プロローグ 鳥の話ばかりだと、浅学な私にはすぐにネタ切れとなってしまいました。そこで今回からは昔から好きだった植物の話を書いてみます。 植物に興味を持ったのはいつのことなのかはっきりしませんが、子供の頃に持っていた植物の図鑑といえば、父に連れられていった古本屋で買ってもらった「蔬菜図鑑」というものでした。どうしてこんな図鑑を欲しがったのかわかりませんが、「チシャ(萵苣:レタス)」「カンラン(甘藍:キャベツ)」などという、今では使われない言葉をその頃から知っていたのはこの図鑑のおかげです。ミカンの品種についても然りで、未だに見たことのない「ブシュカン:仏手柑」などが思い出されます。余談ですが、この古本屋は月島西仲通り商店街にある文雅堂書店で、丸いメガネを掛けた陰気な青年が店番をしていました。思えば彼が出久根達郎氏だったのかもしれません。直木賞を受賞した『佃島ふたり書房』の作家ですが、まだ確かめてはおりません。 長じてからは、團伊玖磨のエッセイ「パイプのけむり」のなかでしばしば取り上げられていた「牧野植物図鑑」をほしいと思っていましたが高くて買えず、安かった「学生版牧野植物図鑑:1973年版」は今も現役です。給料をもらうようになったとき、花が好きで、牧野富太郎を尊敬していた母の誕生日に、ずっしりと重い学生版でない「牧野植物図鑑」をプレゼントしました。喜んではくれましたが、母にはかえって迷惑だったのかもしれないと、今になって思います。 専門知識もなく、ただ好きだというだけの植物の話ですが、お楽しみいただければ幸いです。 *題名の菩多尼訶は宇田川榕菴(ようあん)の著した我が国初の植物学書「西説菩多尼訶経」(1822)から戴きました。目次へ 第一話 otaksa(1) otaksa*と聞いてアジサイを思い浮かべる方が自主探には大勢いらっしゃいます。「聞いたことないなぁ」という方でも牧野富太郎博士と牧野植物図鑑はご存知だと思います。アジサイの学名として、改訂前の古い牧野植物図鑑には、Hydrangea machrophylla Seringe var. Otaksa Makinoとして載っていますが、現在は使われなくなってしまいました。プロローグでご紹介した、学生版牧野植物図鑑は旧版ですので、このように載っています。 ・・・かねがね日本に興味を抱いていたドイツ人医師シーボルトは、渡航の機会を得るためオランダに赴き、1822年陸軍軍医外科少佐に任ぜられると、東インド会社に働きかけ、バタビアを経由し11ヶ月をかけ翌23年(文政6年)に来日しました。このときシーボルトは27歳の若さでした。着任後まもなく出島のオランダ商館で来日歓迎宴が催され、その席で、接待に当たった遊女のひとり、17歳の其扇「そのおぎ、あるいは、そのぎ」に出会いました。彼はこの美しい娘に一目惚れし、叔父に当てた手紙には結婚を考えているとしたためたそうで、他の商館員幹部とは違って真剣だったようです。 シーボルトが愛して止まなかったアジサイはなぜか日本ではあまり省みらませんでしたが、ヨーロッパへは1789年に日本から中国に渡っていたアジサイをバンクス(Joseph Banks)がイギリスのキュー王立植物園に導入したのをきっかけに、他の品種との交配から種々のセイヨウアジサイ(ハイドランジア:属名の英語読みですね)が生み出されました。最近の園芸ブームの中、逆輸入されているハイドランジアはお馴染みなものになっています。日本でなぜアジサイの人気がなかったのか諸説あるようですが、色が変わることが道徳的でない、というのも理由の一つだといいます。シーボルトを始めヨーロッパ人に歓迎されたアジサイを日本人が園芸品種として取り上げなかったのはとても不思議ですね。余談ですが、これと似た話がアサガオにあります。アサガオは中国から伝わったのですが中国本土では全く園芸品種として省みられませんでした。一方、薬用として日本に入ったにも関わらず園芸植物として江戸初期から明治まで熱狂的に歓迎され、さまざまな品種が生み出されました。 さて、otaksaはなぜ学名から消えてしまったのでしょうか?現在では 「ツンベルクの『日本植物誌』(1784)は、812種の植物を記載しており、シーボルトはツンベルクの『日本植物誌』を携えて来日し、研究のため愛用した。」〈矢部一郎 日本大百科全書:小学館) ではなぜ、シーボルトは既に命名されていたアジサイにあえて新たに学名を与えたのでしょうか?(つづく)目次へ第二話 otaksa(2) 前回は、なぜシーボルトは既に命名されていたアジサイに、あえて新たに学名otaksaを与えたのか?という疑問があったのですが、この疑問に植物がご専門の方が答えてくださいました。以下に許可を戴いたのでそのお答えを転載いたします。 私の質問は以下の通りです。 ここで気になるのは、ガクアジサイで、学名は、 Hydrangea macrophylla (Thunb.) Ser. f. macrophylla アジサイの原種とされています。 つまり、こういうことなのでしょうか、原種のガクアジサイをツンベルクが先に命名し、変種(*質問は間違いでf.は正しくは品種)のアジサイをシーボルトが後に命名したのだが、さらにその後にSeringeが両者は原種、変種の関係だということを明らかにし、命名し直したために、先に学名を与えたツンベルクの命名したmacrophyllaに統一された。どうなんでしょう? 頂戴したお答えは以下の通りです。 ------転載ここから アジサイの学名は Viburnum macrophyllum Thumb. ガクアジサイの学名は ガクアジサイの旧名として ちなみにf. は品種、var. は変種を表します。 ここでは記載年が書かれていないので、どのような順序でこれらの名前がつけられたか正確には分かりません。 **アジサイについて** アジサイをHydrangea Otakusa Sieb. et. Zucc.としてシーボルトとツッカリニが記載した。 