日系人野球の100年




「昔、二世の選手をよく取ったのは、今、大リーグの選手を取るのと同じやね。僕は戦後初めてでしょ。成功すればあとの人たちが来られるから、文句言わないで頑張ったのよ」
 今は引退して、日本とハワイを行き来する与那嶺要(77歳)は、当時を思い出しながらこう語る。日本人に最もよく知られた日系人野球選手といえば、この“ウォーリー”与那嶺。1951(昭和26)年、巨人に迎えられ、来日早々華々しくデビュー、以来38年間で8枚のユニフォームを着続けた。
 戦前、戦後を通じて、日本のプロ野球に参加した日系人選手は30人を越える。昭和11年、プロ野球の発足とともに続々と誕生した球団では、人材不足を補うために 二世選手を“外人助っ人”として積極的に迎えたのだ。
 法政大学から実業団を経て阪神に入団した“ボゾ”若林忠志、亀田忠(イーグルス)、上田藤夫(阪急)、“カイザー”田中義雄(阪神)、“ヘソ伝”こと山田伝(阪急)など、年配の野球ファンには懐かしい名前が並ぶ。しかし、若林、田中、山田以外の二世選手は、太平洋戦争の勃発とともに帰国した。
 日本のプロ野球を変えた男と呼ばれるのが与那嶺だ。フットボールの名門、サンフランシスコ・フォーティーナイナーズにスカウトされてハワイから米国本土に渡り、不運にも肩を痛めて野球に転向。来日後は、アメリカ仕込みの“闘う野球”でスタンドを沸かせ、日本人選手を唖然とさせた。
 特に日本選手を怖れさせたのが、今では当たり前となっているスライディングだ。
「当時の日本の野球はおとなしかったからね。僕がぶつかったら、みんな“汚い”いうて怒るわけ。相手チームのファンは石を放るし、“ハワイへ帰れ”ゆうし…・」
 与那嶺の活躍がきっかけとなって、日本の野球界の目は、一斉に海外に向けられた。特に日系選手獲得に熱心だったのは巨人で、昭和30年には与那嶺を筆頭に、西田亨、広田順、柏枝文治、松岡満、“エンディ”宮本敏夫と、6人の二世選手をかかえていた。
 昭和37年ころから、大リーガーの来日が本格的に始まり、二世選手はその“助っ人”の座を、彼らに明け渡した。しかし、こうした日系選手との交流が、日本のプロ野球の発展に大きく貢献したのである。(敬称略) 
(時事通信 1999年11月)



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