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ふくろう通信XII

by 墓場のふくろう

ふくろう通信281 [2003/04/29 22:26]老年期の同一性について
ふくろう通信282 [2003/05/05 00:28]私の帰る場所
ふくろう通信283 [2003/06/08 02:07]自分を物語る機能について
ふくろう通信284 [2003/06/15 21:48]Mission from God
ふくろう通信285 [2003/06/21 21:54]二つの世界
ふくろう通信286 [2003/07/07 00:36]鏡の前の私
ふくろう通信287 [2003/07/21 00:25]ゆりかごのふくろう
ふくろう通信288 [2003/08/03 01:38]矛盾の実現と解決について
ふくろう通信289 [2003/08/08 01:20]文化の中で生きること
ふくろう通信290 [2003/08/21 00:53]不自然な落差について
ふくろう通信291 [2003/09/04 00:22]火星との距離について
ふくろう通信292 [2003/09/17 01:32]砂に描かれた文字についての考察
ふくろう通信293 [2003/10/29 23:37]嵐の中のピクニック
ふくろう通信294 [2003/11/03 23:04]黴の生活支援および共存の不可能性について
ふくろう通信295 [2003/12/10 23:57]希望と確信をもって
ふくろう通信296 [2004/02/16 21:49]「こども」を救え
ふくろう通信297 [2004/02/27 00:14]Ego Identityの確認について
ふくろう通信298 [2004/03/04 23:15]われもかさをさそうよ
ふくろう通信299 [2004/03/26 23:59]Nuovo Cinema Paradisoあるいは映画的「志向」
ふくろう通信300 [2004/12/19 23:31]Cap ou pas cap?


本文

281 [2003/04/29 22:26]老年期の同一性について

 自我の「同一性」は健康な人格においてより鮮明に確認されるかのように一般に思われがちであるが、先日、教育心理学者富本佳郎氏の講話を聞くにおよび、老年期においては、身体的かつ精神的に健康な自我の状態を維持しているにもかかわらず、偶々病的状態に陥ることで診療機関に関与するような機会が招来しない限り、自己を同定する証票等が発行されず、それゆえ個体が「社会的に」同定・認知される契機に遭遇する機会を失い、結果的に「社会的」な「同一性」が確認される機会を逸してしまう、という現実を知ることとなった。
 老年期というのは「他人に頼る」という意味で、サービスを受ける局面において自己を同定できる機会を見出す、という普遍的側面がそこには顕現していると同時に、「社会化された」サービスを享受するシステムにかかわることではじめて自分を照らし出す機会に出会うことができる、という現代的な問題も提起されているようで非常に参考になった。
 因みに、氏はあらゆる生活の局面に自らの知の営みを精力的に注ぐことで、ますますその頭脳を研ぎ澄まされているという感触を得た。

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282 [2003/05/05 00:28]私の帰る場所

 今日は親類のやってきた大阪宅に戻ろうか、はたまた中国籍居候氏が同居する神戸の仕事部屋に泊まろうか、と思案しながら、仕事を終えて朦朧とした意識のなかでwebを観ていると「君の帰る場所」というタイトル(Denzel Washington監督2002年作品の"Antwone Fisher"邦題)が目に留まり、何か方向を与えてくれそうな気がしたので、早速三宮に出向き鑑賞した。
 面接を介した心理治療行為の終了は、来談者による治療者との関係からの主体的なる離脱をもって終わるものであると教科書的には理解しているが、本作品においては映画ゆえ当然のことながら、来談者の主人公は不幸なる過去、すなわち不幸なる家族関係といまだ不幸なる親の現実を直視し、また一方で自己の現実を肯定するとともに、治療者との良好な関係を維持しつづけることが予想される映画作品的結末を迎えることになるのである。
 もちろん、家族関係が修復不可能な場合、ここに描かれているような治療者の担う「父親」の存在は、それゆえ多分に永続性を持ったものである必要があり、本来ならば治療者でなく来談者にとって「家族的」な関係を築き得る生活現場の成員がその役割を担うことが必要であることはいうまでもない。しかしながら、この物語設定における、治療者が精神科医であるとともに生活現場である軍隊の上官であるという特殊性は、上記不完全な治療終了という結果とともに、いかにも現在のU.S.A.の国民成員が国家との間で維持している「治療構造」を端的に表わしているようで、そこに危うさを感じずにはいられなかった。
 ところで当日は遅いこともあり、結局は神戸の仕事部屋に帰宅したのであった。

