(二〇〇一年 第二六回 韓国小説文学賞受賞作品)
私が暮らしていた家
殷熙耕
(辻本武 訳)
出張
今日最後のニュースが終わった後、彼女はリモコンを押してテレビを消した。その時最初の電話のベルが鳴った。彼女は壁時計を一度見上げてから電話を取ったが、すぐに切った。短い通話だった。ゆっくり服を脱いで浴室に入っていく彼女の表情は、少し疲れて見えた。
シャワーをしている間にまたベルが鳴ったが、彼女は今度は電話を取らなかった。電話のベルは浴室を出て身体を拭いている時、そしてバスローブガウンの紐を結ぶ背中の後ろの方でさらに二回鳴った。最後のベルが鳴った時、ようやく彼女は電話の方にゆっくりと体を向けた。
「もしもし」
彼女の声は低めであった。そしてその次の言葉は、
「いや、そんなことしないで。」
だった。頭を少し振ったので、長い髪の毛をつたって水しずくが流れ落ち、肩の上にぽとぽと落ちた。彼女は片手で髪の毛を掻き上げながら、同じ言葉を繰り返した。
「いや、そんなことしないで。」
このわずかな言葉だけ残して受話器を置き、コードを抜いた。
いつもと違って眠れない夜だった。娘が飼っているハムスター二匹が休む間もなく回し車を回していた。子供を孕んだメスがオスよりも活発なように見えた。彼女は冷蔵庫からチシャの葉っぱを取り出してハムスターのケージに入れて置いてから、ベランダに出てタバコを吸った。向かい側のアパートの棟では、明かりの付いている窓が五つあった。起きている人の影が見え隠れするところもあった。風が少し吹いており、ある車一台が駐車する場所を探せずに、花壇の周りを行ったり来たりして回っていた。
深夜の三時過ぎに彼女はストレートでウィスキー三杯をたて続けに飲んで、ようやく眠りにつくことができた。夢うつつに誰かが呼ぶ声を聞いたような気がしたが、起きることはなかった。
目が覚めたのは六時ちょっと過ぎだった。旅行カバンに服を何着かと洗面道具、室内用スリッパを入れておいてから顔を洗い、化粧をした。娘の部屋に目覚ましアラームに合わせておいたブリトニー・スピアーズの「ベイビー・ワン・モア・タイム」が聞こえてきたので、七時になったことを知った。中学生になってから娘は、うるさい目覚ましの音で無理やり朝が始まるのは嫌だと言っていた。
飛行機の出発時間は九時三〇分であった。彼女は七時三〇分にタクシーを呼んだ。
タクシーが着いたという電話を受けて玄関を出ようとしたその時、トイレから娘の声が聞こえてきた。
「オンマ、ちょっと待って‥‥」
今さっき腰を落として履いたばかりの靴の留め金を外しながら彼女は苦虫を潰した。トイレのドアの向こうで娘が赤黒い血の跡がまだらに着いたパンティを脱いでボーっとした表情で立っていた。最初の生理が始まったのだった。
彼女は焦った。タクシーに乗ろうと急ぎ足で歩く彼女は、マンションの入り口で危うく滑って転ぶところだった。マンションの一階の家の花壇の垣根から伸び出して何日間か綺麗に咲いていたバラの蔓がどういう訳か半分以上が折られていて、赤いバラの花房が地面のあちこちに無造作に散らばり、彼女の靴がそのバラを踏んだのだった。
新都市を抜け出たタクシーは自由路に入っていくらも経たずに足止めされた。道路の上でぎっしりと並んだ自動車の行列は、終わりが見えないほどに続いていた。悪態をついてぶつぶつ独り言を言っていた運転手が無線のレシーバーを耳に挿したまま、癇癪の混ざった声で言った。
「事故らしい。どこかの奴が選りに選ってこの忙しい朝の通勤時間に事故を起こしたんだ。」
彼女は腕時計を見た。出張先ですでに会合の約束をしている現地の出版社と彼女の案内を待っているブックフェア訪問団を思い浮かべた。もし飛行機に乗り遅れたら、出張のたびに滞在費なしで航空運賃とホテル代だけ出して恩着せがましく言う若社長は、始末書を要求するだろう。彼女は契約職である上に年も取っていた。車に乗っていた人たちはみんな、事故を起こしたどこの誰だか分からない運転手を非難していた。彼女も事故現場の方を苛立った目で眺めていた。赤い雲が低く垂れ込み、空は美しかった。三〇分過ぎても渋滞は解消しなかった。
彼女は空港に到着するや走らねばならなかった。一行は出国ゲートの前でやきもきしながら彼女を待っていた。
彼女の座席はサングラスを鉢巻きのように額の上にかけた若い女の横であった。自分を児童出版物のデザイナーだと紹介した後、女が尋ねた。
「エージェンシーの仕事をなさっているのなら図書展にしょっちゅう出席なさっているでしょう?」
「はい、四・五回出ましたよ。」
「結婚しておられるのですか?」
「いいえ、一人で娘を育てています。」
女はちょっと面食らった表情をして、直ぐに窓の外に視線を変えた。彼女は相手を困らせる気持ちはなかったのだが、自分が未婚の母という事実をごまかして言いたくなかった。
彼女と一行はフランクフルトで飛行機を乗り換え、ボローニャへ向かった。
ホテルに到着した時は遅い午後だった。一行は荷物を解いた後、すぐに市街地を見学しに出かけると言った。十六時間の飛行で非常に疲れていた彼女は部屋で休むことにした。
ホテルの部屋は狭く古くさかったが、きれいであった。まずは旅行カバンの中から洗面道具と化粧品を取り出した後、服を脱いで浴室に入った。歯磨きをしていて、思わず腕が胸の乳房を触れた時だったか。何か冷たいものが触ったと感じた。手首を胸の方まで持っていって当ててみたら、その冷たいものは乳首だった。一方の手に歯ブラシを持って歯磨き粉の泡を口にしたまま、彼女は鏡に映る自分の乳首をまじまじと見つめていた。
新しい下着に着替えた彼女は自分のスリッパを取り出して履き、きれいに手入れされたシーツの上で横になった。枕元で斜めに背をもたれかけた。どこかの部屋から微かに水の音が聞こえるだけで、異国の小さなホテルは違う世界のように静かであった。彼女は天井の小さな染みを何も考えずに見上げていた。旅に出たと感じるのはそんな空間だけではなかった。彼女に押し付けられている感情と責務そして自分の人生を支配していた肉体の欲望、そのような束縛から抜け出したのだという気分であった。
彼女は身体を起こして、ホテルのフロントで貰った葉書を取り出して書き始めた。初めは軽く消息を伝えるぐらいの気持ちだった。しかし段々と書くことに熱中していって、後で考えるとただこの一枚の葉書を書くだけのためにボローニャまで来たのではないかと思える程に真剣になった。だが彼女は唐突にその葉書を破り捨てた。そして再度書いた葉書は、大変簡略であった。それをテーブルの上に置いたまま、彼女はカーテンが下ろされた窓を長い間黙って見つめていた。
五日間の出張を終えて彼女は帰ってきた。
娘の生理が終わっていて、娘はその間にブリトゥニ・スピアスの二枚目のCDを買ったのだが、最初のアルバムにあったような清純な趣はなくなっており、大したものではなかったと言った。週末の晩は熱がいっぱい出たのに、面倒を見に来てくれたお祖母ちゃんが外出して夜遅く帰ってきたせいで、夜の一二時まで一人横になっていたと不平を言った。またハムスターが赤ちゃんを産んだのに、みんな食べてしまったとも言った。ハムスターのケージは娘がベランダに出していた。相変わらずメスとオスが一緒に回し車を回しているだけで、そんな不幸な出来事は何も起きなかったようだし、不満足なことがあるようにも思えなかった。彼女は旅行カバンを解いて整理してから服を着替えた。ネックレスを外そうとしたら、その時になって首が何か寂しいことを知った。留め金の輪が緩くなったのを直そうと思っていたのだが、後回しにしているうちに結局は失くしてしまったのだった。
交通麻痺
次の日なのか、その次の日なのか、Aから電話がかかってきた。彼が亡くなって一週間ぐらいになるという消息を伝えてきた。ハンドルがあばら骨に深く刺さったために、遺体は幾つかに切り分けて取り出さねばならず、事故は明け方に起きて現場収拾に非常に時間がかかったので、通勤ラッシュ時の交通が完全に麻痺してしまったとのことだった。
ハムスター
娘はハムスターを覗き込もうともしなかった。
「何で自分の赤ちゃんを食べることができるの? ふてぶてしくて、むごたらしい。」
と言って興奮していた。有給休暇を取って家で休んでいた彼女は読んでいた本を閉じた。一日中本を手に取っていたのだが、実は何を読んでいたのか何も思い出せなかった。ほとんど何も食べなかった上に、この何日かは酒の力で寝てきたからか、彼女の顔は目に見えて痩せこけていた。彼女が娘に言った。
―お前の間違いもあるよ。
―何で?
―赤ちゃんを産んだら、お母さんハムスターは神経質的で敏感になる。誰かが覗き込んでばかりしていると、赤ちゃんを噛んでしまうというよ。
―だからケージの天井を新聞紙でかぶせてあげたのよ。
―赤ちゃんを見たいと、お前は何遍も覗き込んでいたってね。
―そうだからといって、どうして自分の赤ちゃんを食べるのよ。チッ! おいしかったのかな?
―栄養で食べたのじゃないんだから。そのようなことは本能だよ。
―母親が赤ちゃんを殺すのが、何で本能なの?
娘の大きく見開いた目の中に不信と敵対感がよぎった。
―犬も同じだよ。産まれたばかりの赤ちゃんを人間が触ると、その赤ちゃんを噛んで殺すよ。自分の乳が八つしかないので、赤ちゃんを九匹産んだ時、一匹は噛んで殺して‥
―そうだから何だというの?
