鎌倉自主探鳥会グループのメンバーである三木壽子博士から、ご自身の「自分史」原稿をお預かりし、ご執筆の途中ではあるが、ここにご本人の許可を得て、発表させていただきます。ご本人の加筆・訂正がありしだい、変更するものといたしますことをご了承ください。
2009年1月30日

理学博士 三木壽子氏略歴 http://ja.wikipedia.org/wiki/三木壽子

元神奈川歯科大学教授・お茶の水女子大学ジェンダー研究センター研究協力員
東京女子高等師範学校卒業 1947年
同志社女子中等高等学校教諭 1947-49年
京都大学理学部植物学科卒業 1952年 同大学院 1952-62年
東京大学理学部植物学科研究生 1962-67年
ニューヨーク州立大学バッファロー校留学 1967-68年
神奈川歯科大学に勤務 1964-93年
Sexual Plant Reproduction(ドイツSpringer社)編集委員 1988-2003年
日本花粉学会会長(2期) 1993-96年

履歴書

1925年12月8日東京都北多摩郡にて出生
父  三木善建   母  三木勝子

善建両親
三木壽賀麿(京都市出身、代代宮内庁勤務:伏見宮:雅楽担当の家系)

草場 種子(京都市出身、有名な漢学者の家系、草場 某)

勝子両親
木村捨馬  (土佐中村出身、兄は大阪市で阪和電鉄KKを創立) 陸軍軍人、師団長歴任各地に転勤。日露戦争で右目負傷(皇后より義眼を下賜)、金鵄勲章第3級。

伊集院 幸 (鹿児島伊集院家出身、東京跡見女学校出身)。


  曽祖父冬胤はいろいろ話のある人で、明治維新の時、宮内省から爵位をやろうか金が良いかと聞かれ、金が宜しゅう御座いますと答えて金を貰い、全部飲んでし まったという豪傑である。また皇室が江戸に遷宮する時、そんな遠いところまでお供するのは嫌です。と言って家督を息子に譲り、当時16歳だった壽賀麿が江 戸に下った。どちらも一人目の夫人には先立たれ、後妻を貰っている。両者の墓にはそれぞれ名前の両側に二人の妻の名が刻んである。
 祖父壽賀麿は真面目な人であったらしい。秩父宮家に仕え、日露戦争の後処理をアメリカのルーズベルト大統領に頼む為、秩父宮が渡米した時、随官として一緒に渡米している。
  父善建は京都帝国大学法学部卒業後、安田銀行本店勤務(関東大地震の直前、社長の安田善次郎氏と北海道、樺太視察の為旅行していたが地震の為中止して帰 宅).母は同志社女学校卒業.在学中は背が高いのでテニスの選手になったり、Miss.Dentonにカレーライスの作り方を習ったりした。結婚後、両親 は中野の鍋屋横町に住んだので、生まれて直ぐはここに居た。母の弟木村誠三(明治大学在学中)が同居。庭に百合が沢山咲いていてこれを掘って食べたそう な。その後、転勤により京都市下総町の借家に引っ越す。

1927年二月弟(長男)善一(よしかず)出生

  年子だったので私には子守りが就けられた。この人は新聞を読む時、声を出して読み、それがピシピシと聞こえたらしく、私は新聞を広げてはピシピシと読んだ そうで、それがかわいらしく何時も新聞読んでご覧!と芸のように要求された。この頃の私に疑問が有った。それはお母さんのお膝は私が座れるほど大きいのに 何故私の膝にはお蜜柑も乗らないのかしらと、何べんも膝に蜜柑を載せては転がるのを不思議に思った。2歳の冬であろう。

 1928年父は 安田銀行を辞め(窓口での金勘定が屈辱的だった)、大阪で弁護士を開業(大阪市東区石町、暫くはお客が来ず大変で、母は質屋通い)。この家には母方の祖母 が母の妹貞子と弟義孝を連れて同居した。祖母にマッチ売りの少女のお話をして貰ったのを覚えている。祖母は早くに亡くなったが、この叔母、叔父は成人する まで同居し、私の良い姉、兄であった。石町の家には風呂がなく、銭湯に行った。夏などブリキで作った円錐形の水筒に冷えた麦茶を入れて持ってゆき、風呂か ら上がってから飲んだときはおいしかった。私はまだ学齢に達しておらず、弟が2人いて母は大変だっただろうと思う。

1929年3月 次男豊彦 出生

 この頃から叔母の拵えた大きな赤いかばんを掛けて幼稚園に通う。しかし翌年は同じことの繰り返しでつまらないと言って辞めて家で弟達と遊んでいた。
1931年2月9日 疫痢で長男善一死亡。 寿子と豊彦、隔離病院に入院(祖母元栄が京都から付き添いに来た)。11日三男一道出生。このため寿子は半月ほど遅れて北大江尋常小学校に入学、最初友達が出来なくてポツンとしていたが、寂しいとは思わなかった。
 一年:小倉先生、2年:小中先生、3年:竹中先生、4年:長尾先生、5年:三浦先生、6年:今堀先生
 石町の家では弟が死んだりして不吉と思ったのか、3年生に上がる頃釣鐘町に引越した。
下 級生の時はぼうっとした普通の子供。5年生頃から成績は良くなり、級長をやったり、自信が出てきてクラスのリーダー的存在になる。仲良し会というものを作 り、木村美佐子さんとクリスマス会をやったり、劇(柿右衛門)をやったりした。5年生の時朝日新聞に連載されていた吉川英治の宮本武蔵を毎日楽しみにして 読んだ。字を書くのが嫌いで大急ぎで書くので、すごく汚い字になり、再三先生から注意を受け、100点の答案を消して、0点にされたことも有る。 6年生 の時、補修授業をしていたのがばれて、担任が処分されたのに抗議して、3月末、ろ組の担任清水先生が自殺された。とてもショックだった。
 石町の 家の近所に竹内高子さんという友達が居り、時々遊びに行った。高ちゃんのお姉さんは大手前高女を卒業して、京阪沿線滝井に有った女子医学専門学校に在学中 で、とても偉い人と言う感じがあり、近所でも一目置かれていた。お姉さんの小さな坐り机の上には、ドイツ語の辞書が置かれていて、尊敬の眼差しでそれを眺 めた。その時は私も上の学校に行きたいなんて思わなかったけれども、このとき初めて女学校より上級の学校があることを知ったのである。

1936年3月8日 次女陽春子誕生

  とても可愛く、みんなで可愛がった。でも3歳で疫痢に罹ってあっと言う間に亡くなった。このとき、肖像画を描こうと努力したが、なかなか描けずにとうとう 祭壇の花を描いた。私は小学校入学前に疫痢になったせいか、小学校の間は余り丈夫でなく、骨皮筋衛門と言われていた。これではまともな女学校にも入れない と、父が心配して、6年生の秋頃から朝食前に1時間ほど散歩に連れて行かれた。生魂神社、大阪城、中之島公園など。大阪城のお堀にカイツブリが居て、これ はニホの浮き巣といって水の上に巣を作るのだと教えて貰った。こんな都会の真中に野鳥が巣を作るのだととても新鮮に感じた。この頃の仲良しは同級生の松田 久子さん、3人姉妹の長女でとても確りしておられた(大手前卒業後薬専に進学、その後薬局開業)。

1937年4月 大阪府立大手前高等女学校に入学

 希望の学校でもあり、うちからも近く(歩いて10分)、便利でとても嬉しかった。母のお腹が大きかったので、一道の小学校入学式に参列。この年5月に4男睦男が生まれたが、丹毒により2ヶ月で死亡。1938年6月23日、5男楯彦出生。
  小学校5年生の時から女学校3年まで、歯の矯正の為大阪歯科医学専門学校付属病院に通った。その時担当の学生が上の学校は何処へ行くの?と訪ねた。そんな こと考えたこともない、まさに青天の霹靂で驚いたが、これから上級の学校のことを意識するようになった。そして、上級生の誰が何処へ進学したなどの噂が聞 こえてくるようになった。それなら私も上の学校へ行って、もっと勉強してみたい、できるなら理科を勉強したいと思った。国語は大好きでとてもよく勉強し た。尊敬している岩崎先生からもよく勉強してますねと誉められる事も有った。また小学校5年生から短歌も作っていたので、万葉集、古今和歌集、新古今和歌 集などはそらんじていたし、教科書に出てくる文章は本を買ってその全文を読んでいた。だから生意気にも文科系は自分でも勉強できる、理科は設備がなければ 勉学は難しいから理科がやりたい。理科なら奈良女高師より東京に行きたいと思った。そこで女高師を受けたいと父に言ったら、即座に女の子は部屋の隅で歌で も詠んでいろと言われた。そこで毎日畳に額をすりつけてお願いをした。どこかでそこはそう簡単に受かる学校ではないと言うことを聞いて来たのか、2ヶ月ほ どして、受けて見な!と言うことになった。4年生の12月である。今の人とは違って、落ちたら浪人してもう一回なんてことは許されない、一回こっきりの勝 負である。それから必死で勉強した。成績を上げる為、毎日運針の練習もした。針に赤い糸を10本通しておいて、運針の布を縫うのである。そんなに時間は掛 からなかった。英語も習っている所を暗記で10回繰り返した。鉛筆10本を右から左へ移しながらやるのだが、これも余り時間は掛からなかった。大手前女学 校では、毎年クラス変えになり、仲良しが変わった。1年;小出俊子さん(小出楢重氏姪)、2年;松本澄子さん(船場のいとはん)、3年;吉本百合子さん (吉本興業のお嬢さん)、4,5年;原田ミキさん(産婦人科医になった)、後に細雪を読んだ時、私の友達はここに出てくるような家に育った人達だったのだ と思った。