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283 [2003/06/08 02:07]自分を物語る機能について

 映画「アバウトシュミット」("About Schmidt",2002年作品)で、主人公の老人(Jack Nicholson)が、巨大キャンピングカーに乗り込んで、曇天の大平原を右往左往するさまには、60余年の歳月をへて作り上げてしまったペルソナを持て余す彼自身の心情が端的に示されており、はるか彼方の見知らぬ少年に向けて綴り出される告白の手紙には、生活を共有し親密な関係を築くことのできる人物の不在がこれまた象徴的に表されているが、まさにその手紙での語りかけを介して、彼は、このなんとも仕様のない状態に慣れ、かつ馴染んでゆくのである。
 それにしても、道中で出会う人々とのとりとめないつながりと並行して、モノローグ的なる手紙というメディアを通じて得た一方的関係を維持する中で、物語が主要に展開するという設定には、彼が移動する空間の風景がいかにも田舎町であるとはいえ、非常に現代的なコミュニケーションのありようを感じさせるのであった。

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284 [2003/06/15 21:48]Mission from God

 自宅にて"The Blues Brothers"(1980年)を観た。善悪というものが個体行為に還元できず、事象の連関における階層性などというものが色あせるとともに、それがまた人智を超えた次元で関連している「事実」を、"Mission from God"を通じて啓示されたような気がした。もちろん、そのような気がしただけである。

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285 [2003/06/21 21:54]二つの世界

 メッセージとしての一輪のバラを載せたスクーターと、メッセージを託した主人公(Audrey Tautou)が乗った自転車が、ほぼ正反対の方向に走り出す冒頭のシーンは、メッセージの媒体というものがその主体を離れたその瞬間から独自の意味解釈の世界に入り込むものであることを象徴しており、またこの後のストーリーの展開が永久に和解することのない主要に2つの方向に進むことを示唆しているように思われた。
 映画"A la folie, pas du tout"(邦題「愛してる、愛してない...」2002年作品)において、物語は主要には2つの生きられた世界が我々の生きるひとつの共生世界に並存していることを効果的に描き出している。しかしながら、主人公の言動に終始翻弄される友人の男子学生や、恋愛の的となる心臓外科医の連れ合い女性の振る舞いを観ていて、この二つの物語に関与する多数の登場人物の各々が、これまた各々の物語を生きており、それがまた主要な2つのの物語に干渉しつつも支えていることに、気づくのであった。
 大切なことは、「正常な」物語と「歪んだ」物語の比較と対決ではなく、その両極の間に位置づく無数の物語が、いかに豊富な接点を持ち続け、それによって豊かな楽曲を奏でることができるか、ということであるように感じた。

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286 [2003/07/07 00:36]鏡の前の私

 映画"Solaris"(邦題「ソラリス」 2002年作品)において、窓外からの明かりがかろうじて昼間であることを思わせる室内で、包丁がきゅうりを切り落としながらまな板にぶつかる金属音がコンコンと響くその場面描写には、この数十年の「未来化」の過程で自然あるいは他者とのかかわりを失ってしまった我々人類の心象風景が的確にあらわされているのであった。宇宙ステーションのクルーとなった3名の船員が交わす対話の平板さや、たちまちに終局場面に流れ込んでしまう時間展開の速さには、これまたその現代性を感じさせるものがあり、この作品が30年の歳月を経て再び製作された「意義」をつくづくと感じることになった。
 私はかつてタルコフスキーがSF映画というジャンルでありながら、同名作品(邦題「惑星ソラリス」)においてその膨大な時間を、水や火や風、動植物とその痕跡、血流のような地球の交通システム、古典絵画を眺める人間のまなざしの動き、船員3名と「お客」の対話、そしてその対話に観客が耳を傾け参与することのできる十分な間の設定に費やしたことの意味を、今更ながら確認し、神戸港に突き出た人工島にある映画館を後にして、無人運転の交通システムにて猥雑なる現実世界へと戻ったのであった。
 しかし、本作品において主人公は、果てしない広大な宇宙の彼方にいながら、永遠に夢を見続けることを本当に希望したのだと、鑑賞者である我々はみなしてしまってよいのであろうか。

