003 [96/05/03 10:13] 墓場のふくろう/ゴールデンウィーク!
ゴールデンウィークは楽しくMacと一緒にすごしています。
キッドピクスを使ってお絵描きしたり、それをクラリス
ワークスに貼り付けたりして、たのしく原稿作りに
勤しんでおります。
最近読んだ本:
このところ暇を見つけて読んだ本で気に入っているものを
紹介します。
大西巨人 編著「春秋の花」 光文社
これは「週間金曜日」という雑誌に連載されていたものです。
大西氏の評論集(?)は近日、みすず書房から出版される
ようです。戦後すぐに書かれたものは読んでいないので、
楽しみにしております。
もう一冊、
古澤頼雄 編著 「教育心理学へのアプローチ」 北樹出版
これは、とにかく読んでみてください。
やっと某コーポレーションへ絵付きの資料を送り、昨日は
大阪の自宅で中一の甥にFORMATして壊してしまったという
5インチフロッピーにMS-WORKSという年代もののソフトを
再インストールしてあげていました。
ゲームを作りたいというので、これも10年以上前に手に
入れたLOGO、とDOS BASIC(もちろんN88です)を提供しま
した。
さてどこまでやってくれるのでしょう。
甥が帰った後は、久しぶりにPC98LTのエディタを起動し、
ハードディスクの騒音も、バックライトのちらつきもない
シンプルな画面で、文書作成しました。文書内容は廃棄。
夜に神戸宅に戻り、次の文書にとりかかりました。
昨年の地震の際の小さなノートに書き込んだある小学校
での記録。記憶というのはいいかげんなもの。バートレッ
トの"Remembering"ではないが、都合のよいように変容
してしまうようです。
今日は朝から本山のマクドナルドで朝食の後、部屋に戻り
再びMacに向かっています。午後からは天気も良いので
外出の予定。
休日は、CRTとのお付き合いだけでは不健康なので、時折、摂津本山や岡本駅
近辺を散策する。先日、駅前の書店で「芸術新潮」の「さよなら、岡本太郎」
特集に目が留まったので購入し、読んだ。花田清輝と岡本の交流に関する岡本
敏子の回想は、従来、花田側からの評論しか読んでいなかった私には、新鮮で
あった。「復興期の精神」「錯乱の論理」にはじまる花田の著作は、私の生活
あるいは思考スタイルに決定的な影響を与えた。あるいは、誤解を恐れずいえ
ば、私の思考様式がすんなり花田の様式を受け入れたといえるように思えるの
だが、よく考えれば、その伏線は、私が70年の大阪万博の「太陽の塔」から受
けた独特の芸術体験によって、すでに引かれていたのかもしれない。
「新しい内容は、あらゆる可能な形式を通じて、自らを実現する...(花田)」
発作的に思い付いて、大学生を主な対象に「インターネット講習会」
を5月17日に開いた。
必要な学生さんにはすでに接続いただいていたので、当日、コンピュ
ータ教室にやって来られたのは、教職員の方がほとんどであった。
ちょうど12時30分ころからPPP接続を始めたので、回線が混み合っ
ている時とぶつかったわけで、何度か接続が中断したり、フリーズが
起こったりして、(^_^;;;;;;;;)こんな感じだった。
それでもコンピュータの講義には慣れているので、エラーが起これば
それも「教材」にして何とか切り抜けることができた。
...と思うのは私だけか?
3両だけ停電の外周り環状線の電車が大阪駅に入ってきて、点検の作業員を乗せて
発車した。もちろん停電なのはモーターではなく、室内の照明である。
おかげで桜ノ宮を過ぎて京橋に近づくまで、わずかに空の明るさが残る大阪の
夜景を車内から楽しむことができた。
非常灯という白熱電球のわずかな明りに、30年以上前の地下鉄御堂筋線の暗い
車内を思い出した。この地下鉄沿線に自宅のあった私は、地下鉄に乗る度に最前部
のガラス窓から、はるか暗闇のかなたに点のように現われる駅の光を待ちながら、
鼻をガラス窓にへばりつけていたことを思い出す。
そこで知ったことは、思わぬところから光の点が現われそれが駅の構内の光とな
る不思議さであった。地下のトンネルはくねくねと曲がっていたのだ。
日本橋でメモリを買った。
ソフマップのザウルスなどという名前のついた店で、他の店の半額だった
ので特をした気分で帰ってきた。今日はそれを今から装着してみようと思
っているが、メーカーがばらばらなところから無理やり頼んでNECのもの
を店員さんに選んでもらったものなので少し不安である。
もともとメモリの間での相性などということを考えなければならないこと
が、困ったことなのだが、こちらのほうは人間の間の相性と違って、CPU
の速度が少し鈍るぐらいで、その軋轢はさほど目立たないのであろう。
尤も、人間の場合はお互いのずれがあるからこそ他人が横にいる意味があ
るわけだが。メモリの場合は、個性など出さずに一糸乱れず歩調を合わせ
る必要があるところはまだ「アソシエーション」の入り込めない世界なのだろう。
週に1日は王子公園近くのロイヤルホストで朝食をとることにしている。
今日は私の後で後ろの席についた同年齢ぐらいと言葉つきから伺われる
