信念の人の散り際
大村幸紀
慶長五年(一六〇〇年)九月三十日、関ヶ原の合戦の終了後、西軍の実質的総大将であった石田三成は、徳川家康の命により、共に西軍として戦った小西行長らとともに大坂及び堺の市中を引き回されることになった。三成の変わり果てた姿を見た者の中には石を投げつける者も何名かいた。そんな者達に三成はキッと睨みつけていた。
ざわざわ…ひそひそ…
市中を引き回されている三成を見て、大坂と堺の衆人達はめいめいに三成についての感想を言い合っていた。
「あれが、権勢を誇っていた治部殿(三成の役職が治部少輔であったため、こう呼ばれることが多かった)か…、すっかり変わり果てた姿になって…」
「まぁ、家康らとの戦に負けたのだから、仕方ないでしょうな。所詮は、茶坊主上がりのものが根っからの武人相手に戦で勝とうなどおこがましいということですわ」
「ま〜、豊家大事という主張も秀吉公子飼いの家臣がことごとく家康公についていたんじゃ、あれは偽りだったと考えるべきでしょうな」
…何もわからぬ衆人どもが好き勝手に言いおって。
それが、三成の偽らざる本心だ。
大坂を意気揚揚と出陣した時は、皆三成のことを褒め称えていたにもかかわらず、負ければ手のひらを返したように面と向かって罵倒し嘲笑される有様だ。屈辱を免れるために死のうと思えば、いくらでもできただろうが、どんなにわずかな可能性でも生きていれば内府(家康のこと)に一矢報いることができるかもしれない。そう思ったからこそ、関ヶ原で死なずに生きているのだ。
少しでも屈辱に対する怒りを紛らわそうと、ちらりと横にいる小西行長の方を見る。すると。ただ黙って現実を受け入れるがごとく、頭をうなだれている男の姿があるだけであった。
その男、小西行長は三成の数少ない友人である。もともと商人上がりの大名として、三成と同様に武功派(加藤清正・福島正則ら)の大名から疎まれていた。小西は、物資の調達や外交交渉などには天性の才能を持ち合わせていたが、戦はとことん苦手であったため、ますます持って疎んじられていた。
小西も死のうと思えば関ヶ原の合戦の最中に切腹して死ぬことは可能であった。が、彼は敬虔なキリスト教徒であるため、自害することは許されなかった。そのため、「どうせ、自分は斬られるのだから…」と、いかにも商人らしい刹那的な考えのもとに、ただうなだれることしかできないのである。
市中での引き回しが終り刑場である京の六条河原に向かう途中、辻堂にて小休止をすることになった。季節が秋ということもあって、周囲に熟した柿がなる木が多い。なお、小西行長はというと、離れた位置で休憩をとっているようである。
「三成よ、手枷と首枷をはずすぞ」
そういったのは、家康から三成らの警護を任された田中吉政である。田中吉政は三成とは、青年時代に秀吉の小姓仲間であった。秀吉からは信頼されていたらしく、福島正則・山内一豊らとともに東海道の守りを任されていた。もっとも、これは秀吉の家康対策であったのだが、関ヶ原の合戦の前に福島正則が真っ先に家康につき、山内一豊が城を差し出すといった状況になり、続々と東海道筋の大名が家康に城を差し出し、吉政もその流れに乗らざるをえなかった。
「ああ、吉政殿には世話になったな…」
「いや、それほどのことはしとらんよ。何せ先の戦では貴殿を見限って内府のもとで戦ったわけだからな」
三成は、しばらく考え込んだ様子を見せた後、笑い始めた。
「ふふっ、そうだったな。アッハッハッ…」
三成の笑いに対し、吉政はいたたまれない気持ちになったのか、しばらく黙り込んだ。
「それにしても、よくもあれだけの大軍を率いて内府と一勝負する気になったな。武家の本懐を遂げたと言うべきか」
三成は、軽く会釈をして言葉を返す。
「いや、このたびは秀頼公のために、禍根となるであろう内府を討とうとして兵を挙げたのだから特別なことではない」
吉政はいかにも三成らしい返答に納得した表情をした。
「しかし、吉政よ。お主もそうだが、なぜ秀吉公に恩義のある大名はことごとく内府に味方したのだ?」
そう言われると、吉政はしばらく押し黙っていた。
しかし、黙っている吉政には構わず三成は話を続ける。
「私などは、財産を全て使いきってまで豊臣家を守ろうとした! なのに、なぜ他の豊臣家恩顧の大名はそれがわからないのだ! 内府が豊臣家乗っ取りを企むことぐらいわかりきっておろうが!」
…いくら貴殿がそう思っていても、加藤や福島らにはわからんだろうよ。何せ武功派の大名からすれば豊臣家を乗っ取るのは貴公だと思っているものが多くいるのだから。そう吉政は考えていた。