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287 [2003/07/21 00:25]ゆりかごのふくろう

 知人宅にて高価なるスピーカーの奏でるジャズの音色に魅了され、早速休みに入った昨日、爆発した缶入り清涼飲料水の糖分を吸い込んで白黴の生えていたスピーカーを復元させ、10年近く手に取ることのなかったレコードを数枚聴取した。
 予算を切詰めての製作以来20数年経過した、フルレンジスピーカー各1個を搭載した我がスピーカー達は、昔と変わらぬやや高音を抑えた心地よい響きを提供してくれたのであったが、聴取するべき研ぎ澄まされた精神の側は、やや衰えをみせはじめたらしく、ベッド上にて心地よい眠りに陥ってしまった。楽曲が悉く子守唄になるにはもうしばらく時間が必要であることを念う。

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288 [2003/08/03 01:38]矛盾の実現と解決について

 大阪で時たま開催されるある小さな研究会で、「ながら」ということばの使用をめぐる文化比較が話題になり、日本語では相互に独立した複数の主体が「ながら」でつながれることはない、という考察がPaさんより紹介された。しかし「彼が歌いながら、彼女は踊った。」という表現については、幾分の違和感はあるものの、そのような発話に出会ったとしても内容が現実的であるがゆえに非文であると言い切ることはできぬのではないかという共通認識がその場において確認された。
 帰宅して後、仕事場での一定の責任ある地位を担いながら、その仕事場の組織のありように疑問を抱くという状況を生きている健気なる友人からのメールを読みながら、そこでふと思いついた「彼女は組織維持のメンバーとして参加しながら、反乱の首謀者として活躍した。」という表現は、文としてはまったく申し分なく成立しているが、そこに描かれた現実世界を生ききるには、多分の内的・外的な支えがなくては達成されるものでなく、また成り立ちがたいものであることを考察しながら、現実にそれへの支援行為をなんら担うことなく、このようなやたらに「ながら」の多い文章を書いている自分を情けなくも思うのであった。
 また一方で、そのように思考しながらも話題を前段落に戻し、「彼女が研究報告しながら、彼はそれを静かに横で聞いていた」という複数主体からなる言語表現が、決して違和感なく受け入れられる文法規範をもつお隣の国から来たPaおよびPiさんが、「彼が歌いながら、彼女は踊った。」にふさわしい生活を帰国後も送られんことを、お二人の帰国を控えて強く願うのであった。

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289 [2003/08/08 01:20]文化の中で生きること

 空港と対岸を結ぶ鉄橋上を走る自動車道路街灯の最頂部に、かもめが各一羽ずつ留まっている光景にある種の違和感と同時に非生物的な「美しさ」あるいは「よい形」を感じてしまうのは、それらの停泊状態にある個々のかもめが相互に維持している距離が、決して各々のかもめの判断によって維持されているのではないからであろう。そしてこのような枠の中に生活しているうちに彼らは知らず知らずのうちに、何らかの「文化」を身につけてしまうのではなかろうかと、関西空港から神戸に向かうバスの中で、整然と並んだ座席のひとつにぼんやりと腰掛けながら思った。

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290 [2003/08/21 00:53]不自然な落差について

 「ヒメマス」で有名な十和田湖から注ぎだす奥入瀬川には数メートルの落差をもつ滝が存在し、その滝の存在が湖内への魚の侵入を阻止し、その繁殖が抑えられてきたのだということを、湖畔の案内施設にて知った。私はしばしば人工的環境において生活する人間の活動においてもこのような物理的・化学的・有機的関係における落差が少なからず存在し、時には生物学的に「不自然」な環境条件が構成されてしまうことになるのではないかと考えることがあるが、また一方で、そのような落差が多数存在することにより、知的活動なり協同的活動なりの関与とそれによる補償がなされる余地が生まれてくるのであろうかと思ったりもするのであった。
 いずれにせよ我々は、環境というものをあまりにも一般的にとらえすぎることで、それが個々人の個々の瞬間における各々に固有な生活様式に及ぼす多大なる影響というものを看過するきらいがあるのではないかと、最近起こる不思議な事件・現象などを念頭におきながら、これまた漠然と一般的に考えるのであった。

