原子爆弾の思い出

あの日のことと姉のこと     錦織亮雄

田道間守(たじまもり)の歌をご存じですか?

香りも高い橘を積んだお舟が今帰る
君の仰せを畏こみて万里の海をまっしぐら
今帰る田道間守 田道間守
おわさぬ君の陵に泣いて帰らぬ真心よ
 .............   .................  
今帰る田道間守 田道間守

私はこの歌を聴いたり思い出すと、あの日のことや姉のことで心の中がいっぱいになり他のことは考えられなくなってしまいます。

日常のばたばたした忙しさにかまけて、この歌のことも、あの日のことや姉のことも思い出すことが少なくなってしまっていたのですが、今年の3月に腰の手術をしてしばらく入院と自宅療養をしていましたら、初めての痛さに耐える苦痛の日々と時間の余裕との中で、姉の苦悩のことを思う日が続きました。

戦争が終わりに近い頃、私の父が陸軍軍属として任官していた陸軍被服廠は他の軍需
工場と共に空襲を避けて山間の町に疎開していました。
今庄原市になっている当時の庄原町が父の部隊の疎開先でした。陸軍被服廠庄原隊と
言い父がその隊長で広島に家族を置いて単身庄原に赴任していました。

そのころ我が家は広島の白島中町にあり、小学2年生の私と5年生の姉と山中高等女学校2年(正式には、広島女子高等師範学校付属山中高等女学校)の上の姉と3歳になる弟と母と祖母と曾祖母の7人家族が父と離れて暮らしていました。空襲が激しくみんな疎開して行きましたが、軍人の父が疎開をいやがりました。自分の部隊は疎開しているのに家族の特に学徒動員で家屋疎開や工場で働く女学生の姉には広島で頑張るのが戦争への参加だ、疎開とは逃げ出すことだ、と厳しく言っていました。

この父親を母が必死になってやっと説得して父のつとめる庄原へ疎開することにした
のが昭和20年の7月の終わりでした。小学生の転校手続きはすぐ終わりましたが、
上の姉は義務教育ではないし山中高女は良い学校だったのでどこの学校へ転校するか
で時間がかかっていました。結局三次(みよし)女学校へ移ることに決めて山中高女の先生の所へ相談に行ったのが8月5日の日曜日でした。

8月5日の夜は空襲警報が激しく防空壕に入ったり出たりの一晩でしたから、8月6
日の月曜日の朝は開放感のある朝でした。転校が決まっている我々小学生は学校に行きま
せんでしたが、頑張りやの戦時女学生の上の姉は、転校も決まって少し晴れ晴れした
様子で、最後までちゃんとしなくてはと普段より張り切って学校ではなく動員の現場
に出かけました。

その時、私は、母が風呂場で洗濯(洗濯板とたらいです)をするのをぼんやりと見ていました。小さな弟はしばらく庭で遊んでいたのですが一人遊びは危ないので祖母が連れ戻して一緒に台所にいました。下の姉は曾祖母と一緒にお座敷で行李に着物を詰めていました。上の姉をのぞいて、一家6人が全員家の中にいました。

一度に何万ものマグネシュームを焚いたような光が家の周りを包みました。「ぼっ」と不気味な音もしたように思いました。
「うちの庭に爆弾が落ちた !」と母が叫びました。私はすぐにその庭が見たいと駆けだして、廊下を走り玄関を通り階段室の狭い空間を抜けようと階段下までたどり着いたとき
ものすごい大音響が起きて、目の前をお座敷から飛んできた長い帯がうねったのを見たのですが、それから先は何も分からなくなりました。

閃光と大音響の破壊との間に、あれだけ走る時間があったのですから、ずいぶん長く感じました。後でこの何秒かの間に広島で起こっていたことを考えてみると身が凍る思いです。
爆心から1.3キロを爆風が走った時間だと思いますが、この世で一番恐ろしい時間だったと思います。

小さな弟と祖母は狭い台所で奇跡的に下敷きになりませんでした。姉と曾祖母は爆風で飛ばされましたが、姉はつぶれた廊下の端に止まり、曾祖母は庭に飛んで庭草に救われました。祖母は力の強いしっかりした人で、いつも防空訓練の優等生でしたが、この時も大活躍で怪我はしていましたが小さな兄弟3人と曾祖母を助けて庭の防空壕の前に集めました。肝心の母はうめくような声を出して完全に下敷きになっていましたが、何とか祖母が助け出しました。

