安部公房『カンガルー・ノート』考察


 最近、読んだ。思うところがあるので、この作品に出てくる《かいわれ大根》「自走ベッド」「カンガルー」がなにを意味しているのか、書いてみたいと思う。
 当然のごとく『読書とは作者と読者の間に生まれる誤解である』と思っているので「カンガルーに意味などない」という読者の意見は、それはそれで尊重するし、否定するものではない。けれど「読んだけど、意味がわからなくてつまらない」という読者には、もしかすると「なるほど」という解答のひとつになるかもしれないなー、と勝手に期待する所存である。
 この作品は安部公房が死(癌)を悟ったのちに書かれた遺作であることは、周知の事実であり、テーマの根底に「死」があることはまちがない。私小説である、という解釈も、最後に出てくる箱の描写「箱を覗くと、箱を覗く自分の背中が見える」ことによって私小説であることは明確である。
 死を意識した作家の私(死)小説であることは間違いないが、幻想作家(あるいはSFでありミステリーでもある)による極端にデフォルメされた世界で、難解である。むしろ、読み解くことを作者は求めてはいない風でもある。ラストに出る新聞記事が、どうとでも想像できるようになっているのは「好きなように解釈してくれ」というメッセージに思える。
 それでも「作者はなぜ、この作品を書かなくてはいけなかったのか、しかも、これが遺作となるかもしれないとわかっていながら」なのである。ただ「荒唐無稽な変な話」を書いただけ、とは、とても僕には思えない。
 読み終えてから、自分が同じ状況になったら、どんな私小説を書くだろか? と考え、《かいわれ大根》の意味を自分なりに解釈してみた。
 まず、脛に《かいわれ大根》が生えるきっかけは、カンガルー・ノートというキラキラした発想(アイデア)を提示したことによるものである。これは若くして、文壇から注目を浴びた作者自身とオーバーラップする。社長に呼ばれ、アイデアを褒められて活躍を期待された主人公は、しどろもどろになりながら、それらしきことを口にするあたりは、当時の作者の心理そのものではないだろうか? これがきっかけになったとは、どこにもはっきりとは書かれていないが、脛に《かいわれ大根》が生える要因になったと見るのが自然である。
 脛に《かいわれ大根》ができた結果、主人公は自走ベッドに固定されることになる。最低限の衣食住を得たともいえよう。カンガルー・ノートを発想(アイデア)とすると、《かいわれ大根》は小説(創作)であり、それによる収入=自走ベッド(作家生活)と読み解くことができる。
 黙っていても勝手に生え伸びてしまう物=小説、という心情は、書かずにはいれないという同じ作家(最末端。月とスッポン、クジラとシラスだけれど)としては、痛いほどわかる。豪勢にメロンとか松茸とか生えてくれればいいのに、いかにも頼りない《かいわれ大根》というあたりも心難い作物である。  膝に生える《かいわれ大根》をそこはかとなく愛おしんでいることが、泥で汚れることを嫌がる主人公の描写でも伺える。普通は気持ち悪い。実際にこんな状況になったなら、僕もあなたも医者にむかって「とりあえず全部抜いてください」と頼むに違いない。
『脛に《かいわれ大根》のある身』という言葉も、自分をさして「脛に傷のある身ですから」と言った時と同じように、後ろめたさの陰に「武勇伝的なちょっと自慢」が混じっている。  主人公はなんだかんだありながらも《かいわれ大根》と自走ベッドを手放さない。賽の河原で働きかけたり、病院に定住しかけたりしながらも、結局は追いかけてきた自走ベッドとともに、そこから離れてゆく。
 作者の身になにがあったのかはわからないが、作家をやめる=やめかける、なにか事件があったと推測できる。無論、作家をやめても、小説=《かいわれ大根》は生えつづける。この呪縛から逃れたいと思っていながらも、根底では《かいわれ大根》と自走ベッドが好きなのはまちがいない。物語の終わりで、列車にベッドが粉砕されるシーンでは、移動できない=もう、いろんな世界を見ることができない、と惜しんでいるのだから。
 自走ベッドを破壊するのは、小さなカンガルーたちの集団である。カンガルー=アイデアとするなら、これは若手作家の台頭を意味していると読める。自走ベッドを粉砕し、まだまだ小さいカンガルーたちが開放され、野へと飛び跳ねてゆく。悔しさと期待の入り交じった、作者の素直な心情であろう。もしかすると作者はそこまで考えていなかったかもしれないが、このクライマックスに、本心が漏れ出ている。
 次に烏賊イカ爆弾とキツネ目の女性についてであるが、そんな性的なことについて細々と解説するという無粋なことはしたくないので、イカ略――。

文 岡本賢一(http://www.ne.jp/asahi/k/o/)
2015/6/16