1941年12月8日(昭和16年)太平洋戦争開戦

  朝、父に枕を蹴飛ばされた。オイ何時まで寝ているのだ。戦争が始まったぞ!!(戦争なんか前から始まってるのに今更何が起こったんや!)ラジオが“本日未 明太平洋に於いてーー”と緊張した声を張り上げていた。学校へ行ったら村山義孝校長が長い長い朝礼のお説教をたれた(この人は我々生徒の評判は悪く、何を やっても反面教師になった。私が反体制的考えを持つに到ったのもこの人の功績かも)。村山校長のお陰で我々の学校では4年生から三八銃を担いで教練が行わ れた。第二次戦争が始まってからは女の子に三八銃持たすのは勿体無いと言うので、男子の学校に持ってゆかれ、軽い木製になった。私たちの一年上の組は、大 阪城内で実弾射撃もやった。また休閑地を畑にする為勉強を止めて、川のそばの空き地の草刈につれてゆかれた。でも余り緊張感はなく、何処まで足上がる?な どと言って草の上部まで足が届くかどうかを競ったりした。1942年4月18日(昭和17年)丁度家にいた私は飛行機の爆音を聞いた。航空管制なのにおか しいと思って、空を見たら飛行機が1台飛んで行くのが見えた。あとで聞いたらあれは米軍機だったそうな。そしてこの頃からうちではご飯をどんぶり一杯だけ になりお代わりはできなくなった。その時の感想を弟妹に聞いた事はないけれども、私はとても悲しかった。そしておかずもだんだん粗末になり、一品になっ た。でも私は一生懸命勉強し、先生方も受験の為早朝や夏休み、冬休みに特別指導をして下さり、緊張の毎日だった。東京女高師4人、奈良女高師7人受験を希 望していた。国語:平野先生、物理:宮森先生、作文:石津先生、数学:小磯先生。でも戦争の影響で英語がなかったのは残念であった。私たちのような都会の 学校は英語が強く、それで点が稼げたのである。またその為私は英文法が弱く生涯苦労をした。何はともあれ、東京女高師に瀬谷瑠璃子、山本和子、寺園道子、 私の4人、100%で合格。とても嬉しかったが、それから毎日朝礼で村山校長がまるで自分が偉いみたいに自慢するのが嫌だった。奈良へは、5人合格。これ はすごい事で村山さんが自慢するのも無理はなかった。でも私は毎日放課後や夏休み冬休みに熱心に指導して下さった先生方に深く感謝する。また大手前の教育 水準は高く、女高師に入っても、授業に困る事はなかった。友人で、東京女高師を卒業して、大手前高校などで教鞭を取られた清水満智子さんは、大手前の先生 は教えるの楽やったと思うわ、生徒は真面目やし頭は良いし、話すことはすっと理解して貰えるし,ほんとに今の学校と比べたら雲泥の差だと思うと言われた が、そうであったのかもしれない。
 さて東京女高師に合格したが、戦争がますます厳しくなる中で、父は私を東京にやることについて心配したらし く、大本教の出口王仁三郎氏に会いに連れて行った。父は大本教信者であって、王仁三郎氏に私淑していた。王仁三郎氏は私を見るとすぐ心配せいでいいと言っ た。女高師の試験が済んで女学校を卒業まで、何もすることがなかったが、冬休みに裁縫の高塩先生から、なにか作ってくるようにと言われた。家の前の洋服屋 さんで男物夏物洋服のウールのはぎれを分けて貰い、3歳の妹倭子(1941年3月生まれ)の半袖の夏服を作った。紺色なので、襟にピンクでバラの花の刺繍 をし、裾にも大きなバラの花をいくつも刺繍したら、とても可愛いものが出来上がった。物のない時代に突入したので、妹はこの服を長い間着ていたようだ。

1943年4月(昭和18年)東京女子高等師範学校理科入学

  全員寮に入る。入学の時父が付いて来てくれたのであるが、部屋まで案内して見せた。後で男子禁制の寮にたとえ父親でも入れたといって、上級生に叱られた。 2ヶ月ほど後、スリッパのまま庭に降りて花を見ていたら、前田先生と言う一番怖い寮監督に1時間たっぷり絞られた。4年生は神聖にして犯すべからず。3年 生は幹部なるがゆえ、尊敬すべし、2年生は上級生なるゆえ、敬うべし、1年生は茶坊主なるがゆえ茶をくむべし、という憲法があり、何時も食事の時はお茶や 御櫃を運ばされた。一番驚いたのは、皆の布団を畳む事で、うちでは自分の布団ですらろくに上げたこともなかったのに。涙を流しながら上級生の布団を上げた お陰で帰省してから、うち中の布団を軽々と畳むことが出来、こういうことかと納得した。
 生物専攻のクラスは16人で、付属から3人来ていた。藤 田早苗さんと出席番号が隣lなので仲良くなった。お父さんは虎屋にお勤めで、神宮の絵画館近くにお住まいで、遊びに言ったらこのご時世に羊羹が出たのには 吃驚した。友達と言うので優遇して下さったのであろう。1年の時は普通に授業があり、ドイツ語を習いに神保町迄通ったこともある。3月始め、海軍軍人が講 演に来た。内容はすっかり忘れたが、緊張した戦争の話で、のんべんだらりと勉強してはいられないという雰囲気になった。そこで3年生が嘆願して勤労動員に 行くことになった。初めての春休み返上で、木場の電線を作る工場に通った。バタヤの引くような木の箱を押していって、電線を被覆した残りの、機械の下に落 ちたゴムの紐を拾い集める。それだけの単純作業で、なんで帰郷しないでこんなことしなければ成らないのかととても悲しかった。2週間ほど働いて、生まれて 始めての給料は50円。木彫りのブローチを買った。2年になって、1学期は授業があったと記憶しているが、秋頃から東十条の陸軍第一造兵廠へ動員になっ た。戦時下で女性も働くと言う意味もあったが、もう食料がなく、先生方には、食べ物確保と言う意味もあったのではないかとも思った。造兵廠では大砲や爆弾 の信管を作っており、私たちも旋盤を使って穴をあけたり、ネジを切ったりした。同じ工場に慈恵大の予科の学生と早稲田中学の5年生が居た。早稲田中学の生 徒の中には戦場に行きたくない為わざと怪我をした人も居り、切羽詰った男の子の立場に胸のつぶれる思いがした。朝7時から夕方7時まで、夕方7時から朝7 時までと、1週間交代で日勤と夜勤が行われた。ご飯は食べられたが、沢山大豆が入っていたので、私は夜勤で冷えたのと両方で急性腸炎になって工場内の病院 に入院した。退院の時、学徒と言わないで工員と言わされたので屈辱を感じた。1944年10月に神田のあたりが空襲されて焼けた。岩本町に有った私の大叔 母の家も焼けた。20年に入り、第2寄宿舎が焼夷弾で焼けた。ウールのオーバーを水に浸したのを着て消火活動したが、すぐに乾いてしまい、濡らしては活動 し、濡らしては活動をした。2月になって、大槻先生が研究の手伝いをするようにと、石田、倉持、御子柴、私の4人を学校に呼んで下さった。もう工場へは行 かなくて良く、科学的な仕事が出来るので、とても嬉しかった。仕事と言うのは、風船爆弾の風船部分を、和紙をこんにゃく糊で張り合わせて作っていたので、 その原料のこんにゃく粉の粘度を計る事であった。毎日群馬、茨木、埼玉産の粉を一定の濃度に溶かしてオスワルド粘度計で粘度を測定した。風船は日劇などの 広いところで、仕事のなくなった芸者さん達が、和紙を張り合わせて作くっていると聞いた。造兵廠では風船爆弾の信管を作り、学校では風船を貼る糊の研究を していたのだ。風船爆弾は偏西風に載せて飛ばし、カナダとアメリカ国境の森林地帯に落ち、効果はあったと聞いた。この頃大槻先生はアオカビを培養して、ペ ニシリンを作る研究をしておられ、出来たばかりの粗ペニシリンを子供の病気のため貰いに来る人もいた。この薬があれば、善一(疫痢)、睦男(丹毒)、陽春 子(疫痢)達は死ななくても良かったのだと暗然とした。
 昭和20年3月10日東京大空襲の夜、祖母の葬式から帰って来たばかりで、寮にいた。空 襲警報でただ一人グランドにあった防空壕へ入った。下町の方が焼けており、もう空は真っ赤で、その上をB29が編隊を組んで飛び、ばらばらと焼夷弾を撒い ているのが見える。悔しいがどうする事も出来ない。壕の中は持っていた新聞が読めるほど明るかった。この夜寮の同室の鈴木さん(同学年、数学科)は下町の 自宅にいて、空襲下、お母さんと2人で逃げ、熱くて熱くてしようがないので隅田川に入っていた。頭の上をアメリカ機はどんどん飛び、焼夷弾を落として行 く。気が付いたら朝になっており、空襲は止んでいた。やっと水から上がったが、お母さんは疲労と心労の為その場で亡くなった。彼女はその後、半年ほど気が 抜けたようになっていた。このような例は当時沢山あった。
 6月、こんにゃく粉の仕事も一段落したのと、寮が焼けてしまって住む所がなくなり、食 料もいよいよ欠乏したので、群馬県富士見村字小沢へ農村動員に行くことになった。一軒の農家に2人づつ振り当てられ、私は藤田さんと一緒。まず、おかぼの 畑の草取りをさせられたが、2人ともどれがおかぼか解らない。やっと教えて貰って作業開始。ところどころに同じ植物が植えてある。なんだろう??でもこれ はおかぼではないし、小父さんは目的以外の植物を雑草と呼ぶと教えてくれたから、これは雑草に違いないと全部抜いてしまった。後で小父さんにあれは西瓜 だったと嘆かれた。夜は蚤が一杯。持っていたナフタリンを粉にして敷布団と敷布の間に撒いて眠る。次に麦刈り、毎日腰を曲げて刈るので、便所に行っても しゃがめなくなってしまった。そして、脱穀。次は田んぼに水を張って堆肥撒き。牛小屋の藁や糞を素手で掴んで撒いた。醗酵していて熱かった。後で父にその 事を言ったら、そんなことまでさせられたのかと気色ばんだ。苗とりをして稲の束を作り、翌日は田植え。苗を挿すと昨日撒いた牛糞に刺さった。そして2−3 日するとその間に生えた草取り、稗と稲の違いがよくわかった。この頃、夜、どーんどーんと言う音が聞こえた。空襲ではない。後で聞くと、九十九里海岸が米 海軍に艦砲射撃されて居たそうな。またこんな山の中なのに、郵便局へ行った友達が機銃掃射を受けたこともあった。農閑期というので、8月上旬、帰省が許さ れる。ずっとはだしの生活をしていたので靴が履けず、前橋まではだしで歩いて、駅で足を洗って靴を履いた。大阪の家は焼け、家中祖母のいた京都の家に疎開 していた。しかし祖母は3月に死去。空襲で何回も汽車を止められながら帰った京都では、市電が動き、焼けていない静かな町並みが嬉しかった。そのうち広島 に新型爆弾が落とされて町が全滅したと言う噂が流れてきた。それはピカドンと言うそうな。そして次はこの京都が標的だと言う。どうせ死ぬのならみんな一緒 に死のうよと、防空壕に入るのを止めた。8月15日重大な発表があるというので12時に家中でラジオを聴く。ガーガーいってよく聞こえない。ただ“偲びが たきを偲び、耐えがたきを耐え”と言うお言葉だけが聞こえたので、いよいよ本土決戦なのだと思った。そこへ、父の友達の伊原さんが見え、負けたのだと教え て貰った。弟の楯彦がなんで負けたんや。なんで負けたんやと母をどんどん叩いていたのが印象的であった。私はもう空襲はないのだという安堵の思いが強かっ た。その晩は灯火管制用の黒いカーテンを外して寝たがとても涼しかった。翌日はギンガムの赤いワンピースを着た。開放感一杯だった。8月末米軍が京都に進 駐して来る日、私たちは家中で貴船の奥へハイキングに行った。久しぶりなので兄弟全員とても喜んだが、父は進駐軍が何か事件を起こさないかと危惧していた ようである。
 その後は世の中が混乱しており、食料も充分に配給されず、配給されても一人当たり菜っ葉一枚とかで、配給品をほうれん木に竹の親 (どちらもトウが立って食べられない意味)などと馬鹿にした。当然買い出しに行かねば成らず、母の衣類や指輪などは皆食べ物に変わってしまった。それでも 食べ盛りの5人の子供達は何時も飢えていた。年が変わって1度学校へ行ったが、食料も宿舎(大山の寮や護国寺内の洋裁学校後の校舎にうすべりを敷いてそこ に暮らした)も不十分で、自宅研修と言うことになった。親類の辻さんが京大の繊維工学科の助教授をしているのを頼って書物を借り、クモの糸についてレポー トを書いた。昭和21年の夏は京大の先生達の小遣い稼ぎの意味もあったのか、研修会が行われ、それっとばかりに聴きに言った。奈良の女高師の同学年の人も 来ていて互いに意気投合した。発生学の市川衛先生に頼んで研究室に入れて貰い、比叡山の小川にサワガニを取りにいって、脚を使ってオートトミーの実験をし た。これは秋に学校で行なわれた発表会で話した。また今の京都国際会館の近くにあった沼からイモリ(アカハラ)を取って来て、前脚と後脚の骨を入れ替えて 発生の違いを確かめた。ちっとも気持ち悪いなどと思わなかった。9月に学校に戻り授業再開。三崎の臨海実験所にも連れて行って貰い、ウニの発生の実験や、 海棲動物の観察などをしてとても楽しかった。日曜日は朝出される朝食と昼弁当を全部食べて(それで一食分しかなかった)、市電で日比谷まで行き、数奇屋橋 を渡って東劇へ歌舞伎を見に行った。勿論3階の立ち見席。尾上菊五郎の藤娘、団十郎の助六などがとても印象的だった。まるで乾きを癒すように展覧会にも良 く行った。今でもあの時上野の美術館で見た泰西名画は忘れられない。町にはパンパンが米兵と腕を組んで歩いていた。どんな英語を使うのかと耳を澄ましてい たら、”I,you,go”と言って行ってしまったので驚いた。あんな英語でいいのだ!また、フランス帰りの湯浅年子先生に物理学を習うことになった。こ れまでは授業が始まるとすぐ出征されてまともに物理の授業を受けることはなかったので、嬉しかった。ウイルソンの霧箱の実験を見せて下さった。またお友達 を呼んでその方からフランス語を習った。先生は物理の学生ではない私のことを良く覚えていて下さり、その後も声を掛けてくださった。