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291 [2003/09/04 00:22]火星との距離について

 火星が近づいたというので、先日久しぶりに晴れた夜空に南中する赤い星を眺めてみた。
 再びこの距離に接近するのは数万年先になるという。今この時期を逃してはこんなに近く見ることができない、ということばが行き交っている。しかし、その言説には「私が火星に近づく」というモメントを度外視した、幾分受身的なる発想があるように感じる。火星地表に立つことはできなくても、せめて今、彼との間にあるこの距離を、成層圏を越えて縮めることのできる場所に自ら出向く機会を、死を迎える前に持ちたいものだと、久しぶりに星との心理的距離を狭めながら思ったのであった。

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292 [2003/09/17 01:32]砂に描かれた文字についての考察

 映画「英雄(Hero)」(張藝謀監督 2002年作品)において、刺客のひとり残剣が、低い板切れで四角く囲われ、乾いた砂が敷かれた箱庭のような区画内に、棒きれをつきたてて文字を描く様には、鈍く光る剣を相手に突き立てた果たし合いにおいてみられる気迫とは打って変わって、なにか幼児の遊びのような頼りなさがあり、それゆえにこの光景には文字ひいては思想というものが剣を前にして無力であることをいやがうえにも感じさせられるのであるが、この映画は、そのようなはかなさは実は剣の側にあるのであり、文字ひいては思想というものが、剣が折れ、錆びて朽ち果ててしまおうとも、その文字の痕跡をひとたび「メッセージ」として受け取った者の心と生活に受け継がれ、ますます堅固な力を行使するにいたることを示すことになるのである。
 そういえばかつてある評論家が砂漠の砂について考察したように、砂という細かく均質な一見無用の長物とみえる物も、ひとたび鋳型として溝が引かれ、そこに赤く溶けた鉄が流し込まれるならば、それは見事なひとふりの剣を枠付けるものとなるのであり、たとえ剣が朽ち果てようとも、鋳型はその形を永遠に受け継がれることが可能となるのである。換言するならば、砂のもつ秘密というものは、実はその砂を媒介にして交わされる情報にあるのであって、この情報はひとたび感性的な手がかりを介して人と人の間で受け渡しされるならば、それは朽ち果てることなく永久に生き続け、それどころか、それをさらに堅固なものにしてゆくことができるのである。
 映画は冒頭から登場する「無名」という人物が秦王との間で交わす対話の形式を中心に展開するのであるが、この無名という人物が砂のように平坦ながら淡々と語る緻密な口調そのものが、彼の秦王との緊張感あふれる渡り合いを作り出しており、おそらくはいかなる剣とも異なる、人民の希望なり悲しみなりの英雄的かつ無名の力となって、そこに表現されることになるのである。

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293 [2003/10/29 23:37]嵐の中のピクニック

 アルミホイルが磁気嵐を防ぎうるかどうかは定かでないが、強大なる太陽黒点が出現したという報道に引き続き、これまた巨大なフレアが観測されたという報道がなされるにいたり、このフレアがこの25年来の大型の現象であるということは、パソコン・マイコンなどが身近に存在しなかった当時に比べ、無数のマイクロチップが環境に偏在する今日のような状況において、このような磁気嵐を経験するという機会は初の経験なのではないかと推測し、遊び心も手伝って、早速帰宅途中のコンビニエンスストアで、調理用のアルミホイルを購入し、帰宅するや携帯電話と愛用のPSION5mxを丁寧に包装することに着手した。
 普段は調理用に使用するこのアルミホイルゆえに、包まれた両電子機器は、前者が薩摩芋、後者が大型の板チョコを思い浮かべる風体となったので、カバンにしまいこみながら、なにか遠足の前日の気分となるのであった。
 明朝の嵐が、穏やかであることを祈りながら、この勢いで六甲山にでも登ろうかと思う。

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294 [2003/11/03 23:04]黴の生活支援および共存の不可能性について

