く身をすぼめる。
『寒い……?』
「いや、君は?」
『あなたの背は、とても、温かいわ……』
*
数時間後、体動がはじまり、男はゆっくりと、出口へむかった。
出口で、ランプを手にした老婆が、男を待っていた。
「ずいぶんゆっくりだったね。蟲にたぶらかされたかと、心配したよ。それで? お宝はどこだい?」
男は袋を開き、老婆に中を見せた。
「それじゃ、約束の一個をもらおうかね」
そう言って老婆は、一番大きそうな奇宝石を袋の中から選び、うれしげに懐へしまった。
「それじゃ、蟲をはずしてやるから、後ろをむきな」
老婆は腰のサヤから、白く光る細長いナイフを抜いた。
『お願い! 殺さないで! 殺さないで!』
背中の女が叫んだ。
「殺す……?」
「そうさ。この蟲は殺さなきゃ、背から取れないんだよ。あんたはちっとも痛くないから、心配しなくていいよ。さあ、背中をおだし」
『お願い! アモス! わたしを助けて!』
干からびたような老婆の手が、男の肩をつかんだ。
「さあ、早く! 背中をおだし!」
「やめろ!」
男は老婆の手をふり払う。
「どうしたんだい? 蟲を取らせないつもりかい?」
「やめてくれ……、他に方法はないのか? 殺さずにすむ方法は……?」
「殺す以外、蟲を取る方法なんかないよ! そんな蟲に、同情するんじゃないよ! 男を喰いものにする、悪い蟲なんだから!」
『お願い、アモス! 信じて……、わたしを信じて!』
「惑わされるんじゃないよ。そいつは蟲だよ! おぞましい蟲だよ! さあ、早く! 背中をおだし!」
『アモス! アモス! わたしを殺さないで! わたしを殺さないで!』
老婆は男の肩をつかみ、むりやり、背をむかせようとするが、男はそれを拒んで動かない。
「あんた、そのおぞましい蟲を背負って、臭くて汚らしい暗い穴の中で、一生暮らすつもりかい? 一生遊べる大金よりも、人を騙すそのおぞましい蟲の方が、あんたは大事なのかい? なら、さっさと、穴の中に戻るがいいさ! 人間をやめて、さっさと蟲の仲間入りするがいいさ! 蟲になるなら、そのお宝は要らないはずだ! 残りのふたつも、この婆によこすがいいさ!」
老婆の手がすばやく、奇宝石の入った袋をつかむ。
「待て。わかった……。頼む……」
男は老婆に背をむけ、ひざまずく。
『いや! 助けて……』
「おまえさんみたいに駄々をこねる客が多くてね、ほんと、困るよ」
老婆は蟲の背をつかみ、ナイフをふりあげる。
『アモス! 離れたくない! お願い! わたしを離さないで……』
女の記憶が鮮明に、頭の中へなだれこんでくる。
暖かい父親の背で育った、楽しい思い出での数々だった。父親の大きな手が、やさしく女の頭を撫でた。
その感触がありありと、鋭い刃物のように深く、男の頭に刻みつけられる。
男はなにかに気づき「待ってくれ!」と声をあげかけるが――
老婆のナイフがふりおろされていた。
女の悲鳴が、甲高い鐘のようにあたりに響きわたる。
男は耳をふさいだ。頭をふり、声をあげ、それをかき消そうとしたが、少しも消えない。
おびただしい血が、男の胸にこぼれ、流れ落ちてゆく。
果実のような甘い香りだった。
『アモス……、愛してる……。アモ、ス……』
男の横へ、蟲のむくろが、――落とされた。
*
「アモス……。ねぇアモス、聞いてるの?」
赤い夜会服の女が、男の肩を揺する。
男はびくりと体を震わせ、脅えた表情を女にむけた。
馬車は、夜空を覆う雨雲を気にしながら、暗い坂道を足早に登ってゆく。
「どうしたの?」
「いや、別に……」
男はそっけなく答えて、また、窓の外へ目をむける。闇にひそむ、なにかを探すように。
「ねぇ、アモス。いい加減に諦めたらどうなの? 仲介屋に三度も騙されたのよ。まだわからないの! ねぇアモス……」
男は答えない。
夜会服の女は、手綱を引く御者の方へふりむき、声を張りあげた。
「ねぇ、聞いてよ! この人ね、トルダダへ行きたくて、五万銀貨もつぎ込んだのよ」
御者は慎重に手綱を引きながら、間を置いて聞き返す。
「トルダダ? あれは、入口が閉鎖されたんで、腐って海に沈んだんじゃないんですかい?」
「まだ沈んでないわ。腐りかけの途中よ。もうすぐ沈むでしょうけど。この人ね。あっちこっちに手をまわして、なんとか潜り込もうとしたの。結局ダメで、せっかく取ってきた奇宝石を一個、無駄にしたのよ」
三年前、奇宝石の採取が理由もなく禁止され、トルダダの入口が封鎖された。そのため、男の血を栄養としていた蟲たちが死に絶え、トルダダは活動を止めてその巨体を腐らせはじめているという。
封鎖の理由を『金持ちたちが、自分の持っている奇宝石の稀少価値をあげるためだ』と、人々は噂した。
「ねぇ、アモス……。最期の奇宝石の使いみち、あたしに任せてくれるんでしょ? 絶対、悪いようにしないわ。必ず倍にしてみせるから。ねぇ、アモス……」
ぼんやりと人家の灯りが近づく。
獣のような、女の叫び声。
男は顔をあげ、前方へ目をむける。
御者が馬をなだめ、スピードを落とした。
犬のように鎖でつながれた女が、わめきながら馬の足を触ろうとしている。黒く汚れた顔。枝のような細い腕。歌うように笑いながら、近づく馬の足に触ろうと、黒い腕を伸ばしている。
男はふと、溶け落ちた蟲の足を思いだす。
「どうしたの?」
夜会服の女が窓ぎわへよると、御者が脅かすように言った。
「|呱毒《こどく》病で頭をやられてる娘ですよ。お嬢さんは見ない方がいい」
「ああ、やだ!」
女は口を押さえ、窓から身を引いた。
御者は娘を避け、車輪を気にしながら馬車を進ませる。
