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by 墓場のふくろう

ふくろう通信235 [2002/01/03 00:14]空間移動にともなう身体と環界の連関について
ふくろう通信236 [2002/01/04 00:08]LEGOブロックは何故硬いのか
ふくろう通信237 [2002/01/25 02:28]現象を捉える文脈の効果について
ふくろう通信238 [2002/02/04 22:31]鉄橋を通過する時間について
ふくろう通信239 [2002/02/16 00:47]小旅行の日記
ふくろう通信240 [2002/02/22 12:50]国際関係について
ふくろう通信241 [2002/02/24 22:43]春を待つ
ふくろう通信242 [2002/03/01 22:53]投影法について
ふくろう通信243 [2002/03/05 01:05]コミュニケーションの場としての算盤
ふくろう通信244 [2002/03/07 02:52]Ego Identity
ふくろう通信245 [2002/03/08 22:50]まちづくりに関する考察
ふくろう通信246 [2002/03/17 00:18]墓場をめぐる世代間の絆について
ふくろう通信247 [2002/03/27 12:01]家屋の跡に残ったものは
ふくろう通信248 [2002/04/03 02:10]無題
ふくろう通信249 [2002/04/12 23:12]埋め合わせることについて
ふくろう通信250 [2002/04/27 01:52]運動反応
ふくろう通信251 [2002/05/03 02:07]いま・ここの世界
ふくろう通信252 [2002/05/12 11:55]妄想の精神内機能が精神外に有する機能的根拠
ふくろう通信253 [2002/05/17 23:39]アンドロイドの対話
ふくろう通信254 [2002/05/24 00:29]貼り替え作業について
ふくろう通信255 [2002/05/30 00:02]口腔という部屋
ふくろう通信256 [2002/05/31 11:03]われひとりうれしきことを
ふくろう通信257 [2002/06/16 22:20]寛容にして慈悲あり
ふくろう通信258 [2002/06/29 00:26]私に映し出されるもの
ふくろう通信259 [2002/08/05 00:52]活動を支援する電子情報環境


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235 [2002/01/03 00:14]空間移動にともなう身体と環界の連関について

 二年ぶりにスケート場に出向いた。二時間ほどの間、ぎこちないながらも悠然と滑り続けていたが、そろそろ引き揚げるという段になって、うつ伏せに氷上に倒れ掛かり、しこたま腹部を打ってしまった。しかし痛みが残ることもなく、充分に滑走できたことに満足して施設をあとにした。
 その後、遊園施設にて「空中ブランコ」なるものの金属製の檻に詰め込まれた。折角、遊戯施設に赴いたのであるから、このような場では楽しむことが必要なのだと、心中言い聞かせを繰り返しながらも、現実に機械装置によって揺れが開始されると、檻の鉄柵を冷や汗がにじみ出る手で握り締め、せめて外界の視覚的刺激だけでもマスクすれば、この恐怖体験は軽減されるであろうと、時間の大半を、閉眼状態でやり過ごした。
 最後に、モニターを見つめる仕事がら、また「錯覚」に関するそれなりの知識を有しているという油断から、これは大丈夫であろうという自信を抱いてしまい、映像と振動によって仮想現実体験を引き起こす映画風遊戯施設のスクリーンの前で、予想をはるかに越えた数分間の恐怖体験を味わうことになった。
 これら三種の、情動が過剰に高まる体験をした後に、結論として導き出されたことは、いかに現実に身体的に衝撃を受けようとも、自らが自在に動いた結果としてそれがもたらされたのであるならば、それは決して恐怖として感じられることはないということであった。
 夜の映画館にて、二度目の「ハリーポッター(Harry Potter)」を観賞したが、上記三種の体験を積んだ後であったので、"Quidditch"の試合場面も、非常に余裕をもって観賞することができたように思う。

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236 [2002/01/04 00:08]LEGOブロックは何故硬いのか

