『ティモールの失踪した子供たち』

ロスアンゼルスタイムス 2001年12月4日(コラム1)


1999年の独立を決める投票後の混乱で約二千人が、その一部は誘拐によって、東
ティモールの家族から引き離された。ほとんどは既に帰還した。

ディリ(東ティモール)−彼女が13歳の時、インドネシア併合派民兵が彼女の村を
焼き尽くした時に、少女の悪夢は始まった。襲撃者たちが、インドネシアの西ティモ
ール州との国境を横切って彼女と彼女の隣人を集めた時、彼女の親は留守だった。

その不潔な難民キャンプで、一群のリーダーは、彼女を捕虜とし、次の17か月の間、
繰り返し彼女をレイプした。

今年の初め少女を探した難民救援職員たちは、彼女がどこに囚われているか知り、大
胆な救助をした。彼等は、彼女にこっそりとメッセージを持ち込み、彼女の護衛が忙
しいときに、キャンプから彼女を連れだした。隠れ家のネットワークを使い、彼等は
彼女を東ティモール、そして彼女の両親に連れ戻した。それは東ティモールの行方不
明の子供を家に連れ戻す2年の戦いにおける、まれであるが歓迎される勝利だった。

「この事例を特徴づけるものは恐怖、そして試練である」と、その時の国連難民高等
弁務官の作戦指揮のBernard Kerblat は述べた。「女性でさえない13才の少女がイ
ンドネシアの難民キャンプで明けても暮れても性的奴隷として使われた時、どうして
我慢強くしていられよう?」

少女(名前は職員によって保留された)は民兵が、インドネシアから分離する東ティ
モールの決定のための報復の中で荒れ狂った2年前に、彼らの親から引き離されたお
よそ2000人の子供のうちの一人だった。彼女の場合は、彼女の自由を勝ち取るた
めに要した時間の長さではなく、その残酷さがきわだっていた。

騒乱の間、24万人の東ティモール人が、それらのうちの多数は民兵に強要され、国
境を越え、西ティモールへ逃れた。混乱の中、何人かの子供が、東ティモールに居残
った親から引き離された。

約450人の子供が彼らの家族に返された、とKerblatは述べた。それには他の難民
とともに、または彼ら自身で国境を越えた多数の子供も含まれていた。しかし、国連
の援助職員は、他の子供達を探そうとして妨害された。

一部は、民兵に支配される西ティモールの難民キャンプに残っている。また一部は、
インドネシアの主な島(Java)の孤児院に連れて行かれた。また、他のものは、搾取
工場で、あるいは家僕としてインドネシアのどこか他のところに働くために見知らぬ
人に売り払われたり手渡されたりしたという。

多くの場合、子供の行方に関する情報は不十分なものだ。援助職員(彼らは難民キャ
ンプにほとんどアクセスしない)が、彼等の所在を追及することは困難だ。東ティモ
ールの指導者や国連の職員は、インドネシアの政府が非協力的だったと述べた。ジョ
ゼ・ラモス・ホルタ(東ティモールの外務大臣代行)はインドネシアの緩慢さを「最
も恥ずべき行為」と呼んだ。

「子供の誘拐の現実の出来事である」とラモス・ホルタ(1996年のノーベル平和
賞の共同受賞者)は言った。「子供はインドネシアの難民キャンプから奪われ、そし
てインドネシアの政府当局は、こうしたことが起こっていると認めた。どんな国が、
こんなことを認めるだろう。」

インドネシアの政府関係者は、彼らが誘拐を許したり、行方不明の子供を返還を遅ら
せることを否定している。ワヒド・スプリヤディ(インドネシア外務省のスポークス
マン)は、国連の職員が全ての子供の情報を知らせるべきであり、そうすればインド
ネシア政府はケースを調査するだろう、と言った。

