ナックルボーラー(第1章)
作・渦巻主任
ナックル、それは野球の世界に存在する変化球の中でも1番奇妙な変化をするとされている球種である。奇妙な変化と言われるのは、ピッチャーが投げたナックルは球が回転数ガ少なく、そのことにより風の影響を受けやすくなり、キャッチャーミットの中に入るまでどのように変化をするのかがわからなくなるである。そのため、コントロールはほぼ不可能であるし、キャッチャーも捕球に苦労すると言われているし、そんなボールだからなかなか芯を捉えられず打ちにくいとされている。
この変化球自体は日本の球界では指導者側が投げることを推奨しないせいか、プロの世界でも投げる人は非常に少ない。強いて挙げるとすれば、ヤクルトの北川哲也と中日の前田幸長ぐらいである。だが、彼らもナックルはウィニングショットには使わない。なぜなら先に挙げたように、どこに行くのかコントロールできないことと、落ちなければただの甘い球にしかならないからである。
注・原稿作成段階では北川は解雇される前でした
しかしながら、海の向こう、大リーグの世界ではそのような確実性のない変化球だけで投手としてメシを食っている人間が存在しており、実200勝以上している人までいるのである。彼らの投球スコアを見てみると、全投球の中でナックルが占める割合が9割を越しているのだ。そんな彼らのことを人はナックルボーラーと呼ぶのである。
そして、彼らはナックルを投げることに対してこう思っている。
「相手からすれば、芯を捉えにくくどこに行くのかがまったく予測できない変化球なんて非常に打ちにくいだろう? そんなボールを投げないという話はないさ。」
私はこの考え方がナックルボーラーの哲学を表しているように思う。
この話は、そんなナックルボーラーに急遽なった男の話である。
1 ラストチャンス
三重パールズ背番号29・西桑秀二(にしくわ・しゅうじ)・24歳
左投げ左打ち・三重県出身・ドラフト1位=7年目・年俸400万・昨年1軍出場なし・2軍成績2勝5敗(防御率4・38)17試合・1軍
通算成績1勝3敗(防御率9・00)7試合
「三重の怪童」とよばれた男も、プロに入ってからは故障続きで昨年は1軍に登板出来ず。このままだと現役続行も危ぶまれる。
「ベースボールマガジン社プロ野球選手名鑑より」
トゥルルル、トゥルルル、電話が鳴っているようだ。一体誰からなのだろう? とにかく出よう。
「はい、西桑ですが…」
「西桑選手ですね、小山田ですが、3時に三重パールズの球団事務所まで来てください。伝えたいことがありますので…」
「はい、わかりました。3時に事務所ですね。」
ガチャン、受話器を置く。
もうすぐ冬にさしかかろうという時期に呼び出されるとは一体なんのつもりなのろう、クビでも言い渡されるのだろうか…。
確かに6年やってきて勝ち星は1つ、しかも偶然中継ぎで拾った勝ち星である。ドラフト1位で速球とフォークを武器とした本格派と期待されながら、毎年のように肩を故障して全然成績が出ない。しかも故障続きのせいで球のスピードは130キロ台しか出ないし、スライダーやフォークの切れも悪くなった。しかも、もともとコントロールは悪いとくれば良いところなんて全然ない。球団からすれば、期待外れもいいところだろう。
「俺は、所詮この程度の選手だったのか? 」
そう思うと何かやりきれないものがある。だが、今の自分の立場がそう表しているのである。
とにかく、今は事務所に言って用件を聞かなければ事態は進まないのだ、ひょっとしたらまだプロでやれるかもしれないのだから…。
そんなことを考えながら、俺は愛車で自分が所属する「三重パールズ」の球団事務所に向かった…。
「こんな時期に1人だけ呼び出して驚かせてしまったかな? 西桑秀二君、来年のことなんだが、ウチの球団はまだまだ君を必要な戦力として考えているよ。」
三重パールズ人事編成部担当小山田さんのこの言葉を聞いた瞬間、俺は安堵した。よかった、クビにはならなくてすみそうだ。しかし、次に発した言葉は俺を戦慄させるに十分だった…。
「が、それはあくまでも今度就任する今川監督と塩野投手コーチが君のことを必要だと考えているからなのだよ。本来なら、既にトレードか自由契約にするつもりだったのだから…。」
