●第弐節:奇妙なコイン●

「あれ?」
「分からない? 特に『そっち』の感覚がない人でも十分感じ取れる強さだと思うけど」
 君は、背中越しに「それ」の存在する気配――うなじの毛がチリチリ帯電する感じ――を感じながら続けた。
「入り口から二番目の窓際の、緑色の硝子瓶の中身さ。古い外国の貨幣の入れてある」
「……もしかして、あの、奇妙な模様の刻まれたコインの事?」
 君の背中越しに、ちらりとさんの多い古風な出窓を見やった後、どこか、それの事を話題にするのをためらうような様子を見せながらフレアが聞いてきた。
「そう、それだと思うよ」
 振り向きもせずに君は答えた。
「思う?」
 君の奇妙な言葉に、フレアが眉をひそめる。
「調べてみたわけじゃないからね」
「調べてもないのに、あるのが分かるの?」
 フレアの声を不審の色が微かに彩る。
 それに構わず、君は屈託のない様子でフレアを見返し、その疑問に答えた。
「生まれつきね、鋭いんだよ。――霊感とか、直観力とか、その手の類がね。だから、分かる。尤も……」
「尤も?」
「あれだけの殺気を発しているんだ、普通の人でも何かしら感じられるとは思うけど。はっきりとは分からなくても、何となく薄気味悪いとか、居心地が悪いとか」
「それがお客さんの入りの悪い原因?」
「多分ね。俺みたいに耐性のある人間ならともかく、普通の神経の人間はあまり近づきたがらないんじゃないかな」
 そう言って、君はまだ温もりの残るコーヒーカップに唇をつける。
「そっか、……困ったね」
 フレアが誰にともなく呟いた。
「何も困る事はないさ、問題のコインを処分してしまえばいい。何なら、良い故買商でも紹介しようか?」
 何の気なしに軽い調子で返した所で、君はフレアの様子が変化している事に気づいた。
 握り締めた右の拳を下唇に当て、視線を斜め下の方に泳がせている。短くもない付き合いの間に、君はそれが何かを真剣に考えたり、判断しようとしている時のフレアの癖である事を知っていた。
「おい……」
「……もしかして、あなたもそれが目的?」
 何かまずい事でも言ったか、と続けようとした君の言葉を遮って、フレアが君にとって予想外の質問を投げかけて来た。
 フレアの瞳は真っ直ぐに君に向けられ、君の僅かな表情の変化すら見逃すまいとしている。
 その視線には、いつもの馴染んだ柔らかさはかけらもなく、見ず知らずの人間に対する時のような、いや、あたかも敵対している人間に対する時のような緊張感があった。
「おいおい、どうしたっていうんだい、恐い顔をして。そんなんじゃ、近在でも評判の折角の器量が台なしだぜ」
「真面目な話。――答えて」
 砕けた口調で、場の緊張を解こうとした君であったが、フレアはにべもなくそれを無視し、感情を削ぎ落とした口調で問うて来た。
「俺はそんなヤクザなコインになんか興味はないよ……何か、あったのかい?」
 見つめ返したフレアの瞳にどこか怯えの色を見て取った君は、少しでも彼女に安心感を与えようとできる限り大人びた落ち着いた口調で答えた。
 フレアはその問いには答えず、ただ無言で、様子をうかがうように君を見つめている。
 ――痛い程の沈黙。
 耐え兼ねたかの様に、先にその沈黙を破ったのはフレアであった。
「……うん、なんでもない。ちょっと偶然が重なったんで、猜疑心しちゃいました。――ごめんね」
 言って、努めて明るく平静を装った様子で頭を下げ、軽く舌を出す。
「偶然?」
「もう、なんでもないよ」
 そう言いながら、気恥ずかし気にフレアが胸の前でぱたぱたと両手を振る。
「……あなた『も』って言ってたよな。で、『偶然』」
「いや、だから……」
 誤魔化そうとするフレアには構わず、君は言葉を続ける。
「誰かがそのコインを売ってくれと言ってきたとか?」
「それは……」
「ここ最近、何か身の危険を感じるような事はなかった?」
 君の質問に、虚を衝かれた様子を見せてフレアが黙り込む。
 君は無言のまま、コーヒーの芳香を楽しんでいる振りをしてフレアの答えを待った。
「……どうして、そう思うの?」
 しばしの逡巡の後、声を低めてフレアが問い返してくる。
「二、三日前からちょっとふくよかな感じがしているしね。胸元に何入れているの?」
「分かる?」