 神戸に向かう深夜の電車内において、隣席の親子が、概ね下記のような会話を交わしていた。
 子「あのブロック、どうして硬いんだろう。」
 親「LEGOっていうのは、一度作ったら、そのまま飾っておくものよ。」
 子「なんだ、あれはまた別のものが作れるものだと思っていた。」
 親「だからブロックが硬いのは、壊しちゃだめだということよ。」
 柔軟で健康なるパーソナリティーは、かくして硬直してゆくのである。

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237 [2002/01/25 02:28]現象を捉える文脈の効果について

 書店で偶々目にして購入したノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)氏の著作"9.11"の翻訳(山崎淳氏による訳で文芸春秋刊)において、氏が依然として健全なる理性を守りつづけていることを感じ取ることができたが、かってのニカラグア問題にかかわって彼が述べている下記の事実は、ここに明記しておく必要がある。
 「国際司法裁判所が国際的テロで有罪を宣言した唯一の国が米国であり、米国だけが国々に国際法の遵守を求める決議案を拒否した」。
 先日、大阪駅構内に「地獄の黙示録」のポスターが2枚並んで掲示されているのに出会ったが、これらはいずれも、きらびやかな衣装のダンサーとサーフィン場面という、ベトナム戦争とは一見場違いな光景であり、その異様さが映画そのものの異様さを醸し出しているように見受けられた。しかしそれを目にした後、かつてこの映画を鑑賞したある雑誌記者(と記憶する)が「戦争がいかに美しいものであるかを知った」という旨の、おそらく監督本人さえもが驚愕するような発言をした、というある映画評論家の文書を思いだした。
 私がこの映画を鑑賞したのは、「ペンタゴン・ぺーパー」を題材にした、いいだもも氏の訳によるチョムスキー著「お国のために」(の翻訳2巻本「ペンタゴンのお小姓たち」・「国家理由か絶対自由か」(河出書房新社刊 1975)の前者)を読了した直後であった。それゆえ、映画の開始直後に描かれる、森林でナパームの炎が広がる場面から、身体の毛が逆立つような恐怖と怒りの感覚を感じたのであるが、米国という国がかつて果たし、そして今日も位置付けは多少異なりながらも果たしつづけている役割の理解なしにこの映画を鑑賞するならば、おそらく「爽快な戦闘シーン」となってしまうのであろうなと、これまた身の毛の逆立つ感覚になるのであった。

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238 [2002/02/04 22:31]鉄橋を通過する時間について

 JR神戸線の淀川鉄橋にさしかかった際、快速の向かい合わせ4人座席の対面に座席を占めていた男子幼児は、窓外を真剣に眺めながら、レールのジョイントと車輪の接触によって引き起こされるところの「ガタンゴトン」という音を再現し始めた。
 そういえば、昔はどこの線路でも継ぎ目があって、自分もこの音をしっかりと確認しながら窓外の線路が流れて行くのをじっと眺めていたことを思い出した。
 さらにその鉄橋を渡りきったところで、隣の座席を占めていた母親が、「長い鉄橋やったね」と、その男児の音の再現行為を、すっかり引き受けるような物腰で声をかけたのを耳にしながら、今では鉄橋の通過は、ぼんやりとしているうちに通り過ぎてしまうような、もはや精神の緊張など伴わぬ出来事になってしまったが、昔は「これは長い鉄橋だったな(淀川は広いな)」と通過したことの達成感のようなものを毎度経験する時間であったことを思い出した。
 この母親も、この子どもの経験を共有することで、私の失ってしまった貴重なる「長い時間」をまだまだ経験することができるのだなと、少しばかり羨ましく思った。

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239 [2002/02/16 00:47]小旅行の日記

