鉄血宰相の決闘

 


 

 2004年前半のトピックの1つは年金ですね。国民年金未納の国会議員がぞろぞろ出たり、年金改革法案のミスが可決後にわかったり、重要なデータを後出しにしたと厚生労働省が責められたり、やたらとにぎやかでした。

 

 ところで、日本の公的年金制度の手本となったのは、ドイツ帝国の社会保険です。このころのドイツは、おくればせながら産業革命が進展し、それに伴ってふえていく産業労働者による労働運動が高まりつつありました。これを脅威と見た宰相ビスマルクは、いわゆるアメとムチ政策で乗り切ろうとしたのです。ムチは1878年に制定した社会主義者鎮圧法で、アメは83年の疾病保険法、翌年の労災保険法、そして89年の老齢・障害保険法の制定による社会保険の導入でした。

 

 1862年9月にプロイセンの宰相となって、その1週間後に下院で行った「鉄と血」演説で鉄血宰相と呼ばれるようになり、66年には不利と見られていた普墺戦争に勝利し、70年の普仏戦争では莫大な賠償金とアルザス及びロレーヌ地方の大半を獲得し、71年に長く続いた諸邦分立状態を終了させてドイツ帝国をつくり上げ、そのままドイツ帝国宰相となったオットー・フォン・ビスマルクは、その強烈な個性で今も歴史好きを魅了しています。伝記はいくつも出ているので、まっとうな話に関心のある方にはそちらをお読みいただくことにして、ここでは保守的な土地貴族ユンカー出身の彼が名誉ある行為として重んじた決闘にまつわる逸話を少しご紹介いたしましょう。

 

 

《月平均1.7回》

 1832年5月に入学したゲッティンゲン大学で、ビスマルク氏は右翼的な同郷学生団体ランツマンシャフトに加入しました。ブルシェンシャフトという団体もありましたが、そっちは進歩的で左翼的なところが趣味に合わなかったし、ランツマンシャフトの方が決闘の機会が多くておもしろかったからです。この大学にいた1年半の間に、彼は25回も決闘をやらかしました。28回説もあります。そのほかに、酒瓶を窓から投げ捨てるなどの乱暴狼藉も働いていましたが、勉強は結構ちゃんとやっていたようで、その後移ったベルリン大学を35年3月に卒業すると、5月には司法試験に合格して、ベルリンの裁判所に職を得ました。

 

 

《オーストリアが何だってんだ》

 1813年、フランス革命政権のナポレオン軍を、それに対抗して近隣諸国で結成した対仏大同盟が撃破。翌年、ヨーロッパの新秩序を打ち立てるためのウィーン会議が開かれました。そして、35の君主国と4自由都市で構成するドイツ連邦が成立しました。51年、ビスマルク氏はこのドイツ連邦の議会にプロイセン代表として派遣されたのです。

 

 連邦加盟国の中央機関であるこの議会では、各国がそれぞれの規模に応じた票数を持っていて、重要案件は全会一致でなければ採択されませんでした。老舗のオーストリアだって、議長国と定められてはいたものの、優位な立場にあるわけではないのです。それでも、自分が1番、新興国のプロイセンはせいぜい2番という姿勢を崩そうとしません。ビスマルク氏は怒りました。オーストリアとプロイセンという保守的な国同士、高まりつつある自由主義を蹴散らして秩序を維持していこうと思ったのに、何たることか。

 

 さて、公式にはみんな平等の議会ですが、オーストリアには不文律の特権がありました。オーストリア代表だけが会議の席で喫煙してもいいことになっていたのです。ビスマルク氏はここに目をつけました。オーストリア代表がたばこに火をつけると、自分も吸います。不文律なんだから、表立って非難できる人はいなかったのでしょう。しばらくそんなことが続くうちに、我々だって負けてなるものかと他の国の代表もたばこを吸い始めてしまったのでした。

 

 翌年、保守派のビスマルク氏と仲の悪い自由主義者のフィンケ代議士Georg Freiherr von Vinckeがこの件を取り上げて、ビスマルクが連邦議会でやったことといえば、たばこを吹かすことぐらいじゃないかと揶揄しました。そして、売り言葉に買い言葉。3月25日の朝8時、ピストルでの決闘となったのです。結局、どちらも弾を相手に当てることなく終わりましたが、ビスマルク氏には妻の大目玉が当たりました。

 

 

《自分自身との……》

 ビスマルク氏は健啖家でした。日中に最低5品の食事を2回とるのがスタンダードで、さらに、晩餐に招かれてはしこたま詰め込み、甘いものを好んで食べ、しかもそれらをビールやワインで流し込むという暴飲暴食ぶり。宰相という激務についていたとはいえ、やっぱりたまるものはたまります。65歳のときには体重が125キロ近くあったとか。150キロという説もあるくらいです。

 

 当然、周りの人は心配します。何人もの医者が忠告しましたが、ビスマルク氏は聞く耳を持ちません。ところが、その2年後、やっぱり肥満体だった息子のヴィルヘルムが医師の助言に従ってみるみるやせ、1年間で30キロの減量に成功したのを目の当たりにして、ついにビスマルク氏も脂肪との決闘を決めました。そして、数カ月の厳しいダイエットの末、体重が100キロを切るまでになったのです。

 

 この頑張りが功を奏してか、83歳まで長生きしました。

 

2004年8月17日)

 


 

【主な参考文献】

 

★『ビスマルク伝1〜8』エーリッヒ・アイク著 救仁郷繁等訳 ぺりかん社

★『ビスマルク 生粋のプロイセン人・帝国創建の父』エルンスト・エンゲルベルク著 野村美紀子訳 海鳴社

★『危機管理の天才 ビスマルク』加藤千幸著 ダイヤモンド社

★『ビスマルク』加納邦光著 清水書院

★”Eine kleine Geschichte PreussensEberhard Straub著 Berliner Taschenbuchverlag

 

 

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