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 私も後期高齢者と呼ばれる年齢になりました。私の父は65歳でこの世を去りましたから、私はそれよりも随分長く幸せな時が与えられているということでしょう。
 私が生まれたのは九州北端の街、門司(現在は北九州市門司区)です。幼い頃、家の小さな庭に竹薮があり、そこに巣を作っていた蜂に刺されて痛い思いをした記憶があります。祖母に連れられて、門司駅(現門司港駅)近くの踏み切りで、蒸気を勢い良く吐きながら進んでくる蒸気機関車、中でもC55型の流線形の機関車をドキドキしながら眺めていたこともかすかに脳裏に浮かんできます。
 関門国道トンネルの工事のため、その家からの転居を余儀なくされ、引っ越した先は私が入学することになった国民学校(小学校)傍の家でした。
 初等学校時代の思い出は沢山ありますが、太平洋戦争もその一つでしょう。門司の港から戦地に向かって出発する兵隊さんが、その前日から私の家に一泊されることがありました。兵隊さんから軍歌を教えてもらったり、色々と興味あるお話を聞かせてもらったりしたこともよく覚えています。そんな方々の多くが航海の途中で潜水艦の攻撃を受け、悲惨な最期を迎えられたことを知ったのは、ずっと後年になってからでした。
 おじが大分県の宇佐市にあった少年航空隊の学校に入学していたので父と時々でかけ、慰問をしていたことが思い出されます。国民全体の総力戦だったのでしょう。
 キラキラと翼を輝かせ、高空を飛ぶB29の姿も思い出せます。でも戦争が死に結び付くとの思いはしませんでした。高射砲の音、機銃掃射の音、機雷の爆発音など身近に戦争はあったのですが、幼い心はそれを死に結び付ける想像力を欠いたということでしょう。荷馬車が町を走り、学校行事の一環で馬糞集めをするなど、今の若い人たちには想像できない風景がありました。私たち家族が戦時疎開のため門司の町を後にしたその日の夜、米軍の空襲で門司の町は焼け野ヶ原になったのでした。
 終戦を迎えたのは疎開先の福岡県朝倉郡甘木町、現在の朝倉市ででした。その頃の思い出の一つが早朝の「おから」(豆乳の搾りかす)買いの行列です。安価で満腹感が得られる「おから」は人気の食材でした。早朝、少年航空隊から復員していた叔父や従兄弟たちと早起きして出掛けたものです。学校から帰ると、我が家と叔母の家族揃ってヨモギなどの野草を採りに出かけたものです。稲刈りが済んだ田圃での落ち穂拾い、水田での川にな集めなど、食に関する手伝いばかりさせられたものです。でも、雑炊やサツマイモ、カボチャが主体の今から思えば貧しい食事だったのですが、特別な飢餓感も抱かずに過ごせたことは幸せでした。
 新聞社主催の写生コンテストで入賞し、祖父が新聞でそれを知って喜んでくれなのも遠い昔です。
 終戦後、飛行場建設のために現れたアメリカ軍の10輪車を見て、見慣れた日本のトラックの貧弱さ、これでは日本が戦争に負けたのも当たり前だ、と思ったりしたものでした。アメリカ軍の野戦用の食糧を見てその贅沢さに驚いたり、始めて見るチュウインガムを珍しがったりしたのも思い出になっています。

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  昭和22年、戦前住んでいた地に戦後建設された市営の戦災住宅に入れることとなり、再び門司での生活が始まりました。学校も戦災で焼けましたので、新しく建設された校舎でしたが、未だ机も椅子もない教室で板張りの床に座しての授業だったのが思い出されます。 六年生を送る学芸会があり、女声合唱の前に私一人女性陣の前に立って「赤とんぼ」を独唱した恥ずかしい思い出もあります。そのころお世話になった溌剌として美しかった先生とは今でも年賀状の交換をさせていただいています。
     夕焼、小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か 
     山の畑の 桑の実を小籠(こかご)摘んだは まぼろしか
     十五で姐(ねえ)やは 嫁に行きお里のたよりも 絶えはてた  
     夕焼、小焼の 赤とんぼとまっているよ 竿の先   
 中学は門司市立第一中学校でしたが、新制中学校は発足間もなくでもあり、私が入学した時は未だ校舎は建設途上で、少し離れた街中の小学校の一隅を借りての授業でした。学校の引越し作業、運動場の整備作業等々汗を流すことの多かった中学時代でした。汗を流すのが当たり前と思う精神はこの時代に培われたのだと思います。 三年生の時の担任だった理科の先生が私の人生に方向性を与えてくれたと思っています。獣医学が専門の先生でしたが、教室にはウサギの皮が何枚も置いてあり、人造絹糸の合成実験や、海でのプランクトン採取、夜の天体観測等々、 色々と自然科学に親しみ興味を覚えたことが、化学の道に私を進ませる動機付けになったと思っています。
 焼け跡でガラス塊や焼夷弾の残骸の古鉄を集め、古物商に持ち込んで僅かな金銭を得て、ラジオの部品を購入し、組み立てなどして楽しんだものです。飽食の時代の今日、そんなことが楽しみにならない不幸を思うと、 私が過ごした戦中、戦後の混乱期の少年時代は何事でもが充実感に満ちた日々であったと幸せに感じています。最近の世相を眺めていると、感謝することが少ない人生は空虚なものだと思ってしまいます。
 高校、大学での苦しかった勉学、そして日本の高度成長期に、子育ては妻に任せっきりで寝食を忘れて仕事に没頭した歳月、目標を目指し時間を忘れて取り組んだ技術者としての人生に心残りはありません。今はそんな生活にもピリオッドをうって、静かに歩んできた道を振り返る幸せを与えられ、地域活動を通じて得られる暖かい友情に恵まれる、そんな日々を送っているのが私です。