娘は鼻でせせら笑った。彼女は自分の神経がハムスターの母親のように段々と鋭敏になっていくように感じて、両手で自分のこめかみをぐっと押さえた。
―ちゃんと生きられないようなら、むしろ殺してやるのが動物の母性というものなのよ。育てるのが難しくて、普通に生きさせることが到底できないので、赤ちゃんを殺すということよ。
―それこそ、母親というものが考えることなんだ。
娘は自分の意見を曲げずに責めるような口ぶりで返事した。娘のやせた頬の上の方に青筋が立っているのが見えた。
―もしかして知ってる?その赤ちゃんたちは、そうであっても生きていきたかったの。いくら母親だといっても、死んだり生きたりの問題を母親一人で勝手に決めるのは不公平じゃないの?
―赤ちゃんが世の中のこと、何が分かるというの?
―どうして分からないと考えるの?他のことでもなく、自分の命に関わることなのに?
彼女はこめかみから手を離して冷静に言った。
―生きることが死ぬことより全部がいい、ということはないのよ。生きることも辛いことなのよ。
―そんなこと、うちも知ってる。
娘の鼻筋がすぐに赤くなった。
―おばあちゃんが言ってたんだけど、オンマがおっぱいをくれなくて、うちは時々おばあちゃんのおっぱいを口にくわえて寝たんだって?
彼女がまだ答えてもいないのに、娘の大きな目から涙がぽろぽろ流れ出た。
―うちはいつも体が弱くて、勉強もできず、大きくなってもちゃんと生きれないようだし、きっとオンマもうちが死んでしまえばいいと思っているんでしょう? オンマはうちが厄介なんでしょう? 全部分かってるんよ。オンマにはオンマの人生だけが大切なのよ!
娘が自分の部屋に行ってしまった後、彼女はタバコに火を付けた。そのタバコが指のなかで燃え尽きる間、もう一つの手は額に当てていた。彼女はソファから立ち上がり、すぐにハムスターを車に乗せてペットショップに持って行き、引き取ってもらった。
「ハムスターが本当に赤ちゃんを食べるのですか?」
彼女の問いにペットショップの店長は曖昧にうなづいた。
「実際に見たのではありませんが、おそらくそうでしょう。」
彼女は店長に怒った。
「それを知っていたら最初から飼わなかったのよ!」
自由路に入った彼女は臨津閣まで猛スピードで車を走らせた。頭痛は容易に消えなかった。戻って来る道では坡州の方の国道に曲がって入った。軍の基地の前を通り過ぎるや、ポプラの林の後ろの方にぽつりぽつりと墓が見えた。その前を過ぎる時、彼女はアクセルを力いっぱい踏んだ。彼女の額に汗が滲んでた。四月というには余りに暑い天気だった。携帯電話を取り出して家にかけてみたが、娘は出て来なかった。
娘は帝王切開で産まれた。予定日より二週間くらい前に赤ちゃんが逆子になってしまったからだった。赤ちゃんの面倒をみるために、地方で一人暮らす彼女の母親が上京し、彼女の家に泊まった。彼女は赤ちゃんより何日間か遅れて退院した。彼女の乳房はいっぱいに膨らみ、ブラジャ―を外すと乳首から母乳がたらたらと流れ出し、目も開けていない赤ちゃんは乳首が口に当たると直ぐにあたふたと吸い始めた。彼女の母親が深く溜息をついて言った。
「うちの乳はどんなに口に当ててやっても、舌で押し返してばかりだったよ。乳が冷たかったからだろう。乳首が冷たくなったら、女として終わったということだね。」
彼女の初めての生理だった日も母親の溜息を聞いた。
「きちんと始末しなくてはダメだ。汚いものを流しながら歩き回らないように。」
と言いながらナプキンを準備してくれた後、母親は独り言を言った。
「あの子ももうすぐ男と寝るんだろうね。」
父親は母親が残りの人生を、ずうっと噛みしめても十分なくらいの幸福の記憶を残した。そして、そんな暮らしをしても生計に支障がないぐらいの十分な遺産まで一緒に残してくれた。父親の望み通りに、母親は今も父親が愛していた時のままに美しくロマンティックだった。それは廃棄された温室の中で、一人何も分からずにいる草花と同じ存在だった。母親の自己中心の性格もまた全く変わらなかった。
彼女は娘を産んだ時、長い麻酔から覚めた後に全身が縛られたような無気力感を体験した。全身が過酷な取り扱いを受けた生産機械になったように感じた。彼女の母親は病院側が設置するカメラを通して手術を見守ったと言ってくれた。まず最初に、山のように膨らんだ彼女のお腹を一回、また一回と続けざまにメスで切り、ついに内臓が見え始めたら胃なのか腸なのか分からないものを一つずつ取り出して、調理台のような器具の上にうず高く積み上げておいて、全身血だらけの一人の赤ちゃんを取り出してからまた次々と元に入れ、切開した時とは逆の順序で一つずつ縫い合わせていったという。彼女にとって娘の生理はセックスの知らせではない。出産に対する苦痛の憎悪と、その出産によって生涯自分とは平行線を描きながらも繋がるもう一つの命を迎えるようになった娘の運命に対する、やはり苦痛の愛情であった。
彼女が玄関の中に入ると、娘が部屋のドアを開けていた。ハムスターが気になるようだったが聞くことはなかった。
―何で電話に出なかったの。何を食べたいのか聞いてみてから、ちょっと買い物しようと思ったのに。
―ご飯はさっき食べた。三分カレ―を温めて。
部屋に戻ろうとする娘の背中に手を当てて、彼女は話しかけた。
―おばあちゃんが来てくれた時、お前、生理が始まったと言ったの?
―うん。それでさあ。おばあちゃんもまた生理なんだって。
―何?
―骨多孔症のためにホルモン注射をずうっと打っていたら、そのようになったんだって。おっぱいも硬くなったとうちに触ってみろと言ってたよ。
彼女はテ―ブルの上に車のキ―とハンドバックを神経質的に放り投げてソファにどかっと座り、タバコを取り出した。娘はその反応にもう十分だと言うかのように、眉を一度つりあげて部屋の中に入って行った。
タバコの煙をゆっくり吐き出しながら彼女は考えた。
―とにかく葉書を探さなくては。
電話の通話
郵便局に電話をかけた。
「イタリアから送った葉書が到着するには何日ぐらいかかりますか?」
「正確には分かりません。ふつう一〇日から半月ぐらいかかると見なければなりません。」
郵便局員は親切だった。
「そこから出した葉書がまだ到着していないようなんですが。私?あ、私‥‥」
「もう少し待ってみてください。きっと来ると思います。」
「そうですね。ありがとうございます。」
再びAの電話番号を押した。Aは葬式の情報を詳細に伝えてくれた。
「記者室はもちろんのこと、報道局全体が衝撃だったよ。奥さんがうちの放送のレポ―タ―なんだが、お前、その女の顔を見たことがあるか?」
「いいえ。」
彼女はウソをついた。
「子供が出来なかったこと以外には、特に問題なく仲良く暮らしていたみたいだ。」
彼女は何とかAの言葉を遮って要件を話した。Aは聞いてすぐに理解したようだった。
「分かった。死んだ人に来る郵便物を総務部でどのように処理するのかよく知らないが、とにかく調べてみるよ。」
「ありがとう。見つかれば連絡してくださいね。」
しかしAは電話をすぐに切らなかった。
「そうしたらお前、その人が結婚してからもずっと会っていたんだなあ。そうでなくても気にかかっていたんだ。締切が済んで一杯やる時はそうなるものなんだが、その時はいつもよりも底なしに飲んだというよ。それからハンドルを握ったのだから、本人もまさか生きることを望んでいたのか?何か悩み事があったのではないのかとひそひそ話している雰囲気だったね。それにその明け方になぜ事故現場が自分の家と反対方向だったのかと。」
Aは葉書についてもまた尋ねた。
「人が見たら困る内容なのか?」
「いいや。そんなことはないけど、何となく。」
彼女は言葉尻を濁した。
「何となく?う―ん、もう死んだ後に送った葉書なのだから、何というか、無用じゃないかと。」
Aが呆れたように答えた。
「お前、確かめているのか?死んだ人に。この状況で何が有用で何が無用なのか、それにそこまでやるとは、今になって何か問題なのか。本当にひどいよ。お前たち、二人。他の人と結婚しても関係が終わらず、今度は一方が死んだのに、それでもまだ終わっていないのか?」
退勤する時間に彼女の母親から電話がかかってきた。
「どういうわけか、寂しくて元気が出てこないのよ。」
「何か用事あるの?」
彼女は声に心配の気持ちを込めたつもりなのだが、ちょっと無愛想だったかも知れない。助けてあげるほどの暮らし向きではなかったが、むしろ他の母親のようにお金の問題や健康の問題で切々と訴えてくれる方が、一人しかいない子供としての務めがどれほど楽か分からないと思った。しかし母親の関心はそこにはなく、浪漫的であった。
「それはないのだが、季節の変わり目だからなのか、ちょっと憂鬱なの。庭のサツキも全部しおれてしまったの。花が来年もまた咲くんだろうね。わたしゃ来年まで生きてまた花をみるという保証がどこにあるの?人が生きるのがどれほど空しいことか。」
心にもなく真実性もない言葉を敢えて口に出す母親の心の中はよく分かるのだが、彼女は我慢して母親が願う答えをした。
「今は恋愛しても格好いいって更年期クリニックで言われたんだってね。」
「みんな耳触りのよいことばかり言ってるだけだよ。」
母親の言葉にはまるで元気がなかった。
「近頃は晩に寝てもしょっちゅう目が覚める。」
「だからこちらに来てくださいと言ったでしょう。孫娘を育てる楽しみもあるし、一人暮らすよりもずっといいよ。」
「そんなこと、嫌だ。」
「そうしたら、おばあちゃん、完全にお仕舞になるのよ。」
不安で押さえていた彼女の声が投げやりになっていった。
「年を取れば年に合うように老けるのもいいんよ。傍から見ても、それって気楽に見えるし。」
「それ、どういうこと?お前の目には、壁に糞を塗りつけるのが私の年に合うということなのか?」
彼女は癇癪を起した。
「そんなこじつけ話は止めてよ。それから子供に何の話をしたのよ?いつオンマがあの子に乳をやったと。」
母親も負けずに答えた。
「子供の心をなだめようとしたら、そんなこと言うこともあるだろう。何でそんなに癇癪を起すの?お前、ともかく少し気を使ってやらないと。お前に愛人がいると子供が不安そうに言っているのを知っているのか?」
「大体、何が不安だというの?私はあの子のオンマなのよ。」
「その男とは結婚するのか?」
「もう、どうか止めてよ。」
彼女は電話を切った。
すぐにまた電話のベルが鳴ったので、怒った母親がまたかけてきたと思った。しかしボロ―ニャへ一緒に行った一行の一人であった。土曜日に打ち上げパーティをすることにしたので、各自自分のカメラで撮った他の人の写真を交換しようと言った。カメラを持って行かなかった彼女は渡す写真がなかったが、分かったと答えた。
夏服
彼女はAの言ったことについて考えてみた。
―他の人と結婚しても関係が終わらず、今は一方が死んだのに、それでもまだ終わっていないのか?