  1947年3月卒業、余り良い思い出の無い時代だったので、なんの感慨もない。京都に帰り、市役所に登録した翌日、同志社女学校の末光校長が家に来られ、 来て欲しいとのこと、後でそんなに飛びつかないで待っていたら鴨祈高校に勤められたのに、と友達に言われたが、請われて行く方が良いとも言われたので、同 志社に決めた。丁度学制が変わる時であり、アメリカとの関係が深い同志社は時代の寵児、京都中の秀才が受験していて、生徒は聡明で反応がよく教え易かっ た。1年生のクラスは3組、小霜、佐々木(二人とも私の母と同世代)、私の3人が担任。実力、経験、考え方の違いが著しく、まごまごした。でもはりきって 理科と数学を教えた。翌年、7月には父のお供で、米子へ行った。夏休みには福井県大野に女高師の友人永井悠紀子さんを訪ねた。永平寺の大きな部屋に枕を借 りて二人で寝転び、学問したいね、大學へ行きたいねと話をした。結婚したいねとは言わなかった。秋になってやっぱり京大受けて見よう、駄目ならそれで諦め がつくと思い、父に受けていい?と聴いたら、どうせ受かる筈はないと思ったのか簡単に受けてみなと言った(弟の豐彦はこの年の4月に理学部数学科に入学し ていた)。この時10月、お茶、お花、謡曲を習っていて月謝が勿体無いので、10月一杯習いに行き、11月1日から受験勉強開始。まず数学、専門ではない し、すっかり忘れているので大変だったが、豊彦に喰らい着いて教えて貰った。次は物理、これもチンプンカンプン。でも言葉くらい判るようになった。次に無 機化学と有機化学、これらは暗記すれば良いだけ、ここで2月の末。入学試験は3月3日から、もう生物学を勉強する時間は無かった。えーいままよ、実力で行 こう。厚かましいけどこれしかなかった。無事に受かった時は嘘かと思った。父は喜んだが、男の領分が侵されたみたいに憮然としてもいた。母はまるで自分が 受かったみたいに大喜び“女かてな勉強したらできるねん、がんばりや“と言った。これは1949年4月、私は23才4ヶ月で丁度結婚適齢期。これを知った 大手前女学校の同級生たちは祝福どころか、あきれ返って”ミッキー気が狂ったか”と言った。

京都大學時代

  大學の授業が始まり、張り切って講義を聴いた。生物学の方は女高師で少し習っていたので余り抵抗はなかったが、化学や物理、遺伝学は新鮮で面白かった。生 物学実習も他の人はもたもたしていたが、私は慣れていた。一学期のクラス委員を決める時、私がトイレに行っている間に皆が投票して、1:8で私が選出され た。汚いと思ったが、3年までに6人がやるのなら、1年の何も解らない時にやるほうが責任がなくて楽かもと思って引き受けた。自治委員会に行ってみて驚い た。後で考えると大方は共産党員、女子学生は珍しいので一挙手一投足注目されてとても不愉快だった。丁度京大付属病院で看護婦問題が起こっていたので、女 性の問題だから女性が行った方が良いとかなんとか訳のわからないこと言われて、病院まで何回も連れて行かれた。でも余りはっきり解らず、まごまごしてい た。同級生に菱谷さんがいた。結核の末期で6月には京都市の南の隔離病棟に入院され、倉石ひろしさん(菱谷さんの中学同級生)と一緒に見舞いに行った。菱 谷さんは7月に亡くなったが、見舞いがよほど嬉しかったとみえて、彼の貰っていた育英会奨学金を遺言により譲って貰う事になった。倉石さんとはそれ以来 50年余仲良くしている。1年の夏休みには芦田先生から強引にお借りしたドイツ語の生理学の本を読んだ。朝と夜を入れ替えて、晩御飯の前に起き、涼しい夜 中勉強して朝御飯の後眠った。父はドイツ語が得意なので、判らない所は教えて貰って、なんとか一冊読み上げた。3年になって卒論の研究をすることになり、 研究室を選ぶ事になった。分類は山野を歩かなければならないので、女性には無理。生理学に行きたいけど、男性が大勢でがさがさしていて近寄り難い。細胞学 なら一人顕微鏡を覗いていればよいだろうと言うおかしな理由で新家先生の細胞学教室を選んだ。先生に種子の発生過程の研究をやりたいと言ったら、それは植 物生理の分野だから駄目と言われ、受精の周りを研究するなら良いと言うことで、高等植物の受精が一生の研究テーマになった。そこでまず手当たり次第植物園 から花粉を取って来て発芽実験を始めた。何パーセントの蔗糖液が良いか、寒天培地の濃度は、培養温度は?時間は?など日曜も休みもなしにガムシャラ実験を やった。また寒天培地上にしずい切片を置きその周りに花粉を撒くと、しずい切片の方向に花粉管が伸長することを見つけ、しずいの異なる部位や、異なる種の しずいに対する反応なども調べ、これらを纏めて卒論にした。 卒業しても女の子に研究職は無かった。当時の大阪女子大の助手がありそうなので頼んでみた が、女の子が就職したい?とばかり断られてしまい、やむなく大学院に残ることになった。当時は大学院に残る人は珍しかったので、学費は免除であった。小遣 い稼ぎに近所の高野中学に理科の非常勤講師として行った。2年生に北村四郎先生のお嬢さんが居られた(その時に私に憧れられたそうで、後に京都大学農学部 に入学、研究をつづけて居られる、先生が何でも三木さんの真似をしよります。と嬉しそうな顔をしておられた)。学部の2年生の頃、広重徹が民主主義科学者 協会の学生部を作ろうというので手伝った。シュレージンガーの Whatislifeが岩波新書で出たので、理学部の有志でこれを読み、新聞をガリ版で作った。大方徹が書き、ガリ切りも彼がやった。私は他の大学との連 絡係で、北大の岡部さん、和気さん、東北大の志賀さん、東大の檜木田さん、名大の岡本さん、阪大の森さん、広島大、九大と顔も知らない人に毎回はがきを出 し、親しくなった。

結婚、同志社商業高校、学位取得

  1953年中岡哲郎さんが夜学の同志社商業高校を紹介して下さり、5年間生物学などを教えた。先生たちは大方大学院学生で年齢も近く皆とても気が合い、生 徒も昼間働き夜勉強する真面目な人が多く(中には私より年上の生徒がいた)、楽しい職場であった。ここで安定した給料が貰えるようになったので、1954 年5月廣重徹と結婚し出町?の知人宅の2階に住んだ。徹は家庭教師をし、学生が2人下宿していると言う生活であった。1955年4月、新家研で電子顕微鏡 の試料を作る為、凍結乾燥機を購入する事になり、岡山大学医学部の妹尾教授の研究室に、実験方法を学びに行った。その帰りに鞆の浦に徹と旅行に行った。 1957年5月徹は日本大學理工学部物理学教室に物理学史研究室を創立して勤めることになった。やっと徹だけでも研究職に有りつきほっとした。そしてこの 頃から学位取得の為仕事を纏めるように新家先生から言われた。10月29日長男アキラ出産。このとき、ソビエトが宇宙船スプートニックを飛ばした。父が病 院に見舞いに来て、おまえが寝ている間に世界はどんどん変わってゆくぞと言った。徹が就職できたことでも有り、同志社の方は後輩の山岸秀夫さんに譲って専 ら論文の仕上げに励んだ。徹は別居して東京に一人住まいして博士論文の仕上げをし、私達は親の家に同居させて貰い、アキラを東当院にあった私立保育園に入 れて夕方迎えに行った。平岡助教授が“あんた託児所に子供預けてるそうやが、貧民と一緒に育てたら子が悪るなる。すぐ取り戻して来なはれ”と言った。“私 が育てるよりずっと上手に育てて呉れはります”と返事したら、“ひとが折角親切に言うたったのに”と怒られた。休みの日には乳母車に乗せて大学に連れて行 き、机の上に座布団を敷いて寝かせ、少し大きくなると一緒に暗室に入って複写した論文を現像した。それでアキラは暗がりを怖からない子になったようだ。今 はなんでもス一とコピー出来るが、今昔の感がある。私の大学院在学中、指導教官の新家浪雄教授はゆりを用いて、その花粉発育中のDNAの量の変化を研究し ておられた。丁度ワトソン、クリックがDNAの構造を発表した直後である。
 1962年3月、学位授与式に参列した。理学部、工学部、農学部の若い人は多いのに、文学部関係の人は少なく、私の隣に湯川先生のお兄さんの貝塚茂樹先生が立って居られたのには、恐れ多く勿体無くてとても恐縮した。