そうか…、本来はクビになるところを新しい首脳陣がなんとか拾ってくれたというわけか。しかし、人事編成部の人に「必要ない」と思われていたのは、少しは覚悟していたとはいえ、さすがに私には非常にショックが大きかった。
小山田さんはまだ続けて言う。
「それとねぇ、来年の君の年俸は今までの600万から400万にダウンするから。まぁ、最低限の金額だけど頑張ってくれ。勝てばあっという間に増えるんだからさ。」
400万…、プロ野球選手の最低保証金額か…。本来なら文句の一つでも言いたいところだが、今の状況では何も言う事ができない。それほどに今の自分の立場は弱いのだ。だから、頭の中では現役さえ続けられるのなら何も文句はないと考えざるをえない。
「わかりました、それではその条件でサインします。」
そして、俺は書類にサインし、ハンコも押した。これで、来年も続けられるという保証ができたわけだ。
「あっそうそう、今川監督が明日10時にグラウンドにくるようにとのことだそうだ。まぁ、なんらかのテストでもするんだろうな。」
いきなり、テスト? 一体なんのつもりだろう。どんな選手なのかじっくりと見てみたいということなのか?
寮に帰ると、玄関には同期入団の柏森が待っていた。恐らく、俺が呼び出されたと聞いて何があったのか気になったのだろう。
「西桑さん? どうだったんですか? まぁ、その表情を見る限りは悪いことではなかったみたいですけど、話ってのは何だったんですか?
教えてくださいよぉ。」
「あぁ、そのことなんだが…、どうやら来年も一緒にプレーできることになりそうだ。」
俺は自分の首に手をやり、首がつながったというアピールをした。
「よかったじゃないですか、プロ野球選手なんてのは引退すればただの人ですからねぇ。来年もプレーできることになって本当に良かったですねぇ。」
「おいおい、いくらクビ寸前だとはいえ、その言い方はないだろう。まぁ、既に1軍で活躍している人には今の俺の気持ちはわからないかな? 。」
「別に、そんなわけじゃないですよぉ。僕は純粋に西桑さんを心配していたんですから…。それに1軍っていってもワンポイントですよぉ。」
柏森は明らかにむくれた表情をしている、これ以上続けると漫才になりかねないのでやめるとしよう。でも、ワンポイントとはいえ1軍のマウンドに上がっていられるのだから、やはりうらやましく感じる。
柏森透、同期の高卒出のドラフト6位。左投げ・左打ちで、投げ方はサイドスロー。チーム事情上、左のワンポイントに使える選手が他にいないため3年目からずっと2軍に落ちることなく1軍のマウンドを踏んでいる。実際、マウンド度胸がありどんな強打者相手にも向かって行くからこそ2軍に落とされずに使われつづけているのであろう。
俺と柏森は入団当初から仲が良く、ファーム時代は常に行動をともにしていた。俺が肩の手術のために入院していたときは、遠征していない時は必ず時間を見つけて見舞いに来ていたこともあった。1軍に定着しているのに未だに寮にいるのは、1人暮らしが出来ないというのが理由らしい。彼女がいるとも聞いたことはない。結婚するまでずっと寮にいる気なのだろうか? まぁ、この寮は年齢制限がないからいいのだけれども。過去には35歳の選手が単身赴任の関係上、この寮で生活していたこともあったそうだし。しかも、その選手は35歳なのにホームランを20本も打つような強打者だから心底驚いたなぁ…。
おっと、いけない。こんなことを考えている余裕はないんだった。とにかく、新しい首脳陣が俺に何かを期待しているんだ! とにかくいいところを見せるためにも練習あるのみだな。
2・ナックルボーラーへの転向
翌日、俺は指定時間より4時間も早い朝の6時に本拠地である「津フィールド」のグラウンドに立っていた。自分の高鳴る気分がそうさせたのだろう。
「津フィールド」・三重パールズの本拠地球場で、内野・外野共に天然芝が敷かれている。最近では非常に珍しい全面天然芝の球場が成り立ったのは、三重パールズの初代オーナー「藤堂永二」が
「本当の素晴らしいプレイは天然芝の球場でしかありえない。」
との信念を持っていたからである。また、このオーナーは更に、