「終わった」というのは、どの時点をいうのか。もう会わないと別れた時なのか。それとも他人と結婚した時?長く時間が経って互いの記憶が希薄になった時?一人が死んだ時なのか?
二年前、彼は一言もなく彼女のもとを去った。彼の現在の死の知らせがそうだったように、二年前の彼の突然の結婚の消息を伝えてくれたのもAだった。その時、やはり出張から帰って来る道で、遅い夜だった。Aとの通話が終わるや彼女は何か急な約束でもあるかように車に乗り、夜の通りに出た。夢中で自由路を走り、新村まで行った。
交差点の角にある五階建て建物の看板は電気が明るく点いていた。彼女の失くしてしまったイアリングの片方を探すために、彼がベッドのマットレスをひっくり返したモーテルだった。彼が的のど真ん中を全て当てて人形を獲得したダートのゲーム場と、いきなり降ってきた雨の中を走って飛び込んで傘を買ったコンビニの前をゆっくり通り過ぎた彼女は、大学街の方へハンドルを切った。揺れブランコのある飲み屋やマグカップをくれた紅茶喫茶が目に入ってきた。彼が電話で今日最後のニュースを読んでいたカラオケ店の入り口には、相変わらず‘最新曲完備、店主 白’という下手な手書きの紙が貼られていた。臭気の漂う地下のカラオケ店はいつも閑散としていたが、その日も客は彼と彼女だけであった。急に生中継報道をしろという電話連絡を受けて、彼は大したことはないからと答えた。
「分かったよ。ここでやる。画面なしで、オーディオだけで行くよ。」
そう言って、カラオケ店の主人にお願いして音楽は全て消した後、電話に口を当ててニュースを読んだ。
「以上、現場から金フニプでした。」
という言葉を終わりにして電話を切ってから、またマイクを持って「別れというのは、ないもだ」を歌い始めた。
彼女は、彼がいつも車を止めていた路地の階段の下に駐車した。階段を上って行けば、ワンルーム住宅の向こう側で彼と口づけをした大きなケヤキの木陰があった。明かりのほとんどない暗い路地だった。風が吹いて黒い枝の先の葉っぱが身体をかき回した。
彼が去ってから彼女は新しい服を一着も買わなかった。ある日の夜遅く、タンスを整理して彼とデートする時に着ていた服を別に分類した。それらの服のなかには彼が見ただけのものもあったが、大部分は彼の手によって脱がされた服だった。服の中に顔をうずめてみると、彼の匂いがした。彼女は手帳をめくった。日付の上に赤い丸でたくさんのまだら模様になっている手帳だった。彼女は彼とデートした日だけを手帳から選び出して、別のカレンダーを作った。彼との約束は全て覚えていた。その記憶のままに印を入れ、日付の横の欄にデートした場所とその時着ていた服を、下着まで全て書いてみた。
仕事のためであれ友人と会うためであれ、全ての約束の場所はできるだけ彼の会社の近所と決めていた。会えるだろうという期待ではなかったが、彼が近くにいるという思いが彼女を安心させた。新聞を読む時も放送記者と関連する記事であれば体育大会や受賞の消息、訃報のような短信にまで関心を寄せた。些細な質問や頼み事を口実にして彼の周辺の人たちに電話をかけたりもした。彼と彼女の関係を知る人は多くなかったので、彼に関連する話をすることはほとんどなかった。それでも敢えて彼の話が出てくるように話題を誘導し、彼の名前が自分の耳に聞こえてくることだけでも慰めになった。
週末になって彼女は彼と一緒に遊んだことのある近郊の遊園地に行ってみた。昨秋に黄金色に輝いていた大きな銀杏の枝には、初夏の葉っぱだけが茂っていた。彼は兄の話をしていた。
「兄は勉強がよくできたのだが、僕はできなかったんだ。試験でミスをすれば家から追い出されるほどだった。悪い頭でいきなり優等生になる訳がなく、勉強のできる奴を脅して本当にカンニングして大学に行ったんだ。お金をせびろうと家ではウソばかり言って。正直言って、お前にもウソをかなりついたものだった。」
彼女は答えた。
「分かっているよ。今まで言ってきた女の話からが、みんなホラじゃないの。あ、それでもアルゼンチンに移民する女学生の話は本当ということね。」
「きちきちのジーパンをはいて階段を登ったら、ジーパンが破れたという女の子?そう、僕が糸と針を買ってズボンの股を縫ってやった後、親しくなったということだったなあ。僕の本当の初恋だ。本当だよ。パンティまで縫ってしまったんだから。」
「華陽洞に遊びに行って出会ったと言っていたフランス人形の話も作り話でしょ?」
「あいつ、ほんとに可愛かった。名前がト・グムボンだったように思う。僕の科のイベントにもやって来た。‘哲学科だから変人ばかりだと思っていたけどみんなコメディアンなんだ’とか言って面白がっていたねえ。」
「あんた、新聞放送科だと言っていたけど、いつまた哲学科に行ったの?」
「短大から編入する時に科を変えたんだけど、言わなかったか?」
「短大?名門大学の科で首席を取ったから故郷の地方新聞に写真が載って、村の入り口の掲示板にまで貼り出されたと言ってたのに‥‥あんたの言うこと、どこまで信じれるの?」
「分かんない。口から出てくるままにしゃべっていると全部話になるんだけど、僕は一体どうしようか。」
「そういう風に言えば、少しは正直者に見えるでしょ。」
彼女は皮肉を言ったが、彼は聞いたのか聞いてないのか、ずっと口笛を吹いていた。
その何日か後、天気がすっかり曇った冬であった。彼から電話がかかってきた。
「気象庁に聞いてみると、今大田で雪が降ってるって。早く行って雪を見よう。それから晩には春川に雪雲が移動するというから、そこで泊まればいい。」
彼の言うとおり、その日の大田では夜まで雪がしんしんと降りしきった。上り車線の車はみんなのろのろと這うように走っていた。彼がある国道の休憩所の前に車を止めてコ―ヒ―と夕刊を買いに走ったわずかな時間でも、彼の頭と眉には白い雪が積もった。新聞を広げた彼の顔が急に明るくなった。
「これ、ちょっと見て。」
彼が指し示す人事欄には上級公務員の何人かの昇進消息が載っていた。
「ヒョンだ。」
彼女は彼を訝しい目で眺めた。
「お兄さんの消息が新聞を見ないと分からないの?」
「なにしろ忙しいんだから。ヒョンは故郷で五〇年ぶりに輩出した考試(上級国家公務員試験)合格者なんだ。」
さらに彼はおしゃべりを続けた。
「もちろん僕も四十九年ぶりに出た記者だけど。」
彼は隔週に発刊される地方新聞の社会部で特ダネを何回か取ったおかげで中央の日刊紙にスカウトされ、いわゆる‘サツ回り’をやると直ぐに放送局に席を移した。記者という仕事が偶然にも彼の中学・高校時代にさせられていた使い走りと似ていて、足で稼ぐというのが彼の主張する出世の秘訣であった。ともかく彼女が知るところでも、彼は自分の故郷の村の二〇〇里(一〇qほど)四方からの頼み事を聞いてやろうといつも足を運んでいた。
雪がずうっと降りしきり、渋滞がなかなか解消しなかった。彼女は彼の車のカセットデッキに入っていた歌を三回もリバースせねばならなかった。みんな初めて聞く曲で、今一つの歌ばかりだった。
「何の歌なの?」
「僕が作曲して歌ったものだよ。」
「私、持って行っていい?」
「そんなものでもよければ。」
そのテープには題名が書き並べている白いラベルが付いていた。彼女が一番目の曲の題名を読んだ。
「<休暇>?」
「うん。」
彼がうなずいた。
「いつも言っていたじゃない。お前に会っている時は僕の人生の休暇のようだと。」
市民公園の砂場を歩きながら時々二人は口喧嘩をしたものだった。彼が言った。
「何故駄目だとばかり考えるの?お前は余りに保守的だよ。」
彼女も彼を非難した。
「そう言うあんたがひどく衝動的でおセンチなんよ。」
彼が声を張り上げた。
「お前と一緒に息苦しく生きるぐらいなら、共同墓地に入るのが一番気楽だよ。」
彼女の声は冷たかった。
「私に対しては衝動的な行動をしたことがなかったと言ってるの?確かに私が見間違ったのかも知れない。あんたのような出世主義者がどうして衝動的になれるのよ。あんたは単におセンチという野暮ったい性格を持ってるだけよ。」
彼は歩みを止めた。
「そうだよ。お前が見間違ったんだ。それは衝動じゃなく推進力というのだよ。それにセンチメンタルではなく純情というものさ。」
彼女は目をキッと開いて言い捨てた。
「私にタメ口使わないで。五歳も年下なのに!」
それまでのすべての記憶がビデオテープのように彼女の頭の中で巻き戻され、再生されるのが繰り返された。
彼女は彼の出るテレビ番組を見た。時折彼の姿が細切れに登場した。彼女は彼が新しいネクタイを買って、頭を短く切ったのを知った。彼女が状況変化に適応できずにいたのは、別れというよりも彼が一言もなく去ってしまったことによる感情の動転であったかも知れない。
ある日彼女は事務室の本棚の一番目の棚に、あるヨーロッパ人作家が書いた本を入れようとした時のことである。すぐ横の本棚に全く同じ本が目に入ってきた。
「同じ本を二冊も買ったみたい。そういうこともあるだろう。」
彼女はその作家の方のエージェントに送る契約書を作成し始めた。少し経ってから、名前の綴りを確認するために再び本棚に近寄った彼女が発見したのは、一番目でも二番目でもない、また違う本棚にあった本であった。その日の晩に帰宅した彼女はウールの毛布を被ったまま汗をかいて寝入っている娘を見た。娘の前髪は伸びるだけ伸びて目を覆い、頬まで伸びていた。毛布の外に出ている十本の指の爪はもちろんのこと、その下の柔らかい肉まで噛んでいたのか、第二関節まで皮膚が赤く剝けていた。彼女は浴室に入って洗面台で手を洗い、歯磨きをし始めた。片手に歯ブラシを持って歯磨きの泡を口に含んだまま、しばらくの間鏡に映った自分をまじまじと見入った。彼女は翌日から休暇を取り、ひどく寝込んで体重を三s減らし、また出勤した。その間に季節が変わり、彼とのデート用の服はもはや着ることはなかった。彼とは秋、冬、そして春の季節にデートした。彼とは夏を一緒に過ごすことはなかった。彼女が新しく買った袖なしの夏服を着てまた出勤した日、本格的な夏が始まった。
何か月か過ぎてから、彼から電話がかかってきた時、彼女はもはや動揺しなかった。
「僕、結婚したんだ。」
彼が言って彼女は
「知っているわよ。」
と淡々と答えた。
「今日、会おうか?」
彼が聞くや彼女はちょっと笑ったようだった。
「僕も結婚したんだから、お前みたいに家族がいるということさ。同等の条件を望んでいたじゃないの。」
彼女は心の底から呆れてしまい、ちょっと笑って電話を切った。
―その女の顔、見たことあるか?