「子供の誘拐でインドネシアに何の利益があるのか。私たちはそのような政策を持っ
ていない」と彼は述べた。「インドネシアは子供を返すためにあらゆることをした。」

多くの点で、子供をめぐる闘いは東ティモールの独立のための長い戦いの継続だ。

1975年、ポルトガルの植民地は、インドネシアに捉えられ、インドネシアは、新
しい州の解放運動を無慈悲に弾圧した。1999年には、インドネシアが、自治をめ
ぐる国民投票を行うことに合意した。東ティモール人が独立を圧倒的に支持した時、
少なくとも1000人が死亡し、建物の80%が破壊され、インドネシア軍に支持さ
れた民兵はこの地方を荒廃させた。その時以来、領域は国連によって運営され、約8
000人の国際平和維持軍によって保護されている。東ティモールで最初の自由な選
挙は、国会を選択するために2001年8月30日に行われた。74万5千人の新し
い国家は、2002年5月20日に完全に独立することになるだろう。

東ティモールから逃れた24万人の難民のうちの約8万人は、民兵によって大部分が
コントロールされた西ティモールの悲惨なキャンプに残っている。インドネシア軍の
保護の下でギャングたちがまだ作戦活動をしていると言う人もいる。民兵が難民を帰
還させないため脅迫していると援助職員は述べているが、8月の平和的な選挙以来、
帰還者の数は増えている。

インドネシアの大統領メガワティ・スカルノプトリは、東ティモールの独立を受け入
れると述べたが、有力な地位にいる人々も含め、多くのインドネシア人が領地が離脱
したことにまだ怒っている。インドネシアの検察官は、1999年の殺戮に対する責
任によって国連に告訴されたインドネシア軍の士官や民兵のリーダーを訴追していな
い。

同様に、西ティモールで3人の国連の難民ワーカー殺害に加担したと6人の民兵のメ
ンバーが10〜20か月の有罪判決を受けた。アメリカ人を含む人道活動家の死は、
西ティモールから援助スタッフを撤退させることを国連に促し、行方不明の若者を見
つけて連れ戻すことをさらに難しくしている。

ベテランの国連の難民ワーカーのKerblat は、東ティモールが独立を望んだことのた
めに、子供が代償を払っていることは不幸だと述べた。

「それはこの悲劇の中でも最大の痛みのひとつだ」と彼は述べた。「私たちが話して
いる犠牲者は、政治的なゲームでの人質となった声なき子供たちだ」彼は、1200
〜1800人の子供がまだ行方不明であると推測している。できるかぎりたくさんを
確認しようと、国連は9月にどの家族の子供が行方不明かを決定するために東ティモ
ール13州の各戸に300人のワーカーを送り込み調査を開始した。

これまでのところ、調査が終わった2つの地区では、機関は、324人の行方不明の
子供に関する確実な報告書を受け取った。評価は来年の初め終了し、情報は子供を発
見するために使われる。


国際的な注目と広くメディアの報道を引きつけた1つのケースはジュリアナ・ドス・
サントスの誘拐だ。

彼女は独立投票の時に15歳で、スアイの町のローマカトリック教会に、何百人もの他
の東ティモール人と一緒に民兵から避難していた。悪名高い民兵ラクサールが教会を
攻撃し、最悪の東ティモールの大虐殺のうちの1つが行われ、200人もを殺した、
と検察官は述べた。民兵のリーダー、イジディオ・マネクがジュリアナの13歳の弟
カルロスを撃ち殺したと証人は述べている。その後、彼らは、彼が「戦利品」として
ジュリアナを要求し、国境を越えて彼女を西ティモールへ連れ去った、と述べている。

人道活動家は、彼が難民キャンプで繰り返し彼女をレイプしたと主張している。彼女
は妊娠し、2000年11月に男の子を産んだ。ジュリアナの必死の親は彼女を帰還
させることに失敗した。これらの申し立ては独立運動の指導者で来年初代大統領にな
ると目されているジョゼ・アレクサンドラ・グスマンのオーストラリア人の妻、カー
スティ・スワード・グスマンによって取り上げられた。