「しかし、他の大名からすれば、内府は後事を秀吉公に託されたのだから、そんなに気にすることもないとしか思えないのではないか? それに、今回の戦は毛利輝元殿が西軍の総大将になっているとはいえ、あくまでも貴殿と内府の私的な争いにしか思われていないのだよ。内府には秀頼公をどうするつもりもないと公言しているのだからな」
三成は吉政の話しを聞きながら、身体を激しく振るわせた。
「違う、違うのだ! 貴殿らはなぜ内府の空約束なぞ信じるのだ! あのような腹黒い男のどこにそんな…」
「強いていうなら、内府どうこうよりも貴殿の人望の無さだろうな。加藤や福島らに言わせれば、貴殿が秀頼公を守ると言うのは到底信じられないというのが大前提にあったのだよ。それも貴殿が朝鮮の戦での論功行賞を厳密に行ったからだろうな。そして、軽い不正でも逐一秀吉公に報告していたのも貴殿の評価を下げる一因になったのだよ」
三成は、ガクッと膝から崩れ落ちるように地面に倒れた。
「では、私が豊臣家大事と思って行なったことが恨みを買ったとでもいうのか?」
すでに、三成の目には涙が溢れ出そうになっている。
「残念ながらな。金吾(小早川秀秋)が裏切ったのも、朝鮮での出来事を貴殿が報告して、領土没収の憂き目にあったことが最大の原因なのだから…。おまけに、その時に内府によってとりなしてもらっているのだから、貴殿よりもよほど内府の方に恩を感じていたのだろうな」
三成は、ついに堪えきれなくなったのか涙が溢れ出した。
「…今まで、私がしてきたことは間違いだったのか?」
吉政は首を横に振る。
「いや、貴殿のしたことは『行為』そのものとしては正しいことをしてきた。が、正しいことであっても回りが完全に納得しなければ、その『行為』は受け入れ難いものになってしまうのだよ。いくら、『豊臣家のために』と言っても、それが大名達にとって実現不可能であれば誰も聞いてはくれないのだ。所詮、武士というものは他家の家名を残すことよりも、自分の家名を残すことが一番大事なのだから…」
三成は涙を腕で拭きながら黙っていた。
「悲しいけど、所詮は戦国の世では個人の利益の前では正義は絶対に勝つわけではないのだ…。明国の過去に『孟子』の義の思想が破綻したようにな…」
そこまで聞いた三成は、コクリとうなずいただけで遠い上の空を見ていた。
しばらく、時間が経過した後、吉政は三成に尋ねた。
「最後に何か、所望するものはあるか?」
「別段、何もないが、強いて言うならば、少々のどが乾いた。白湯を呑みたいがよろしいかな?」
「よし、承知した。それならすぐに準備しよう。おおっ、そうだ。白湯だけでは物足りないだろう。この近くには柿が多くなっているようだ。それでも食べるかね?」
すると、三成は首を横に振った。
「いや、申し訳ないが、柿を食す気にはなれない。昔から柿は痰の毒を起こすと言われているからな」
それを聞いた吉政の兵卒達は多いに笑い始めた。
「ええいっ! 黙らんか! 最後まで諦めずにいる三成殿の態度、感心することはあれど、笑うことは許されん!」
兵卒達の嘲りの笑いに、吉政はあらんかぎり叫んだ。これには、兵卒達も驚いたのかすっかり笑いは止まった。
「吉政、そう気にしなくてもいいのに…その私を思う気持ちに感謝いたす…。お前も、内府についたのは本当にやむを得ないことだったのだろう、叱責して悪かったな…」
「三成…うっうっ…」
今度は吉政の方が大泣きに泣き始めた。
「三成! お前ほどの男が、なぜ我慢できなかったのだ! お前よりも内府の方が先に倒れるのだから、それまで待てば良いものを…。もはや、誰も内府を止めようとする者はいないのだぞ。俺自身それはわかっていたが、やはり家のことを考えたらどうしても、内府の味方をせざるを得なかったのだ!」
吉政の額はすっかり地面に擦り合わさっていた。
「殿っ! そのようなこと内府に聞かれでもしたら…」
兵卒達の隊長格の男が吉政を諌めた。
「そうだったな、ここにいる者はすべて私の部下だが、いつ内府にこのことが漏れるやもしれん、いささか軽率であった」
と、言いつつ三成の方に目をやった。
「では三成殿、刑場の六条河原まで向かうので手枷と足枷の方、もう一度つけさせてもらいますぞ」
「承知した」
こうして、三成らは京まで護送され、京都所司代である奥平信昌のもとに引き渡されることとなった。
そして、六条河原では縛り上げられ土壇場に座っている三成と行長の姿があった。
衆人達に見届けられながら、首切り役人の太刀が首もとに振り下ろされた…。
信念の人の最後にしてはあっさりとした散り方であった。
石田《治部少輔》三成 享年四十一歳
辞世の句は「筑摩江や芦間に灯すかがり火と ともに消えゆくわが身なりけり」であった。
(終)