東京へ移住

  丁度大宮市に、2LDKの公団住宅が当たったので、1962年4月アキラを連れていそいそと引っ越した。アキラもとても嬉しく緊張したとみえて、言葉の順 番を間違えたり、少しどもったりした。仕事が中断するのは嫌なので、東京大学植物学教室に研究生として入れて貰った。一方慶応大学の水野先生の助手の山崎 典子さんのお父上のご紹介で、駒沢大學に非常勤講師で出かけることになった。アキラは大成幼稚園で、居残りさんとして5時まで預かって貰った。おやつに味 噌をつけたおにぎりを園長さんがこしらえて下さったりして、とてもよくして貰った。小学校に入学後は近所の高砂さつさんが放課後見て下さった。とても可愛 がって下さり、10月に転居すると言ったら、分かれが辛くてとても泣かれ、申し訳ないと思った。
 1963年東京オリンピックの前年、木原均先生 から突然連絡があり、オリンピックの準備委員会に出ておられる先生に会いに行った。先生は戦後日本の学者の中で、一番先に米国に行かれ、その後も世界の事 情に詳しかった。先生は米国からお金が出て国際会議を支援してくれるのだが、花粉の関連の会議を日本と米国の間のハワイぐらいで開催して見ないかと言って くださった。先生は大学院の頃花粉を用いて研究をしておられたので、私の仕事にも関心を持って下さったのだと感激した。私はこの頃英語はしゃべれなかった し、国際会議に出るなんておぼつかなかったが、皆と前向きに相談してみますと言って帰ってきた。徹は僕も応援するから一生懸命やってみたらどうかと言って くれた。丁度ハワイに留学していた岩波洋造氏に手紙をだしたら、自分は此処で勉強しているし今更学会でもないので、興味はないとの返事。渡辺光太郎氏や他 の人にも手紙をだしたが、みんな私は英語が出来ないし、国際学会みたいな大それたところへは行けないとの消極的な返事ばかりで一人の賛成者もなく、がっか りした。私の東大での研究室の長佐藤七郎氏に報告すると、米国から金を貰って研究会を開催するなんて売国奴のすることだとひどく叱責された。それだけでは なく、徳田御稔氏、飯島衛氏など民主主義科学者協会の先生方に連絡したのかその方々から、そんな恥ずかしいことに手を出すことは止めなさい、貴方がそんな ことをする人だとは思はなかった、などと手紙が来た。私は前向きに、世界に目を向けて勉強しようと思っただけなのにと、とても腹立たしかったが、一人では 何も出来ないので木原先生に事情をお話してお断りをした。
 1964年京大細胞学教室の先輩飯島衛先生のお骨折りで、神奈川歯科大学の講師の話が 来た。それまで2年間時間講師をしていた駒澤大学からも専任教授になってくれないかと言う。どちらにしようかと迷ったが、歯科大のほうが理科系でもある し、いくら専任教授といっても駒沢は文系の大学だから机一つ呉れるだけだろう。始めは歯科大でも仕事はしにくいだろうが、暫く東大の研究生を続けてゆけば よいだろうと考えて、歯科大に決めた。初めて国鉄の横須賀駅に降り立った時は、はるばるこんな所まで流れてきたかと、感慨一入であった。大宮の家は狭い し、私が横須賀に通うには遠すぎるし、徹はこんな海も山も無いところに住みたくないとも言うので、神奈川県の足の便の良いところで、公団住宅を探し、やっ と辻堂海岸が当たった。海軍の演習地の跡地で広大な砂地に建った蜃気楼みたいな団地だった。あとで出張の帰りここへ立ち寄った父はお前は東京へ行ったと言 うので来てやったら何だ大宮とか辻堂とか周りばっかりで東京じゃないじゃないかと言われた。大宮で仲の良かった人々とも別れ少々心細い気持ちで1964年 10月辻堂団地へ引っ越した。丁度東京オリンピックの時であった。アキラの同級生のお母さんの伊東さんや、下村さんのお世話になりながら、アキラは鍵っ子 になった。この団地にはインテリが多く、直ぐに保育園を作ろうという運動が始まり、私は保育の会の会長に祭り上げられた。団地の隅に大きな空き地があった のでそこの寸法を測り保育園用地として、申請した(ここは駐車場用地として公団が考えていた所だったのを後で知ったのだが、未だそれほど自家用車が普及し ていなかったので反対はされなかった)。何べんも市役所に陳情に行ってやっと市長から前向きに検討しましょうと言われほっとした。私達はこういう役所用語 も知らなかった。市長が前向きに処理と言うと、直ぐに我が家へ公明党市議がお手伝いしましょうとやってきた。超党派でやっていますからと帰ってもらった ら、そのすぐ後に今度は共産党市議が同じことを言ってきた。どちらの党も出来上がったら自分達の手柄にするのだろうとあきれ返った。無事保育園は出来上 がったが、市役所からは我々にご苦労様とも言われず、開所式に招待も無かった。そしてアキラはもう小学生になっていて、今度は学童保育の運動を始めなけれ ばならなかった。学童保育がどうやらよちよち歩きを始めた時にはアキラは中学生であった。

アメリカ留学

 1966 年夏、倉石晋さんから今 NewYork州立大学のWalterRosenが日本に来ていて三木さんに会いたいと言っているので、東大に会いに来ませんかと電話が掛かってきた。同 じ様な研究をしていて、論文も読んで知っている人なので、飛んで行った。Rosenは自分の研究室へ研究に来ないかと誘って呉れた。私の周囲の人達は皆留 学するのに、私は結婚していて子供もいることだから留学と言う言葉は私の中には無かった。帰って徹に言うと“そんな話じゃないかなと思っていたよ、行きた いならいい機会だから行けよ”と言って呉れた。早速アキラに京都に行く?と聞いたら事情の解らないアキラは単純に“ウン”と返事した。そして京都の私の両 親は、孫が1年間滞在するというだけで二つ返事で承諾してくれた。勤め先の方も、桧垣鱗三学長からすんなりと“しっかり勉強してきてください”と許可が下 りた。そこで1967年3月末羽田から出発。京都から父、芦屋から徹の両親と弟一家が出てきて、前日は皆で帝国ホテルに泊まり、会食をした。飛行機の窓か らロビーがよく見えるのだが、他の人は見えず、父だけがまるでスポットを当てたように良く見えるのでとても不思議に思った。父はその2ヶ月後、心筋梗塞で 亡くなった。
 さてBuffaloに住むことになった。Jowenと言うポーランド出身の修士コース大学院学生と同じ部屋に同居する事になった。 僻みっぽいのか、何でも私と競争して、Rosenがデトロイトで行なわれる学会に私だけを連れて行ってくれた時も、泣いたり膨れたりして、何が起こったの か判らず戸惑った。そしてこれを機にいろいろ意地悪をされて困った。私は学位もある研究者で、自分は修士コースの学生なのになんでも私と一緒の扱いを要求 して、それが叶えられないとふくれたりして大騒動になった。9月にLoewusの部屋にオランダのLinskenseの研究室から MarianneKrohがやって来て、Loewusの研究室で一緒に仕事をする事になり、Jowenと付き合う事はなくなり、ほっとした。Janny (Marianneのこと)とはとても気が合い、一日大學で仕事をして、一緒に食事をしてそれぞれの下宿に帰った後も長電話をした。お陰で私は英語の電話 の稽古が出来た。Jannyのホルクスワーゲンの助手席に乗せて貰ってあちこち買い物に行ったりドライブした。徹がアメリカの方が日本より自動車の免許状 が取り易いので、取って来たらと助言してくれたので、免許状は取ったのだが、お陰で自分で運転する必要は無かった。Myo-Inositolをアイソトー プでラベルしたものをテッポウユリの雌蕊に吸わせてその行方をトレースして、花粉管の栄養源を調べた。図や論文の骨格は私が作ったのだが、3月に私が日本 に帰ってから仕上げて投稿されたので、JannyがFirstName になっている。Loewusの研究費を使ったせいかもしれないが、2つの論文中一 つは私をFirstNameにしてくれてもいいのにと今でも悔しい。
 帰国に際して、サンフランシスコ廻りで日本まで700ドル、ヨーロッパ廻り だと1000ドルだというので、ヨーロッパ廻りで帰国することにした。旅行会社で一日5ドルで宿賃と一都市一回観光バスが付くというものを決めて出発し た。Jannyが別れをとても淋しがった。まずロンドン。コインを入れれば火がつくストーブがあったが、一日目はコインを持たず、とても寒かった。次にオ ランダのLinskenseの居るナイメーヘンの大學へ行って、アメリカでの研究の成果を講演した。スライドなどはアメリカで作って貰い、初めての英語に よる学術講演である。下手な英語であったが、英語圏でなかったのが幸いしたのか判って貰えたようであった。その晩はLinskense宅で私の歓迎パー テー。一人のオランダ人が“この第二次世界大戦中、日本のお陰でオランダはジャワ、スマトラを失いとても迷惑しているがどうしてくれる”と詰った。私は ジャワ、スマトラがオランダ領であったっことなどすっかり忘れていたので、ポカンとし、困った。”その頃私はまだ子供だったので“、と一応の逃げをした が、Linskenseが”今日は寿子の歓迎会なのだから“と言って助けてくれた。LinskenseもJannyもドイツ人で、オランダの大学に就職し ていろいろ複雑な事も有ったらしい。次にドイツのケルンにJannyのお母さんを訪ねた。とても優しい人でケルンの聖堂を案内してくれた。”ひさこな“と 呼びかけるのが優しく聞こえた。汽車でライン川を見ながらフランクフルトへ。ゲーテの家を見て、ふらふら歩いているとドイツ人がコーヒー飲みに行こうと か、ダンスに行こうとか、映画に行こうとか声をかけてきたので、吃驚してホテルに逃げ帰りホテルで夕食を取った。パリを見物して、次にスイスのベルンへ。 インターラーケンからユングフラウヨッホに行った。雪洞の中に氷で出来た自動車などがあり面白かった。高山病になり、食事は出来ず折角注文した食事も同行 の香港の女の子に食べられてしまった。ミラノ、フィレンツエ、ローマとお定まりの観光コースを巡った。フィレンツエでは徹の知人の科学史研究家の女史の私 立の科学博物館を訪れて歓待して貰った。何処の都市でも美術館は精力的に廻った。始めて見るルーブル美術館やウフィツ家など圧倒され、来てよかったと思っ た。ローマから南周りで帰国の旅ヘ。カイロで休憩のため空港へ出たら森主一さんに会った。お互い驚いたけれどとても懐かしかった。ミラノで革製赤いハット を買った。そして羽田でこれを目印に私を探してくれと手紙を書いたので、迎えに来ていた徹とアキラは直ぐに判ったと言った。