Thumbergの記載したアジサイとシーボルトらのアジサイが同一のものであるとして、先取権がThumbergに認められて、Hydrangea macrophylla (Thumberg)Seringe が有効、シーボルトの学名(およびWilsonの修正)はシノニムとされた。 **ガクアジサイについて** Hydrangea Azisai Sieb. という名でシーボルトが記載した。 ガクアジサイはアジサイの品種である(変種ではなくて)ということで、HaraがWilsonの学名を修正して、Hydrangea macrophylla (Thunb.) Ser. f. normalis (Wilson) Hara とした。 ***** Hiroshi Abeさんは19-Mar/2002,Tueに書きました: つまり、シーボルトはアジサイとガクアジサイを別種として認識し、それぞれに学名をつけた。シーボルトはそれらにすでに学名が与えられているとは知らなかったか、または既発表のものとは別種と考えていたのであろう、というのが、初めの阿部さんの疑問に対する答えになります。 以上です。 佐藤さんのおかげで、ずっと疑問に思っていた謎の一つ、なぜOtaksaが消えてしまたのかについては解けたのですが、ツンベルクの図鑑を持っていたにも関わらず、アジサイに新たに学名を与えた謎は残りました。学名は研究の進展に伴い、同一種と判断されたものは旧名がシノニムとして破棄されます。このため特徴や由来などを反映していた名称が捨てられてしまうことがあり、図鑑によっては旧名も表記されていますが、普通の図鑑を見る限りではその経緯がわからないわけです。Otaksaもそのシノニムの一つとして消えてしまったのですが、その陰にはシーボルトのお滝さんへの深い思い入れがあったのでしょうが、それらもいっしょに捨て去るには忍びないと考えるのは私だけではないと思います。 余談ですが、「日本植物誌」に載ったツンベルグの植物画展が白金のスェーデン大使館で催された時、是非見に行こうとしたのですが、その日は地下鉄日比谷線が不通になっていて諦めざるを得ませんでした。サリンが撒かれたためでした。目次へ第三話 ユリ 新約聖書のマタイ伝第6章28節には「野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。然れど我なんじらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに其の服装(よそおい)この花の一つにも及(し)かざりき」というイエスの山上の垂訓があります。祖母が使っていた聖書から引用して文語体にしました。味わいがありますね。 この福音書の言葉から1963年製作のアメリカ映画「野のユリ: LILIES OF THE FIELD」を思い浮かべる映画ファンの方も多いかと思います。 清楚な白ユリは純潔の象徴として聖母マリアを表す花です。ウフィッツィ美術館所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチ作「受胎告知」には、大天使ガブリエルがマリアを前に「マドンナ・リリー」を捧げ持つ姿が描かれています。このユリは小振りの白ユリで欧州の数少ない在来種です。そのため、キリスト教圏ではユリ科植物の人気は高く、イングリッシュ・ガーデンにギボウシが良く植えられているのはこのためです。 ユリは「揺り」の意ではないかといわれています。中国名も百合だそうで、こちらは多数の鱗葉が集まった鱗茎の形からきているようです。ヨーロッパで人気の高いユリですが、シーボルトが日本から持ち帰った「生きたテッポウユリ」は、その大きさや香りから当時大変な人気となり、従来のマドンナ・リリーに取って代わりました。テッポウユリはイースターリリーと呼ばれ、復活祭には欠かせないものとなっているそうです。またシーボルトはカノコユリも持ち帰り、その美しさはヨーロッパ人を魅了したそうです。後の1862年に大型で立派なヤマユリがもたらされると、沢山の交配種がうまれ、姿も匂いも良い我が国のユリがヨーロッパのユリをすっかり変えてしまいました。日本でも最近は、ヤマユリやカノコユリなどと掛け合わされて作られたオリエンタル・ハイブリッドの中で、白色のカサブランカが群を抜いて有名になったのはご存じの通りです。 日本ではユリの花を愛でるとともに根(鱗茎)を食料にもしました。左利きには、酒を加えて軽く茹でたユリ根を梅肉で、なんてのが・・・おっと脱線しました。その匂いの強さから厠に活けれられもしました。なんてもったいない、と当時のヨーロッパ人なら思ったことでしょうが、日本の山野には到るところに自生していたのです。ヤマユリは近畿地方より北の太平洋岸に多く、わが家の近くの武山でも、現在では香りでその存在を知るだけですが、以前はよく見られました。 横須賀に引っ越してきて間もない頃、武山を散策していて見つけたヤマユリを掘ってきたことがありました。社宅でしたので、ベランダで鉢植えにしました。翌年、数輪の見事な花を付け、その翌年も楽しみにしていたところ、十幾つもの見事な花を付け、その美しさ豪華さに圧倒されました。ところが、その翌年はなんと枯れてしまったのです。鉢植のため栄養分が足りなかったのでしょう。ヤマユリは球根が枯れるのを感じ、花をできるだけたくさん付けることで実生を増やそうとしたのかも知れません。なんていじらしいという思いとともに、胸が締め付けられるような悲しみに襲われました。その頃は自然保護協会も野鳥の会も知らないときで、たまにはこうして山から草花を掘ってきたりしていましたが、このヤマユリの枯死をきっかけに、野山から草花を持ち帰ることはなくなりました。ヤマユリが身を以て採集を戒めたのだと、今でもそう思っています。目次へ 私の年代(つまり団塊の世代)で、水仙と聞いて思い出すのは、「七つの水仙」という人も多いのではないかと思います。1963年、The Brothers Fourの歌で大ヒットしました。
