ケンペルの肖像画
1651年、リッペ伯領レムゴ「ドイツ連邦共和国ウエストファ−レン州」セント・ニコライ教会の主席牧師の第二子として生まれる。
教育に熱心だった父ヨハネス・ケンペルの薫陶を受けたエンケルベルトは天性の利発さに加えて、その旺盛な知識欲によってレムゴからさらに自己の世界を広げハ−メルン、リュ−ネブルグ、のギムナジウム、さらにダンチヒやクラカウで政治学や哲学、医学、語学などを習得した後、ケ−ニスブルグで博物学や薬学を履修するなど幅の広い研鑚を続けた。
その甲斐あってスェ−デンの政治使節団の一員としてペルシャに旅する幸運を得る。
その後当時世界の海を制覇していたオランダ・東インド会社の船医としてインドに旅する。 1690年9月25日2ヶ月半の船旅の後シヤムからケンペルの乗った船は、長崎に着く。
1691年、1692年、長崎オランダ東インド会社の商館長とともに将軍に対する貢ぎ物をもって江戸へ2度の参府の旅をする。この時箱根を通過する。
箱根の美しい自然はケンペルを釘付けにしこの時採集したハコネシダなど、ケンペルによって記録された箱根についての記述は、その後ハンス・スロ−ンによって出版された「日本誌」よって世界にはじめて紹介される。
1692年長崎からオランダに向かい旅の資料をまとめ学位を得るためそこに10ケ月滞在した後、レムゴにもどる。
1712年廻国奇観を出版、その僅か4年後に65才の生涯を終える。
1727年ケンペルの遺稿を買い取ったハンス・スロ−ンによってロンドンにおいて名訳「The History ofJapan」が出版される。ケンペルが日本で収集した資料が日本を知る名著としてヨ−ロッパでの地位を得る
大正13年碑の完成時のバーニー
1868年 オ−ストラリア、メルボルンで生まれる。
1886年 18才の時に来日、長崎で事業を始める。
1888年 叔父のブラウンをたよって神戸に移る。ブラウンは、神戸に最初にガスを供給した人として知られている。
1909年  ブラウン商会を引き継ぐ。
1918年 芦ノ湖畔に別荘を建てる。安藤好之輔の斡旋による。以来安藤との友情が始まる。富士山を望む芦ノ湖畔の別荘は大変気に入っていた
1922年 自分の別荘の庭の国道一号線に面した所に「この祖国をば、さらに美しくして、けい等の子孫に伝えよ」とケンペルの著書の序文を引用した石碑を建て私達に自然を大切にすることを教えることで大好きな箱根に友情を示した。
1941年 太平洋戦争の悲劇により別荘は没収。敵国人として辛い日々を送る。
1948年 別荘は、バ−ニ−さんに返還されるが戦時中に荒らされた庭は、 バ−ニ−さんの心を傷つけるものだった。けれども箱根を愛する気持 は、かわりなかった。
1958年 横浜で亡くなり、婦人とともに横浜の外人墓地に埋葬される。