その女の顔を結婚写真のなかで見たと言えば、Aは彼女の図々しさを非難するだろう。
彼が結婚してから最初に再会したのは、川が見下ろせる六階のカフェーであった。かつて彼女はそのような偶然を待ち焦がれたことがあったが、世の中に偶然などはなかった。偶然というのは、何の準備もない時に本当に意外なことで来るものであり、そうでなければ演出だけであった。彼から酒が少し匂った。
「僕、今日お前の会社の近くにある飲み屋だけで三〇軒も探し回ったんだぞ。」
彼女は彼の車に乗った。車はすぐに階段の下にある空き地に止まった。彼が先に行って彼女は何歩か後ろに下がり、二人は一言もしゃべらずにケヤキの木に向かって一段一段上って行った。晩秋の夜、木の枝の間を吹き抜ける風の音が非常に冷たく激しかった。
「ヒョンが死んだ。」
彼は彼女の肩に顔をもたれかけて、ちょっと泣いた。そして彼の車が街灯の並ぶ河岸道路を走り始め、それから彼女は彼の後について彼のアパートに入った。彼がビールを買いに出かけた間に、家に一人残って大きく引き伸ばされた彼の結婚写真をゆっくり鑑賞した。壁に掛けられた写真の額は五枚もあった。
彼が戻ってきて、食卓の上に缶ビールを取り出して置き、カーテンを引き、電話のコードを抜く間に彼女は彼の妻のシャワーキャップを使ってシャワーを浴びた。彼の妻はラベンダーの香りがするシャワーバスとオイルを使うようだった。ボディローションはエスティロダーのパーフューム製品であった。彼女はそれらを身体に塗った。ピンク色のバスロ―ブガウンは彼女にはちょっと大きく、首周りには垢が付いていたので着なかった。
浴室から出た彼女は、彼が待っている食卓に行って座った。室内の明りはみんな消えていた。彼が彼女に手を伸ばして顔を撫でた。指はまるで燃えているように熱く、少し震えていた。薄いカーテンの後ろから月の光がかすかに差し込んで、彼の背後にある写真の額は五枚すべてが裏返っているのが目に入った。
「愛しているよ。」
暗い中で彼がささやいた。彼女は同じように彼に数知れず愛していると言葉で言ってきたのだが、自分が彼を愛していると思ってみたことは一度もなかった。愛しているという言葉には、ある一瞬の間‘お前を違う人生に連れて行ってやろう’だとか、‘お前はこれまでの自分とは違う人間なんだ’という意味が含まれており、それで十分だった。
リンゴ
9時のニュースが終わった後、彼女はふとリンゴを食べたくなった。冷蔵庫を開けてみるとオレンジが二個だけあった。
娘を呼んだ。以前には、娘は彼女と一緒に夜の外出に出掛けるのを好んでいた。MP3プレーヤーのイアホンをつけて部屋から出てくる娘に彼女は尋ねた。
―リンゴを買いにスーパーに行かない?
―リンゴ、別に欲しくない。
―だったらパッピンスはどう?リンゴを買って、それからパフェ店に寄ってかき氷を食べて来ようか?
ちょっと躊躇うようだった娘は、どうでもいいやという心にもない表情でこっくりとうなずいた。
家の前の四つ角にはパフェ店が三つもできていた。競争が激しいようで、夜の10時が過ぎても音楽を大きく響かせてお客を呼び込んでいた。娘は、入り口にピンクと白の風船を組んでアーチ型に立てたパフェ店を選んだ。
―うちの友達もこの店ばかり来るんよ。子供だからと無視したりしないから。
娘の言うままに、黄色いエプロンをした若い女性店員が夜の時間にそぐわない明朗な声で「いらっしゃいませ」と、丁寧でちょっと大人びたように接客した。家を出てから娘は気分が少しほぐれた気配であった。パッピンスが出ると柄の長いスプーンでガラスのパフェグラスの中のかき氷とあずきをかき混ぜながら独り言のように口を開いた。
―うち、お尻が大きくなったみたい。
―そうかあ?
―掃除の時間にチョ―クの粉が付いて、そのままお尻をぱたぱた叩いたんだけど、お尻が揺れるじゃないの。恥ずかしかった。
スプーンに山盛りの氷を口に入れた娘は彼女が膝の上の置いたビニール袋を見た。
―オンマ、以前はリンゴ食べなかったのにね。
―私が?
―前の時も一箱全部腐らせたじゃない。
―ああ、それ‥‥。
何週間か前に彼が持ってきたリンゴだった。夜に彼女のマンションの前から電話がかかってきた。
「農水産市場の取材に行ってきたついでにリンゴ一箱買った。家の玄関ドアに置いてから帰るね。」
「それはないでしょう。私が今出掛けるところだから、私の車に載せてくれたらいいよ。」
「心配するな。家の中には入らないから。」
「私もすぐに会社にまた出かけなきゃいけないのよ。」
しかし彼は、結局はリンゴの箱を持って家の玄関ドアまで入ってきた。娘の部屋は静かだったが、娘が寝ていなかったのは漏れ聞こえる音楽で分かった。彼女はわざとリンゴの箱に手を付けないまま一週間以上もベランダに放置しておいた。
十日ぐらい過ぎてから箱を開けてみると、リンゴは半分以上傷んでいた。傷んだものを選び出しながら、彼女はリンゴがやはり自分たち同士接触しているところから傷み始めることを知った。近づいて接触するほどにたくさんの欲が出てきて、結局中から腐乱する姿が人間の執着と似ていた。茶色く傷んだ部分を抉り取ってみたが、果肉が深く抉られたリンゴはまともな姿ではなかった。彼女は病気のリンゴの集団のようになったその箱をその日のうちに外に出して捨ててしまった。
パフェ店から帰ってきた彼女と娘は皮をむいたリンゴをフォークで刺して食べながらテレビを見た。しばらく経って娘はソファにもたれて寝入った。娘の寝ている顔は、赤ちゃんだった時と同じように小さくて無防備だった。彼女は娘の髪の分け目の右側に固く留めてあったヘアピンを取ってやった後、その顔を長いこと見下ろしていた。
皿を片付けた彼女は胸がむかむかしてきたので、リンゴで胃もたれしたと思った。
ウィスキーを飲んだのだが、すぐに眠気が来ないようだった。ビデオデッキに入っていたテープを抜き出してみたら、ニューヨークへ映画の勉強に行った後輩が何カ月か前に送ってくれた映画だった。マイク・ピキス監督の「ザ ロス オフ セクシュアル イノセンス(The Loss of Sexual Innocence)」。題名だけ見ただけはどんな内容だったのか特に思い出せなかった。彼女は半分ぐらいまで回っていたテープをまたデッキに入れた。再生ボタンを押すとすぐに産まれたばかりの赤ちゃんが画面にクローズアップされた。赤ちゃんの顔は言葉に出せないほどに苦しそうだった。生まれて初めて外気のなかに出て、息を吸うために死力を尽くす赤ちゃんの手と足はまだ十分に広げることができず、ずうっとばたつかせていた。皮膚は充血し、額は歪み、唇はひん曲がっていた。この世という未知の世界に投げ出されたこの赤い生命の塊は余りにも未熟で弱々しい存在であるから、生きるということ自体が苦痛を意味した。我々はみんなそのようにして人生を始めるのだ。
ネックレス
出勤準備をしていた彼女は、ブラジャーをする時に乳首が少し黒ずんでいることに気付いた。指を当ててみると、冷たいようでもあった。
Aに電話したが、席にはいなかった。彼女は彼に送った葉書に何を書いたのか、記憶をたどってみた。とても昔の出来事みたいによく思い出せなかった。
ボローニャ一行の集いの場所は光化門のある二階の喫茶店であった。集まった人全部が女性だったが、土曜日の午後のおしゃべりは簡単に終わるようではなかった。
「顔がどうしてそんなに良くないの?」
飛行機で横の席に座っていた若いデザイナーが彼女に尋ねた。集いの連絡を受け持っていた出版社の女子職員が
「脈をちょっと取ってみましょうか。」
と言いながら彼女の腕を引き寄せた。その職員は気体操とか断食とかで持病の胃腸病を直したという話を長々と並べ立てていたのであった。彼女は特に考えもせずに腕を差し出した。
「ひどく虚弱ですよ。精気がほとんど尽きていますね。そして子宮の方に熱があるのですが、産婦人科へ一度行ってみるのがいいでしょう。生理はいつでした?」
その職員の言葉に彼女はちょっと答える言葉を探し出せず、相手の顔をまじまじと眺めた。
彼女たちは話題が生理から閉経へ、そして平均年齢へと行ったのが再びゲノム地図へ移っていった。
「まだ読み取り専用でしょう。私たちの生きている間に切り取って、くっ付けるところまで行くかもよ。」
彼女だけが面白くない顔でテーブルの上に置かれた写真に上の空で見つめていた。彼女の写真は何枚もなかった。無理やり呼ばれてカメラの前で立ったので、ぎこちなさを隠せない固い表情だった。
一番前に置かれた写真一枚だけが自然であったのは、彼女の知らない間にブックフェアブースのなかで立つ横の姿を写されたためだった。彼女はその写真を手に持って細かく見た。失くしてしまったネックレスが写真の中に写っていた。小さなオパ―ルが嵌め込まれた銀のネックレス。彼からの贈り物だった。
家に戻ってAにまた電話をかけた。Aは地方出張中だった。
タンスの引き出しからイタリアに持って行ったカバンを引っぱり出しては、その中を隅々まで探した。カバンの中には小銭が何枚かと皺になった領収書、ヘアピン一個が転がっているだけで、他に何もなかった。ネックレスはもっぱら写真の中にだけ残った。彼女に残した彼の痕跡のうちで、形のあるものは写真の中のネックレスの他にないというわけだった。
彼女は父の写真を撫でている母を時々見たことがあった。その時のように同じイメ―ジを繰り返すような、作為的で自己満足的な意識に彼女は嫌気が差していた。彼がしょっちゅう歌った「別れというのは、ないのだ」という歌も、彼女は好きではなかった。狭い空の下で共に暮らしているから、どんなに遠く離れていてもこの世に別れというものはない、という理屈に合わなくてもそういう意味に聞こえる歌詞が特に嫌いだった。しかし地球の反対側まで移民に行ったとしても、どこかに生きてさえいればその歌詞のように彼は初恋と再会の夢を持って生きることができる。死んだ人とは再会してその息遣いを聞くなんてことは決して起こり得ない。夢を見ることさえ妨げられて顧みることができない断絶。それが正に死である。
彼女は自分も分からずに下腹を撫でさすった。
リビングの飾り棚には娘の写真が入った小さな額が二つ置かれていた。彼女はそのうちの一つから写真を抜き出して、代わりにネックレスをした自分の写真を置いた。写真の中のネックレスを長い間見つめていた。オパールは彼女が唯一好きな宝石だった。海のように青く無限であった。
彼の家に掛かっていた五枚にもなる大きな結婚写真を、彼の妻はどのようにしただろうか?