若い頃は、「お金なんてなくたって、こういう気持ちを持っていればきっと幸せになれるんだ」と信じていました。結婚してみると、こんなロマンチックな思いを抱くのは男性の方で、どうも女性は水仙よりダイヤを欲しがることがわかりましたが、未だにプレゼント出来るのは水仙7本くらいなものなのが情けない・・・ スイセンはヒガンバナ科の耐寒性球根草で、ヨーロッパ、地中海沿岸、北アフリカ、中近東から中国、日本まで広く分布し、約30種あるそうです。日本に自生しているスイセンは、Narcissus tazetta L.var. chinensis Roemerで、越前海岸の自生地が有名です。学名はギリシャ神話の美少年ナルシス(ナルキッソス)に由来します。(種小名のtazettaは小皿の意)有名なギリシャ神話なのですが、なぜ水仙がナルシスなのかと調べてみますと、「ナルキッソスは麻酔とか昏睡を意味するギリシア語のナルケnarkeが語源とみられ、スイセンに含まれるアルカロイドのナルシチンが麻酔状態を引き起こすのにちなむ。(湯浅浩史)」とありました。 「・・・美少年ナルキッソスは誰からも愛され慕われたが、慕うものすべてを拒絶する冷たい性格だった。ナルキッソスを恋するニンフの一人エコーは、ゼウスの命でゼウスが恋人と戯れている間、嫉妬深いゼウスの妻ヘラにずっと話しかけ、その気を逸らしていたが見破られ、ヘラによってその声をこだまにされてしまった。エコーは恋い焦がれていたナルキッソスに森で話しかけるまたとない機会にも、ナルキッソスの言葉の最後を繰り返すだけだったので、なおさら相手にされなかったばかりか、罵られて辱められた。絶望したエコーは森に隠れ、憔悴のあまりやせ細り、体は石となり声だけになってしまった。ナルキッソスを恨むものは多く、その声を聞き届けた復讐の女神ネメシスは、彼自身も恋いこがれながら決して報われないように呪いをかけた。狩に疲れて水を飲みに泉にやってきたナルキッソスは、水に映る美しい姿に心を奪われた。しかしそれは彼自身であったため、恋い焦がれても、思いは遂げられなかった。ついに憔悴しきって息絶えると、ニンフ達は悲しんで葬儀の支度をしたが、死骸は見あたらず、一輪の水仙があるだけだった。水仙は頭を垂れて水面に映る己の姿を眺めているかのようであった。・・・」 余りにも有名なギリシャ神話ですが、鳥の学名にもこのナルキッソスは登場し、キビタキは、Ficedula narcissina、英名をNarcissus Flycatcherといいます。おそらく水仙の黄色い色から来ているのではないかと思われます。ナルシシズムの語源になったこの神話は絵の題材にも良く登場し、カラバッジョの作品を鑑賞したことが思い出されます。 三浦半島には畑の周りに植えられたスイセンが春に先駆けて多数花開き、姿も香りも楽しませてくれます。目次へ自宅のある横須賀市武山周辺に見られるスミレの仲間は、最も多いタチツボスミレを始め、スミレ、ノジスミレ、コスミレがあります。もっと探せば他にもツボスミレなどが見つかるかもしれません。今回はスミレにまつわる、様々な疑問や話題を拾ってみました。 スミレの語源については、摘まれることから、つみれ、さらにスミレと変化したと言われていますが、「牧野富太郎は、大工道具の墨入れ(墨壺)と花の形が似るという説を出し、広く受け入れられているが、中村浩は、それでは色がスミレに似つかないとし、隅入れとよばれた隅取紙でつくった旗印に花の形が相似することから由来したとみた。」とあります。(湯浅浩史:日本大百科全書、小学館) ![]() 隅入れ スミレの仲間は大きく分けると、地上茎がなく、葉が全て根元に集まるスミレ、ノジスミレのようなタイプと、タチツボスミレのように茎が横に這うタイプがあります。スミレを見かけたら、どちらのタイプか確かめてみると種を特定しやすいですね。 まずは前述のスミレと云う名のスミレについて。これはViola mandshurica W.Beckerで、「満州産のスミレ」という意味です。日本全土で見られるそうですが、学名の示す通り外来種です。コスミレ V. japonica Langsd.、ノジスミレ V. yedoensis Makinoは種小名からいかにも在来種です。ヨーロッパでは、ニオイスミレV. odorata L.が有名で、種小名「香りのある」の通り、香料を採ったり、コサージュにしたり、ローマ時代にはワインに漬けたと云われます。ナポレオンはスミレを好み、党のシンボルにしたそうです。また薬草としても古代から用いられたようです。日本でも花や葉をご飯に炊き込んだりするそうですが、試したことはありません。可憐な花を食べてしまうのは、いかにももったいない。日本産のスミレについては図鑑が出ていますので(日本のスミレ:山渓ハンディー図鑑)詳しいお話はこちらをどうぞ。 宝塚ファンならずともよくご存じのテーマソング♪「すみれの花咲く頃、初めて君を知りぬ・・・・」は、1930年(昭和5)8月、宝塚少女歌劇月組の宝塚大劇場公演レビュー『パリゼット』の主題歌としてつくられたそうで、白井鉄造の訳詞によるものですが、作曲はフランツ・デーレというドイツ人。もとの歌詞は「白いニワトコの花が咲く頃・・・」で、フランスに入ると「白いリラの花がまた咲くころ・・・」となり、欧米巡遊中の白井が持ち帰って舞台に取り入れたものだそうです。〈小川乃倫子〉(日本大百科全書:小学館)ニワトコやリラだとおさまりが悪いからでしょうか、おかげで雰囲気がとても良くなり、「清く正しく美しく」のモットーにスミレはぴったりだったのかも知れません。 スミレという歌で忘れられないのは、バロック時代のイタリアの作曲家Alessandro Gaspare Scarlatti(1660―1725)の"すみれ"(Le violette)です。