 8ヶ月もの期間、十分なる管理をせずに中身を放置していた神戸宅寝室にある二つの洋服収納棚の扉を開けて確認したところ、その両収納空間内に本年1月以来洗濯の処理を受けることなく吊り下げられていた式服を含む背広数着、カーディガン、コート、ベルト等が悉く黴に栄養を提供し続けていたことが判明し、洗濯の処置によっては回復不可能な程度に変質していることもまた判明した。
 それら衣類は悉く焼却処分に値することを即座に確認し、名残を惜しむ間もなく、それらは未整理のまま半透明の青いゴミ袋6袋に収まり、玄関に所狭しと並べられることとなった。
 しかしながら、これらを一度に早朝のゴミステーションに持参するのはなにか不自然な心地がしたので、今後1ヶ月にわたって各回一袋ずつ密かにステーションに持ち込むこと決定するに至ったが、これら衣類は、長年付き合った私の身体の一部とも感じられる物であると同時に、そこに生じた黴は少なからず私の分泌した汗やら垢やらを栄養源として生活していたであろうことが推測され、遺体を密かに処分するような後ろめたい心地にとらわれるのであった。
 ところで、処分した衣類には、その後昼食で外出するために必要なカーディガン類までが含まれていたので、一瞬どうしたものかと困惑したが、幸い一昨日の神戸は温暖で、私を黴のごとく暖かく包んでくれたので、黴だらけの上着を着用することなく外出することができたのであった。

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295 [2003/12/10 23:57]希望と確信をもって

 映画Nostalghia(Andrej Tarkovsky監督 1983年作品)の終末近くの場面において、短い蝋燭に燈した小さな炎を消すことなく、湯を抜き取られた大浴槽の中を端から端まで渡りきるという自らに課した課題を完璧に遂行することで世界を救おうとする主人公の振る舞いを映し出す長いショットは、祈りというものの持つ本質的なはたらきを象徴的に表現しており、私はこれを観る度に、無力さを確認する行為の発する恐ろしいエネルギーを感じ、かつ感動するのであるが、それがそうである所以は、彼の自己了解する循環的過程がそこに人知れず存在するからではなく、その循環的過程をこちらでうかがっている我々が、共感という過程を通じて了解する関係の成立が、映像という媒体を通した表現行為によって可能になっている事実をそこに感じることができるからである。
 思うに、人を死にいたらしむに足る物理的な威力を行使しうる人間は、たとえその力を行使せざるを得ぬ事態に立ち至ったとしても、決してその時同時に感じる痛みや無力感を処理しきれずにたちずさむ時間を誰かと共有することまで放棄してはならないのであり、私は希望というものはこのようななかからも生まれうるものだということを信じたいと切に願う。

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296 [2004/02/16 21:49]「こども」を救え

 映画「ミスティック・リバー(Mystic River)」の冒頭に、道路脇の下水溝に吸い込まれてしまうホッケーのボールは、大人たちから安定した居場所を提供されることなく街路に掃き出され、成り行き上「掃き溜め」に集うことになった少年たちの行く末を象徴している。
 「イノセント」という言葉が存在するが、この映画が問題の解決を棚上げにしてなおかつ、観ているわれわれに成人した登場人物たちの「責任放棄」への憤りを(少なくとも私には)さほど感じさせないのは、彼らが20数年前で時間が止まってしまった少年たちだからである。私はそこから「おまえら大人は何を裁くというのか」と切実に問いかけられているような感覚を受けたのであるが、そうはいうものの「それだけでは描く姿勢が後ろ向きだなあ」と「大人」としての私は少しばかり感じ、かつ反省した。

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297 [2004/02/27 00:14]Ego Identityの確認について

 かつて六甲山麓のある福祉施設でともに場を共有した知人たちと十数年の空白期間をおいて再会した。おそらくその場において、著しく異なる活動に従事する「空白期間」を経過したのは私のみであるということが、各自この十数年間を語る機会を通じて判明した。過去の経験を語りあうなかで、この十数年の間に意識から遠ざかってしまったようにも思える研究ないし活動、ひいては世界観にかかわる姿勢について、そのいくつかの基本的な内実を思い起こすにいたり、空白期間を埋める作業を開始することの必要性をその時点では痛感した。
 しかし後日、たまたま読了した大西巨人氏「深淵」(2004年光文社刊)のなかの「どちらをも、いわば『第一の人生』と見極める」という一節を思い起こすにいたり、「振り返って考えるならば、はたしてこの十数年は自分にとっての空白であったと看做してよいのであろうか」という問いが生まれたのであった。おそらくその問いは、その「空白期間」に対する重み付けの相当なる増量を促すと同時に、「本来の」、「取り戻す」ことを切望する過去の期間への一定の距離を置いた醒めたまなざしが形成された所産でもあるのではないか思う。あるいは、上記「必要性の痛感」を契機としたこの十数年の生活の無化作業をもって、生まれてこのかたの行路全体の「同一性」をも葬ってしまうということを危惧するほうが、より大切であるとの認識に達したからだといえるかもしれない。無駄な人生を送るほどの暇は自分にはないのだと思いたい。