 平日の昼前ごろに寝床から起きだし、仕事場に向かう前に、日々増殖する書物群に対応して書棚を購入し、さらについでに、機能を停止した短波ラジオを修理に出そうと、摂津本山南のコープリビングならびにソニーのサービスセンターに出向いた。するとその後者サービスセンターは、建物は現存するものの、配送の機能を残して一般客へのサービス業務は他の場所に移転しており、その旨を告げる掲示が、シャッターの閉められた玄関口に寂しく掲げられていた。
 この十数年来お世話になったセンターであったので、なにかしら寂しい気もしたが、いつかはこのようなときもやってくるのであろうと気を取りなおし、ほぼ隣接するコープリビングにて書棚を購入し、2号線を東方向に戻ることにした。
 そのとき三宮経由税関行きの阪神バスが、偶々2号線を東の方角からやってきたので、どうせその方向に向かうのであるからと思い、普段は利用しないその乗り物に、上述のごとき顛末で拍子抜けた勢いもあって、乗り込んでしまった。
 普段歩きなれた道や、日ごろ通過することのない地域を、バス車内からの視覚でながめることは、旅先で観光バスにでも乗っているような心地がして、仕事場への場所移動とはいえ、旅行気分を満喫してJR三宮駅前に降り立った。
 安上がりではあるが、魅力ある楽しみには違いない。こんどは、どこらあたりのバスに乗ってみようか等と考える。

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240 [2002/02/22 12:50]国際関係について

 阪急王子公園駅の西口より改札を入り、三宮方面行きのプラットホームへ登る階段半ばの踊り場隅で、高校の制服を着た男子一名と、同じく高校の制服を着た女子一名が、互いに無言で身を寄せ合いひとつとなっていた。
 ここ数日、風邪気味で体調を崩し、外出時には厚着を心がけてはいたものの、寒気のする夕方の外気のもとで、その半径数メートル区域は、生暖かい静寂に包まれており、如何なる干渉も無力と化するかのごとき様相を呈していた。
 始まってしまった関係はもう止められぬ。無為なる干渉は慎まねばならない。

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241 [2002/02/24 22:43]春を待つ

 ここ数日、自室で床に着くことの多い日が続いているが、周囲の世界はあきらかに春の気配を漂わせており、日差しや風に、どことなくやわらかさを感じることができるようになってきた。
 早く元気になり、六甲山に登れるようになりたいと思う。

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242 [2002/03/01 22:53]投影法について

 日頃、昼間に通過することがないこともあって、気づかなかったのかもしれないが、今日の正午過ぎ、兵庫県立近代美術館前の山手幹線まで坂を下ってきたところ、街路樹の剪定作業がすっかりと終了しており、そこには薄曇の空が、妙に明るく広がっていたのであった。
 街路に沿って、バウムテストのテキストにしばしば見受けられるような、枝先がすっかり切り落され、緑の葉をほとんど落とした、いかにも無残なる木材が、美術館の展示品のオブジェの如く並んでいるにもかかわらず、なにかそこに運動反応のような活気を見出してしまうのは、それが春だからというひとことに尽きるのかもしれない。普段、夜間に通過するときには耳にすることもない活気ある子どもの声が、王子動物園内からもれ聞こえていたことも、上記反応に少なからず影響したはずである。
 春は、新たなる進路への転換期でもある。今まさに踏み出さんとする生物に向かって、何らかの支援ができればという思いのみが、木々に投影され、足取りはまだまだ病気あがりであるのが心許ないところではある。

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243 [2002/03/05 01:05]コミュニケーションの場としての算盤

 休日に実家にて30年前に放映された大阪のどぶ池筋を扱ったドキュメンタリー番組を観ていたら、ある小売商らしき婦人が問屋に布地を買い付けに訪れて、算盤を手にした店主と価格交渉する場面となった。
 日本の算盤という演算装置の数学教育および思考能力の発達における位置付けについては、波多野誼余夫・稲垣佳世子両氏、あるいはMichael Cole氏などが、熱く語るのを聴講した記憶があるが、おそらくそこでは人間の思考展開における道具の役割という文脈での話であったように思う。
 ところで、その婦人は問屋店主が算盤にて示した取引額の玉の並びに対して、自らの手でそのうちのある一つの玉を反対方向にはじいて、「こんなところではあきまへんか」と交渉に打って出たのであった。
 おそらく、相手の立場からするならば、その盤上には「引く」ことのできぬ価格の桁が存在し、それは交渉を打ちだす婦人の側からも当然認識されており、それゆえ両者が駆け引き可能な桁についてのみ、そろばんの玉をめぐるところの「押し問答」がやりとりされるところに、この算盤という道具を前にした価格交渉のダイナミックな展開の成立しうる根拠が存在すると思うのであるが、これがもし、大型のキーボードが貼りついてはいるものの、桁の操作に新たなる「打ち直し」を要求される電卓を前にした交渉であった場合、おそらくこのようなダイナミックな駆け引き、即ち、熟達した買い手による売り手の価格設定への介入行為は、幾分困難になるのではなかろうかと思った。
 もはや今日、物の購入という行為においては、熟練や経験、度胸なるものは捨象しうるものとなってしまったのであろうか。好し悪しは別としても、商品の流通から売り手と買い手という図式、価格評価の契機、が消えてしまっているような感覚がしないでもない。確かに商品は非常に敏速かつ円滑に流れて行くのであろうが、購入され手元に入った商品さえもが、消費される時間というアクセントを失ってどこかに流れ去ってゆくほどに勢いづいてしまっているようで、心配にはなるのであった。