手元に往年の名歌手、ベルカントの女王といわれたレナータ・テバルディー(1922〜)のCDがあります。気品のある伸びやかな歌声に魅せられ、繰り返し幾度となく聴いています。1947年にスカラ座の初舞台を踏んだ彼女は、カラスと人気を二分するほどの名声を得ましたが独身を通し、引退後は人前にほとんど出ませんが、今も健在*だそうです。モーツァルトの「すみれ」と並んで、ソプラノの名曲です。菫に名を借りた恋の駆け引き・・、身に覚えのある罪な方もおられるのでは?目次へ 聖女ベロニカをご存じでしょうか?伝説の聖女の名としてカトリックの祈祷文に登場するそうです。聖書の記述には登場しませんが、泰西絵画の題材に取り上げられています。 ・・・ゴルゴタの丘の刑場まで、自らの処刑に使われる十字架を背負わされて、喘ぎながら石の階段を登っていくイエス。ローマ兵によって「おまえはユダヤの王なのだから」と、あざけりとはずかしめのためにかぶせられた茨の冠の刺で、その顔は滴る血と汗で汚れていた。十字架の重さに耐えかねて倒れたイエスを見かねて、群衆の中から走り出て布(ヴェールとするものもある)を捧げた婦人があった。その名をベロニカという。イエスは顔を拭い、婦人に返すと、そこにイエスの面影が残った・・・ また映画の話で恐縮ですが、1961年公開の「キング・オブ・キングズ」では、イエスをジェフリー・ハンターが演じ、それまでのキリスト映画の常識を覆し、イエスの顔を正面から捉えた初めての映画となりました。それまでは「ベン・ハー」などがそうであったように、顔が分からないほどの遠くか後ろ姿、あるいは手だけで「キリスト」を表していたものです。この映画にはベロニカが登場し、イエスに布を渡すシーンを鮮明に覚えています。 布に残ったイエスの面影、これが最初のイコン(icon)となりました。コンピュータのアイコンもこのイコン(図像)に由来しています。 メールはそこで終わらずに、今度は種小名のpersicaとは何か?という新たな疑問が話題になりました。 明治初期に欧州から渡来したオオイヌノフグリは、いつのまにか日本の風土にとけ込み、春を先取りして、鮮やかな青い花をパラボラアンテナの様に一斉に太陽に向け、まるで野辺山の電波干渉計のように光を集めて咲き誇ります。イタリア中部にあるアッシジの聖フランチェスコ*修道院を訪れた際、昼食に立ち寄ったレストランの玄関先に、日本で良く見慣れたヒメオドリコソウと一緒に咲いている青い花を見つけ、「そうか、ここは君達のふるさとなんだなぁ」と妙に感心したのを思い出します。 *聖フランチェスコ(1181-1226):清貧・貞潔・服従を旨とするフランチェスコ修道会を設立。イエスが処刑で受けた五つの傷「聖痕」を山上で受けたという奇跡と、小鳥に説教したことで知られる聖人 目次へ
アンズの原産地は中国東部だそうで、紀元前3000〜2000年もの昔から栽培されていた歴史があります。ところが中国西部を経て西アジアに伝わった系統は、紀元前からアルメニアで栽培されていたのだそうです。それが中央アジア、ヨーロッパなどの系統に別れ、18世紀にアメリカに伝わり、現在はカリフォルニアが一大産地となりました。 アンズと聞いて連想するのは、中華料理のデザートでお馴染みの杏仁豆腐です。あんにんどうふ、と良く言いますが、しんれんどうふ、が正しいようです。アーモンドの粉を代用することが多いのですが、本来はアンズの乾燥した種子から作ります。アンズは日本には中国から伝わったのでカラモモとも呼ばれています。 杏林薬品という製薬会社がありますが、杏はお医者さんの象徴でもあります。「昔、董奉(とうほう)という仙人が、病気を治した謝礼に金を受け取らず、アンズを植えさせ、やがてアンズの林になったと『神仙伝』に書いてあることから、のちに医者を杏林というようになった。」〈長沢元夫〉(日本大百科全書:小学館)といういわれがあるからです。 アンズの種子には鎮咳、去痰、利尿などの薬効があり、実は生で食べたり、干したり、アンズのお酒があったり、またシロップ漬けがありますね。シロップ漬けのアンズ、と書いて遠い昔のことを思い出しました。 小学生の頃、同級生の勇三君のお父さん(ゆーちゃんのおじさん、と呼んでいました)は、冬は石焼き芋、夏はアンズ飴を売り歩く商売でした。私はアンズ飴が大好きで、作り方を見るのも楽しみでした。リヤカーにしつらえた炭火の上に、アルミの洗面器のような器が載っていて、透明な飴が暖められています。おじさんは注文を受けるとヘラでねっとりとした飴を巧みな手つきですくい、割り箸に絡めていきます。途中でシロップ漬けのアンズを一つ中に入れて巻いていき、最後にアンズのシロップにどぼんと漬けてから手渡してくれます。飴ができるのを待っている間に、くじを引きます。薄青い色をした薄い紙が何枚も重なっているくじが屋台の脇にぶら下がっていて、一番上を一枚切って舌で湿らせると「当たり」とか「スカ」と文字が浮き出てきます。今思えば不衛生なものなのですが、この瞬間がどきどきするのです。当たりだと飴をもう一つもらえます。そんな小さなスリルを味わった後、たいがいは「スカ」なので、ちょっとがっかりして、でもすぐ気を取り直して、中のアンズが透けて見える飴を受け取ると、シロップを一滴でもこぼすまいとクルクル回しながらあわててしゃぶります。甘酸っぱい、良い香りのするシロップのなんと美味しかったこと。 いつもにこにこしていて優しかったおじさん。一人っ子でわがままだった勇三君は今どうしているだろうか、またあのなつかしいアンズ飴を食べてみたいなぁ、と、庭に咲いたアンズの花を見て、ふとそんなことを想いました。目次へ 第八話 月桂樹 「仙人について仙術を学んでいるものに、元来木こりであった呉剛という男がいた。ある日、師匠の目を盗んで仙術の巻物を見てしまった。それを知った仙人は懲らしめのため月に流して罰を与えた。それは五百丈にもなる桂(ケイ)を伐ることだった。しかし桂は切ってもすぐに伸び(別の話では、桂に斧を入れてもすぐ切り口が塞がって元に戻ってしまって)永遠に桂を伐ることになった。」というものです。月にある「海」と呼ばれる暗い部分は想像上の大木である桂の影で、その根元では今でも呉剛が桂を伐り続けている、というわけです。これを呉剛伐桂といい、さしずめ中国版「シジフォス(シシュフォス)の神話」ですね。 桂(ケイ)は中国ではモクセイのことで、カツラのことではありません。