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298 [2004/03/04 23:15]われもかさをさそうよ

 以前にも書いたように思うが、相貌的知覚(physiognomic perception)という人間の知覚行為については、かつて大学院にてRudolf Arnheimの"Visual Thinking"等を読みながら、このような知覚は実は錯覚ではなく、これが人間の知覚の本質ではないかと考えた記憶がある。今日の午後、奈良三条通り「ぎゃらりー上の蔵」にて、浜田実氏の作品展示「かくれていたふくろうたち」に顔を出し、ビデオデッキやパソコン機器を分解したがらくた片表面のここかしこに、その相貌を我々に対して人知れず向けていたふくろう達を見つけだした経緯を氏から拝聴するにおよんで、そのかつての思いを更に強くするのであった。
 「お水取り」の時期でもあったゆえに、雪のちらつく人気のない夕方の若草山公園を横切って二月堂まで足をのばしたのであったが、その道すがら、ふと「かさをさすなる」とつぶやいたその謡が、まさにこの場、ひいては今日のこの機会にふさわしいものであると、同時に思い及んだのであった。
(「傘をさすなる春日山、人が傘をさすなら、われも傘をさそうよ。げにもさあり、やようがりも、そうよの。」狂言「末広がり」より)

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299 [2004/03/26 23:59]Nuovo Cinema Paradisoあるいは映画的「志向」

 若き日に何かを欠いてしまったのではないかという懸念が、その後の人生の行路において、常にどこかに「引っ掛かった」ような感覚を抱かせて続けていたとすれば、それは果たして不幸なことなのであろうか。Mika Agematsuさんのarpa演奏による"Nuovo Cinema Paradiso(「ニュー・シネマ・パラダイス」)"に耳を傾け、そのメロディーの流れるラストシーンを思い出しながら、それは断じてそうではなく、夢を追い続けることを常に夢見ることが、それによって可能になるのこともあるのだ、などという無間地獄の映画的「志向」を、あいもかわることなく、この20年の間続けてきたことに思いを巡らし、あらためて自己愛的感傷にふけるのであった。

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300 [2004/12/19 23:31]Cap ou pas cap?

 映画"Big Fish"(ビッグフィッシュ)において、人生の物語を語り終えることで締めくくるのが、その人生を担った父親ではなく、その奇抜なる人生物語を受け入れることをみとめた息子であるという設定は、人生がそれを担う主体によって物語ることができるという我々が死に至るまで抱きつづけようとする幻想が、実は非常に個体主義的な発想に基づくものであることに気づかせてくれるのであったが、一昨日観た映画"Love me if you dare"(邦題「世界でいちばん不運で幸せな私」)において、対人関係を統制しながら愛情関係を構成し、それによって人生の行路を結果的に定めて行く主体が、それを双方で担う個体ではなく、それら主体からきわめて疎遠に措定され、かつ個々の物語を破壊することを目論む遊びのルールであるという、これまた奇抜かつ現代的な事例を見るにおよび、それら行動が実行に移されるに際して個々の個体が個々の場面において参照する規範をもたらす際に設定されるまなざしの起源が、あなたや私の生活する住居の天井付近すなわち地平数メートルの地点を遥かに超えた別次元の平面上に、偶発的ながらかなり安定して存在していることに気づかされるのであった。
 思うに明確な自己の進路を定めることを求められた際に、「人生いろいろ」などということを嘯く輩は、上記父子のような協同関係とは異なり、二者(国)関係の一翼として上記後者愛情関係を統制する平面の一点に自己を積極的に定めることで、結果的に人間から疎遠なる倒錯した論理に積極的に飲み込まれているのだということに、その無能なる海の向こうの相棒と同様に気づいていないのだろう。
 Cap ou pas cap?(「のる?のらない?」)。答えは自明である。

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