墓地
彼は時々最後のニュースを終えた深夜の時間にやってきて、彼女を車に乗せて兄の墓に行った。坡州の内側へポプラ並木の道に沿って行けば、軍基地の後ろ側に生い茂る松林の間に幾つかの墓が見えた。兄の墓で彼と彼女は焼酎を分かち合って飲み、墳墓に一緒に並んでもたれかかったまま星を見ることもあった。明け方に近づく程に星の光はだんだん薄くなっていった。黒い大気が少しずつ少しずつインク色に変色すると、どこかの隅から霞んだ光が漏れ出し始め、やがて地上いっぱいに埋めていった。東の空がバラ色の光で染まるまで見たこともあった。
夜の墓場は思ったより安らかだった。夜に目を開けている鳥や虫たちの気配、遠くに明かりが一つ二つ見えた。暗い国道を、たまに自動車が過ぎていく。
彼が言った。
―死んだ人は、僕たちについて全てのことを知っているのだろうか?
―さあ、どうでしょう。
―何となく、そのような気がして。
―何で?
―何というか、超越的な存在だから。
―お兄さんの話?
―いや、オモニ。高校の時に亡くなったんだ。
初めて聞く話だった。
―オモニが亡くなった次の年に新しいお母さんがやって来たんだ。その年、オモニの誕生日を覚えているのは悪いことだったんだ。僕は家に火を付けてしまおうと石油缶を持って物置に行った。ヒョンに見つかって、死ぬほど殴られたんだけど‥‥。そんなにオモニのことを思うなら、オモニが自慢するぐらいの人間になれと説教しながら殴ったんだよ。痛かったし悔しくもあった。それでこれしきのこと、僕の人生そのように生きてやろうと決めたんだ。
―亡くなったお母さんのおかげで人間になったのね。
―お前はお父さんの思い出、全くしないね。
―いや、生きている人との関係だけでも大変なんよ。
―大変なんだから死んだ人の思い出をするものなんだ、バカ。
墓地には街灯のようなものがないために、毎晩訪れる暗闇が守っていた。時たま蛍でも飛んで来くると、暗闇のなかに隠れている光の種を集めて灯心に火を付けたかのように急に四方が明るく美しくなった。彼が彼女の腕の内側をゆっくりとさすった。
―ある時は僕が何のためにこのように生きているかと考えたりした。どう見ても、僕が夢見た人生とは距離があるんだな。それでも一生懸命に生きてきたということさ。そういうのを生存というものなのか。お前はそうじゃない?
―特にやってみたいものはないんだけど、今の自分の人生に慣れてしまっていて、自分が他のことをやりたいと思っているのかそうでないのか、よく分からない。
―お前、本当にダメなんだな。小さい時に夢のようなものはなかったの?
―なかったねえ。
―ふざけるのはよして、よく考えてみて。
―そうねえ。漫画の話を作る人?
―なぜ?
―自分の夢に理由ときっかけがあったというのは、成功した人がする話でしょう。
―それはそうだ。
―実は子供の時に子供新聞で見た純情漫画のせいなのよ。
―どんな漫画なの?
―ある子供が毎日窓辺から月に向かって祈っている。そして朝になれば花園に自分が書いた手紙を持ってきて置くのよ。その子は花園へ届けたその手紙がお母さんに渡してくれると信じているの。ところで天国で暮らしているお母さんからは返事が来なかったの。子供は月に何度も尋ねたのね。「お月様は僕の友達だから、言ってくれるでしょう?オンマは僕を忘れてしまったのじゃないのですか?」寝入った子供の頬には涙の跡で染みができたの。ある日の朝だった。子供が外に出たら、花園の真ん中から噴水が噴き上がるように、黄色い蝶々の群れが数えきれない位に、ほとばしるように飛んでいるのよ。顔を覆い、肩を覆い、足を覆い、地上全体を覆ったのよ。子供はその蝶々の群れの中に飛び入ってダンスをして喜んだわ。「オンマが返事を送ってくれた。」と声を出しながら。その晩、子供はどんなに祈っても月を見ることができなかった。月は余りにも小さくなって子供の目には見えなくなっていたということなの。お母さんの愛を確かめて幸せに寝入った子供の枕元で月がささやいた。「私の月光の鱗で蝶々を作ったために、私はこのように小さくなってしまった。この世では友達をたった一回幸せにしてあげるために、自分の大切なものを捨てる人情もあるという。しかしお前も大人になれば分かってくるだろう。幸福というのは、単に人生のたった一日であるだけだということを。」
―最後の言葉はお前が作って付けたようだが。
―そう。私、ちょっとマネしてみた。
彼女はにっこり笑った。
―大人になってからも時折その話が思い出すの。ちょっと前にその漫画を探してみようとインターネットで韓国の昔の漫画サイトを全部探しまくったのだけれど、結局探せなかった。
彼女は大人になってからも何回か花園の真ん中で蝶々が噴水のように飛び上がる夢を見たことがあると言おうとしたが止めてしまった。
―僕は歌手が夢だった。ヒョンのギターで歌を歌い、また歌を作ったりもして。その頃には僕が舞台の上できちきちの皮ズボンにキラリと光る鉢巻きをして、そしてギターを持ってぴょんぴょん飛び回りながら歌を歌う夢をしょっちゅう見ていた。
彼が腕を伸ばして彼女の頭の下に差し入れた。腕枕をしてもらうと彼女はうとうと眠気がさすようだった。彼の声が寝言のようにけだるく聞こえた。
―ひょっとしたらオモニも僕が記者のようなのではなくて、歌手になるのを願ったかもしれないと時々思うんだ。僕が本当になりたいのが何なのか、知っていただろうから。
彼女は半分ぐらい目をつぶりながら尋ねた。
―お母さんが何を知っていると思ったの?
―うん?
―死んだ人はみんな知っているなんて。あんたの心の中の何を知っているの?
彼は答えなかった。
彼女がまた口を開いた。
「なぜ私に一言も言ってくれないで結婚したのよ?」
「う―ん、それ?」
彼は西の空にある一つの星に視線を置いたまま平然として答えた。
「どうってことじゃないと思って。」
ちょっと前まで気付かなかった花の匂いが、微かに鼻先に染み入った。
―何の花かしら?
―野イバラ。
―マンションに蔓の薔薇の代わりに植えておけば、匂いがいいだろうにね。
―オモニが言っていたけど、野イバラは垣根には植えないものなんだ。もしそうしたら、怪我をするって。
彼女の頬にこぼれ落ちた髪の毛の一筋を、彼が耳の後ろにまわしてくれた。指が耳たぶをかすめた時、彼女はくすぐったくて肩をすくめた。
時間が少しずつ少しずつ、それでも随分経ったようだった。彼の声も段々しわがれていった。
―お前が漫画家になり僕が歌手になっていたら、僕たち二人何が違ってくるだろうか。
―何を言ってるの?
―何となく。また夢の話。
彼は腕枕を外して自分の頭の後ろに二本の手を回して指を組んだまま、天を仰ぎ見た。
―夢というのは本当におかしなものだ。たった一回でもいいから、きっとそうなってみたいんだよ。そのために人生が歪んで壊れるのが分かっていたとしても。辛くて面白くない時も、その夢を考えればちょっと慰められる。かなっても、かなわなくても、夢があるということは休める椅子を一つ持っているのと同じだ。
彼女は他の思い出にふけっていた。それは二人が偶然に教会に行った日のことだった。
―その教会、思い出した?
―何の教会?