花が香るモクセイのことが、実物よりも早く日本に伝わったため、またカツラの灰を抹香の材料に使ったことから、カツラは香りのある木として誤った字を当てたといいます。このことから、月桂樹が明治になって伝わった時、姿がモクセイに似、また葉に強い香りがあることから、伝説の月の桂にちなんだ名を与えたと云われています。(湯浅浩史:大日本百科全書) 月桂樹の葉はベイリーフ(bayleafまたはローレルlaurel)で、スパイスとしても名高く、乾燥しても素晴らしい芳香がありますね。以前、北鎌倉の通称「魯山人の谷戸」で、月桂樹の枝葉が剪定されて積まれたまま放置されていて、辺り一面には清々しい香りが漂っていました。あまりにもったいないのでまだ青い葉を何枚か頂戴してきたことがありました。この葉付きの小枝で編んだ冠が月桂冠で、左利きの方ならすぐに日本酒の銘柄が思い浮かぶところでしょうが、ギリシャ時代からオリンピアードの勝利者に贈られました。今でもマラソン競技の優勝者が、これを被ってウィニング・ランをしますね。 月桂冠はアポロンが被っていますが、それにはこんな神話があります。 この瞬間を大理石に刻んだのは、「聖テレジアの法悦」などでも有名なベルニーニGiovanni Lorenzo Bernini(1598―1680)で、「アポロンとダフネ」はローマのボルゲーゼ美術館にあります。すぐ近くのポポロ広場まで行き、そこの教会でカラバッジオの作品(聖パウロの改宗ほか)を鑑賞したのに、この美術館へは行きませんでした。今になって後悔しています。彫刻やフレスコ画はそこへ行かないとまずお目にかかれませんものね。目次へ 第九話 カラムシ カラムシは「苧」と書きますが、朝鮮語のmosi(苧)、あるいはアイヌ語のmose(蕁麻)からの転ではないかといわれているそうで、この茎の皮から繊維を採り、手で丁寧に紡いで良質の麻布としました。(日本大百科全書:小学館)越後上布,小千谷(おじや)縮はこのカラムシの繊維から織られます。先染めして織った布を雪で晒すことにより,生成り部分は白くなり,より鮮やかになるそうです。向こうが透けて見える程の布の為,夏の衣料として珍重されてきました。カラムシの麻布は正倉院にも収められているそうで,木綿が入って来る以前からの重要な衣料素材だったようです。 カラムシはチョマ〔苧麻〕とも言われます。英名はramieで、6月になると、この葉の上に小型の美しいラミーカミキリというカミキリムシがいますので気を付けて観察してみてください。 古代人たちはどんな天然の素材を糸にして利用していたのでしょうか。つる、樹皮、麻やカラムシのような草の皮を割いてつなぎ、長い糸にして布を編んだことでしょうね。この様な短い繊維を糸にするには、繊維の端と端を撚り合わせてつなぐのですが、この工程のことを績む(うむ)といいます。長くつなぎ合わせた糸のままでは引っ張れば抜けてしまいますので丈夫にするため、よりを掛けます。紡錘(ぼうすい、つむ)あるいは紡錘車(糸をからげてぶら下げ、よりをかけるために回転させる道具)が発明されるまでは手でよりをかけていたのですが、紡錘車の発明以降は紡いでよりをかけるようになりました。だから紡績、というわけです。 というのは、「糸の太さを表すのに、紡績糸は番手で、フィラメント(連続したきわめて長い繊維)糸はデニールで表す。番手数が大きいほど糸は細く、デニールはその逆で数が大きくなるほど太くなる。また番手には綿番手、毛番手、麻番手の区別がある」ということなのでした。 そこで、番手・デニールについて、もう少し詳しく調べてみました。
編み物をなさる方は、毛番手にはお馴染みかもしれませんね。 換算式は以下の通りです。
(わかりやすいテキスタイル商品企画 今須久榮著 鳳山社刊) 木綿の番手についてもこんな逸話があります。
第十話 葦 葦は若い芽を食用とし、枯れれば葦簀にして利用されます。休耕田がいつのまにか葦原になっていたりして、水辺にはなじみの深いものです。リンや窒素で富栄養化した水質の浄化能力に優れているので、琵琶湖、諏訪湖、印旛沼、手賀沼などの浄化に役立つはずです。しかし、昔は葦簀にするなどして刈り取っていたものが、中国産の安い葦簀が出回る様になったためか、かつてのような利用がなくなり、その効果が期待できず、難しい課題となっています。 葦原は、野鳥、その他の動物のすみかとして重要です。オオヨシキリや、カイツブリの浮き巣の材料、オオバン、バン、クイナ、カルガモなど日本で繁殖する水鳥の営巣の場となっています。 葦は英語ではreedで、リード楽器という呼び名もここからきています。クラリネット、サキソフォン、オルガンなどは一枚のリード、オーボエ、ファゴット、チャルメラなどは二枚のリードなどということは「音楽の時間」で習ったことを思い出します。オルガン以外は演奏者自身が、多くは葦を削って作ります。ある有名なオーボエ奏者の話をTVで聴きましたが、これはという会心の作はなかなかないそうで、出来たとしても消耗品なので、辛いものがあるということでした。 葦で作った笛をパンフレーテと云います。リードではなく、笛の筒の部分を葦で作ったものです。アンデスのサンポーニャも,構造は同じものです。ビール瓶などの口を吹くと「ボー・・」と鳴りますね。あれと同じ発音機構です。パンと葦の関係を調べてみると、ギリシャのアルカディア地方の神話に、牧神パン(Pan)とシュリンクス(Syrinx)の話があることがわかりました。 「パンは上半身は髭だらけの顔に山羊の様な耳と角、下半身は山羊の足に蹄がついている好色な牧神で、野山を駆けめぐり、ニンフ達と戯れる毎日であった。ある日、シュリンクスという美しいニンフに眼を付け、追いかけ回した。シュリンクスはパンから必死に逃れたが、ついに逃げ場のない岸辺に追いつめられた。彼女は姉妹である川の流れのニンフに助けを求めた。姉妹はシュリンクスがパンに捕らえられる瞬間、彼女を葦に変えたので、パンが掴んだのは葦の束だった。こうしてシュリンクスは凶暴なパンの手から逃れた。