アキラ腎臓を患う

 1969 年4月アキラ6年生の時、風邪を引いたので一人で寝かせておき、早くに帰宅すると寝床の中でうつむいて本を読んでいたアキラの顔がまるで風船のように真ん 丸かった。驚いて何時も掛かっている小児科医へ連れて行くと、尿の検査をしてこれは腎臓病で私の手には負えないから何処か病院へ連れて行くようにと言われ た。藪から棒にそんなこと言われてもどうしたらよいか判らず、呆然としていると、奥さんが出てきて、私の掛かっている慈恵大付属病院の内科へ紹介したらど うだろうと言った。何とも仕様がないので一応その線に乗ることにして、逗子の慈恵大の先生にも診察をして貰って、入院の通知を一ヶ月待った。その間に佐藤 金次先生が世田谷のぶた屋と言う漢方薬店を紹介して下さり、買いに行った。アキラ一人家に寝かせて探し探し行ったが、アキラもよく我慢して待っていたもの である。早速煎じて飲ませたが、入院を待っている間にこの薬でなんとか収まったらしく、入院してからあまり症状が出ず、先生が最初見た時は酷かったのにと 首をかしげるほどだった。約3ヶ月で退院。その後疲れないようにするのが大変で、一週間に一時間一科目だけ学校に出席して、何処まで学科が進んでいるかを 見させた。アキラの実力ならそれで付いてゆけると考えたからだ。3学期には一日一科目を選んで出席。担任の先生のお蔭や下村夫人の後押しもあって無事卒業 して湘洋中学に進学できた。今のところ後遺症は出ていない様子である。この年に徹の勉強部屋として亀戸の公団住宅分譲住宅を買った。
 1971年 アキラ中学2年の夏休み、徹が学会でモスクワに行くのに便乗して、芦屋のおじいちゃん、おばあちゃん、我々3人の計5人でヨーロッパ旅行をした。モスク ワ、ウィーン、ミラノ、フィレンッエ、ローマ、ジュネーブ、ジュッセルドルフ、ケルン、ナイメーヘン、アムステルダム、ロンドン、パリ、シャルトルを巡 り、徹はパリからモスクワに向かい、我々はパリからアンカレッジを経て帰国した。丁度通貨暴落の時で、徹は随分損をしたみたいだったが後から考えて、行っ てよかった、本当に良く行ったと思う旅であった。

徹の病気

 1972 年夏、徹は毎日のように海水浴に辻堂海岸へ行った。後から考えると胃がもたれるので泳げば運動不足解消になるかと思って行ったのではないかと思われる。夏 休みに下村さんから秩父にドライブに行かないかと誘われた時もいやといわずに、付いてきたので私は今回は不思議だと思った。何時もなら僕は仕事が忙しいか らと家に残るのに。私の車に我々一家、下村さんと並んで走った。途中大宮の桜木町団地によって河内さん達に再会し、日帰りだったけど楽しい一日だった。 11月1日“家買わへんか“と言うので、ええどういぅ風の吹き回し?と思いながら2人で車で出かけた。鎌倉笛田で手頃な一軒家を見つけ、もっと探そうと言 うと、くたびれた、今日はもうこれでいいと言うので一応契約をして帰った。11月3日午前4時亀戸のアパートから”今血を吐いたのですぐ来てくれ“と電話 があった。まさに寝耳に水!アキラにその旨伝え、直ぐに車を出す。緊張と早朝ということでとても寒かった。よく事故を起さずに着いたものである。徹はぐっ たりして寝ていた。救急車に連絡して、来ては呉れたが、奥さんが来るならそのまま寝ていなさいと言って帰ってしまったそうである。林内科に連絡して、診て 貰ったら、日大医学部から横須賀の市民病院へ行くようと指示が出た。徹を後ろの座席に寝かせ、そしてナビゲーションをして貰いながらやっと病院にたどり着 いた。直ちに入院。暫く内科で様子を診るということであったが、8日にまた吐血、すぐ手術をするが、助かるかどうかは5分5分ですが、手術しますか?と聞 かれた。助かる5分に掛けますといぅことで手術。芦屋へも連絡して、真夜中手術の最中に両親到着。9時間に及ぶ長い手術で、医師からガンでした、と直径 5cmくらいの腫瘍を見せられた。この時、神奈川歯科大学の学生達から献血をして頂きとても有り難かった。あとで徹が”君は心配しておろおろしていたけ ど、僕は現代医学を信じていたから一番落ち着いていた”と言った。12月末退院。通院が始まったが、何時も家にいるので、冷蔵庫の中に使わない物が沢山 入っているとか、掃除が行き届かないとか、平生言わなかったことを毎日くどくど言われ、病院から姑鬼千匹連れ帰って来たかと思った。でも少しずつ元気にな るにつれ、鬼も出なくなり、食後のワインを楽しんだり、東京まで食事に出かけることもあった。1974年夏、国際科学史学会を日本で開くことになり、徹は その準備委員長であった。その資金集めに会社で講演を引き受けたりしていたが、心無い人は資本家に頭を下げて廣重は堕落したか、とまで言われた。私は生物 学者であるが、お金が無いから君も学会に出席と言う事にしてくれと言われ、会費も出した。東京での懇親会の時、日本人達ばかり隅の方に固まって外国人とお しゃべりをせず、折角外国から討論相手を呼びながら勿体無いことだと思った。そこで、私は専門は違うけれどもブロークンイングリッシュで一生懸命外国人の 相手をした。心無い日本の男たちは、はしたない女と思ったかもしれないが、徹はとても喜んでくれた。京都では徹の母の助けも得て、祇園でささやかなパーテ イもした。私も行きたいと言ったが、またこの次連れていってやるからなと言われた。この次は無いのに。この会の主宰で精魂尽き果たしたのか9月からがっく りと疲れが出て、11月に再入院となった。この時は入院をとても嫌がり、靴や服を直ぐ出せる所に置いて居た。村田全氏には病気のことを伝えていたので、毎 日見舞いに来られ、長話をされるので疲れ果て、村田さんに来んといてくれと言って欲しいと言った。12月に入り、2週間程自宅療養になった。もう何も出来 なかったが、自宅に居ることは精神的に落ち着くようだった。でもとうとう我慢が出来なくなり28日に再入院。特別室に入れられ、苦しい日が続いた。2日に 両親を呼ぶ。6日に柴田宏(小学校以来の友達)さんに面会。そして7日息を引き取った。淋しいと感じるよりも、苦しみを見ていたので、やっと楽になったと ほっとした。久田さんに解剖に立ち会って貰ったが、とても尊大で、頼まなかった方が良かったと思った。解剖の後すぐに家に帰り、明くる日は友引なのでその 日を避け、9日葬式になった。青山葬儀場でやっているように花で囲んで無宗教でやって貰ったが、横須賀の田舎の葬儀屋には抵抗が有ったようだ。翌朝料金を 取りに来た人が、“あんたは坊さんも呼ばないで随分倹約したつもりらしいが、こういうときは坊さんを頼むものだ”と説教された。はじめから無宗教でやりま す。と言ってあったのに。葬儀委員長は村田さんで、全部指揮して下さった。みなさんにいろいろ不満が残ったようだったが、私は疲れ果てていたので、何も判 らなかった。葬式の晩、家のローンを借りている住友銀行神田支店の係りから電話があった。”廣重さんですか?この度はご主人お亡くなりになってご愁傷様で す。付きましては奥さん払えるんですか?“根畜生”なんと失礼な事をと怒り心頭に達する。”払えますよ””それは結構なことで、直ぐ銀行に来て下さい”。 私は払えるから平然としていたが、頼りになる人を亡くして呆然としている未亡人に銀行は平気でこんなことを言ってくるのかと、とても腹が立ったが、これが 世間なのだと悟った。
 6月に日大の小使いという人が近くまで来たので是非線香を上げさせて欲しいと言って訪ねて来た。前歯が上と下に一本ずつ 残っているとても印象的な顔つきの人で、ご主人とよく子供さんのことなどを冗談言って話しましたよと言う。徹は子供のことなど例え親しい友人にでもベラベ ラ話す人ではないので、おかしいなと思いどんな話をされましたか?と聞くと、それには答えず、自分の在所の青森からしいたけのほだ木を送ったとか、玄米を 送ったとか、言う。なぜ送って下さったのですか?と聞くと、随分お世話になったからだと言う。徹は割合シャイなので、小使いさんなんかと親しげに雑談した り、お礼されるほど親切にする人ではないのでとても不思議に思った。そして帰り際玄関で靴を履いてから、財布を忘れてきたので金を貸して欲しいと言った。 私は気の毒だと思って2万円ほどを手渡した。この人が帰ってから、そんなに遠いところからわざわざ訪ねて来たのに香典が置いてないのに気がついた。おかし いぞと思い、駅前の警察署に似顔絵を持って報告しに行った。2ヶ月程後に、やはり鎌倉市内の別の家に、同じことをしに行ってこの人は捕まった。新聞に載っ た死亡記事を見ては、こういう詐欺を専門に行い、刑務所を出たり入ったりしている専門家だったそうである。