―去年のクリスマスの時のこと。
二人とも非常に忙しかったので、夜の一二時近い時間になってようやく会えた。通りはごった返して騒がしかった。二人は騒々しい通りを抜け出すために、特に方向を決めることもなく、しゃにむに歩いた。そうしたら、ある一団に挟まれて丘の坂道を上っていったのだが、それは教会に行く人たちの行列だった。彼が彼女の耳にささやいた。「せっかく来たのだから、一度行ってみよう。」彼に引っ張られて、彼女は十字架の先に大きな星が飾られた教会に入った。敬虔で歓喜にあふれた聖誕礼拝の雰囲気が盛り上がるほどに、彼女は自分が教会という場所に似合わないとばかり考えて、退屈で窮屈な気持ちを我慢していた。しかしほんの一瞬、彼女は彼の方をちらっと振り向いて呆然となった。彼女の手を握っている彼の横顔は少年のように真剣であり、大切なお祈りでもしているかのように二つの目がぎゅっと閉じられていた。
かさっという音が草むらをかき分けて近づいてくるように聞こえてきて、彼女はびくっと身をすくませた。
「大丈夫だよ。ここにやってくる奴は風しかないよ。」
彼が安心させたように、果たして風の音であった。
彼が独り言をするように呟いた。
―僕たち、今ここでこのまま死のうか。
おかしなことに、彼の声が果てしなく遠いところから聞こえてきたみたいだった。
―そうでもしようか。
星に向かって目を開けて見ていたが、彼女のまぶたはやがて自然と閉じられていった。うたた寝をしたようだった。彼も声を立てなかった。彼女が小さな声で尋ねた。
―寝てた?
―うん。
また時間が流れていった。
ちょっとしてから彼が身体を起こしてタバコを探して火を付けた。また一緒に横になってタバコを分け合って吸いながら、二人は星が沈まない本当に長い夜だと思った。
海
日曜日の朝、雨が降った。雨が止むと彼女は娘と一緒に家の前にある銭湯に行った。娘は気乗りしない様子だったが、特にすることがなかったのか、サンダルを引きずってついて来た。
脱衣室の中に入るやいなや、顔に暖かい蒸気がかかった。天気がじめじめしているのでボイラーを動かしているようだが、足の裏に踏まれるリノリウムの床の感じがすっきりではなく、薄汚れた宿直室とか町はずれの旅館を連想させた。あちこちに髪の毛が散らかっていた。その脱衣室の床に中学生としか見えない女の子二人が寝ていた、枕元にけばけばしいアクセサリーで飾られた携帯電話が置かれているだけで、浴用用品は見当たらなかった。おそらく明け方まで街で遊んで、銭湯が始まる時間に入って来て寝入ったようだった。娘は同情するように言った。
―旅館では受け入れてくれないから、銭湯で寝るんだよ。
―旅館に行くお金、あるの?
―稼げばいいんだよ。明け方に地下鉄のトイレのようなところで制服に着替えて直ぐに学校に来る子もいるよ。そういう子らは遅刻さえしなかったら、担任の先生が特に口やかましく言わないから。顔だけ出してから喫茶店のようなところにエスケープして寝たりするよ。
―家にも帰らないで、なぜそこまでしなくちゃならないの。
―分かんない。理由があるんでしょう、何か。
浴場に入るガラス扉の前で、彼女はしばらく立ち止った。生臭い匂いと熱い水蒸気に息が詰まった。何ヶ月か前だったか、一緒に銭湯に来た時に娘とした約束を突然思い出した。海に行ってみようと言った瞬間、娘の大きな目はきらっと光った。
昼食にはキムチと胡瓜をたくさん刻んで、ビビンクッスを作って食べた。ちょっと胸がむかむかした。海に向かって出発したのは2時ちょっと前であった。彼女は前に一人でよく訪れていた江華の港に出かけようかと思ったが、娘には遊戯施設があって人が多い場所がいいと考えを変えた。月尾島にきれいで展望のいい洋食屋を一つ知っていた。助手席に座った娘は走っている間ずうっとラジオの音楽に合わせて足をしきりに動かしていた。二人は日がかなり傾いた頃になってようやく到着した。人が多く集まっている中心部を避けて、彼女の車は刺身店街のほとんど端っこの地点にある人気のない駐車場に車をとめた。
彼女と娘は海沿いに少し歩いた。通りで冷たい飲料水を買って飲み、遊具の中から大声を出す女達を見物し、ギタ―を弾く青年たちの集団を過ぎ、綿菓子売りの自転車の前で並んでいた子供たちを後ろにして遊覧船の方へ行った。遊覧船の中からは大きな窓を通して海が見渡せた。娘は海面に向かって深呼吸を一回しながら、カモメが窓にほとんど当たるぐらいに接近するや低い嘆声を上げたりした。車を止めておいた所に戻ってきた時は夕焼けが染まり始める時間であった。
その洋食屋では運よく二階の窓辺の席が空いていた。彼女がザリガニ料理を注文すると直ぐに娘は「オンマ、今日はお金たくさん持ってるの?」と久しぶりに子供っぽい笑みを浮かべてた。そうするうちに夕日に映えて静かに赤く波打つ海の遠くへ視線を投じた。青色のシャツを着た若者の一人がよろけながら海の風景の中に現れた。手に持っているのは酒瓶のようだった。海に向かって手を一回前に突き出し、瓶を持ち上げて酒を幾度もあおりながら海に向かって歩く若者を、他の二人の若者が近寄って捉まえた。今すぐにでも砂浜の上に倒れ込んでしまいそうになるほど危なく見える若者の肩を、二人の若者が両側から掴んでずるずる引きずって連れて行った。引っ張られながらも若者は何度か友人の手を振り切り、よろけながらラッパ飲みをした。娘は青い服の若者から目を離さなかった。
―あの人、何であんなことするの?
―さあ‥‥何か忘れてしまおうとしてかなあ?
前菜が出てきたので、娘と彼女はフォークを持った。彼女はうわの空でフォークを動かした。食欲がわかなかった。娘は娘なりに何か考えにふけているようだった。
―人は忘れたいことをどのようにして忘れるの?
食後のデザートで出たアイスクリームを食べながら、娘がようやく口を開いた。彼女は手に持っていたコーヒーカップを下ろした
―さあ。
彼女の口元から出た子供っぽい笑みは、ちょっと元気をなくしていた。
―何か忘れなきゃいけないことでもあるの?
―いいや。
―だったら、なぜ?
―何となく。
彼女が「さあ」という言葉をたくさん使うように、娘は口癖のように「何となく」という一言でたくさんの答えを返した。ちょっとして、視線を落としたまま娘が言葉を繋いだ。
―時々うちのハムスターを思い出すの。またどこかの家でか、飼われているんでしょう?
―そうだろうね。
―それでね、死んだかも知れないと時々考えるの。
―なぜ?
―母親に捨てられたからよ。
―母親だって?
―飼っている間は、うちが母親でしょう。
―‥‥
―おばあちゃんに電話したら、辛くてもいいんだ、良薬は口に苦しだって。みんな忘れてしまえって。
―いいこと言ってくれるねえ。
娘はのどを痛めた人が薬を飲むように唾をごくりと飲み込んだ。娘の目の中で不安と慰めが行き交うのを、彼女は辛い気持ちで見守った。
―実は今日、友達が東大門のミリオレに行こうと言ったんよ。
―何で行かなかったの?
―何となく。その子らは髪を染めて、それに似合う新しい服を買いに行くんだって。
―学校で引っかからない?髪を染めるようなことをしたら。
―特に言われない。オレンジ色にした子もいるし、ワイン色にした子もいるよ。友達のなかで耳に穴を開けないで、ヘッドホンを持っていないのは、うちだけよ。
―お前もしたら。必要だったらヘッドホンも買ってあげるよ。
―実はあの子らについて行きたくないの。漫画のキャラクタ―を集めてさらにステッカ―写真も集め、日記帳をお互いに回していって手紙を書いてやったりするのが流行してたけど、このごろはネットに入ってチャットしたり、一日にEメ―ルを何遍も貰ったり、そんな話ばかりしている。それもすぐに変わるんよ。うちと一番仲良しの子がいたんだけど、自分を差し置いて他の子とトイレに一緒に行ったといって、今二週間の間、話をしてない。
娘は冷たくなったアイスクリームスプーンを縦にして口に当て、しばらく空をにらんだ。
―みんなうちを好いていないみたい。何でそうなのか、うちは他の子らのするように出来ないの。うちの連れは勉強も出来るし、運動も出来るし、友達も多いし、とにかく何でも出来る。その子を見てると、うちは何も役に立たないバカのようで。
―すべてのことが出来るというのは正常じゃないということよ。お前はやりたいことだけをちゃんとやればいい。
―やりたいことが何もないんだから!
声が高くなっていくかと思ったら、娘は顔を伏せてグラスの底にちょっと残ったアイスクリームをスプーンであちこち掻き回した。彼女は娘のうなだれた頭の白い素肌と髪の毛の間にじっとりした汗を見ていた。娘が七歳の時だったか、子供用自転車の補助輪を外した日を思い出した。まだ無理だと思ったのだが、娘は意地を張った。娘の自転車がまるで氷の上を走るようにバランスが取れずにふらついて倒れるたびに、遊び場のベンチに座って見守っていた彼女は何度も立ち上がった。娘は九歳を過ぎてから補助輪なしで自転車に乗ることができるようになった。そしてその日の晩、熱が出始めて何日か病気で寝込んだ。その時、髪の毛の間にびっしりと汗が出たまま‥‥。
娘が突然に言い出した。
―私、間違ったこと言ったね。
―何を?