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244 [2002/03/07 02:52]Ego Identity

 夕方少し早めに仕事場を出て、西灘劇場にて鑑賞した映画"Ester Kahn"(邦題:「めざめの時」, 2000年,Arnaud Desplechin監督作品)において、主人公の女性が、自らのfamily nameを発音するたびに声がしわがれてしまうのは、先祖伝来の家族の系譜を自分も生きざるを得ないことへの無意識の抵抗であり、自分を見出そうと演劇に身を投じようと動き出した心のありようの表出でもある。
 家族の中で常に冷ややかにその人間関係を外から眺める「浮いた」存在であった彼女も、ふと練習の終わった舞台から降り立ち、人気のない観客席から眺めたその舞台上に想像した等身大の自分を、指を広げて手のうちに測定したことを契機に、自分が観察すると同時に他者に観察される存在であったこと、自分も家族の成員であったこと、姉妹兄弟が、いつまでも親の代弁者ではなく、自分と同じように、これまた一つの人格を持つ大人になってゆく存在であることに、改めて気づいてゆく。
 物語を演ずる行為は、天井桟敷からのすぐれた「人間観察」を通じてのみならず、物語上、時空間のある位置を、他者を排して占めた役者の身体が、そう生きざるをえないことへの気づきを、すなわち、その関係に入ってしまった必然性への洞察を通じて、よりリアルさを増してゆく。
 そのとき人は自分の欲するあるべき姿と、そうたやすくは自分を見つめ、認めてくれない他者というものの存在と、その両者によって引き起こされる葛藤の存在を、ともに認めることができるようになるのである。

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245 [2002/03/08 22:50]まちづくりに関する考察

 板宿から、山陽電車で垂水に、そこからバスに乗って学園都市へ、そして地下鉄で名谷へと向かい、再び板宿へと戻った。ただ無意味に徘徊したわけではなく、「そこに生活するとしたならば」という立場で、これらの街を値踏みする行為に偶々関わることになったとしておこう。
 いずれにせよ、これらの街を概観してみていえることは、広々とした空間、日当たりのよさ、通路上を移動する通行人の行動の円滑さ、視界に入る店舗やディスプレイの均衡のとれた配置、等々は決して人間の生活環境にとって必須もしくは理想の要件なのではなく、他人と譲り合わねば通過できぬ薄暗く狭い通路、獲れたての「いかなご」を求めて店頭から横丁まで延びた行列、その行列を迂回して眺めながら通過する人々、買い物客の連れ子が通りかかった飼い犬にかまう行為に横から口を挟みこむ店主、その他、コミュニケーションを誘発し交錯させるさまざまな道具立てが、人や物からなる音と動きの大きなうねりのようなものを発生し続けていることが、おそらく人の生活する街の活気と健康さの重要な尺度になるということであろう。

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246 [2002/03/17 00:18]墓場をめぐる世代間の絆について

