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鹿島古墳群(川本町)その2
荒川の土手上に転々と並ぶ古墳群。
どちらを向いても古墳が視界に入ってきます。



鹿島古墳群(2)


このへん公園化が進んでます発掘調査によると埋葬主体は河原石を積み上げて構築した横穴式石室が主流とのこと。しかし、外見から石室が見えるものは無い。
 
副葬品は大刀など武具が多かったという。埋葬された人々の所属する集団の性質に関係するかもしれない。右手に見える民家の向こうには県道熊谷寄居線が
 
向こうはまた畑墳丘表面は荒川から豊富に採れた河原石で葺かれていたらしい。
 
埴輪が立てられていた古墳は少なかったということです。埴輪に限らず、出土物が少ないこともこの群の特徴である。後期古墳は地味かも
 
西の方を見てます。右側が荒川すぐ東隣の江南町の野原古墳群はあの有名な「踊る埴輪」の出土地である。それに比べてここでは特に目立った埴輪は無いようです。
 
昭和47年に県史跡に指定。当時のものらしい説明板が赤錆びて残っている。古いものを残しておくというのもひとつの考え方でしょう
 
右に駐車場がちょっと見えてます周堀はほとんどのものにあったようであるが、現状では見えない。
 
今も葺石が見られる古墳もある。盗掘はされているのかもしれないが、いかにもえぐられた跡のある古墳はほとんど見かけない。ちょっと盆栽っぽい
 
ぽっこりいずれの古墳もかなりきれいに残っている。周辺に住む人の心に何かの抑止力が働いて今まで破壊を免れてきたのだろう。
 
この写真の古墳はかなり葺石が見えている。ほとんどのものに葺石があったようです。これもいいかたち
 
夏は草が茂るので、古墳のありかがわからなくなります密集しているとは言え、比較的ゆったりと配置されている様子がわかる。
 
墳丘が無い場所でトレンチ調査が行われていた。何かの公園施設を作るにあたってのものかもしれない。
(後日判明したところではこの時群南西部で2基の古墳が新たに発見され、鹿島古墳群としては30年ぶりの発掘調査が行われていたのだった。このトレンチはその古墳の場所とは別だが付随したものらしい。2基の石室の下半部が検出され、そこから出土した土師器・須恵器および55号墳から採取された円筒埴輪から、従来7世紀以後とされたこの群の築造年代が6世紀中頃まで遡ることが明らかになった。)
それほど深いトレンチではなかった
 
駐車場と、トイレが見えてますこの古墳群の築造年代は従来7世紀から8世紀始め頃と推定されていたが、最近の調査では6世紀代にさかのぼるものがある可能性が指摘されている。
 
写真右側が荒川。左側が畑地になっている。畑地にあった古墳は圃場整備事業のために調査削平された。この左側もかつて荒川の流路だったこともあるという。この景色は冬だけ。夏は草に埋もれてしまいます
 
真ん中にぽっちりと木が生えてるのがカワイイこの古墳群の年代判定は住居址の重複の確認にもよる。奈良時代の住居の上のもの、平安時代の住居の下のものが各々発見されている。
 
冬季には白鳥飛来地に多くの人が訪れるのだが、古墳群を歩く人は少ない。白鳥見にくる人の多くは古墳に気がつかないみたいです
 
飛来地の看板が見えます。看板脇から河川敷に降りる道が年代が新しく、特にめぼしい出土品も無いためか、文献でも簡単に触れられている程度のことが多い。
 
しかし、他の埼玉の群集墳は山中であったり、ゴルフ場になってしまっていたりして、ここのように農村に融合した景観を呈しているものは少ない。地味だけど、けっこう貴重だと思うのです
 
円墳です。真ん中に道がついちゃったので双子山になってます駐車場も完備しており、散策にもほど良い所なので、ぜひ実際に訪れて独特の雰囲気を味わってみることをおすすめする。
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