インタビューで、カースティ・グスマンは、スアイの襲撃において、マネクはインド
ネシア軍と「全面協力」していたことははっきり記録されていると述べた。彼女は、
彼が今、西ティモールでインドネシア軍の継続的な支援で作戦行動をしていると疑っ
ている。彼は未だにスアイでの彼の役割の責任をとっていない。

ジュリアナがスアイでの殺人者および3人の国連職員の殺害者に不利な重要な証拠を
提供するかもしれないと信じる人もいる。しかし、インドネシア政府がマネクを誘拐
犯人ではなく、ジュリアナの正当な夫と見なしたことが、彼女を安全に解放すること
に対する障害となっていた、とカースティ・グスマンは述べた。

ジュリアナの両親と国連難民機関からの数か月間の要求の後に、インドネシアの政府
当局は、今、17歳のジュリアナと彼女の家族の間で国境のインドネシア側で6月に
会合をもつことに合意した。この会合では、警察とマネクと民兵たちに監視され、ジ
ュリアナは彼女の両親に彼女の子供の父親とインドネシアに残りたいと伝えた。彼女
の失望した親類は、彼女が2年間の束縛でマネクによって洗脳されたと結論を下した。

7月に、マネクは財政資金を盗んだ罪でインドネシアの政府当局によって逮捕され、
裁判を待つ刑務所にある。それでも、ジュリアナは東ティモールで彼女の家族に戻っ
ていない。


インドネシア派活動家、子供をジャワへ連れ去る

これらの問題と同じくらい、国連の職員と東ティモールの親たちにとって悔しいこと
は、インドネシア派の政治活動家オビリオ・ソアレスによって西ティモールのキャン
プから連れ去られた170人の子供を取り返す努力がほとんど成功していないことだ。
東ティモールの医学生のソアレスは、1999年に、インドネシアのジャワ島へ連れ
て行くことができる子供を求めて難民キャンプを探索していた。彼は、親あるいは他
の親類に子供たちはスマラン地区のクリスチャンの孤児院で生活し、そこで1日3食
と学校へ行く機会を得るだろうと約束した。

ソアレスは、最近、「私は人道主義に徹した」と述べた。「私は、すべての子供達が
私のようになることを望みます。私は彼等に非常に明るい将来を持ってほしい。親は、
子供たちが、難民キャンプの非常に悪い状態に生活していたので、彼等を連れ出すよ
う私に頼みました」と述べた。

最近まで、ソアレスやインドネシア政府は、親たちから出された子供の帰還要請を無
視した、と東ティモールの人々と国連職員は述べている。ソアレスを批判するものた
ちは、インドネシア支持の情熱を次世代の東ティモール人の中に生きているようにし
ておくことが彼の目的であると主張している。いくつかのケースで、彼は、子供を連
れて行く許可を保証した。一方、そうしなかった場合もあった、と親たちは述べた。

オリベロ・アマラルはソアレスに娘を奪われた親のひとりだ。アマラルと彼の家族は
1999年の暴力を避けて、西ティモールの首都クパンのそば民兵に支配されるキャ
ンプに着いた。彼らの到着の後にすぐにアマラルは、彼の娘フィルメラ、当時11歳
がジャワに連れて行かれたことを他の難民から聞きいた。

「私は彼女を連れ戻しに走ったが、彼女はすでにそこを離れていた」と彼は詳しく話
した。「私は騙されたと思った。しかし、私はそれに関して何もすることができなか
った。私はそこに立ち尽くし、どうしてこんなことが起きうるのか?と私自身で考え
ることしかきなかった。」

スマランのセントトマス孤児院のシスター、ビンセント・トゥムリトは、1999年
にソアレスが西ティモールから孤児を連れて来ていたと言うために訪問した時のこと
を思い起こした。シスターは四、五人を予想していた。しかし、彼は四、五十人の子
供を連れて到着した。