お客さんが携帯電話で話し始めた。しばらくして再び電話をかけている
ようで、後は新聞か雑誌でも読んでいるのか静かであった。
ところが、私が席を立って驚いたことには、そのお客さんは一人ではなく
相手の男性のお客がいたのであった。
携帯電話は人と人のつながりを身近なものにすることはたしかなのだろ
うが、目の前にいる生身の人間との関係をどのように変えてゆくのかと
いうことを考えてみる必要がありそうである。
電話の向こうにあらわれる人格と、現実に向き合う関係にいる他者の問題。
先日、某大学の英文学の先生と話をしていた折、部屋に流れていた音楽が
なんともいえぬ雰囲気を漂わせていたので、いつものチャペルアワーに流
れる曲にしては少しモダンだが、宗教的でもあるなあ、と思っていると、
その先生が自分でCDラジカセを操作して、そのCDを紹介して下さった。
その先生の友人がアイルランドについて研究されているとかで、その関連
で、このEnya(エンヤ)というアーティストに興味をお持ちだとのことで
あった。
さっそく、その日の夕方に三宮のBALのVergin RecordでWater markという
タイトルのアルバムを買い求めた。
「オリノコ・フロー」とはその中の一曲(Orinoco Flow)である。なんとも
奇妙な節で歌われるこの曲が今気に入っている。(1988年の作品)
立て続けに「テイクダウン」と「ハッカーを撃て!」(ともに邦訳のタイトル)を
読んだ。前者は下村努とジョン・マーコフによるもの(徳間書店)、後者はジェフ
グッデルによるもの(TBSブリタニカ)である。
この2冊の「羅生門」のようなノンフィクションの読書体験により、私はケビン・
ミトニックという人格に非常に興味を抱くようになっている。
同じマーコフの「ハッカーは笑う」(NTT出版)にもミトニックの記事があり、これ
からちょっと目を通して見ようと思っているところである。
サイバースペースという暗い胎内で遊んでいた子どもが、突然外部の世界に引きずり
出されるというイメージのする逮捕劇は、この人物の心理的な世界にどのような意味
をもつことになったのであろうか、というのが興味の中心である。
FBI心理分析官という112版の本を買って読んだ。
スクーリングで講義の度に質問カードで意見を求められるので、
どんなものか見てやろうという気持ちで読んだ。
安易な人情の介入を許さない世界の話だけに、非常に暗いもの
が感じられた。
連続殺人者にとって刑期を果たすことがなんら「負の強化」に
ならないことはひるがえってみれば、牢獄が最も安全な居場所
になってしまうという危険な納得に導いてしまうようで、なん
とも言えぬ気持ちになってしまう。
それにしてもどうしてこんな本が112版にもなるのだろう。
先日から風邪を引いて、ここ数日仕事どころではない。
ペルーの「人質事件」は良いところに落ち着きそうであるが、
進展を見物していると、すでに人質の時代ではないという感
が強まるのみである。
占拠された場とその外の世界の境界が、非常にあいまいなも
のに感じられるのはなぜか?
風邪のウィルスと仲良く付き合いながら、健忘ぎみの冴えな
い頭で考える今日この頃。
重苦しい円盤のなかの世界は、我々の日常の重苦しい精神の
反映である。残念ながらその正体が掴めぬゆえに、それは我
々に襲いかかることにもなるのだろう。
インディペンデンスデイに登場する円盤には、ひょろひょろ
とつかみどころのない、ぼやけたイメージの円盤ではなく、
しっかりとした堅固な、それゆえたじろぐことなく不気味な
円盤が登場する。
我々は円盤がやってくるのを待っていたのであろうが、その
あまりの異様さに、我を忘れて勇敢に立ち向かってしまった。
円盤が落下したあと、あの人達はスカッとすっきり、快感を
味わえたのであろうか。
幸いなことに、映画からの帰り道、見上げた空は星空で、おまけ
に雪までちらついていた。
別にふられた話しをするわけではない。
自宅で母親がみやこ蝶々のドキュメンタリー番組を見ていたので、
後半を見ることになった。
弟子の破門というエピソードが、病身の蝶々さんを追うカメラの
中で語られていた。理由は、入院している自分にちょっとでも時
間を割いて見舞にこれないのかという単純な理由。
この単純な理由に込められたことの深さを、テレビを見終わった
あとで、ひとりこだわって考えた。ご本人にとって、そして弟子
にとって、そしてご本人と弟子との関係というものの展開につい
て考えた。
おそらく、その意味は時間が経過することでよりあきらかになる
のであろうと思う。良き師匠と弟子との関係とはいかなるもので
あるべきなのか。
HAPPY BIRTHDAY HAL 9000! 人間の思考回路は閉じていないのだよ。
地震直後以来2年ぶりに、知人から夜中に電話がかかった。
ハードディスクの回転音が気になって、近くのサービスショップに
不良品ではないかと、購入したてのパソコンを持ち込んだという。
パソコンに触ることは、一昔前は一つの作業であった。取り組む対
象は物々しい音をたてていたほうが、それだけ手応えがある。
