日系人野球の100年




 ケリー・中川の叔父が、ベーブ・ルースとともに撮った写真には、“日系人野球の父”と呼ばれる人物が写っている。8歳のときに広島からハワイに移民、その後フレズノにやってきた銭村健一郎。身長153センチ、体重50キロの小兵ながら、走・攻・守の三拍子そろった実力派、日系野球のリーダーとして、西海岸の野球ブームをつくりあげた男だ。
 日系人が収容所に送られた太平洋戦争中、収容所内で「二世リーグ」を組織し、戦後は若い世代を育成した銭村は、‘60年代に自動車事故で急逝した。彼と一緒に白球を追った元選手が、今も隣町のハンフォードにいる。
「あのとき行った連中は、ほとんどもうおらんなあ。でも、ツアーは面白かったよ」
 今年85歳になる“シッグ”徳本重雄は、懐かしそうに写真を見ながらつぶやいた。1937(昭和12)年、近郊の精鋭を集めた「アラメダ・コウノ」のメンバーとして、日本、朝鮮、満州に遠征したときの写真である。
 1905年、早稲田大学の野球チームが初のアメリカ遠征をして以来、日本からは大学チームと実業団チーム、アメリカからは日系チームが、毎年のように海を越えて交流していた。銭村の日本遠征は3回目。精鋭チームの監督となった彼は、「二世リーグ」で対戦したり、地元の白人チームで一緒にプレイしていた徳本を、海外遠征チームに誘ったのだ。19人のメンバー中4人が白人選手だった。 「日本はよかったよ。家に帰ったような気持ちさ。だけど、白人は夜遊びばかりしてて、次の日に使いもんにならんから、ゼニが怒って途中で帰してしもうた」
 東京で実業団、大学チームと対戦した一行は、当時日本の植民地だった朝鮮から、事変前夜の満州に入り、各地で日本人チームと対戦した。チームは3ヶ月後、阪急入りした山田伝と野上清光を日本に、実業団入りした二人を大連に残して帰国した。徳本は61戦中7割を日系チームが勝利したと記憶している。
 戦後、徳本はハンフォードの少年野球の監督を20年にわたってつとめた。今、町には「シッグ・トクモト・フィールド」と命名された球場がある。1995年に落成した少年野球新球場に、彼の名前がつけられたのだ。(敬称略)>>


Page 1 それは一枚の写真から始まった
Page 2 日系人野球の父と呼ばれた男
Page 3 収容所のなかの白球
Page 4 日本野球を変えた日系人




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