「静かにしな!」
家の中から太った女が、パンをこねるような棒を持ってあらわれ、娘の髪をつかみ、まるで布団でも叩くように殴りつける。
鈍い音――。娘が泣き叫ぶ。
『お願いアモス! わたしを殺さないで!』
頭の中に、女の声が響いた。そんな気がした。
「よせ!」
男は思わず怒鳴っていた。
「この娘は病気持ちで、そう長くないんだよ。こうやって、少しでも早く死なせてやるのが情けだよ」
男は馬車を止めさせ、娘の前へおり立つ。
太った女は棒をふりあげる。ナイフを手にしたあのときの老婆のように――。
「なんだい! いくら金持ちでも、人の物をとやかく言う権利はないよ!」
娘は脅え、咳き込む。
「旦那さん、かわいそうに思うなら、いくらかで買っちゃもらえませんかね?」
家の中から、酔った主人がそう声をかけた。
「いくらだ……」
「冗談じゃないわ! そんな汚い物、この馬車に乗せないわよ。これは、あたしの馬車なんだから!」
口を押さえ、夜会服の女が怒鳴る。
「いくらだ……」
男はくり返す。
主人があわてて、家の中から飛び出てくる。
「本当にお買いあげになられるので? いや、あの……、どうも、うちの家内が病気持ちなどと言いましたが、言葉のあやでして……。こいつは頭が少しアレですが、体はじょうぶでして……。街の娼館へでも売れば、それなりの金になりますし……。なんと言っても今まで、自分の子のように育ててまいりました娘ですので……」
少しためらいぎみに、主人が右手を広げて示す。
「このくらいで……、いかがでしょうか?」
「五百か?」
と御者が口をはさむと、主人は首を横にふり強気で答える。
「五千銀貨です」
「五千だと? バカな! 四頭立ての立派な馬車が、御者付きで買えるぞ!」
あきれ顔で怒鳴る御者に、主人は澄まし顔で言い返す。
「オレはあんたに売ってるんじゃねえ。こちらの旦那さんにだ!」
と言ったものの、酔った勢いで最初の値を高く言い過ぎたことに気づき、主人は不安な目を男にむけた。
男は腰の袋を開き、奇宝石を取りだす。
「これで、いいか……?」
人々は一瞬、声をなくした。
「やめて! それはあたしにくれるはずの物よ!」
夜会服の女が声を張りあげ指さすと、主人が奪うようにすばやく、男の手から奇宝石を受け取り、服の下へ隠した。
「商談成立ですよ旦那さん。あとで返せと言われても、絶対に嫌ですからね」
太った女が、震える手で娘の鎖をはずし、急いで自分の上着を掛けあたえる。
男は、娘を背負った。
「あんたなんか、もう人間じゃないよ!」
夜会服の女がわめく。男を置き去りにして、馬車が走りだす。
奇宝石を奪われるのを恐れ、主人と太った女は足早に家の中へ消え、固く扉を閉ざした。
男は歩きだす。
酷い仕打ちを受けても、やはり自分の家がいいのか、娘は離れてゆく家を指さし泣きわめく。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。帰ろうよ、帰ろうよ。俺の家に……」
娘は殴られたときよりも強く泣き叫び、男の頭を叩く。
「もう、捨てたりしない。必ず人にしてやる。だから……」
痩せた腕が、しきりに男の頭を叩く。
夜空が割れて、微かに温かい雨が降りだした。
男は、泣き叫ぶ女を背負い、灯りのない真っ暗な坂道を登ってゆく。
(了)
あとがき
この作品の初出はデビュー前の同人誌で、26[#「26」は縦中横]歳の作品である。その後、朝日ソノラマ『鍋が笑う』(1998/12/1刊)に収録された。
およそ25[#「25」は縦中横]年ぶりに読み返し、いろいろと気づいた。当時は自分でも気づいていなかったこの作品の本当のテーマなどが、ああなるほど、と理解できたのは年の功だろう。
そのあたりを加味して今回、少し変更を加えたけれど、たぶん誰も気づかないと思う。
この作品の発想もとは当然のごとく、当時の彼女(……いや、今にして思うと妖怪だった)からである。今「蟲と当時の妖怪、どちらかを背負って生きろ!」とさだめられたなら、喜んで蟲を背負う!(当時の妖怪話については、もういい加減、愚痴にならない年齢となったので、いずれ作品に昇華したいと考えている)
この作品について他に思いだされるのは、柴野拓美先生に「岡本くん、女性はこんなに怖いものじゃないよ」という感想をもらったことである。なかなか芯をついた言葉だと思うと同時に「先生の奥さんはとても良いかたなんだなー」と、しみじみ思った。
(了)
初出
JURA11[#「11」は縦中横]号(1990/11/12)
柴野拓美
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E9%87%8E%E6%8B%93%E7%BE%8E
表紙 アリ・シェフェール Ary Scheffer(1795-1858)
『ダンテとウェルギリウスの前にあらわれたフランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの亡霊』(1855年)より
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1855_Ary_Scheffer_-_The_Ghosts_of_Paolo_and_Francesca_Appear_to_Dante_and_Virgil.jpg
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◎著作者 岡本賢一
経歴 ウェブサイト