李ウンジュン(小説家、「文芸戦線」の一員)

 

偶像の闇、文学の堕落―申京淑の三島由紀夫剽窃

 

>二人とも実に健康な若い肉体の所有者だったせいで、彼らの夜は激烈だった。夜だけでなく、訓練を終えて土まみれの軍服を脱ぐ間すらもどかしくて、帰宅するや否や妻をその場で押し倒すことは一度や二度ではなかった。麗子もよく応じた。初夜を送って一ヶ月が過ぎるかどうかの時、もはや麗子は喜びを知る体になり、中尉もそんな麗子の変化を喜んだ。   ――三島由紀夫、金フラン訳「憂国」、『金閣寺、憂国、宴のあと』主友世界文学20、株式会社主友、P.2331983125日初版印刷、1983130日初版発行)

 

>二人とも健康な肉体の主人公だった。彼らの夜は激烈だった。男は外から帰って土ほこりの付いた顔を洗っても、何かもどかしくて急いで女を押し倒すのは毎回だった。初夜を持った後の二ヶ月あまり、女はもう喜びを知る体になった。女の清逸な美しさの中へ、官能は香ばしく豊穣に染み込んだ。その成熟は歌を歌う女の声の中にも豊かに染み入り、今は女が歌を歌うのではなく、歌が女に吸い取られるようだった。一番喜んだのはもちろん男だった。   ――申京淑、「伝説」、『ずっと以前に家を出た時』創作と批評社、P.2402411996925日初版発行、以後200581日同一の出版社で名前を縮めた‘創批’から『ジャガイモを食べる人たち』に、小説集の題名だけ替えてさ再発行された。)

 

 さあ、今目をつぶって、私が語る場面を頭のなかで描いてみよう。大韓民国最高の有名で有力な小説家の申京淑は、ずっと昔に文壇先輩詩人が翻訳した日本の代表作家、三島由紀夫の『金閣寺、憂国、宴のあと』(主友世界文学全集 第29巻)で短編小説「憂国」の一部分を静かに広げた。続いて申京淑は、自分が依頼されて書いている短編小説「伝説」の原稿に、「憂国」のその一部分をほとんどそのままに移してタイプする。この原稿は1994年の季刊『文学と社会』冬季号に載った後、1996年創作と批評社から発行された小説集『ずっと以前に家を出た時』のなかに入る。

 三島由紀夫の「憂国」を剽窃したとして告発されている申京淑の「伝説」の部分は、一人の小説家が‘ある特定分野の専門知識’を自分の小説の中で説明したり表現するために‘小説ではない文献資料’の内容を‘小説的地文’というか、‘登場人物の対話のなかで活用するなど’のいわゆる‘小説化作業’の結果では絶対にない。それは全く‘他の作家’の厳然な‘小説の肉体’をそのまま‘自分の小説’に‘切り貼りしてからこっそりと無様な姿に描いておいて偽装する’、それこそ一般人でもしてはダメであるのに、ましてや純粋文学のプロ作家としては到底容認されることの出来ない明白な‘作品窃盗行為―剽窃’なのだ。

 特に、造詣深い詩人の金フランは、1996630日初版の『李ムンヨル 世界名作全集』第2巻‘死の美学’編に掲載された三島由紀夫の「憂国」では、「一ヶ月がまだなるか、ならないかという時、麗子は愛の喜びを知り、中尉もこれを知って喜んだ。」と翻訳された部分の「愛の喜びを知った」というのっぺりした表現を「喜びを知る体になった」という流麗な表現に翻訳した。

 このような言語の組み合わせは、仮に‘追憶の速度(思い出の速さ)’のような極めて詩的な表現として誰かが何処かで偶然に見て聞いたものを書いたというものでは決してあり得ない次元の、だから意識的に盗用しないでは絶対に出てくることがあり得ない文学的遺伝工学の結果物であるのだ。

 万一申京淑が、自分の頭の中から出てくるままに書いたのだから詩人金フランの翻訳「憂国」の中のあの部分とそっくりの表現をした「伝説」のその部分は自然と出て来たのだと主張するのであるならば、仮に自分の家の前に大きな丸い岩があったとして、ある晩に台風が襲い、その次の日の晴れた朝に目を開けて見れば、その丸い岩がロダンの「考える人」と同じ姿に昨晩の雨風が削っていったのだという、奇怪で不合理なことを明快な事実でもって証明せねばならないのだ。

 もともと申京淑は剽窃批判が非常に多い作家だ。在米留学生の安スンジュンが遺稿集『生きてはいるのです』の序文は故人の父親である安チャンシクが書いたのであるが、これを申京淑が自分の小説『いちご畑』に全部で六節にわたって完全に同一であるかほとんど同一の文章として使用した。申京淑の長編小説『汽車は7時に出る』と短編小説「別れの挨拶」が、パトリック・モディアノと丸山健二の小説の中の文章とモティーフと雰囲気などを剽窃したという告発等々は、つまるところ申京淑が三島由紀夫の「憂国」を剽窃したのと類似の振る舞いをあちこちで常習的に行なってきたなかで、その種をまいてきた痕跡と証拠だと見ることが妥当なのである。