―うちが死んでしまうのがいいのかって、オンマにそんなこと言ったこと。オンマの人生だけが大切なのかって言ったことも、すぐに後悔したんよ。
「いくら母親だといっても、死んだり生きたりの問題を一人で勝手に決めるのは不公平じゃないの」と娘は言っていた。ずっと前のことになるが、彼女はお腹の中にいる娘の命をめぐって決定を下さねばならなかった。その時は彼女の人生にそのような瞬間がもう一度やって来るとは全然思わなかった。娘の場合には決定を下すのに、それほど躊躇いはなかったが、今は違った。ともかく娘の言うことは正しい。それは不公平なことだ。
娘に答える彼女の声はちょっと冷静であった。
―そう。今はそのようなことは言わないの。
彼女の断固とした言葉に驚いたのか、娘はうなだれていた頭をさっと上げて、彼女をじっと見た。
帰る車の中で彼女は一言も言わなかった。周りを自動車がかすめて通る度に、彼女の顔には複雑な光の染みが映えたり消えたりした。
去年の秋の晩であったか、彼と彼女はお兄さんの墓の後ろの方に少し大きな石碑を発見した。その石碑の周辺には六基のお墓が集まっていた。彼がライターに火を点けて、石碑に刻まれた文字を照らしてみた。‘キョドン中学校三学年一組’と書かれていた。「カチャッ」という彼のライターの蓋を閉める音がすると四方がまた暗くなり、そして彼女が口を開いた。
「家族の横に埋葬しないで、変な人たちねえ。自分の一生の最後に持って行きたい名前がキョドン中学校三学年一組とは‥‥。失郷民(北朝鮮から逃れてきた人たち)なのかしら?」
その時思いがけずに彼が質問を投げかけた。
「もし自分のお墓に石碑を建てるなら何と刻んでほしい?」
彼女は冗談で答えた。
「さあねえ。あんたは?足で稼ぐこの時代最後の社会部記者・金フン?」
彼は笑わなかった。自分の考えに没頭して何をしているのか意識できない人のように、黙々とライターを消したり点けたりばかりを繰り返してから彼は語り出した。
「死んで誰として記憶されるというのが、どうして重要なのか。死んでしまえば何も分からなくなるのに。僕が死んだら誰も僕のことを覚えていなければ、それでいい。子供も作らないから。」
車の中で身体が粉々になった瞬間も、彼はそのように考えたのだろうか。
娘が座る助手席から時折咳が聞こえてきた。銭湯から出た時、濡れた頭にちょっと雨に降られた上に、さらに風まで当たったのが良くなかったようだ。幼い時から娘は気管支が弱かった。豆もやしの茎やあるいは果肉を半分ぐらい抉り出したナシに蜂蜜をかけて作ったジュースを飲ませたりした。娘の咳は段々痰がからんできたようだった。彼女は家の前の薬局に車を止めた。娘が寝入ったように目をつぶってじっとしていたので、彼女は一人行って薬を処方してもらった。
蛍光灯が明るく点いている奥の部屋で薬剤師が薬を調合している間、彼女はガラスの間仕切りに寄りかかって立ち、三方の壁にぎっしりと並べられた色々な種類の薬をぼうっとと眺めていた。
命を持続するために肉体はいつも世話を受ける。人間の命は肉体がある時に限って存在するというのが肉体の権能である。どんなに立派な精神を持っているといっても、肉体が死んでしまえばどうすることも出来ずにその立派な精神を終わらせねばならない。苦痛の数式は精神ではなく、肉体の世界の規則から始まるかも知れない。彼女は慰めのない人生から脱出させてくれた夢がどこに行ったのか分からなくなったことに、今更のように苦痛を感じた。しかし娘は誤解した。
次の日、彼女が仕事から帰って来てみたら、娘は家を出てしまっていた。
娘の名前が書かれたまま部屋の床に放り出された薬の袋が、まるで自分は何も知らないかのようにぽかんと彼女を見上げていた。
頭痛
娘の所持品を探しまくり、三冊のメモ帳と日記帳に書かれたすべての番号に電話かけてみたが無駄だった。彼女は母親にも電話をかけた。母親は心配の言葉をかける一方で、
「あんなに私がもうちょっと気を使ってやれと言っていた時に、気にかけてあげないといけなかったんだよ。」
と非難することを忘れなかった。彼女は首を振った。
「オンマはこのことが何か私の彼氏と関係すると思ってるの?」
「だったら、そうでないということか?一人で育てるのが大変だからとあれほど止めた時に、恥も忘れて子供を産んだら、今度は子供ことは後回しにしてやりたい放題にやってるからこんな事が起きるんだ。」
「そうじゃないんよ。」
彼女は電話を持っていないもう一つの手で、自分のこめかみをぐっぐっと押した。
「大人になろうとしているところなのよ。とにかくひょっとして、そっちに連絡が来たらすぐに私に電話して下さいよ。」
彼女は頭痛が激しくなり、これ以上電話をすることが出来なかった。
二日を過ぎたが、娘は帰って来なかった。三日目になって警察に行方不明者届を届け出た。
Aが電話をかけてきた。
「お前の葉書、着いたよ。特に内容がなく、単に消息を知らせる手紙だったけど。持っているので、お前に会ったら渡してやろうか?」
「いや、あんたがそのまま捨ててくれる?」
「何?そんなものを何で探してくれと言ったんだ。無闇に気ばかり使ったじゃない。」
Aの話しぶりに不満と失望が混ざっていた。
「僕が、それでも死んだ後まで忘れられないという純情に感動して一生懸命お手伝いしてきたのに。僕だけが笑い者になった。その程度の愛だったといいうことなの?それとも元々愛なんてものはみんなその程度なの?」
Aがしばらく答えを待っているので、彼女は何か答えを言わねばならないようだった。しかしどんなに考えても言葉が出なかった。自分が本心から彼を愛していたのかどうなのか、これが問題だと考えてみたこともなかったし、愛についての質問と意味規定で自分の気持ちを点検しようとするAの心が理解できなかった。
ネックレスが写った写真と同じで、その葉書の中には彼との保留された時間が込められていた。彼が生きていた時の時間を大切にしたかったが、今は重要でなくなっただけだった。
歌
酒をかなり飲んだ。運転席に座ると、周囲がはっきりと目に入らなかった。それでも彼女は急いだ。娘が家に戻ってきていることだけで気が急いていた。いつから雨が降り始めたのか、道路の舗装面が濡れて光っていた。酔った彼女は駐車場から車を動かして車道に出る時まで、フロントガラスが曇っているという事実に気付かなかった。後になってからワイパーを動かすと、目の前に夜の通りが一気に広がった。飲み屋の多い通りだった。たくさんの照明、行き来する人たち、動いている雨傘、ライトを点けた車の列、酒の匂いと欲望、口紅に染まった唇、ねちねちと絡みつく腕‥‥彼がいない世の中にそれ程多くのものが存在して堂々と我が物顔で居座り、嬌声を上げて時間を食いつぶしていくのに対して、突然に怒りを感じた。彼女はハンドルを握っていない右手でコンソールボックスを開き、手に当たったテープを一つ取り出しデッキに入れた。車が川沿いの道に差し掛かって初めてその歌を歌っている人が彼だということに気付いた。彼から貰ったテープだった。
お前と一緒に行く道は美しくも平坦でもない
けれど、ちょっとの間だけでも休んでいく所があるのなら
俺たちはその道を行くことにした
おお、俺の夢、それはお前が休んでいる椅子
おお、俺の夢、それは俺たちが一緒に目を覚ました一軒家
リフレーンが繰り返された。
おお、俺の夢、俺たち今そこに旅立つ
おお、俺の夢、そこは俺たちが一緒に眠りにつく墓
あの日の晩は風が少し吹いた。彼女はその日最後のニュースが終わった後、リモコンを押してテレビを消した。画面が消えた後もしばらくの間、ボーっとテレビに視線を向けていた。その時、電話のベルが鳴った。壁時計が一時一〇分を指していた。
「僕だ。」
彼だった。
「会って話しよう。僕が間違って考えていた。僕はこれ以上言う言葉がない。昨日言ったことが全部だ。とにかく会って話しよう。」
「そんなことする必要ないんだから。」
彼女は電話を切って浴室に入っていった。
電話はそれから何遍もかかってきた。浴室から出てからようやく電話を取った。
「僕、今からお前の家に行く。」
「いや、そんなことしないで。」
彼女の声に彼は声を張り上げた。
「今すぐ僕と!終わるとしても、僕が終わらせてやるのだ。」
彼女が二三回首を横に振ったので、長い髪に乗って水しずくが手の甲に落ちた。彼女は声に力を込めて、さらに一回繰り返した。
「そんなことしないで。」
そう言ってから電話のコードを抜いた。
家の中はもの寂しかった。夜行性のハムスター二匹だけがかたかたと回し車を回していた。チシャの葉っぱを一枚入れてやると、まるで食卓に座った夫婦のように互いに向かい合ってかじって食べ始めた。彼女はタバコに火を付けてベランダに出て、外のガラス窓を開けた。風が彼女の頬と耳たぶをよぎった。向こう側のマンションに遅くまで起きている人たちの影がちらちらと映った。その時、ヘッドライトを点けた自動車一台がのろのろと団地の中に入ってきた。彼女はタバコを深く吸って、その自動車から目を離さず見下ろしていた。駐車する場所を探せずに、花壇の前をあちこち回っていた自動車は、向こう側の棟にある地下駐車場の方に向きを変えた。タバコがみんな燃え尽きてからも彼女はベランダの鉄柵にもたれかかって風に当たった。深夜三時になって彼女はウィスキー三杯続け様に飲んで、ようやく眠りにつくことができた。
彼が到着したのは彼女が寝入ってからいくらも過ぎていなかった。電話をかけたのだが、出てこなかった。花壇の中に入っていって、彼女がいる三階に向かって何回か名前を叫んだ。その時に下まで伸びていた薔薇の蔓に足が引っ掛かって転んでしまって狂ったように薔薇の蔓を引っ張ったために、蔓に咲いた薔薇の赤い花房が荒っぽくむしり取られて無闇に踏みつけられて、血がどくどくと流れる掌で壁を何回も叩いてから車に乗って自由路の方へ力いっぱいアクセルを踏んだのは、彼女が寝てから一時間も経っていない時のことであった。
朝六時過ぎに起きた彼女は旅行カバンを出した。出発の準備がほとんど終わった頃に娘の部屋からブリトニー・スピアーズの「ベイビー・ワン・モア・タイム」が聞こえてきた。