家から約100メートルの所に長寿園公園がありそこが指定の避難場所でしたからそこまで避難しましたが、私には煙と埃と血液に包まれた悪夢のような記憶です、一家全部が血だらけで自分たちではないようでしたし、特に母の顔からぽとぽとと血が落ち続けていたのを覚えています。この100メートルの道のりは瓦礫と電線でいっぱいでした。途中で木に引っかかった赤ん坊を見たり、家の中から聞こえる助けを求める叫び声も聞いたり、母が気を失ってそれを祖母がたたき上げて正気にさせたり、追ってくる炎におびえたりしながら長寿園にたどり着きました。この間白島北町の人たちは怪我を押して力を合わせ延焼する炎と闘いついに北町の端でくい止めてしまいました。

父が寄越してくれたトラックが迎えに来るまで、草原の上でその日とその夜とその明くる日を過ごしました。母は歩けませんでしたので、祖母が炎をかいくぐって防空壕に食べ物を取りに行ったり、午後からは帰らない姉を捜しに出かけたりしましたが夜になっても姉は帰ってきませんでした。この時の長寿園での二日と一晩は、悲惨を通り越して何か崇高とも言えるような人間ドラマとして記憶に残っています。

長寿園で沢山の人が死んで行きました。そして沢山の、他人を助けるために必死になっている人も見ました。その長寿園での夜、小学三年生と四年生ぐらいの姉妹が、川縁の砂の上に座って二人で突然歌い始めた歌がこの「田道間守」でした。きれいな声でしたがそのもの悲しい歌声は、周りにいる人たちにその子たちがもうすぐ死ぬことを予感させました。
おそらくこの子たちの両親や家族はその日のうちに逝ってしまっていて、後を追う気持ちをこの歌に託したのでしょうか。

明くる日にも祖母は死屍累々の焼け跡に姉を捜しに行きましたがとうとう見つからず、迎えのトラックに乗る時が来てしまいました。母は姉を見つけるまで絶対に帰れないと言い張りましたが、その母も大怪我で歩くこともできませんでしたし、私たち子供を早く安全なところへ連れ帰るのが先決でしたから、後ろ髪を引かれながら家族は姉を残してトラックで父のいる庄原へ一晩がかりで本当に命からがら8月8日の朝に帰り着きました。

母も祖母も傷の手当を受けるとすぐ父も加わって、我々子供も仕方なく連れて、その翌日からトラックに医者や看護婦を乗せて姉を捜して彷徨いました。その時私は広島の町の全部がきれいに焼けているのを見ました。どこからも安芸の小富士が見えました。うちの家のシェパードが生きているのを見つけたり、庭の鯉が生きているのも見つけました。私がいつも虐められていた父親と二人暮らしだったガキ大将が焼け跡に穴を掘ってその父親を一人で棒でつつきながら焼いていました、悲しそうな姿でした。

うちの家の焼け跡に大きな立て札を建てました。姉の消息を庄原に知らせてほしいというものでした。姉は全く見つかりませんでしたが、あの日から一週間が経った13日の朝、庄原に電話があり姉が東洋工業の工場の中に収容されていることが分かりました。自分の子供を探しに行った人に姉自身が白島の自分の家の住所を教えたのです。そしてそれを聞いた自分の子供を捜していた人が、遙か白島まで焼け跡の中を歩いて来て立て札を読んで電話して下さったのです。お礼を言うと、子供を捜すもの同士お互い様ですと言われたそうです。その人の子供さんは見つかったかどうか今でも気がかりです。

医者三人、看護婦二人に父が乗り込んだトラックですぐに東洋工業への迎えが出発しました。その日の午後遅く姉が帰ってきました。右半身のほとんどが焼け、不思議なことに口の中までひどく焼けていました。東洋工業で手当を受けたらしく布団の綿をお茶に湿して傷に当ててありました、皮膚の中に沢山のウジ虫がわいていて、看護婦さんがピンセットで必死に取り除くのですが間に合わず私達家族も総出で箸も使って取り除きました。姉は苦しかったと思いますが、最初に父にあの朝からの出来事を詳しく報告しました。被爆した場所、家の方に逃げたかったが火の海に遮られたこと、東に逃げた友達の名前、途中の川に水ほしさで入っていった友達の名前、出汐町あたりで気が遠くなってしまったこと、東洋工業で会う人会う人に家の場所を教えたことなどを苦痛の中で必死で語り続け、何とか家で二日間生きていましたが、報告が終わった15日、終戦の玉音放送のすぐ後に、急に静かになって家族にお礼を言って焼けてはいましたが安らかな顔で死んでしまいました。

家族に一目会いたいと思いながら、見つけられる保証もなく、東洋工業の工場の片隅で苦しんだ一週間はさぞつらかったと思います。私は腰の手術で苦しみながらこの時の姉のことを思い出して頑張りましたが、もとより比較になるような苦悩ではありませんので、姉の苦しみを分かったなどとは思いません。ただ自分の手術の経験が大切なものを思い起こすきっかけになったのを大切にしたいと思います。