彼女は今、ソアレスを賞賛するばかりである。彼女は、「彼は子供たちの救済者であ
る」と最近述べた。「彼は子供たちの天使です。彼はキャンプから彼等を連れ出し、
子供たちは、今、再び勉強することができます。彼等はよい衣服を持っています。彼
は悪い状況から子供たちを連れ出しました。」

誰に聞いても、その子供たちは、スマランでよく扱われた。子供たちのうちのいく人
かは、家が焼かれ、人々が虐殺されたことが最後の記憶となっていて、東ティモール
には戻りたくないと言っている。


帰還者は彼のもとに戻るべく娘を捜した

アマラルは昨年、東ティモールへ帰り、彼の家族を再び一つにさせたかったが、孤児
院からフィルメナを戻す方法がなかった。彼は、インドネシア政府に彼女を返還する
よう依頼することについて、国連難民機関に支援を求めた。1年以上の間、国連当局
は失敗した。高まる国際的圧力の下では、ソアレスとインドネシアが、子供のうちの
10人を返すことに合意した。ひとりはフィルメナ、現在13才で、彼が最後に彼女
に会った2年後、2001年9月に父親に引き渡された。

アマラルは、彼女がよく扱われたことを確かめ、ソアレスに感謝すると述べた。「私
たちはすべてティモール人です」と父親は言った。「違いは私たちのイデオロギーだ
けです。私は彼に怒りをもってはいません。」インドネシアのバリ島での情緒的な再
会の間、親に会った後に、年上の子供のうちの2人は、教育を継続するために孤児院
に戻ることを決めた。

インドネシア外務省の国際組織の管理者マーティー・ナタレガワは、子供たちの家族
への帰還は単に出発点であると述べた。「インドネシアの人々の中に、彼らの意志に
反して、誰かを手元に置いておこうとするものは誰もいません」と彼は言った。しか
しながら、ソアレスは、他の160人の子供のうちの誰も返す早急な計画ないと述べ
た。

しかし、Kerblatは、最近の帰還は良い兆しであるとし、インドネシアが東ティモー
ルの行方不明の子供をより多く戻すことを望むと述べた。

インドネシアの協力が欠如しているため、国連難民職員は、しばしば、彼ら/彼女ら
が13歳で連れ去られた少女を救出するために4月に行ったような、秘密連れ去り活
動に訴えることとなった。

職員は、受けた外傷やレイプの汚名のために少女や彼女の親たちがインタビューを受
けることを認めようとしなかった。職員達は、十代の子供が民兵が攻撃した日にひと
りで残されたことが単に不運であると言った--彼女の両親は病気の兄弟と病院にいた
のである。

家族の他のメンバーが山岳部に逃れた一方、少女は、西チモールに連れていかれ、そ
こで、彼女の隣人が、民兵のリーダーに彼女を引き渡したのだった。当局はリーダー
の名前を述べようとはしなかった。

「彼は全くの強情な精神病質者だ」とKerblatは言った。「彼女は性の玩具として使
用された。彼は、17か月の間、連続的に彼女をレイプした。彼女は私たちが彼女を
連れ出すする前日さらにレイプされました。」

キャンプにいる間、少女は民兵メンバーの警戒の下にいた。救助者は民兵が大規模な
集会を開催することを計画した日に連れ出した。少女の護衛者たちも、集会に参加す
るだろうと推定したのである。今、15才の彼女は、受けた性的虐待のために医学の
リハビリテーションを必要としている。Kerblatにとって、彼女および他の東ティモ
ールの子供が受けた扱いを理解することは困難だ。「これらの人々に休憩を与えよう」
と彼は弁護した。「なぜ彼らを罰し続けるのだろう。彼らが独立を支持したからだろ
うか?」