名君と慕われた吉良公の眠る菩提寺
第二十八番札所 片岡山 華蔵寺 (けぞうじ)
御詠歌 しろあかと わかれて咲くや たまつばき もとはひとつの 御仏の道
華蔵寺 山門 華蔵寺 本堂
如意輪観世音菩薩 59 |
の東、吉良用水路に沿って北へ 約1.8km。 北へ、県道42号線を北に進み「寺 島」交差点から200mに寺の標識 があり左折して約600m。 |
華蔵寺は金星山華蔵寺と称し真言宗であったようです。貞和年中(1345〜1349)に、一峰一禅師が住持したといい、以前は花蔵寺村(現西尾市)にあったと伝えられている。吉良氏は鎌倉時代から西尾の実相寺が菩提寺であった。 義定の時に華蔵寺を建てて菩提寺とした。慶長5年(1600)に吉良義定が亡き父の追善のために、片岡山華蔵寺と改めた。美濃国加納の成徳寺から臨済宗妙心寺派の高僧月船禅師を請して開山となし、厚く三宝に帰依せられた。 なお、その孫義冬公の斡旋により徳川三代将軍家光公の台聴に達し、肇めて寺産の印章を拝受し永く官役宥許の恩命を得て吉良家の香華所として知られています。 吉良義央は父義冬が寛文8年(1668)に61歳で没したので、父の冥福追善のため田地一反七畝七歩九合を寄進。 翌9年(1669)に京都の妙心寺より天英和尚招請して華蔵寺四世とした。 元禄3年(1690)義央50歳の時、本堂西に霊屋をつくり、吉良氏で従四位上に叙せられた義定、義安、そして自像を安置した。 また、華蔵寺の梵鐘もこの時の寄進で、惣司に斉藤金右衛門忠行、副司に斉藤伊左右衛門左衛門尉盛敬と富田重左衛門直次が当たったと記録されている。 主な寺宝 愛知県文化財指定 吉良上野介義央木像、池 大雅筆襖絵四拾面、池 大雅筆山門額その他数点 吉良町文化財指定 梵鐘 吉良義央公寄進 職人絵巻物壱巻箱入、達磨大師慧能大師尊像六福、和歌短冊二葉(義央公直筆)、 書状数葉(義央公直筆) |
| 3月 | 彼岸会 | 9月 | 彼岸会 |
| 4月 | 降誕会 | 12月 | 吉良義央公毎才忌 |
| 8月 | 施餓鬼会 | 、 | 、 |
| 金蓮寺を参拝し境内を出ると午後1時を過ぎていた。表通りまで出て、食堂に入るも冷房が利いて汗は急激に引いた。 食事を取ってコーヒーを飲み、暫く休憩をした後、タクシーを呼び28番札所華蔵寺、32番の法厳尼寺を経由し西尾市に入る。 山門前に「吉良義央遺跡」と刻まれた大きな石碑がある。 山門をくぐり、急勾配の石段を登りながら数えること30段。扁額に「華蔵世界」と書かれた中門を出ると正面に本堂、左の高台には吉良氏影堂、さらに上には吉良公一族の墓地があります。右には、庫裡、書院、そして門の右脇に朱塗りの鐘楼がある。 庭園は本堂の裏手にあって、江戸時代の中期に作庭されたという枯れ山水観賞式庭園は、ツツジが咲き見事でした。 忠臣蔵で知られる、浅野長矩公と刃傷沙汰を起こした吉良上野介義央公の墓には、お参りの方が続き線香の煙が絶えない。 元禄14年(1701)3月14日吉良上野介義央公は、浅野長矩公に傷つけられ、願いにより隠居し、義周(歳17歳)に家督を相続する。この年本所松坂町に移住。 元禄15年(1702)12月14日夜丑寅の間に、赤穂浪士に討たれて落去(62歳)。牛込万昌院に葬られ、華蔵寺へ分骨された。 私の、忠臣蔵の出会いは小学生の頃、父と映画を見に行ったのが最初でした。その後、成人になり幾多の忠臣蔵映画、テレビを鑑賞し、そのたびに浅野家側に人情で声援を送ってきました。たが、今回、華蔵寺のお寺に参拝し、吉良氏の地元での評判、「真実を求めて」の碑の文面からこれまで抱いていた気持ちを全てリセットしました。 一方だけの情報で判断しては、間違いを起こすことを改めて知ることが出来ました。 参拝後は、急な石段を避け左の坂道を下り、坂の途中で句碑を見付けました。 大正7年4月(1918)俳人村上鬼城氏(1865〜1938)はここ華蔵寺に詣で、画帳にこの句をしたためた。 お気の毒な吉良様 三百年もの間 世間では憎まされた あんなに名君でありながら.... 鬼城の思いが惻々と伝わってくる。 吉良町教育委員会 行く春や 憎まれ ながら 三百年 鬼城 当山へ参拝のおり詠まれた、歌人土屋文明氏(1890〜1990)の短歌を紹介します。 どうだんの白くたれたる山陰に こもりし人はほまれも悪くみもなし 雲母寺に古の話きき居れば 人の世はいまも偽りおほし |
| 吉良氏影堂 吉良上野介義央公墓 |
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経 蔵 この経蔵は吉良さん(上野介義央公)が元禄13年(1700)に寄進したものです。時に60歳でした。 吉良さん300回忌(平成14年12月14日)に当たり記念事業として復元修理されました。 創建当初の姿の再現を願い、修復前は瓦葺きでしたが創建時の優美な格調高い柿葺きにもどされました。 (平成14年12月25日) |
| 梵 鐘 元禄3年(1690)吉良さん(上野介義央公)50歳を期し、この梵鐘を寄進された。 |
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真実を求めての碑 |
人を斬る刀はあっても、時の流れを断ち切る刀はないといわれる如く、風習と観念は、時代と共に変遷する。 元禄時代に吉良義央公と浅野長矩公との間に不和を生じ、その処理に冷静さを欠き、殿中で浅野公が刃傷に及んだ事から、幕府の掟に触れ、家は断絶、身は切腹という事になった。 浅野公の舎弟大学氏の後継が不首尾になった結果、旧臣たちは禄を離れることになり、一か八かで吉良公を討ちとったが、当時の学者と協議して、赤穂浪士に切腹を命じた。 吉良公は、治水等の功績が大で、評判の良い名君であったからである。 名君を暗殺したものを忠臣としたのでは、武士道にも反し芝居にならないので、小説家、劇作家たちが、興味本位にいろいろのつくりごとをして、吉良公を極悪人に仕立て上げ、忠臣蔵として世間に広めたものである。 日常交際のイザコザを、殺し合いで解決したのでは、人間としても恥ずべき事であり、世の中が殺伐となる。お互いが腹のにえくりかえるような事があっても、どちらかが「汝の敵をも許す」といった人類愛に目ざめたならば、世の中は明朗となる。 現在、吉良と赤穂の人々は、お互いに恩讐をのり越えて交歓しているが、これは喜ばしい限り。 本事件の犠牲となって亡くなられた吉良家々臣の二十余士の方々も、誠に気の毒の極みであり、このたび供養の塔が建立されたのは、せめてものつぐないといえる。 ここに吉良公遺徳の一端を述べ、世の誤解を解き、霊の安らかならん事を心から希うものである。 もろもろの うらみつらみを泡と消し 心やすけく 生きなんわれら 昭和五十一年九月一日(1976) 大竹仙松 記 |
| 日本庭園 江戸時代の中期に、作庭された枯山水観賞式庭園です。 |
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