 鹿児島の旧士族の墓石の台座には、故人が生前愛用した品物が、レリーフのように彫りこまれているという、かなり以前の「月刊言語」に寄せられた高橋正人氏というデザイン学研究者の記事を先日目にし、大変に興味をそそられていたので、今日、鹿児島県日置郡のある墓地の隣で、作業をしていた消防隊隊員の人達にその記事のコピーを提示し、「このような墓石はこのあたりに存在するのであろうか?」と訪ねてみた。
 そのあたりはかっての士族の村ではなかったので、残念ながらそのような墓石はないとの回答であった。しかし、墓の話題についてことばを交わすなかで、墓の上に屋根のようなものをつける風習があるという話になり、偶々、その墓地にも墓石とその周囲の区画を屋根のようなもので被った建造物が見受けられたので、これは何を意味するのかと問うてみると、傘をささずに墓参りができると同時に、墓を保護するという機能も担っているのであろう、という説明が返ってきた。
 いずれにせよ、墓石をめぐるこの土地の人々の思い入れについて、先祖とのつながり関係の維持という観点から、改めてその深さを確認することになった。

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247 [2002/03/27 12:01]家屋の跡に残ったものは

 人間誰しも、「家」というものをなんらかの形で曳きずっており、それは家族であったり、家系であったり、場合によっては民族であったりするのだろう。今日、三宮の映画館にて鑑賞した"The Shipping News"(Lasse Hallstrom監督、2001年)において、そこに登場する人々は、各々がその集団内での関係のあり方の歪みを、何らかの形で自らの傷として背負っている人々であり、また、それゆえに、もはや旧来の家族という形を超えて、別の形の関係においてしか、その快復がなされ得ないところまでやってきた人々なのである。
 主人公の娘である少女は、この歪みを敏感に感知していたがゆえに、自らの存在そのものへの不信と戦いながら、「家」の消失をしっかりと見届けることになる。もちろん、それを引き受け、解釈し、娘を安心させるのは父親をはじめとする大人である必要があるのだ。
 「風が家を吹き飛ばして、絶景が残った」というヘッドラインにおいて、新聞記者である主人公が表現した「絶景」とは、決して、暖かい夏のやってくることのないニューファンドランド島の自然の光景なのではなく、旧来の家という組織には収まりきらないが、厳しい自然のなかにも温かみを見出すことのできる、新しい人間関係のあり方であらねばならない。

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248 [2002/04/03 02:10]無題

 仕事場の中庭に大きな桜の木が数本あり、夕方の誰もいなくなったその中庭の満開の花の下で、数秒間ながら、一人贅沢な花見を行った。
 構内の高い木の梢で、雲雀が鳴き声の練習を開始していたのが唯一の友といえようか。

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249 [2002/04/12 23:12]埋め合わせることについて

 本来そこにあるべきものがそこになく、なにか空っぽの感覚だけが強固に頭から離れないような場合、人はそこに「埋め合わせ」を求めることとなる。本来、そのような事由をもって埋め合わせられたものは、しかしながらやはり埋め合わせでしかありえず、それゆえ、本来あるべき充足がそれによって永久に封印されてしまう危険性を孕むことになる。それは同時に、更なる別次元の埋め合わせを必要とする事態へと横滑りする危険性をも、また孕んでいるのである。
 チェコの映画"Otesanek"(邦題「オテサーネク」:2000年)に登場する木偶の赤ん坊は、そのような意味で欠乏感をさらに増幅させ、産まれるべき赤ん坊を失った母親や、未だ産み出すことのない空洞を満たすべく赤ん坊を求めている少女の心の空隙に入り込み、自分が「犯して」しまったいわれ無き喪失という「罪」を、永久に償うべく精力を浪費するよう、扇動するのである。
 しかし、最後にそれらの人々の救済にのりだすのが、アパート一階の中庭で、土に交わりながら、種を植え、こつこつとキャベツを育ててきた、地に足のついた老女であるというのは、なかなか示唆的である。元々木の根であるこの木偶は、根を張るべき大地から切り離された、人工的かつ密閉された部屋という空間のなかで、もっぱら飽くこと無く、逸脱した滋養を求めて、根を触手の如く動かしつづけるからである。

