ノーマライゼーションについて
ノーマライゼーションという言葉は大変重い言葉だと思います。人間の歴史はありとあらゆる「差別」と「閉じこめ」の歴史ともいえますし、「差別のもと」「閉じこめのもと」を作り出す歴史でもあります。そして今でもありとあらゆる差別や閉じこめが横行していますし、「差別のもと」や「閉じこめのもと」が作り出されています。交通事故は沢山の障害者を生み出し続けています。地雷は沢山作られております。社会の仕組みは、高齢者や子供達を閉じこめるように動いています。
子供の虐待のニュースは後を絶ちません、弱くてかわいらしい子犬の足を切る者もいます、何処かに地雷を作り続ける者がいます、暗澹たる気持ちになります
そしてまた、人間の歴史は差別と戦う「やさしさ」の歴史でもあります。いつの時代にも、感動的なやさしさの事実があります。
今この時代、この二つの矛盾する事実のニュースは世界中から毎日伝えられます。ニュースの中で小さくても歴史に関わる者としてどのように行動するかが問われます。
今我々に提起されている問題は、ノーマライゼーションにしろサステナビリティにしろ、我々個人にとってあまりにも大きな問題で、たとえて言えば「人間は魚になれ」と言うほどの厳しい試練です。「人間は魚にはなれない」と捨て鉢になって、「泳ぎの練習」を諦めてしまうような側面を持っています。
人が集まり住む都市や建築を造ることの中に役割を持つ者として、自分の仕事の中でノーマライゼーションという範疇のことについて考える機会が多いのですが、その中で感じてきたことを述べてみたいと思います。
通常、仕事の中では、街や建物を使う人たちのことを考えます。使う人とは、子供も大人もお年寄りも体の不自由な人も弱い人もあり、寿命が縮まる程気を使いながら考えます。その時自分の心にあるのは「やさしさ」と言う漠然とした基準です。
「やさしさ」とは何だろうかと考えます。この言葉は「やせる」から来た言葉だと習った記憶があります。「人にやさしい」とは「人にやせる」ことだと思えばいいし、「自然にやさしい」とは「自然にやせる」と思えばいいと考えます。この大変主体的な言葉の持つ厳しさの意味が大切です。「やさしさ」という言葉は、何処かに必ず健全な意味での厳しさを伴うものなので、そのバランスを考えることがノーマライゼーションを前提とする環境作りには欠かせません。
1970年代から始まった主として障害者に対する行政的対応によって、ノーマライゼーションを指向する法律や基準は沢山ありますが、未だにまだ啓蒙的時代です。社会全体では小手先の対応が多く、心の通わない機械的なものが多いと思います。
広島の街を歩いてみるとそのことがよく解ります。車椅子で通れるスロープが在れば良しとする作り方が至る所にあります。狭いところよりも広いところを大事にする街づくりです。広い道の電柱はなくなっても狭い道の電柱はなくなりません。暗くて長い地下通路には恐怖を覚えます。
「やせる」ことなくしては「やさしさ」はないことは、個人的には誰でも知っています。しかしながら、当事者としては大変残念ですが、人が集まり住む都市や建築は「太ること」に主眼をおいてきました。このことを考えるとき、20世紀までの進歩の指向への大きな反省があります。
効率、合理、分類、区分、整理、クリーン、明快、単純化、等により、技術化可能な部分の切り取り整理による技術の時代が20世紀だとすれば、今その時代が通り過ぎて行きます。これからの時代、街づくりのテーマは「統合」だと考えています。ノーマライゼーションもその範疇にある理念だと思います。