パンは呆然としていたが、風が吹き抜けると、掴んだ葦は美しい音楽を奏でた。パンは「そうか、こうすればお前といつも一緒に居られる」と、その葦で消え去ったニンフの名を付けた笛を作った。・・・」 「アポロンとダフネ」との類似性を感じますね。神話を調べたおかげで、パンの笛(パンパイプ、パンフレーテ)をsyrinxとも呼ぶことがわかりました。パンは昼寝を好み、邪魔をされると怒り狂い、人や家畜が逃げまどうことになります。恐慌はパンが引き起こすと信じられていたので、パニックpanicの語源になりました。また注射器のsyringeやSyrinxもギリシャ語が語源でpipeやtubeの意です。 2000年5月、「ラファエル前派展」を安田火災東郷青児美術館で鑑賞しましたが、その中に、アーサー・ハッカー作のシュリンクス(Syrinx 1892年)がありました。困惑した表情で今まさに葦に変わろうとするシュリンクスが、ほっそりとした少女の姿で描かれていました。 三浦半島の葦原はほとんど失われてしまい、江奈湾などに小規模に残るだけです。今年はオオヨシキリの囀りを聴くことができるのでしょうか?目次へ 第十一話 ヤグルマギク 子猫を可愛いがるのは人間だけではありません。では、花を愛でるのはどうでしょうか?日本の野草ではありませんが、このことで印象深い花の一つがヤグルマギクです。鮮やかな青い色も目をひきますが、人類が最初に愛でた花、という呼び方をされています。それはなぜかというと・・・ 戦後、といっても第二次大戦後まもないイラクで遺跡の発掘調査が行われていました。当時スミソニアン(*3)の研究員だったソレッキのチームは、1951年から1960年にかけて、イラク北部のシャニダール洞窟でネアンデルタール人の調査をしていました。発掘された骨には番号が付けられました。片腕の不自由だった人や母子の遺骨などが発見されましたが、なかでも4号については意外な発見がありました。この骨の周囲の土を分析するため、フランスの古植物学者アルレット・ルロワ=グーラン(Arlette Lerio-Gourhan)に土壌サンプルが送られました。分析の結果、この土壌には数種類の花粉が、まとまった状態で含まれていることが分かったのです。これは何を意味しているのでしょうか? 背丈は今の人類よりも低かったけれど、はるかに強靱な身体をしていたといわれるネアンデルタール人ですが、死者に花を手向け、身体の不自由な人と共に暮らす優しい心があったのです。かつては現生人類の絶滅した亜種と考えられていましたが、2万9千年前のネアンデルタール人幼児の肋骨から得られたミトコンドリアDNAの解析から、現世人類の祖先と交雑したことはないだろう(Ovchinnikov,I.V.etal.,Nature404:490-493,2000)とされ、種のレベルで異なるホモ・ネアンデルターレンシスとされました。ところが、最新の研究結果から以下のことが分かってきました。 アフリカを出た現生人類は、5〜10万年前の間に中東でネアンデルタール人と出会い、限定的な交雑が行われた結果、欧州やアジアへ広がったと見られることが、クロアチアで発掘された4万年ほど前の3人のネアンデルタール人女性の骨の、ゲノム配列の解析からわかったそうです。これによると、アフリカ以外の現生人類は、1〜4%のDNAをネアンデルタール人から受け継いでいるとのことでした。マックスプランク進化人類学研究所などの国際チームがサイエンスに発表したということです。(2010年5月7日付け朝日新聞朝刊) ネアンデルタール人やデニソワ人との交雑は,現生人類の免疫にも有利な役割を果たしているのではという研究も発表されています。(2016/03/30)(要約)ネアンデルタール人と人類の祖先の間には、これまで考えられていたよりも多くの子孫が誕生していたことが分かったとして、米ワシントン大学などの研究チームが科学誌サイエンスに研究結果を発表した。その結果、アフリカを除くすべての地域で人の遺伝子からネアンデルタール人の痕跡が見つかり、アジア人や欧州人、パプアニューギニアに住むメラネシア人などはネアンデルタール人やデニソワ人の祖先を持つことが分かった。「遺伝子の多くは免疫の形成とも関係しており、新しい環境に進出した人類を助けて新しい病原菌と戦う役割を果たしていたと思われる」と研究チームは解説している。CNN 2016.03.21 Mon posted at 12:52 JST http://www.cnn.co.jp/fringe/35079854.html ヤグルマギクで印象に残るもう一つの話は、ツタンカーメン王墓の発掘においてです。1922年、王家の谷で発掘にあたった考古学者カーターは、棺を開けた時、王のミイラの上に、色は褪せていたものの、3300年を経たヤグルマギクを見たのでした。わずか18歳で亡くなった王に、二つ年上だった王妃アンケセナーメンが供えたものでしょう。本来棺には花を供えないのだそうで、若い二人の悲しみに満ちた別れの瞬間を想像させるのに余りあります。 ヤグルマギクの仲間は、北アフリカ、北アジア、ヨーロッパ、北アメリカなどに約500種分布しています。元来薬草として知られていたヤグルマギクですが、その産地として有名なのがギリシャ東部、テッサリアのペリオンの谷で、ここはケンタウロス族が住んでいたされています。このことから、リンネは、その属名Centaureaを与えたのではないかと云われています。 最近のゲノム研究から、人とチンパンジーは1.6%しか違いがないそうで、チンパンジーをヒト科に入れては?という学者さえいるそうですが、チンパンジーは「野辺送り」をしないので、1.6%の違いはかなり大きなものなのかもしれません。 (*1) AMERICA ONLINE 世界最大の会員数を誇るネットワークサービスプロバイダー 第十二話 菩提樹 私にとって菩提樹という響きには特別なものがあります。それというのも、実は映画なのです。植物の話からは逸れてしまいますが、1957年西ドイツで製作された映画「菩提樹」です。