かって、大学の計算機センターの出力室の騒音の中で、延々と打ち
出されるline printerの規則正しい断続的な音に、一種の酔いを感
じた、というと誇張になるだろうか。「道づれ」との共同作業。
そういえば昔のコンピュータは結果が出るまでに一晩かかることも
あったものだ。守衛のおじさんに「パソコン消さないでね」などと
言って帰路についたこともあった。よい返事を期待して、手紙をや
り取りしているような関係でもあった。期待と疑惑の入り交じった
関係。
今パソコンは身体の一部と化しつつある。待ちの時間は許されない
とともに、不快な音も違和感を引き起こす。内部のプロセスを意識
させないオブジェクトへの期待がある。Interfaceのみでの関係。
「たまごっち」などという変なものが流行る。
HALは"Heuristic ALgorithmic"からとられたものだそうだ。それに
もかかわらず、あるいはそれへの思い入れから、われわれはそこか
ら人格を感じ取ってしまう。
David G.Stork編集の"Hal's Legacy:2001's computer as dream
and reality. 1997 MIT Press."の第13章"Does HAL cry digital
tears?"(Rosalind W.Picard著)を読みながら、コンピュータと人間
の親密なる関係を考えた。
キーボードやマウス一つをとっても我々は他の人間とよりも、より
コンピュータと「接触」している。ポケットに入るものや、腕時計
のようなコンピュータが実現している時代なのだから、その状況は
より一層深化しているといってよい。
筋緊張や心拍、体温など、他者が視覚や聴覚で感じ取る以上のもの
をコンピュータは即時に感知できることになる。これを著者は
"wearable computer"と呼ぶ。
そのような意味における「パーソナル」なコンピュータは将来、ご
主人の感情を判断して、即座に応対してくれる思いやりのある伴侶
となってくれるのかもしれない。
なんというナルシシズムの拡張か!
この時期に東京に来ると、いつもタルコフスキー,A.監督の
「アンドレイ・ルブリョフ」という映画を思い出す。
数年前、父が一ヵ月の間、生死の境をさまよっていたころ、
数時間おきに電話で連絡をとりながら居た渋谷のホテルの
BSで、このかって何度も映画館に通った名作を観たからで
ある。
崩壊した寺院の鐘の鋳造を独りで成し遂げた少年は、本当
は「おやじはなにも教えてくれなかったんだ」と主人公の
イコン画家ルブリョフに告白する。
少年に動かされて、ある事件から「沈黙の行」に入ってい
たルブリョフは、少年に再び絵筆を取ると語りかける。
わたしにとって、この瞬間の少年が私の未来であり、この
瞬間のルブリョフが私の現在、もしくは過去でありたいと、
この時期になる度に思ってもう長い。
(2月末の新宿のホテルにて書いたものを3月8日に校正)
Mike OldfieldのTubular Bells II 1992 (wea)を聴く。
20年という歳月は、人間を大きく変えてしまうものである。
あの頃聴いていたTubular Bellsのbackgroundは暗黒の奥深
き闇であったように記憶する。
この音楽には贅肉というものがなく、研ぎ澄まされた鋭い
旋律が、有色になったbackgroundに展開しているとでも形
容できるところがある。
以前、John Lennonの音楽を「透き通ったような」と形容し
た知人がいたが、このMike Oldfieldの音楽にも、厚みを増
してもなお、透明さが、即ち、筋の通った切実さがみごと
に新たな旋律に昇華されて輝いている。
しかし、20数年後の私がこれを聴いているのだという事情も
勘案しなければならぬのかもしれない。とすれば、まだ疾風
怒涛の青年期を、「夜明け前の闇のなか」ではなく黄昏時の
ような有色の背景の中で私が生きているということであるの
か。
「夜はずいぶん年老いた、こいつを着替えて出直しだ。」
(友部正人の歌より)
時々は陽にも当たらねばということで、外に食事に出ることにしている。
今日は遅い昼食の帰りにJR住吉駅にある生協のSeer(シーア)に久しぶりに寄っ
た。
なすびやきゅうりやとまとやいわしなどを観ていると、なにか生きているという
実感が湧いてきて、元気になる。大袈裟なようだが、生命のあるものに触れるの
は良いことだなあ、という実感である。
新鮮なみずみずしい魚が並べてある真ん中に、大きなアンコウが、寝かせてあっ
た。
大きな口をあけたその風体は、昔読んだだれかの詩を思い出させたが、活気に満
ちた店内で、ご臨終された彼(ないし彼女)は、唯一なにか共感を誘う存在とし
て、そこにあった。
先日、ある神父さんが、生物(せいぶつ)と生物(なまもの)の違いについて、
お話しをしてくださった。他の野菜や魚が生き生きとして見えたのに、このアン
コウだけがご臨終に見えてしまったのは、彼(ないし彼女)に共感を覚えた私自
身が既に生物(なまもの)の域に達してしまったことを意味するのか?私は昔、
よく金魚を死なせてしまったことを思い出した。