「客が一番見たいものはホームランだ! だから、球場は狭くし、外野のフェンスも低くすべきだ。」
ということも考えていたので、かなり狭いグラウンドになっている。その広さはホームセンター間が110m、ホームからそれぞれのポールまでが90mと一番狭いと言われている広島市民球場よりも狭い。さらにフェンスもナゴヤ球場と同じ2mに設定されている。
まだ来年もこの球場でプレーできる、そう思うと思わず涙が出そうになった。そしてグラウンドに立った俺は黙々とランニングを始めた。
ランニングやストレッチなどをして3時間半が経とうとした時、グラウンドにユニフォーム姿の男が2人やってきた。2人とも体はガッシリしているが、片方が異常にに背が低くて、もう一方がゴーグルをしている。じっくりと様子をみる限りは見知った顔ではないようだが、新聞かテレビかなんかで見た顔のような気がする。俺がじぃーっと2人を見ていると、向こうの方から背の低い男が声をかけてきた。
「君が、西桑君かな?」
「はいそうですが…、どなたでしょうか?」
「私は、来年から三重パールズを指揮することになった今川だ、よろしく頼む。」
えっ、この背の低い男が新しい監督? と、いうことは隣にいるのは新投手コーチの塩野さんなのか? そう言われてみれば、塩野コーチはスポーツニュースで顔を見たことがあった。
「こちらこそよろしくお願いします…。」
「で、隣にいるのが投手コーチに就任した塩野君だ。」
「どうも、塩野です。よろしく。」
となりにいる、ゴーグルをした男が礼をしながら言った。
ちょっと解説
今川篤史、現役時代は三重パールズの名2塁手として活躍。首位打者3回・盗塁王5回・ゴールデングラブ賞10回というすばらしい成績を収めており、三重パールズ史上NO・1の野手とされている。現役引退後は三重パールズのスカウトを勤め、将来性のありそうな選手を見つけ出す眼を養っていた。そして、今年からは低迷しているパールズを優勝させるため監督に任命された。
塩野兼人、倉敷アンツのリリーフエースとして活躍。ただ、極度の酷使がたたり、4年で引退。その後、アンツ以外の様々な球団で投手コーチとして名声を得る。今川氏の誘いにより今度からパールズの投手コーチに任命された。
「ところで、会ってすぐで悪いがさっそく西桑君の投げる球が見たいけど、いいかな?」
申し訳なさそうに、塩野コーチは俺に対して言ってきた。俺の答えはもちろん決まっている。だからこそ、俺は何も言わずにうなずき投球練習を開始した。
もう、100球は投げただろうか? ストレート、スライダー、フォーク…、俺は自分が投げられる球をキャッチャーを座らせて全力で投げていた。が、塩野コーチは何かイマイチといった表情だ、そして俺に対してこう言った。
「西桑君、何かもの足りないんだよなぁ…。スピードは140キロでないわりにコントロールがばらつくし、変化球も切れに欠けるところがある。ただ、こちらの期待通りといえるのはスタミナぐらいかなぁ?
まぁ、想像通りだったけどね」
一体どういうことなんだ?
確かに、やはりかつての球の切れは戻っていない。しかし、それならなぜあのコーチは何を俺にもとめているのだろう?
今の状態が想像通りだというのはどういう意味だ?
物足りない人間を普通は必要だなんて思う人間なんかいやしない。
なぜ? なぜ? なぜ?
そんなモヤモヤした気分の中で、俺は1つの疑問をコーチにぶつけることにした。
「コーチ、あなたは投手コーチに就任する際に俺をクビにしないよう球団に言っていたそうですが、それはどうしてですか?」
すると、塩野コーチは軽く微笑みながら言う。
「そう怒った顔をしないで欲しいなぁ。まぁ、確かに君は今のままでは、まったくいいところの無い投手でしかないかもしれない。だが、どう考えてもチームを見渡す限り、君ほどのスタミナがある選手は1人もいないのだよ。そこで、君を先発投手として起用してみたくなった、というのが理由だな。しかし、今の君では試合に出しても恐らくは打ちこまれるのが関の山だと思う。」
まぁ、確かに今の俺にはスタミナの多さだけしか特徴が無いというのは納得できる。しかし、変化球や速球に魅力がないのに先発で使うと言うのはどういうことなのだろう? 恐らくは何か俺に変化を求めているのだろうか?