国際学会出席

  1975年7月、母とアキラに留守番をして貰って、レニングラードの国際植物学会に出席して、講演をした。初めての国外での講演で緊張した。ポストコング レスツアーで、キジ島やコラ半島のムルマンスクを訪ねた。植物分類学者のための旅だったので、フィールドへ案内して貰い、美しい植物を沢山見ることが出 来、まるで天国の花園に遊ぶ思いであった。

 次の国際学会出席は1979年2月、ニュージーランドクライストチャーチであった。発表の前 はどの人も朝から建物の陰などで練習をしていて、誰も緊張するのだと驚いた。私の講演が済んだとき、何人かの人がエクセレントと言って肩を叩いて呉れた。 お世辞だとしても有り難い事だと嬉しかった。そしてインドのACTA Societatis BotanicorumPoloniaeの編集者から、貴方の論文は素晴らしいから是非私が編集委員をしている雑誌に乗せて下さいと頼まれたときには感激 した。この学会には他に宮崎大学の足立泰二さんが来ておられ、日本人2人で心強かった。ここでサクラメント大学のカバルジアン氏に会い、これからの論文の 添削をお願いした。この学会の前には、デンマーク、オランダ、ポーランドの仲間達とプレコングレスツアーで北島を1週間観光し、ポストコングレスツアーで 南島を1週間観光して楽しかった。南島で、夜森の中で、グローワームが光っているのをみんなで見に行った感激は終世忘れられない出来事である。

1979年6月ポーランド、ルブリン。
  マリー・スクロドフスカ・キュリー大学で植物生殖学関係の学会が開催された。ワルシャワで2泊。1日目は町を見物、ドイツ軍のため完膚なき状態にまで破壊 されたと聞いていたが、住民たちが昔の写真をもとに復元したそうな。翌日午後の集合時間まで町を歩き回った。ショパンの心臓を保管してある聖十字架教会に 入ると入り口まで一杯で、その柱を確認しただけで出てきたら、中年の夫人が貴方フランス語しゃべれる?と聞いたので、ju ne parurepaFrance と返事したら町を案内してあげるからついて来いとのこと、mercibouqueである。今日はキリスト教のお祭りで行列 があるからとある街角につれてきてくれた。町一杯に人が溢れていて、民族衣装を着た人達が次々にやってくる。神父様が右手を上げてアーッと言って音をとる とそれに合わせて一斉に賛美歌が歌われる。行列の人も、見ている人も、歌っていないのは私だけ。ぞーっと身に緊張を覚えた。そしてこれはアンチ共産主義だ と直感した。ここは共産圏だけどここの人達は共産主義者ではない。荘厳な祭りであった。学会の後、クラコフに連れていってもらったが、短時間でワルシャワ に帰ってきたのでゆっくり見られなかった。今回は社会主義国ばかりを回るつもりで、つぎはハンガリーのブダペストへ。橋のそばのホテルに宿泊。フロントに オペラが見たいと頼むとタンホイザーが取れた。日本円で1800円。最前列真ん中、指揮者が邪魔だった。翌日学会で会った夫妻に夕食をご馳走になった。鹿 の肉とトカイワイン。鹿の肉は少し固かったがおいしかった。ドナウ川を遡ってチェコスロバキアのブラチスラバへ行こうとしたのだが、ホテルのフロントで、 そんな船はないと言うので、列車で向かう。ブラチスラバの夫妻は船で来るかと長いこと船着場で待っていて下さって申し訳なかった。お宅で夕食を頂く。ホテ ルでフロントのおばさんがお金を変えてあげると言うし、私もチェコスロバキアのお金を両替したかったので、変えてもらったら闇だったので、とても沢山両替 することになった。共産国で変なお金を持っていると困るので切手を買って日本に送り返した。次にプラハへ、ツーリストビューロウへ行って宿を取ろうとする が、丁度この時期、プラハで共産国の会議が行われていてホテル1つづつ一国が占領していてホテルの空きはないという。困ったなと思案に暮れていると、汚い 背広を着た日本人が入ってきた。聞くと朝日新聞の特派員で、レバノンからの帰りだと言う。そこで二人でプラハでなくても近くの町でいいと強引に頼み込んで ホテルの世話をして貰った。近くに村民全部ドイツ軍に殺された記念の公園にバラが沢山植えてあるところがあった。プラハの研究所にTupy博士を尋ね、古 い図書館を案内して貰った。昔修道士達が手書きで写した分厚い聖書があり、綺麗な花文字と美しい彩色に感心した。チュピイ氏のカラー写真を撮って後で送っ てあげたら奥様がとても喜ばれたそうな。共産圏ではカラー写真が珍しかったのかも。次は列車でドレスデンへ。まず陶器の博物館へ。さすがに素晴らしく感 激。早速コンサートと演劇の切符を購入。ドイツ語の劇だったが、実に貧弱な私のドイツ語でも理解でき、最後に観衆と一緒に笑うことが出来て嬉しかった。マ イセンには2度通い、お城や陶器工場を見た。お城の中の陶器のストーブがとても美しく印象的だった。
 また列車で東ベルリンへ。オペラ劇場を見つ けてすぐに切符を買いに行った。フィガロの結婚をやっていた。日本のように大きな劇場ではなく、これ位の大きさがいいのだなと思うような、歌手の顔がオペ ラグラスを使わなくても見える近さの劇場であった。とても楽しく、堪能した。翌日はブランデンブルグの門を見に行った。警備兵に写真を撮ってもいいかと聞 くといいよという。それで写真機を高々と上げてはっきり写真を撮っていることを示しながら撮影した。ホテルの食堂で日本の数人の商社マンに会った。此処で 何をしてられるのですかと聞いたら、皆さんの利益になることをやっています。とのこと、商売だったのか?ペルガモン博物館で鳥がナツメヤシの花に受粉をし ている壁画を発見。感激して写真を撮った後、1時間くらいそばに座って眺めていた。この何年か後に、米国ニューヨークのセントラル博物館で人が受粉をして いる壁画を見た。どちらも絵葉書はなかった。

1980年7-8月
 アメリカ ワシントン州 プルマン ワシントン大学へ。
 アキラはニューヨークへジャズを聴きに。

1981年8月オーストラリア、シドニーに於いて国際植物学会。
  会場近くを歩いていると、中国女性に会った。私が貴方は中国から来たのですか?私はTsunFunSao女史に会いたいのですが、と言ったら、その人は私 が、そうだと言った。そして私はヒサコ ミキ ヒロシゲに会いたいと言う。それは私です。と言って2人で会えてよかったと抱き合った。ずっと同じような花 粉の生理学の仕事をやってきて、彼女の1949年の論文を読んで以来、どんな人かなと思っていた人で、多分中国へ帰っているのだろうと考えていた。彼女は 今、北京大学の植物学の教授で今回は中国から研究者たちを引率して来ているのだが皆何も判らないのでなんでも教えなければならず大変なのだと言っていた。 私の発表のチェアマンはオランダのサッセン氏だったのであまり緊張しなかった。オランダのリンスケンス氏、アメリカのJensen氏、 Mascarenhas氏など多くの人に会った。プレコングレスツアーには1週間ブルーマウンテインズへ、ここでニュージーランドから参加していたおばさ んに探鳥の仕方を教わった。ポストコングレスツアーは、ダーウィンからホットスプリングそしてエアーズロックへ。ヨーロッパから来た分類学者たちの執念を みた。Mascarenhas氏と一緒だったので、エアーズロックへ午後と翌日の朝の2回登った。

1982年6月、チェコスロバキア,タトラ。

  植物受精生理の国際学会。プラハからブルーノヘ行ってメンデルの研究所を訪ねた。此処でヤニに会ったが、車が一杯だといって乗せて貰えなかった。それで予 定通りにバスで最寄の鉄道の駅までたどり着いたが、此処で私は地図も住所も忘れてきたことに気がついた。いろいろ探したら手帳に電話番号だけが書いてあっ た。早速電話したらブラチスラバの氏が出て、すぐに車で迎えに来てくれて、本当にほっとした。此処は小さな保養地の宿泊所のようなところであったが、参会 者全員が宿泊でき、ちゃんとした講演会場もあって素敵な場所であった。狭いところで何処か町に逃げ出すと言うようなことも出来ないので、ゆっくり討論や質 問が出来てよかった。また最後の日に、エクスカーションで山に連れて行ってもらったが、足の踏み場もないほど一杯に高山植物が咲き乱れ素敵な場所であっ た。