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250 [2002/04/27 01:52]運動反応

 おたまじゃくしが水草に集まっている絵を漫然と眺めていたら、それが生き生きと動き出して成長し、足が生え出して、頭を左右に揺らしながら、陸へ陸へと乗り出してゆく様が、ありありと記憶の底から再生されるのを感じた。
 最近はじっくりと生き物を観ることがなくなったな、と思う。

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251 [2002/05/03 02:07]いま・ここの世界

 図形のある属性を求めるために、もともとその図形には存在しなかった直線を、それに接する位置から遠く外部に向かって数本引き伸ばして描くことにより、そのもともとは得体の知れなかった図形の属性が、くっきりと浮かび上がってくることを見出す経験を、昔よく幾何学の問題を解く段において経験したことを、今日、映画"K-PAX"(邦題「光の旅人」:2002年)で登場する、宇宙人(を自称する)男性の振舞いを観ていて思い出した。
 ユートピアは、決してその実現可能性を説くために語られてきたのではなく、その実現不可能性が濃厚なコミュニティーで、その生を引き受けることを、結果的に説くために語られてきたのだと思う。

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252 [2002/05/12 11:55]妄想の精神内機能が精神外に有する機能的根拠

 映画"A Beautiful Mind"において、Russell Crowe演ずる数学者の妄想に基づく行動に違和感がさして感じられないのは、私の経験する「研究者」の世界が往々にしてそのような人物を不可避に内包するものであるという理由からではなく、また、映画という世界が、常にそのような主人公の現実感覚を正当なものとみなさざるを得ないような「特異な」世界を描くという構造を持つからでもなく、現実にそのようなことがあっても決して不思議でないと思われるように、政策的・通俗的に情報構造が仕掛けられ、それをあたかも現実であるかのごとく環境を着々と構築してしまうような、不可思議な人物達に精神的に支配される生活の戯曲を、観客である我々が日々競演しつつ送ることを余儀なくされているからである。
 そういえば、映画の開始を待ちながら、劇場内のcafeにおいてぼんやり眺めていた某国産映画の予告編で、「彼らが革命の英雄ではなく、国民の敵だということを」知らしむべき云々の台詞を耳にした。思うに、それとは表裏の関係で、そう喧伝する側の「彼らが国民(住民ひいては民族)の英雄ではなく、革命の敵だということを」見定めることがなければ、いたるところで理不尽な事々を暗躍・展開する「成長のみられない」指導者達を抱え込んでしまうことになる、という事実を危惧せねばならぬ非常に情けない事態に現実の世界はあることを、今更ながら確認しなければならないのではなかろうか。

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253 [2002/05/17 23:39]アンドロイドの対話

 ハンバーガーショップにて、朝食をとっていたら、目前の座席にて注文した品を待って座っていた男性客のところに、店員のこれまた男性が近づき、「お待たせ致しました」といつもの店員口調でその男性に伝えた.すると、その男性客も、それに「ありがとう、ございました」とこれまた店員口調で返答したのであった。なにか、AIBOとASIMOの対話を聞いているような目眩に近いものを感じた。

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254 [2002/05/24 00:29]貼り替え作業について

 仕事場で教員紹介をしているwebページの更新作業を行った。任期を終えて退職された教員、講師から助教授に昇格した教員、海外から来日し数年間滞在して去られた教員などの、あるものは項目を消し、あるものは職名を貼り替えていった。
 閉門時間直前に仕事場を抜け出し、帰宅途中に立ち寄った大型スーパーマーケットの食品コーナーでは、多くのものは既に姿を消し、あるものの値札は、既に「半額」シールへと貼り替えられ始めていた。
 時間の経過が食物の新鮮さを奪い去り、さらに閉店が間近となるにつれ、その商品価値が急落することは当然ではあるものの、数秒前まで2倍の価値を有していたその同じものが、価値を半減させてしまうという事実には、何か受け入れがたいものがあった。時間の経過が腐敗に繋がるような、新鮮さが勝負の食料品ならば、それも致し方あるまい、と思いなおしたが、今日は仕事場で作業対象にならなかったとはいえ、もし自分の上に張られた何らかの価値を示すシールについて、貼り替えが行われた時には、おそらくこれら食料品の場合とほぼ同等の、価値の下落が起るのであろうな、と思うとともに、それについては、ほぼ異議無く受け入れることができるのであろうな、と思った。