 ここに至り、我々は申京淑が三島由紀夫を剽窃したそのやり方で、他の国内外の作家たちの作品をさらにたくさん剽窃したのではないかという‘常識的であり合理的な疑問’を十分に抱くことができる。鋭敏な読書家たちがみんなで張り付いて申京淑の全ての小説類を全数調査してみれば、上記のような事例がどれくらいになるか、もっとあるだろう。

 村上隆の愉快な長編小説『69』には、このような名言が出てくる。“糞には思想はない”。剽窃も同じだ。剽窃は‘糞’だ。糞に思想が介入する余地がないように、剽窃には思想が介入する余地がないのだ。ところが韓国文壇ではこのような文学的野蛮が堂々と起きた。だから申京淑の‘剽窃’は ‘片づけてしまえば終わりになる糞’ではなく、韓国文学の‘致命的傷跡’になってしまったのだ。

 小説家申京淑は詩人である私よりも、5年程先に文壇に先に登壇した。我々は20世紀の隅っこで韓国文壇生活を一緒に始めたというわけだ。だから私が記憶している韓国文筆家たちの剽窃に対する清廉潔白さは、唯一申京淑だけに対して無感覚だったり、違う解釈をするはずがない。もともと韓国文壇は、近頃のように剽窃に関して寛大な立場を取るがごとき信念のない共同体では絶対になかった。仮に、ある晩に同僚文筆家と二人だけで酒席を設け相手から興味深い経験談を聞いた時、次の日の朝に酒から覚めていない状態であっても相手に電話をかけて“昨日の晩に私に聞かせてくれたあの話、ひょっとして私が詩や小説に書いてもいいか”と許諾を求めねばならないくらいに、私がデビューした当時の我が韓国文壇の剽窃に対する警戒の水準があった。だから公的な場所やメディアでの剽窃に対する厳格さというのは、もう語る必要もないだろう。仮に小説家李インファのように剽窃とパスティッシュ(文体模倣)の論争の間で晒し者にされた文筆家がいて、一度剽窃作家と烙印を押されるということは文筆家としての死を意味するものを越えて、自然人としての自殺まで考慮せねばならないくらいに深刻な恥であったことは、私と我が文筆家たちには自明のことだったと述懐できる。だから明知大学文芸創作科の教授であり申京淑の夫(1999年度結婚。申京淑の剽窃批判は2000年度から本格的に噴き出る)でもある文学評論家の南ジンウは、河イルジを始めとして幾人かの文筆家たちを剽窃作家だとして、あれほど過酷に(ああ、本当に過酷に!)責め立てて苦しめたのではないか?本当に理解できないことは、そんな彼が自分の妻である小説家申京淑の剽窃に対しては今まで一言半句もして来なかったという事実だ。

 とにかく、私のように浅薄で取るに足りない作家でも当然に知っていた韓国文壇の‘文学憲法第1条’を、申京淑のように高邁で優秀な作家が知らなかったと言い張るならば、少なくともその時申京淑が属していた文壇は火星にあって、申京淑は火星人でなければならないのだ。

  (中略)

 申京淑は単なるベストセラー作家ではない。申京淑はその時代で海千山千の評論家たちから最高権威のように崇められており、東仁文学賞の終身審査委員を引き受けている等々の理由によって韓国文壇最高の権力でもあるのだ。そのような申京淑であるから申京淑が犯した剽窃は、いわゆる純文学に対して純真な大衆、特に韓国文学をこよなく大切にする愛読者たちとともに日々を過ごせば過ごすほどに、風前の灯である韓国文学の特性によって傷付けられた傷跡が、どんな深い後悔よりももっと惨憺たるものになるのだ。

 それだけであろうか。申京淑の小説は多くの言語に翻訳され、各国で商業的にも一定の目に見える成果を上げている。ところがもし、‘申京淑の三島剽窃’がニューヨークに知られたら?パリに知られたとしたら?イギリスに知られたとしたら?日本の文筆家たち、日本の大衆がこの事実を知るようになれば?これは隠すとしても隠される問題ではなく、隠せば隠すほどに悪臭がみなぎるようになる韓国文学の恥辱は、我々がこれ以上どうすることも出来ない。だから大韓民国の代表的小説家が日本の極右作家の翻訳本でも剽窃してじっとしている韓国文学の道徳的水準を我々自ら正すことなくしては、韓国文学のこの国際的恥を癒す方法は他に何があるのだろうか。‥‥