1983年8月、オランダ、ワーヘニンヘン。植物受精生理学会。

  何時も一人で国際学会に出かけるので群馬大学の山田義男氏、横浜市立大学の岩波洋造氏を誘った。二人は一度ドイツのお城に泊まってみたいななどというの で、早速連絡して部屋も取った。ところが4月になって山田さんが“俺、車買ったから行けないよ”と言う。その後私がいろいろ予定を立てて、岩波さんより 10日ほど前に日本を発つから、オランダまで一人で来てねと言ったら、“羽田から羽田迄一緒じゃないの?それなら行かないよ“と言った。学会申し込みから 参加しないと言う通知まで皆私がやった。男ってなんなの??男性に対する不信がむらむら。これ以後男性も女性も私から旅行に誘うことは止めた。私は添乗員 じゃないよ!
 今回は夏至も近いし、白夜を体験したいと思って、ノルカップまで行く予定を立てた。事前にノールウエイ観光局へ行って地図やバス、 連絡船、飛行機の時間表まで手に入れた。まずオスロへ到着。3日間見物。次に鉄道でベルゲンへ、駅のすぐそばのホテルに宿泊。路線バスを利用して郊外のグ リーグの家へ。フィヨルドに面した静かな入り江に彼の作曲用アトリエがあり、墓もそばの崖の上にあった。時間の許す限り此処で遊んで、故人を偲んだ。後2 日は観光船でなく、連絡船を使ってフィヨルドの入り江を楽しんだ。南の方へ行く船の中で水産研究所の人と知り合い水産物や石油掘削のことなど、此の国の抱 えている最新の産業の話が聞けて面白かった。ここから飛行機でハメルフェストへ、犬はおりにいれ、大きな日用品を抱え、子供や赤ん坊、実に雑多な人々で、 日本での飛行機に乗るという済ました旅行景色ではないのに驚く。細長い国を長距離移動するのに飛行機が一番手っ取り早いので皆がこれを利用しているのだ。 隣の席に若い青年が座った。18歳でアルタへサケ漁に行くと言う。沢山取れたらどうするの?友達にわけるさ。今大学生?これから兵役で、多分ソビエトとの 国境地帯に配属されると思うよ。国のためちゃんとやらなければね。兵役が済んだらこれからの人生をどうするか考えるよ。日本の若者よりしっかりしているの は何が違うのかと考えさせられた。ハメルフェストのバス停の前に宿、下が食堂で夜中ドンチャカドンチャカ騒がれて眠れなかった。翌朝岡に登った。一面に 白、ピンクのヒースが咲いていて、小さな漁港が見渡せた。バスで北に向かう。トナカイが一杯いてバスなんかお構いなしに道を横切る。すると運転手が私に写 真を撮れと言ってドアをあけてくれる。親切なのか何回も何回もやってくれるので、もういいと断るのに困った。一人歩きの日本人は珍しいのか。連絡船でノル カップの島に渡る。タクシーで灯台まで行くが霧で何も見えない。母に“霧で何も見えない”とはがきを送る。此処から船でハメルフェストに戻る。これは楽 だった。ここからアルタまでバスで移動。一本道。バスが角を曲がる度に岩の上に背の高い針葉樹と残雪、そして赤い屋根の瀟洒な家、窓には白いレースのカー テンがいろいろ工夫して掛けられており、それぞれの家で、ゼラニウムや人形その他で美しく飾られている。ずっと窓にしがみついて見ていた。アルタに一泊。 翌朝いくら待ってもバスは来ない。9時のバスはどうしたのですか?とフロントに聞いたら、えーっ、もう行ってしまいましたよ。今11時ですよ??それで此 処にもう一泊するように頼み、今夜泊まる筈だった宿に、明日泊めてと連絡をしてもらった。やれやれ。そこで近所を歩き回る。入り江にシギがいる。図鑑を見 るがよく判らない。原住民がいたと言う遺跡があったので入ってみる。彼らが書いた生活の絵が残っていた。この辺で取れるらしいスレートにコピイしたものを 1枚記念に買い求めた。現在我が家の風呂の壁に貼って貰って風呂の度に楽しんでいる。ナルヴィックで一泊して国境をこえてスエーデンへ。列車の中でアメリ カ青年2人と仲良くなったが、途中で私は2等車に乗り換えたので、おさらば。途中で軍隊に入る青年たちを乗せた列車とすれ違ったが、彼らはこれから軍隊だ よ、うんざりだと言っていた。ノルウェイで会った青年とは随分感じが違う。ストックホルム着。

1985年ヨーク、スコットランド
1986年
 夏、母と東北地方を歩く。8・24田沢湖、蟹湯、八幡平、十和田湖、つた温泉

1987年  Sexual Plant Reproduction(Springer発行)のeditor になる。徹が生きていたらどんなに喜んでくれたかと彼のいないのをとても残念に思った。

1988年  シエナ滞在。リミニ、ボローニャ、




花粉粒内たんぱく質の変化

  花粉が発達してゆく時、当然その中に含まれているたんぱく質の質も量も変化するはずである。どんな蛋白質がどのように変ってゆくのか知りたいというのが長 年の願いで19**年頃からその準備をしていた。定年になって時間が自由になってから、化学教室に実験させて貰えるよう頼んだ。私が在職中に買って退職の 時,化学教室に譲った電気泳動の機械が幸いに誰にも使われずに置いてあったので、それを使わせて貰い、倉田さんの助けもあって、たんぱく質の分離をした。 初めて行う仕事なのでなかなか上手く出来なかったが、やっと何とか分離できるようになった時、偶然横浜市立大学の笹隈先生に会い、木原生物学研究室の平野 久先生を紹介してもらった。平野先生はとても気楽にいいですよと承諾して下さって、それから大きな電気泳動のゲル板を作り、それで一から分離を始めた。私 の分離したのですぐに蛋白質を決められるのかと気楽に考えていたので、大変なことになったと思った。これも始めての操作なのでなかなか上手く行かず苦労の 連続であった。一日中立って仕事をし、帰りには使ったガラス器具を全部洗って乾燥機に入れて帰るのは結構大変で、自分の研究室なら使ったものは放って帰る のにと疲れた時は結構アゴを出す思いであった。蛋白を精製分離できた時、一部で抗体を作って貰い、これで電子顕微鏡による抗原抗体反応を中村澄夫さんと一 緒に行い、たんぱく質の存在場所を調べた。たんぱく質の分離が出来た頃、平野研で、マススペクトロメーターを購入され、山中結子さんと言う優秀なテクニッ シャンが就かれた。私は花粉の発達の一生の中を幾つもに区切りたかったが、採集量に問題があるので、若い時期は断念し、開花一週間前,開花時、寒天培地上 で60分培養後の3時期を決めて花粉を収集し、これを分離し、そのスポットの中から大きいのを選んで切り抜き、これを100個以上集めてたんぱく質を抽出 した。ゲル板は6個しかなくこれで毎日たんぱく質を分離するのであるが、1回に集められるスポットは6ヶ、大変な労働であった。でも山中さんが綺麗な結果 を出して下さった時には、長年の苦労が実ってとても嬉しかった。すぐに論文をまとめ、Sexual Plant Reproduction に送った。
Changes of protein profiles during pollen development in Lilium longiflorum.
Sex.Plant Reprod(2004) 16:209-214

  退職以来論文を書いていなかったので、嬉しくもあり、大変な作業でもあった。ゆりの花粉の中にはもっと沢山のたんぱく質があり私の今回調べたのはそのうち の6個だけなので、まだまだすることは沢山あるのだけど、体力の限界も感じたので、平野研からお別れをすることにした。平野先生はもっといて仕事を続ける ように勧めてくださったが、その気力はもうなかった。でも皆様の助けを得て新しい仕事が出来たのはとても有り難い事だと感謝する。
論文リスト