飛行機の出発時間まで二時間半となっていた。今出発すれば、車が渋滞する朝の通勤時間帯だといっても飛行機が飛ぶ一時間前までに空港に到着することが出来る。彼女はタクシ―を呼んだ。
玄関を出ようとしたが、娘の呼ぶ声が聞こえてきた。彼女は腕時計を見やった後、また靴を脱いだ。浴室のドアを開けるや下半身が裸になったまま、ぼうっとした表情で立っている娘の姿が目に入ってきた。娘は赤黒い血の跡が付いたパンティを彼女に見せた。
「これ、何なの?」
彼女は居間に行って引き出しの中にあった20個入りのナプキンのパックを持って娘に渡してやった。
「これを使いなさい。午後におばあちゃんが来るから。」
タクシーは自由路に進入するとすぐに足止めになった。運転手が癇癪の混じった声で言った。
「どこかの奴が、よりによってこの忙しい朝の通勤時間に事故を起こした。」
その時、彼は彼女の家から遠くない所で、交通事故処理班の作業の手を煩わせる大変なことを仕出かしていた。あばら骨がハンドルに深く食い込んで容易に抜き出すことが出来なかった。彼の車はむごたらしくペチャンコになった。彼が彼女の服を脱がせて身体の奥深くに自分自身を熱く入れた後部座席のシーツは赤黒い血でごちゃごちゃに染まり、縞模様のある銀灰色のファブリックはほとんど見分けられなかった。
「僕は足が長くて車のなかではズボンに足を通せないんだ。」
だったら脱ぐときは一体どんな技を使って脱いだのか。彼はセックスが終わると車のドアを開けて出て、服を着た。彼女が外に出ると、ドアにもたれて立っていて、タバコに火を付けてくれた。ある日、彼の首の後ろからは濃い汗の匂いに、幼い時に木の筆立てから嗅いだことのある伊吹の匂いが混じっていた。耳たぶに舌を当てると、舌を焦がすようなピリッとした匂いは海の香りと同じだった。彼女自身よりももっと鋭敏な感覚を持ってその一瞬ごとに反応する彼の身体――彼の顔、彼の腋の下、彼の内もも、彼の胸、それらは交通事故収集班によってずたずたに裂かれて取り出されていた。彼が自分の身体の中で、絶対に触らせなかったのは左の腕であった。前腕の内側の皮膚がすっかり歪んでおり、その傷跡は非常に醜悪であった。
「瓶を割って引っ掻いたんだ。自分で自分の身体を傷つけることだけが組織から抜け出せることだったんだ。」
彼の言葉は全て信じてはいなかったが、夏にも長袖の服を着るという言葉を聞くと、早く夏になったらいいと思っていた。非常に暑い日に、長袖の服を着た彼を見ていると、自分だけが彼の秘密を知っているという実感がわき、それが彼に対する特権であるかのように彼女を嬉しくさせてくれるのであった。しかし彼女は夏に彼と会うことは出来なかった。彼が結婚した後も、秋からまた始まって冬と春、三つの季節にデートした。事故収集班は彼女が触ってみたかった彼の傷跡のことが分かるはずはないので、死んだ者の左腕は簡単に切り取られていた。
彼女は飛行機の出発時刻を計算して、腕時計を見た。車窓の外に首を向けている彼女の額が徐々に皺よってきた。
「現場で即死したってよ。」
運転手が言ってくれた。道をいっぱいに埋めた車のドライバーの達のと同じように、彼女もやはり知らない人の死よりも自分の出張の方が重要であった。空には雲が晴れてきて、段々と青い光が広がった。事故の地点は彼女が凝視している所から前方五〇m程の距離であった。気が向いて歩き始めたら数分もかからない距離であった。そこで彼が一人で死んだ。
空港に到着するや彼女は走って行かねばならなかった。飛行機に乗ってからは朝の通勤時間帯に事故を起こした人のことは直ぐに忘れてしまった。彼女は昨晩の彼からの電話を思い出していた。人生のある刹那に別の存在である二つの肉体が出会っていたということは、彼女が知るよしもなかった。彼の死が彼女を捕まえて放してやったという事実は、夢でさえも分からないことであった。
ボローニャのホテルに到着した時は、遅い午後だった。彼女は部屋に上がって休みたかった。歯磨きをしながら胸に冷たいものが当たるような感触を感じた。歯磨きの泡を口にしたまま鏡に映った自分の乳房をまじまじと見たのは、母の言葉が思い出したからであった。「乳首が冷たくなれば女としては終わったということだ」彼女はゆっくりとシャワ―を終えた。娘が生理をちゃんと始末しているのか電話をしてみようと思ったが、寝ている時間であることを知って止めた。
異国の小さなホテルはまるで違う世界のように静かであった。ベッドの上に横たわって彼女は目をつぶった。腕を組んで乳房をそっと押した。彼と別れたことによって、自分の人生を束縛してきた肉体のサイクルもちょうど一周したという気がした。
彼女は軽い気持ちで葉書を取り出し書き始めた。天気について書き、無事に到着したと書いた。男女間のよくある秘密の一つがないだけで「世の中は我々からして変わるものが何もなくて‥‥」この文を書いたために最初の葉書は捨ててしまった。二回目の葉書は天気と些細で平易な消息、そして‘それでは元気でいてね’という文を終わりにして完成した。
その日の晩、彼は六回も電話をかけた。万一彼女が彼に会いに出たならば、彼はその狂ったような爆音を猛スピードで走らなかったではないか。彼に会いに出たならば、彼女はネックレスを返してやったのである。そうならばネックレスを失くしてしまうこともなかったし、ネックレスが写った写真を大事にすることなんかもなかったのである。彼が死ななかったならば、遠くない将来に彼は彼女に簡単に忘れさせたかも知れない。彼の死さえも知ることが出来なかったのであり、例え知ったとしても出張に出た日に交通麻痺を引き起こしたドライバーの死と同じく、他人事になるだけである。
僕を記憶しないでくれ。死んだ後の安息を妨害しないでくれ。
僕を忘れねばならない。死んだ後の記憶。それは僕ではない。
彼が歌を歌っていた。
交通死亡事故 多発地帯
ハンドルがしばしば滑り、ちょっとずつ居眠りが襲ってきた。彼女はしっかりせねばならないと呟いた。掌でカーオーディオのストップボタンを押して歌を消してから車の窓を一度下げてからまた上げた。
自由路に差し掛かってからしばらく過ぎたようだった。雨は降り続いていた。彼女の目には車線が十分に見えなかった。車のライトで他の車も一緒に走っていることを認識できた。‘辛くてもいいんだ、良薬は口に苦しだ。’彼女はそんな粋なことを言ってくれた母の悪口をつぶやきながらアクセルを踏んだ。
娘は帰って来たのだ。家で彼女を待っているのは間違いなかった。彼が死んで、彼の赤ちゃんがやはり死んでしまったことを知れば、娘は安心するのだ。雨足が激しくなって前がよく見えなかった。ワイパーをもう一段階上げねばならなかった。車が車線を守れず、はみ出したり戻ったりうねるのが自分にも感じられた。
いきなり鋭い電話のベルの音が警報のように鳴りだした。彼女は横の座席を手探りしてハンドバッグを膝の上に持ってきた。チャックを開き携帯電話を取り出すところまでは成功したが、それを手に持つやすぐに床に落としてしまった。電話のベルの音は今彼女の足元で鳴っていた彼女の額に汗が滲み始めた。膝の下の方に腕を伸ばして手探りした。電話を取らなければ、どんな恐ろしい死の消息をも遮ることが出来ないと思った。「自分が望まない人生でも一生懸命に生きること、それが生存だ」と彼は語っていた。彼女にはその電話のベルの音がどこかの生存という所からかかってきた最後の交信音のように思われた。電話を取らねばならなかった。彼女はハンドルを下の方に身体を縮めた。その瞬間、身体の動きに合わせてハンドルが曲がって車は大きな角度で急カーブを描いた。
車は一気に車線三・四個分を斜めに横切り中央分離帯の方に飛び出した。反対方向にほんの少しハンドルを切っただけと思ったのだが、その時から車線を勝手に出入りしてジグザグにふらつき始めた。何時からブレーキに足で踏んでいたのか、記憶になかった。まるで暴れ回っている動物が鎮静剤の矢を受けて倒れるように車を止めた時、彼女は走行方向と反対に向かって止まった自分の車の屋根にあられのように激しく降りしきる雨音を聞いた。
近くに他の車はなかった。彼女の車が転がる様子が尋常ではないと、みんなは遠く離れて避けて運転していたのだった。他の車はちょっと離れた所でハザードランプを点け、彼女の車がやった曲芸を見届けてから少しずつ動き始めた。彼女は五車線道路の真ん中で後ろ向きに止まった車を本来の方向に直して、ようやく路側帯に止めた。その時、切れていた電話のベルがまた鳴り始めた。彼女は電話を拾って、折りたたみを開いた。
「もしもし。」
彼女が聞いたのは息が詰まるような沈黙の音だった。電話から黒い沈黙が徐々に流れ出て、車の中をいっぱいに満たし、彼女の内臓の中に吸い込まれていく感じであった。痛くなるほど喉がつかえてきた。横を走る自動車のライトが近づいては遠ざかって行ったが、車の中は水に浸かったかのように湿り、真っ暗だった。
「もしもし。」
彼女はかれた声でもう一度ゆっくりと相手を呼んだ。何の声も聞こえず、何も見えなかった。ただ自分が命という悪意の存在と重要な局面で対決していることだけは、はっきりと感じた。それは固く口をつぐんで息を殺したまま彼女の首にかけられた縄の先を握っていて、どんな小さな動きにもすぐさまその縄を引っ張ってしまうのだ。電話に耳を当てたままで彼女は息を殺してじっとしていた。その時、一台の自動車が非常に近くをかすめて行った。その車のライトに反射して路側帯のすぐ上に付いている看板がいきなり目に入ってきた。その看板は夜間でもよく見えるように蛍光塗料で書かれていた。それを見た瞬間、彼女の顔に緊張が消えた。彼女は、赤の地にくっきりと刻まれた白い文字を仰ぎ見た。その瞬間、電話が切れた。ピーッと鋭い機械音が彼女の耳と目を奥深くまで刺した。彼女は看板から目を離さないでいた。
交通死亡事故多発地帯
それは彼女が夢の中でも、暮らしてみたかった優しさに満ちた家の大きな表札であった。