まだ中学生の頃、友人のとてもきれいな姉さんに「素敵な映画よ」と薦められて見に行ったのですが、その時上映されていたのは本編の方ではなく、続編の「続・菩提樹」を観たのでした。主演はルート・ロイベリック(気品のある美しい女優さんでした)、やはりドイツ映画「野ばら」に出演していたミハエル・アンデ少年が共演していました。「野ばら」の公開当時、私はミハエル少年と同じ年格好で、女生徒ばかりの合唱団の紅一点ならぬ「黒一点」と呼ばれていたボーイ・ソプラノだったので、彼の出る映画が観たかったのです。後で知ったのですが、ミハエル少年の歌声はウィーン少年合唱団員の吹き替えだったのだそうです。 昔、ソノシートというぺらぺらのレコードが付いた月刊の冊子があったのを覚えていらっしゃいますか?朝日ソノラマが有名でしたが、そんな冊子のひとつに「菩提樹」のサウンド・トラックからのものが2曲、シューベルトの「菩提樹」と「ブラームスの子守歌」が収められたものがあり、喜んで買い求めたのでした。観られなかった本編の曲だったのですが、その美しいハーモニーに魅了され、兄から譲り受けたり自作したりしたハイファイ・セットで、幾度となく繰り返し聴き、また一緒に歌ったものです。 今頃になって、あの歌声をもう一度聞きたい、見損ねた「菩提樹」をどうしても観たいと思うようになりました。そのうちに「野ばら」の様にTVで放映するだろうとたかをくくっていたのですが、一向にその気配はありません。ビデオをいくら探してみても見つかりません。とうとう東京国立近代美術館フィルムセンターに問い合わたところ、日本にはビデオどころか、映画フィルムそのものが存在しないということがわかりました。ハリウッドが「サウンド・オブ・ミュージック」として「菩提樹」をリメークするために版権を買い取ったという話があり、そのためかもしれません。事の真偽はともかく、日本では「菩提樹」のビデオは入手不可能なのです。 公開当時、銀座ニュー東宝で売られた「菩提樹」のパンフレットを手に入れると(続・菩提樹の方は大切に持っていました)、まるで行方不明の初恋の人を捜すような気分でしょうか、観たいという思いはますます募ってきました。インターネットのAmazon.comでビデオの『Trapp Family』を検索してもヒットしません。それではと『Die Trapp Familie』で検索するとありました!でも喜ぶのはまだ早い、それはドイツのAmazon.deでした。困ったことにカセット形式はVHSでも欧州はPALというビデオ信号の方式なので、NTSC方式に変換しないと家では見ることが出来ません。さいわい比較的安く変換してくれる業者が見つかり、思い切ってWebで注文することにしました。英語でもまごつくのにドイツ語の注文画面は冷や汗もの。辞書を引きながらの苦闘でしたが、なんとか注文確認のメールをもらいました。それもドイツ語で・・・やれやれ。船便で届いたドイツからのカセットを、件の業者に送って変換してもらい、やっと念願が叶うことになりました。 #映画「菩提樹」は最近NHKのBSで放映されました。気が付いた時は「続・菩提樹」の放映の時だったので、「また同じことが繰り返されたのか・・」と悲しくなりました。NHKに再放送予定の問い合わせをしたのですが、今のところその予定はないということで、がっかりしました。ところが、2011.3.9の番組表に「菩提樹」の文字を発見して、録画することができました。念願の字幕付きでです。翌日には「続・菩提樹」も放映・録画でき、嬉しい限りです。ただ惜しいことに、肝心のシューベルトの菩提樹を歌うシーンでは、わずかに音飛びがあり、フィルムが切れたことを思わせました。誠に残念。とはいえ、字幕付きで観ることができ、またまた、胸のつかえが下りた心地です。(2011.3.10追記) 第十三話 イチョウ イチョウは古生代末期に現れ、恐竜達が跋扈するジュラ紀に最も栄えた裸子植物で、北アメリカを含む北半球に広く分布していました。化石から知られる種類は15種を数え、おそらくは恐竜達がイチョウの葉や実を食べ、種を運ぶことで繁栄していったことでしょう。ところが氷河期を過ぎると恐竜とともに地上から消え失せ、比較的温暖だった中国の一部に、ただ一種だけが現在まで生き延びたのでした。 我が国には仏教の伝来とともにもたらされたイチョウですが、火に強いため寺に植えられ、そのまま今も生き続けている大銀杏が各地に見られます。鶴岡八幡宮の大銀杏は樹齢一千年を越えると云われています。日本で最も古いと云われるのは対馬にある「琴(きん)の大銀杏」で、樹齢千五百年といわれ、幹廻り12.5m、樹高40mの巨樹だそうです。 ある米国人にイチョウを話をした時、なかなか分かってもらえないので葉の形を書いて見せたら彼は「オォー、ギンコー!」と言いました。英語でどういうのか知らなかったのですが、この時初めて英語でも学名(属名)と同じことを知りました。イチョウの学名はGinkgo biloba L.「ギンコー・ビローバ」。種小名は「2裂した」で葉の形から。米国のフード・サプリメントのカタログを見ると、「ギンコー」が結構な値段で売られています。最近は日本でも見かけるようになりましたね。あんなにいくらでも落ちているイチョウの葉っぱを飲んだりするのか、と不思議に思うのですが、欧米人から見れば、イチョウは太古から生き延びてきた強い生命力を持った、東洋の神秘の植物なのです。欧州などでは昔から飲まれていたそうですが、最近の研究で、イチョウから抽出したフラボノイドは、老人性痴呆症予防、記憶力維持などの効果が認められているそうです。誰ですか?お前にこそ必要だ、なんて云うのは! イチョウの属名って妙ですよね。このへんてこなイチョウの属名は、出島のオランダ商館長付き医師だったケンペル(1651-1716)が、帰国後にラテン語で著した「廻国奇観:AMOENITATUM EXOTICARUM 1712」に紹介した「Ginkgo, vel Ginan,vulgo'Itsjo'」から、1771年にリンネが命名しました。