ムスリムになった日本人 (1)



 ジャミーラ高橋さん(六二歳)は、今年一月一三日から二月七日まで、パキスタンとアフガニスタン国境にあるいくつかの難民キャンプを訪ね、日本で集めた冬用衣類を配布する現場に立ち合った。大塚モスクの協力で始めたものの、当初はコンテナひとつ分も集まるだろうかと心配した衣料は、活動が新聞で取上げられたとたんに全国から殺到。一二月中に送り出した衣料は二一コンテナにのぼった。
 実は高橋さんは、アラブの子どもたちを救いたいと、これまでにも九七年にはイラク、九九年と二〇〇〇年にはレバノンに救援物資を送っている。湾岸戦争後のイラクを何度か訪問し、劣化ウラン弾の被害も訴えてきた。アフガン難民への衣類援助を思い立ったのは、米軍のアフガニスタン攻撃が始まったとき、「湾岸戦争で父親が犯した過ちを、今度は息子のブッシュが繰り返すのは許せない」と憤ったからだ。 
「私が支援活動をするのは、人一倍、悔しがり屋だからじゃないかしら。不当なことに対しては、子どものころから腹が立ったんです」
高橋さんの人生は波乱万丈である。家族がクリスチャンとの関係が深かったため、幼いころからキリスト教に関心があった。文学少女だった高橋さんは「人間が生きること」の意味を求めて、高校時代からさまざまな教会を訪ね歩き、大学浪人中の二〇歳のころ、モルモン教の洗礼を受けた。
「宣教活動もしました。でも、教会のあり方に疑問を持って、二年後にそこを離れたんです。その後科学者になろうと大学受験をもう一度目指したり、演劇や前衛日本舞踊のグループに入ったりしましたが、どれも続かなくて・・・・・。私の青春は本当に煩悶と挫折の連続でしたね」
 そんな高橋さんの目が中東に向いたのは、一九六七年の第三次中東戦争のとき。クリスチャンとして、ユダヤ教とイスラームの対立構造に関心を持った。偶然は重なるもので、翌年、中東諸国との友好団体「日本アラブ協会」の雑誌の編集の仕事を知人に紹介され、まもなく二ヶ月間、エジプト、レバノンと、中東を植民地化した欧州諸国を訪ねることになった。
「アラブは危険だと言われていたけれど、私には日本に戻るのが嫌になるほど快適でした。それで、人々のこのおおらかさのバックボーンにある、イスラームというのは何だろうと興味を持ち始めたんです。キリスト教では神そのものよりも、教会とか神父とのつながりのほうが先にきてしまう。でも、イスラームで祈るのは、アッラーに対してだけ。シンプルで神の存在がよく見えたんです。制約はいろいろあるけれど、それは神と自分が対話しながら、自分のできることをだけをすればいいんだというのが、とても気に入ってしまって・・・・」
 帰国後は、モスクでの礼拝や、ムスリムの集まりに顔を出すようになり、アラビア語を学び始めた。入信したのは、それから四年後の一九七四年、結婚の直前である。「これからは二人でアラブのことをやっていこう。それにはムスリムになったほうがいい」と、一緒に入信した結婚相手は海外生活が長かった日本人で、同じ日本アラブ協会に勤務していた。
 しかし、その後の私生活は苦戦の日々。八年後には子ども二人を抱えて離婚し、夫が家に持ち込んだ「アラブ文化協会」というアラビア語教育の団体をひとりで切り回すことになった。しかし、経営は厳しく、一時はアラブ・イスラム学院に身を寄せ、高橋さんはそこで最近まで料理教室を開催。中東への支援活動は、このアラブ文化協会の活動の一環として行ってきたものである。
 現在、高橋さんが力を入れているのは、劣化ウラン弾で被爆したイラクの子どもたちを日本に呼び、治療をするための募金だ。今回はテストケースとして、子ども三人+親+医者の七人を呼ぶことを計画している。
「イラクの劣化ウラン被爆地に通ううちに、私自身もダメージを受けたらしく、体調がかんばしくありません。でも、どこまでやれるかはインシャラー、神の思し召しですから」 >>


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