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255 [2002/05/30 00:02]口腔という部屋

 ここ数週間、虫歯の影響で、頭痛、肩こり等に悩まされていたが、今日、ようやく摂津本山駅近くの歯科医を訪ね、治療を開始したことで、その解決への一歩が踏み出された。
 いずれにせよ、長期にわたる関与がなかった口腔内に他者が介入するというのは数年ぶりのことである故に、内部は迎え入れる体制がなされておらず、誠に無様な室内であることが、歯の並びが丹念に検証されるなかで確認された。
 基本的な人間関係ができていないということでもあろう、と仕事部屋を見まわして考える。

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256 [2002/05/31 11:03]われひとりうれしきことを

 仙台市郊外のある大学に、資料収集と見学に出向いた。
 空港から数十分、まだツツジやタンポポが花開く沿道を目にしながらも、格段関西とは異なる風景は感じることもないままに、迎えの乗用車にて高速道を一直線に現地へと向かい、夕方、再び逆方向に空港へと戻った。
 この一日の行程で、空から眺めた太平洋の青さのみが、強く強く印象に残った。

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257 [2002/06/16 22:20]寛容にして慈悲あり

 知人の結婚式にてスピーチを依頼され、原稿未完のまま式場に出向いた。
 概ね述べようとする数項目が書きこまれたノートを手に、マイクを握ったものの、その内容をほとんど口にすることなく、スピーチを終えてしまった。
 おそらくは、そこに用意されたことばの大概が、この二人にとっては、今更ながら述べるまでもないことだと、直感したからに他ならない。
 新たな生活において、お互いが自己の新たな鏡として、日々己の姿を映し出すことになるのであるとするならば、互いに歪なき鏡像を提供し合える関係を、努力して築いてゆかれんことを願う。

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258 [2002/06/29 00:26]私に映し出されるもの

 生涯、決してその生身の表情を拝顔出来ない相手というのが、実は自分自身であるという事実は、鏡やビデオ装置が「環境」といえるまでに遍在する現代においては、さほど驚きをおこさせるものではないのかもしれない。しかしながら、これら装置が映し出すのは、正確には自己の過去の姿であり、現在、ましてや未来などを映し出すことは決してないことも、また事実なのである。
 Jim Carrey主演、"The Majestic"(Frank Darabont監督、2001年作品)において、主人公が記憶喪失のまま転がり込んだ街の人々が彼の中に映し出しているのは、過去に生きた一人の若い青年の記憶ではなく、戦争によって失われてしまった多くの若い青年達の未来であり、それ故に彼は、権力に踊らされることなく自分が歩むべき進路を取り戻すことを可能にしてゆくのである。

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259[2002/08/05 00:52]活動を支援する電子情報環境

 4年近く愛用したVAIO C1の電源ユニットが、数カ月前から不調に陥り、ついに7月に入って使用不能状態となった。その影響で、PalmIIIのバックアッププロセスにエラーが介入してデータの一部が消失し、スケジュールの確認に多大な支障が生じた。加えて携帯電話のバッテリーが寿命に近付いたため、頻繁に充電をくり返す必要が生じた。時刻確認とともに翻訳原文をしまい込んでいた腕時計型コンピュータのenterボタンが力学的次元で故障を来し、閲覧不可能となった。さらには毎日欠かさず持ち歩いていた鞄のファスナー部分が2ケ所に渡って破損してしまい、鞄としての機能を全うしなくなった。
 上記諸事情に仕事上の様々な困難事が重なり、私の情報管理環境は現在、復帰困難な状態にある。にもかかわらず、私の活動はそれら個々の支障を無視しつつ、周囲の人々の支援をもって維持されている。
 さほどたいそうな個人的電子情報環境ではなかったのではないかと思う。

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