読書メモ ・「本能寺の変 〜信長の油断・光秀の殺意」 更に徹底した解明や裏づけ史料の解説が必要と感じて、本書は書かれた。 ○ポイント ・報恩寺(京都)蔵の信長像は、鼻が大きく、頭部が大きく、身体全体が丸い ・光秀、67才の反逆 ・本能寺へ全軍到着には時間がかかる。光秀は全軍あげて包囲するつもりはなかった。実際に襲撃したのは先陣だけ (斎藤利三と明智秀満が指揮した3,000くらいか)。光秀は主力とともに後方にいた。 ・本能寺の変(1582年)の直前に、秀吉の加勢のため、光秀の派遣を決めたとき、信長には特別な感情はなかった。毎度のことであった ・「信長公記」には「是非に及ばず」の用例が14もある。その意味は「是非を論じている場合ではない」。 従来の解釈である「諦観の発露」というのは疑問。 ・谷口克広「検証本能寺の変」は様々な黒幕説を検討し、その当否を明らかにした。 ・佐久間信盛父子追放の「覚」(1580年)では、功臣の筆頭に光秀を挙げている。が、光秀に対して不満もなかったわけではない。 佐久間父子と同じことを光秀に対してやらなかったとは言えない。 ・光秀は合理主義者で信長ともウマがあったから、重用された。温厚篤実でも線が細くもなく、内省的でもなかった。統制力と指揮能力の持ち主。 ・藤田達生氏の足利義昭・光秀連携説を斬る ・明智憲三郎(光秀の子孫という)「本能寺の変 427年目の真実」を斬る。信長は光秀に家康暗殺を命令したとする。 徳川領を狙ったのだとしたらタイミングとしては最悪。 ・斎藤佐渡守利宗(斎藤利三の三男。のちに徳川幕府の旗本)の遺談。光秀が重臣たちに謀反を伝える。秀満にだけ決意を打ち明ける。 中国出陣の人数を信長に見せるのが口実。 ・四国政策の転換と斎藤利三の処分という二重の問題が絡み合い、光秀と信長の間は険悪になっていた。 ・世間に氾濫する謀略説のどこがいけないのか?黒幕が光秀とどのように接触したのか、機密漏洩の防止策、重臣たちへの説明、 黒幕が具体的に光秀を支援していないこと等の説明がないこと。裏づけ史料もない。 ・光秀の歩んだ道と置かれた環境とが本能寺の変の伏線になった |