ケンペルが銀杏をGinkyo、あるいはGinkjoとすべきだったのを、誤ってGinkgoと綴ったため、リンネはそのまま学名にしてしまった、というのが通説なのですが、「しかし最近の研究では、ケンペルは誤って記述したのではなく、彼の地方では、Ginkgoと書いて“ぎんきょう”と発音することがわかりました。」(大友一夫:秩父郡市医師会誌第二十四号別冊「秩父とイチョウ」)という話があることもご紹介しておきます。 イチョウという発音は、「鴨脚」(漢名)の宋音「いちゃう」であることを、大槻文彦が『大言海』を編集したとき(1932-1937)に見いだしたそうで、「銀杏」は宋音「ぎんあん」の音便であることもその時発見されました。それまでは、謎だったということです。確かにイチョウの葉はカモの脚のようです。 ゲーテはGinkgo bilobaという詩を1815年に書いています。「一つの葉が二つに割かれたものなのか、二つが相手を求めて一つになったのか」(私は一枚の葉であなたと結ばれているのをあなたは気づかないのですか)との想いを,66歳のゲーテは35歳年下のマリアンネという女性に、自宅の庭に植えたイチョウの葉を添えて贈ったそうで、なかなかやるもんだなぁと驚くばかりです。元気印のゲーテ爺はイチョウの葉を粉にして飲んでいたのかもしれません。この様に欧州でも馴染みがあるようで、フランクフルト、ハイデルベルク、ライデンに名物のイチョウの木があるそうです。バカラのクリスタルガラス器にも「ギンコ」というイチョウ型の花瓶がありますね。 かつては恐竜がその種を運んだのでは、というイチョウですが、上田恵介氏は、恐竜が絶滅したあと人によって運ばれている以外は、タヌキが主な散布者はではないか、と推察されています。ということは、人とタヌキは同じ穴のムジナということでしょうか?? 2010年5月10日付 朝日新聞東京本社夕刊によると、 第十四話 鳳仙花 ホウセンカ(Impatiens balsamina L.)はツリフネソウの仲間で、最近はアフリカホウセンカを改良した数々の品種が作られており、インパチェンスの名で親しまれています。インパチェンスはツリフネソウ属の属名で、「こらえきれない」「不忍耐」という意味のラテン語impatientに由来しています。熟したさく果に触れると果皮が破れてくるっと丸まる時に、中の種を勢い良くはじき飛ばします。英名の一つはa touch-me-not といい、その性質をよく表しています。 ホウセンカの別名は、ツマクレナイ(爪紅)またはツマベニといいますが、花の絞り汁で爪を染めたことによります。中国南部の原産で、朝鮮半島を経て室町時代には日本へ入ってきたようです。この時一緒に、爪を染めるという風習も渡来したものと思われます。 韓国の高速道路の海印(へイン)寺という料金所では、通過する女性ドライバが料金所の職員に「ほら、きれいでしょ?」とピンクに染めた爪を見せ、職員も「いい色に染まりましたね」とウィンクを返す光景が見られたそうです。これは、環境美化のためにホウセンカを500本料金所の周りに植えたのをきっかけに、爪を染めるセットを女性や子供にプレゼントしようというアイデアが実ったおかげです。 爪の染め方は、ビニール袋に花と葉、明礬(ないときは重曹か、カタバミの葉)を入れ、瓶の底などでていねいにつぶします。皮膚が染まらないように爪以外の部分にハンドクリームを塗ります。つぶしたものを爪に載せてラップでくるみ、テープでとめます。できれば一晩おいてから取ると、きれいに染まっています。皮膚が染まっても、1週間で取れるそうです。 朝鮮半島には「鳳仙花」という歌があり、「日本の朝鮮支配を決して忘れない」という言葉を聞くと、とても悲しい気持ちになりますが、一方で「夏に鳳仙花で染めた爪が、初雪が降るまで残っていれば、恋がかなう」というロマンティックな言い伝えには、心温まるものを感じます。 もし孫が産まれて女の子なら、爪の染め方を教えてやり、中国や朝鮮半島の女の子も同じ様に鳳仙花で爪を染めると、爺は語ってやるつもりです。目次へ 第十五話 ヒイラギ さて「聖林」がなぜ誤りなのかというと、セイヨウヒイラギのことをhollyといい、加州羅府、即ち、カリフォルニア州ロサンゼルスの映画の都ハリウッドHollywoodのHollyをHolyと誤ったことから聖林としてしまったようです。ATOKでもちゃんと変換しますので、間違いでも正しいことになってしまいます。 ヒイラギ(柊)Osmanthus heterophyllus はモクセイ科の常緑小高木。一方セイヨウヒイラギはモチノキ科の常緑高木で、両者は別種です。 モクセイ科のヒイラギは芳香のある白い花を10月〜11月に開き、雌雄異株。実は翌年初夏に黒く熟します。福島県より西に分布するそうです。 モチノキ科のセイヨウヒイラギの方はヒイラギモチ(英名イングリッシュ・ホーリー)というのが正式な呼び名で、ヨーロッパでクリスマス・リースに使うのはこれ。赤い実が成った、冬でも葉のある枝を組み合わせて使います。赤と緑はまさにクリスマス・カラーですね。アメリカにはアメリカヒイラギ(アメリカン・ホーリー:I. opaca Ait.)があり、これを同じように用います。ハリウッドにはまだ行ったことがありませんが、このアメリカヒイラギの森があることでしょう。ホーリーと発音するから間違いが起こったので、ハリウッドの様に、ハリと発音すれば誤解は生じなかったことと思います。きっとハリウッドという言い方はいわゆる車夫英語ではないかしら。書生英語と異なり、カタン糸、ミシン、インキなどは耳から入ってきた実際の発音に近いと思います。ヘップバーンよりヘボンでしょう。 もうすぐクリスマス。セイヨウヒイラギが手に入らなくても、ツタや木の実のリースを飾るご家庭も多いことでしょう。そんなゆとりある、平和な時がいつまでも続きますように。Merry Christmas! そして良いお年をお迎え下さい。 「埃及:エジプト」「希臘:ギリシャ」「布哇:ハワイ」「墨西哥:メキシコ」「葡萄牙:ポルトガル」目次へ |