私は社会人になって三年が過ぎた頃、技術ライセンスによりイタリアに建設された工場の試運転に立ち会うという機会を得ました。正月を挟んで四ヶ月余りの極寒期にミラノの近くで過ごしたのですが、仕事の合間にイタリア各地を散策することができました。アメリカの大統領だったケネディーが暗殺されたニュースを聞いたのはベネティアででした。当時のイタリアでは未だ日本人は珍しく、「チニーゼ、チニーゼ」と中国人に間違えられたものです。その頃の私の月給は二万円あまりでしたから、日本人が昨今のよう気楽に海外へ遊びに行くことは難しかった時代だったと思います。イタリアで目にする旅行者の多くはリタイアしたのであろう年配のアメリカ人の夫婦連れでしたが、日本人もいまではそのレベルの生活ができる恵まれた状況にあり、今日よりも明日を、と努力してきた成果を享受出来ていることを感謝しなければと思うのです。

 その時から四十年余りになりますが、イタリアを再訪するという夢を実現させることができました。
 再び訪れたイタリアは四十年前と同じ姿で私の前に現れました。 ミラノの大聖堂の上から眺めたガレリア、「ビットリオ・エマニュエレU世 アーケード」は昔のまま、市内で見かけた市電も四十年前のまま、イタリアは時を忘れたかのように永遠を感じさせてくれました。
 ダビンチの「最後の晩餐」は以前、簡単に見れたように思いますが、今は厳重な保存管理がなされているのが時代の変化なのかも知れません。又、観光客が多くなったのと、落書きが激しいのが当時との違いかも知れません。

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 ローマからナポリへ下り、ポンペイの遺跡など散策し、ローマへ戻っての夕食をアメリカ人のグループと一緒になって楽しみました。イタリア男の美声での素敵なカンツォーネを聞いたり、ダンスをしたりと時間を忘れて楽しみました。
 やはり今回の旅で印象に残ったのはフィレンツェで、ミケランジェロ広場から眺めた早朝のフィレンツェの街は本当に美しく、その場を去りがたいものがありました。
 40年前ケネディの暗殺の報に接したりした想い出深いベネティアでは、サン・マルコ広場のカフェテラスでカプチーノなど頂きながら、時間を忘れて若かりし頃に思いを馳せていました。最初のベネティア訪問時にはムラノ島へ渡り、ベネティアングラスの一輪挿しを買い求めたのですが、今回は小さなペンダントを記念に買い求めました。
 多湖地帯ではマジョーレ湖には行っていましたが、コモ湖には初めて行ったのですが、湖畔に並ぶ有名人の別荘はそれぞれ特徴があり、又自然に溶け込んでとても魅力的でした。
 今回の旅で一番行ってみたかったのはアッシジでした。聖フランチェスコが生れた町です。 

  「平和の祈り」(フランチェスコ)

  私をあなたの平和の道具としてお使いください。
  憎しみのあるところに愛を
  争いあるところに許しを
  分裂あるところに一致を
  疑いあるところに信頼を
  誤りあるところに真理を
  絶望のあるところに希望を
  闇に光を  
  悲しみあるところに喜びをもたらすものとして下さい。
  慰められることより慰めることを
  理解されるよりは理解することを
                              愛されるよりは愛することを
                              私が求めますように。
                              私たちは与えるから受け
                              ゆるすからゆるされ
                              自分を捨てて死に
                              永遠の命をいただくのですから。

 これは人間が神に対して祈った最高の祈りだと言われています。限りなき謙遜、人間にとって最も難しい課題ではないでしょうか。人を許すと言う行為、これができないところに人間の争いがあります。絶え間の無い戦争、それがこの祈りから最も遠いところにある人間の欲望の表れではないでしょうか。原罪を持つ人間はそのくびきから逃れることができません。
 アッシジの聖フランチェスコ聖堂で、神が人間に教えてくださった「主の祈り」を唱え、アッシジを後にしました。
 想い出を辿る旅は深い印象を私の心に刻みつけ、いつまでも、いつまでもわたしを励ましてくれるでしょう。