1.  Miki,H.(1954)
A study of tropism of pollen tubes to thepistils.
I. Tropism in Lilium.  Bot.Mag.,Tokyo, 67.143-147
2.   Miki,H.(1955)
A studyof tropism of pollen tubes to the pistils.
II. Tropism inCamellia sinensis. Ibid.68.293-8
3.  Miki-Hirosige,H.(1959)
A study of tropism of pollen tubes tothe pistils.
III. Negative tropism of pollen tubes in Camelliasinensis.
Mem.Coll.Sci. Univ.Kyoto(B) 26.61-65
4.  Miki-Hirosige,H. & H.Yamagishi(1960)
Application ofFreeze-drying Method to plant cells.
Bot.Mag.Tokyo, 73.29-36
5.  Miki-Hirosige,H.(1961)
A study of tropism of pollen tubes tothe pistils.
IV. Tropism in different species.Mem.Coll.Sci.Unniv.Kyoto(B)28.28.105-118
6.  Miki-Hirosige,H.(1961)
A study of tropism of pollen tubes tothe pistils.
V. Negative tropism, germination and tube growthof pollen grains in Primula Obconica.
Ibid.28.365-373
7.  Miki-Hirosige,H.(1961)
Pollen germination and pollen tubegrowth in the presence of pistil slices in vitro.
Ibid.28.375-388
8.  Baba,S., N. Shinke & H.Miki-Hirosige(1961)
植物細胞に対する凍結乾燥法の利用
Isoelectric zones of vegetative and generative nuclei inpollen grains of Tradescantia.
Ibid. 28.359-364
9.  Miki-Hirosige,H.(1962)
A study pf tropism of pollen tubes tothe pistils.
VI. Behavior of pollen grains to stigma of different stages in development.
Ibid.29.75-80
10. Miki-Hirosige,H.(1964)
Metabolism in the ovary of Lilium longiflorum. Pp.26-33
“Pollen Physiology and Fertilization”ed., H.F.Linskens,North-Holland Pub.Co.,Amsterdam
11. Miki-Hirosige,H.(1964)
Tropism of pollen tubes to the pistils.ibid.pp.152-158
12.  Kroh,M., H.Miki-Hirosige,W.Rosen& F.Loewus(1970)
Inositol metabolism in plants. PlantPhysiol.,45.86-91
13.  Kroh,M., H.Miki-Hirosige,W.Rosen & F.Loewus(1970)
Incorporation of label intopollen tube walls from myo-inositol labeled Lilium longiflorum pistils.
Ibid.45.92-94
14. Miki-Hirosige,H.(1972)
Stigma Exudate. Pollen  No.3,14-18
15.  Miki-Hirosige,H.(1974)
植物細胞に於ける硼素の役割
Boron role in plant cells. Pollen No.6, 1-5
16. Miki-Hirosige, H. & S. Nakamura(1977)
花粉粒内生殖細胞中にみられる電子透過性の顆粒
Electron transparent vesicles in the generative cell ofpollen grains.
J.J.Palynology No. 19  11-19
17. Nakamura,S & H.Miki-Hirosige(1978)
細胞板形成における被覆小胞の動態。細胞。10(8)31−38
18.  三木寿子(1978)新生物学(一部執筆)浜、永海編集。関東出版社
19. 三木寿子(1978)花粉粒壁の出来方。 空気清浄。16.(5)
20.  Nakamura, S.,Y.Iwanami & H. Miki-Hirosige(1979)
発芽花粉におけるカロース壁およびカロース栓形成の機構
On the mechanism of callose wall and callose plugformation in germinating pollen.
J.J.PalynologyNo.24  33-43
21.  Iwanami,Y., T.Tachiki& H.Miki-Hirosige(1980)
一核性花粉の形態学的、生理学的研究(II)テッポウユリの一核性花粉について
Morphological and physiological studies on mononucleate pollen grains.
II. On mononucleate pollen grains in Lilium longiflorum.J.J.Palynology No.25 3-9
22.  Nakamura,S.& H.Miki-Hirosige(1980)
テッポウユリ花粉の発芽時における微細構造の変化
Finestructural changes in the germinating lily pollen.
J.J.Palynology No.26 39-48
23.  三木寿子(1980) 花粉の研究 I。生物科学 32(2)57−68
24. 三木寿子(1980) 花粉の研究 II. 生物科学32(4)213−220
25. 三木寿子(1981) 花粉の研究 III. 生物科学 33(1)51−56
26. Iwanami,Y.,S.Nakamura,H.Miki-Hirosige & T.Iwadare(1981)
EffectsofMyrmicacin(B-Hydroxydecanoicacid)on protoplasmic movementandultrastructure of Camelliajaponicapollen. Protoplasma,105  341-345
27.  Miki-Hirosige,H. &S. Nakamura(1881)
Themetabolocincorporationof label frommyoinositol-2.3-H by growing younganther ofLilliumlongiflorum. ActaSoc.Bot. Polo., 50. 77-82
28.  Miki-Hirosige,H.& S. Nakamura(1982)
Incorporation of label frommyoinositol-2-3H by young anther of Lilium longiflorum.Phytomorphology, 32. 85-94
29.  Miki-Hirosige, H.& S. Nakamura(1982)
Process of metabolism duringpollen tube wall formation. J.Electron Microsc., 31, 51-62
30. Miki-Hirosige,H. & S.Nakamura(1982)
Growth anddiffrentiation of amyloplasts during male gamete development in Lilium longiflorum. Ed.D.Mulchay & E.Ottaviano,”Pollen:Biology andImplications for Plant Breeding”
Elsevier Biomedical,pp.141-147
31.  Nakamura,S.,H. Miki-Hirosige& Y.Iwanami(1982)
Ultrastructural study of Camelliajaponica pollen treated with myrmicacin, an ant-arigin inhibitor.
Amer.J.Bot.,69  538-545
32.  Nakamura,S. &H.Miki-Hirosige(1982)
Coated vesicles and cell plate formationin the microspore mother cell.
J.Ultrastruct.Res., 80, 302-311
33. 三木寿子、中村澄夫(1982) 植物の細胞壁形成。細胞14(10)
34. Miki-Hirosige,H.,S.Nakamura & Y. Yamada(1984)
Finestructural research on germinating lily pollen tubes in vitro and invivo.
ed.,M.T.M.Willemse, “Sexual Reproduction in SeedPlants, Ferns and Mosses”
 pp.68-70 ISBN 90 2200879 7
35.  Nakamura,S. & H.mMiki-Hirosige(1985)
Fine structural study on the formation ofthe generative cell wall and intine 3 layer in a growing pollen grainsof Lilium longiflorum. Amer.J.Bot., 72,  365-375
36. 三木寿子(1985)現代総合科学教育大系”ソフィア21“ 講談社(一部執筆)
37.  Miki-Hirosige,H.(1986)
“Botanical Latin Name of Floral Parts”from 3rd ed.1983 by William T. Stearn.
J.J.Palynol., 32,149-151
38.  Nakamura, S. &H.Miki-Hirosige(1986)
39.  花粉の透過型電子顕微鏡試料作製法
Techniquefor transmission electron microscopy of pollen.
J.J.Palynol.,32, 145-148
40.  Nakamura,S., &H.Miki-Hirosige(1986)
テッポウユリ雌ずい内を生長する花粉管の微細構造と雌ずい分泌細胞
Finestructure of lily pollen tube developed in a lily pistil and itssecretive cells.
J.J.Palynol.,32, 89-96
41. Miki-Hirosige,H., I.Hoek & S. Nakamura(1986)
Finestructural study on the two kinds of secretive tissues of lily pistil.
Proc.XithInt.Con. on Electron Microscopy.  In Kyoto
42. Miki-Hhirosige,H., I.Hoek & S.Nakamura(1987)
Secretionfrom the pistil of Lilium longiflorum. Amer. J.Bot., 74,1709-1715
43. Miki-Hirosige,H. & S.Nakamura(1987)
テッポウユリ葯内におけるタペータム組織の発達
Development of tapetum in anther of lilium longiflorum.J.J.Palyol., 33, 33-40
44.  Miki-Hirosige,H.(1987)
保井コノ博士の研究業績。
女性文化研究センター年報(お茶の水女子大学)第8号25−38
45. Miki-Hhirosige, H.,S.Nakamura, & I. Tanaka(1988)
Ultrastructuralresearch on cell wall regeneration by cultured pollen protoplasts ofLilium longiflorum.Sex Plant Reprod., 1, 36-45
46. Tnaka,I, S.Nakamura & H.Miki-Hirosige (1989)
Structuralfeatures of isolated generative cells and their protoplasts from pollenof some Liliaceous plants.
47.  Miki-Hirosige,H,S.Nakamura, M.Watanabe & K.Hinata (1991)
Localizationoftheproteinscontained in the stigma exudate on the lily pistiltissue.In“AngiospermPollen and Oviules” eds., E>Ottabianoetal.,Springer-verlag, 213-217
48. 廣重寿子(1992) 平成1年度科学研究費補助金(一般C)研究成果報告書。
しずいに於ける分泌機構の免疫組織化学的解明。研究課題番号 01540584
49.  Miki-Hirosige,H.,S.Nakamura,S.Yasuda, T.Shida & Y.Takahasi (1994)
Immunocytochemicallocalization of the allergenic proteins in the pollen of Cryptomeriajaponica.
Sex.Plant Reprod., 7. 95-100.
50.  三木寿子(1998)受粉から受精にいたるまでの花粉と雌ずいとの相互反応。Interaction betweenPollenandPistilfrom Pollination toFertilization.J>J>Palynol.44(1)35-45
51.  Miki-Hirosige,H., Y.Yamanaka,S.Nakamura, S.Kurata & H.Hirano(2004)
Changes ofprotein profiles during pollen development in Lilium longiflorum.
SexPlant Reprod., 16, 209-214
52.  三木寿子(2001)
日本初の女性理学博士 “保井コノ“ ライト&ライフ No.483(3)2-6
53. 三木寿子(2004)
“保井コノ” “Tea Time” お茶の水女子大学広報誌 No.10.July
54.三木寿子(2004)
保井コノ資料目録  お茶の水ジェンダー研究センター 109頁
Catalog ofKONO YASUI’S(1880-1971) Archives.

国際学会に於ける講演

1.レニングラード、ソビエト連邦。1975年7月
Miki-Hirosige,H. & S.Nakamura
Finestructural change of cell organella in flowering pollen grains andpollen tubes in Lilium longiflorum.
XII. International Botanical Congress.
ポストコングレスツアーで オネガ湖キジ島、ムルマンスク
2.クライストチャーチ、ニュウジーランド。1979年2月
Miki-Hirosige,H. & S.Nakamura
Interactionof the pollen growth and the tapetum in Lilium longiflorum.
International Symposium on Reproduction in Flowering Plants.
会議前に北島,後に南島を観光
3.ルブリン、ポーランド。1980年6月
Miki-Hirosige,H. & S.Nakamura
Themetabolic incorporation of label from Myoinositol-2-3H by the growingyoung anther of Lilium longiflorum.   
VI.InternationalSymposium Advances in plant Cytoembryology.
クラコフ、ハンガリーのブダペスト、チェコスロバキアのブルーノ、プラハ、東ドイツドレスデン、ベルリン
4.シドニー、オーストラリア。1981年8月
Miki-Hihrosige,H.& S.Nakamura
Metabolism of the pollen tube wallformation in Lilium longiflorum.
XIII. Internatonal Botanical Congress.
  会議前にダーウィンからアリススプリング迄とエアーズロック、会議後にブルーマウンテインズ。
5.1982年6月 タトラ チェコスロバキア(講演せず) & ガルダ湖、イタリアー
   The growth and differentiation of amyloplasts during the development of the malegamete in Lilium longiflorum.  Second International Pollen Symposium.
  タトラ湖漁夫の砦、ヴェローナ、ヴェニス、ユーゴスラヴィア首都ザグレブ。
6.ワーへニンヘン、オランダ。1984年8月
Miki-Hirosige,H. & S.Nakamura
Finestructural research on germinating lily pollen tubes in vivo and invitro.
VIII. International Symposium on Sexual Reproduction in Seed Plants, Ferns and Mosses.
   会議前にノールウエイのノルカップ、ハメルフェスト、ナヴィックからスウェーデンに入り、ストックホルム(Rowley の家に3泊、ヨットでバルチッ ク海をクルージング。船で2つの湖を抜け、イヨテボルグへ、デンマークコペンハーゲンに泊まり、チポリ公園へ。此処より列車でオランダワーヘニンヘンへ。
7.ヨーク、英国。1985年7月
Miki-Hirosige,H.& S. Nakamura
Coated vesicles and cell wall formationin the developing lily pollen.
3rd International Meeting on Botanical microscopy.
  上見浩介、中村澄夫とともにスコットランド旅行
8.京都、日本。第11回国際電子顕微鏡学会 1986年 8月31日―9月7日
Miki-Hirosige,H.,I.Hoek& S.Nakamura
Fine structural study on the two kinds ofsecretive tissues.
XI. International Congress on Electron Microscopy.
  母を会場へ連れてきて、学会を見せた。
9.ベルリン、西ドイツ。1987年7月24-Aug. 1
Miki-Hirosige,H. & S. Nakamura
Secretion from the pistil of Lilium longiflorum.     XIV. International Botanical Congress.
会議前、ギリシャクレタ島、会議後、スイスのアルプスを植物探索。  
10.  シエナ、イタリア。1988 June
Miki-Hirosige,H., S.Nakamura,T.Takahashi& T.Tanaka
Ultrastructural observation on isolatingand culturing protoplasts of lily pollen.
10th International Symposium on Sexual Reproduction in higher Plants.
少し滞在して実験をするが、あまり効果なし。ボロ−ニャ、サンマリーノ。
11.  ヨーク、英国 1989 July アイルランド旅行
Miki-Hirosige H. & Nakamura S.
Adistribution pattern of plasmodesmata on the secretive cells in a Lilypistil.
リバプールからダブリンへフェリ−でわたり、ゴーウェイ、リメリックを歩く。
12.  レニングラード、ソビエト連邦.  1990 July 3-7th
13.コモ、イタリア,1991 June 23-27
International Symposium on “Angiosperm pollen and ovules, basic and applied aspect”
Miki-HirosigeH & Nakamura S. ,Wtanabe M. & Hinata K.
Localizationof the proteins contained in the stigma exudates on the Lily pistiltissue.
14.世界一周.1991
15.コロンブス、オハイオ、アメリカ 1992 July
Miki-Hirosige H. & Nakamura S.
Immunocytochemicallocalization of the allergenic protein in the pollen of Cryptomeria Japonica.
16. 横浜日本 国際植物学会 1993  August 28---September3
Nakamura S. Miki-Hirosige H. ,Yasueda H., Shida T. &Takahashi Y.
Immuno cytochemmical localization of theallergenic proteins in the pollen of Cryptomeria Japonica.
Miki-Hirosige,H. ,Kurata S.,Okuyama T. & Nakamura S.
Changes of specific proteins in extracts from the developing pollen grains ofLilium longiflorum.
ポストコングレスツアーでタイへ。探鳥をする。
17.ウイーン、オーストリア  1994  July 10-14
Miki-Hirosige H.,Kurata S.Okuyama Y. & Nakamura S.
Changes of specific proteinsin extracts from the developing pollen grains of Lilium longiflorum.
林千寿子さんとザルツカマングートザルツブルグ、ノイシュバンシュタイン城を巡る。