「見る人が見ればね」
「――ばれるような隠し方していないつもりだったんだけどな」
 悪戯を見つけられた子供のようなばつの悪い、それでいながら何処かすっきりした表情を浮かべてフレアが低く呟く。
「見せてくれる?」
「――見せたら、うまい隠し方教えてくれる?」
「必要ならね」
「約束だよ」
 そう言って、ちらりとベストの裏側を開いて見せる。
 君の目は、ベストの内ポケットから小ぶりの木製のグリップが覗いているのを見て取った。
「デリンジャーか、悪くはないが……」
 君は一瞬の印象だけで、フレアがベストの下に隠している武器の正体を当ててみせた。
 レミントンダブルデリンジャー。袖の中にも隠せるほど小型軽量の拳銃で、かつてリンカーン大統領の暗殺に使われた事で有名なコンシールウェポン(隠し武器)である。
「だって、店長のがらくたの中で護身用に使えそうなのって、これくらいしかなかったんだもん」
 非難でもされたと感じたのか、拗ねた様にフレアが唇を尖らせる。
「――で、そんな物騒なものを持ち出さなければならないようなわけってのはなんなんだい?」
 半分誤魔化すつもりで、君は話題を無理に元に戻した。
「でも、話したらあなたに迷惑をかけそうだし……」
 ここに到っても君に事情を話す決心がつかないのか、フレアは語尾を濁す。
「気にしなくていいさ。俺はただ自分にとって大事なものを守りたいだけだから」
「大事なもの?」
「――この店で過ごす安穏とした平和な時間さ。うまいコーヒーを飲ませてくれる店を新しく探すのは厄介だしね」
「……それだけ?」
 何か期待していた言葉でもあったのか、フレアが拍子抜けした様子を見せる。
「そうさ。――尤も、これは表向きの理由でね」
「表向き?」
 聞き返すフレアの声に期待の色が混じる。
「そう、裏の理由は、ま、単なる好奇心さ。俺は神経が繊細なんでね、気になる事があると夜ゆっくり眠れない」
「……それだけ?」
 聞き返すフレアの声に不穏なものが混じる。
「それだけさ。何か不満でも?」
 いたって真面目な――突っ込む隙のない――口調で君が答える。
「不満なんて、ないけど。――けど、もう少し気の利いた理由とかないの? うら若き、か弱い乙女が、何時、何処から襲ってくるか分からない危険に怯えているっていうのに」
「か弱い乙女? そんな娘、どこにいるんだい?――とわっちゃ!」
 言い終える前に、フレアが手に持っていたティーポットを君の頭の上に乗せる。沸いてから結構な時間が経っているため火傷をするほどではないが、十分に熱い。
「あっちゃあ、ひでえ事しやがる……禿げたらどうしてくれる?」
「自業自得。――ま、禿隠しの帽子くらいなら買ってあげるよ」
 普段と変わらない、ちょっとした毒を薬味に利かせたたわいのない言葉の応酬が続く。
 それがフレアの気負いをほぐしたのか、ほどもなく、フレアの口から独り言を装った問いかけがこぼれた。
「……話しちゃって、いいかな? 話したから必ず迷惑が掛かるというものでもないだろうし」
「そうそう、一人で抱え込んでいないで。ただ、話すだけでも気分が大分違うからね」
「そうだね、――おかわりいる?」
 掛け合いの間に空になってしまった君のコーヒーカップを見てフレアが言う。
「お願いしようかな。おごり?」
「相談料という事にしておくよ」
 いつもの会話。いつもの空気。
 君は、一時的とはいえ、自分の大事なものが戻ってきた事に満足を覚えた。
 豆を挽く音、湯の沸く音、そして、それに続く芳醇な香りが会話の途切れた二人の間を繋ぐ。
 そしてほどなく、かちゃん、と音を立てて、君の前にコーヒーカップが置かれる。
 その陶器独特の澄んだ音の響きに、鈴を鳴らすようなフレアの響きの良い声が重なる。
「話すと長いんだけど――」
「――話さないと実に短い」
 先ほどまでの調子で、ついちゃちゃを入れてしまった君を、ひどく居心地の悪い沈黙が迎えた。
「……話すのやめるよ」
「冗談、冗談。もう話の腰を折らないから聞かせて」
 カウンターの上で土下座の真似事などする君を軽く睨みつけると、フレアは再び口を開いた。

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