「じゃあ、打ちこまれないようにすればどうすれば良いと言うのですか? もっと内角を攻めろだとか、緩急を使えとか、フォームを改造しろとか言うつもりですか?」
俺がこう言うと、塩野コーチは「おしいんだよなぁ〜」といった表情をしながら首をふった。
「いいや、そんな生易しいことを言うつもりはないよ。なぜなら今から君に言おうとしていたことは、今までの自分を一切捨てろということなんだから。」
険しい顔になってコーチは言う。
俺は、塩野コーチが何を言いたいのかがまだハッキリとはわからないが何か重大なことを告げようとしていることだけはわかった。
そして、塩野コーチは俺をじっくり見つめて右肩に手を置いて言った。
「ナックルボーラーに転向しなさい。」と
……しばらく俺は悩んだ。確かに自分は変わらなければいけないとは思っている。しかしナックルなんて一度も投げたことがない。どうすればいいのだろう…。
「まぁ、悩む気持ちはわかる。確かにまったく投げたことのない変化球だけで勝負しろというのだからな。しかし、君の場合は普通の変化球を投げようとすると、どうしても肩に不安があるから腕の振りが鈍くなって切れが悪くなる。また、肩の不安は速球にも影響して、打者にとって打ちごろのスピードしか出なくなる。しかもコントロールに不安があるから普通の軟投派の投手にするには一抹の不安がある。」
確かに今の自分はどうしてもヒジの不安を気にしながら投げている。だから、中途半端な投球しかできない…。
「では、ナックルボーラーになるのはどういう意図があるのですか?」
「それを今から説明しよう。ナックルという変化球を投げるのに一番重要なのは指の使い方だ。指先がしっかりしていればちゃんと落ちてくれる。それに、ナックルは肩に与える負担が少ないから投手としての寿命が長くなるんだ。アメリカじゃ、伝説のナックルボーラーと言われた選手は48歳でも7勝したというほどだからね。低めにさえ投げれればそれ以上のコントロールはいらないわけだし。後は最後まで投げきれるスタミナがあれば言うことは無い。まさしく、君に向いている変化球だと思うんだ。だから、私は君にナックルボーラーにしたい。そして、来年のローテーションの一角に食い込んで欲しいんだ!」
ううむ。今のままじゃ、恐らくは来年になった時点でクビにされる可能性が高いし、これ以上失うものは何も無い。それに、そもそもチームに残してくれたのは塩野コーチのおかげなんだから、これ以上文句を言っても始まらない。
「わかりました。そこまで、こんな最悪の状態の選手にここまで言ってくれたのですから、俺はナックルボーラーになります。」
「そうか、なってくれるか…。まぁ、今日は100球も投げたことだし、明日から本格的にナックルボーラーになるための練習をすることにしよう。」
「ええっ、今日はもう練習しないんですか?」
「ああ、私は無理をさせない主義だからな。なにせ、現役時代は投げすぎて肩をぶっ壊してしまった男だったから…。」
そういえば、確かに塩野コーチは自分が酷使で潰されたから、コーチになってからは絶対に無理をさせない人として有名だったなぁ。まぁそれが、監督との確執を招いて何度もチームを変える原因になっているんだけどね。
俺は俺で一刻も速く練習したかったんだけどなぁ…。
「そうそう、西桑君。君に見て欲しいビデオがあるんだ。まぁ、おもしろいかどうかは別にして、ナックルボーラーが投げているシーンばかりを編集したものなんだ。きっと参考になると思うからしっかり見てくれよ! ついでに、野球雑誌に掲載されていたナックルボーラーのインタビュー記事をスクラップにしたファイルもあげるよ。」
「はいっ、ありがたく見させて頂きます。」
なんか、かなり気を使ってもらっているなぁ。それだけ期待されているというわけだし、頑張らなくちゃ!
(続く)