41 (続)在日朝鮮人は外国人である

まるで日本人なのに外国人であるという不自然な存在

帰化すれば民族性を失うという在日のこれまでの強固な主張があるが、その「民族性」の中身が私には分からない。民族性は本来、当人の家庭生活・親族や同胞との付き合い・冠婚葬祭等の体験を通して、言葉・習慣・感性等々を自然に得るもののことだろう。しかし民族性の体験そのものが希薄になってきているのであるから、失う民族性がもはや無いと言える状況になりつつある。今の在日の民族性の中身は日本であり、祖国の韓国・朝鮮ではなくなってきているのである。従って在日朝鮮人の同化は自然の流れでありまた当然の現象なのであって、決して恥ずかしいものではない。

しかし同化されている在日朝鮮人が日本国籍ではなく外国人で、しかも不利な取り扱いを受けるというのは不自然でありまた矛盾である。それは当人には大きな負担となっている。92823日付けの毎日新聞で、ある在日朝鮮人主婦の投稿のなかに「日本で生まれたのに、両親が外国人だというだけで…。日本語をしゃべり、日本の学校に通い、日本の友達もたくさんいるのに…。」というのがあったが、まさにその負担感をそのまま表現していると思う。

在日朝鮮人の幾人かに、あなたは五十年先百年先の在日の将来はどうなっていると思うか、韓国・朝鮮籍のままでいると思うかと尋ねると、ほとんどすべての人が、帰化に反対する人までが、帰化しているだろうと言う。またもし権利として帰化できるとしたら(例えば要件さえ調えば、申請すると日本国籍が取得できるようなこと)どうなるかと聞けば、おそらく大多数の在日は帰化するだろう、自分も帰化するかも知れないと言う。

同化していっている在日朝鮮人の将来の行き着く先が帰化であることは、彼ら自身が知っている。帰化はダメだといくら大きい声で言っても、まるで日本人なのに外国人であるという不自然な存在を解決するものではない。本人は外国人であるという不自然さに今耐えていても、いつまで耐えられるか分からない、ましてや子や孫には耐えられないと思っているのだ。帰化という終点に向かう同化の流れは変えることはできない。それが現実である。

帰化は民族の魂を失うものだ、敗北であり裏切りだと帰化をあくまで拒否してきた在日朝鮮人の苦労が分からないこともないが、現実は素直に認めるべきである。在日外国人として何十年、何百年も生き続けることはどう考えてもあり得ない。たとえ絶対に帰化してはならぬと遺言しても、子孫の代のいつかは帰化を決断せねばならない時がある。帰化は避けられないことを真剣に考えねばならない。

在日朝鮮人としてどのような帰化がいいのか。今の日本の国籍法や帰化政策のどこに問題があり、どのように変えればいいのか。それを実現するには、どこにどのように働きかけたらいいのか、を模索すべきであろう。

 

(追記)

 「同化」という言葉はかなり誤解を受けるもののようです。

  在日朝鮮人社会に残る冠婚葬祭や祭祀(法事)等の朝鮮文化をもって日本文化との違いを強調し、「多文化主義」を強調する人がいます。しかし日本文化はもともと各家庭や各個人における宗教や民俗事象等の違いを容認するものです。在日の文化は日本文化と対立せず、その中に入っていくことになるでしょう。逆に日本文化の幅がもう一つ大きくなるということです。

 もっと分かりやすく別の例で言うと、在日朝鮮人の作家が多くおられて芥川賞等の受賞者も少なくありませんが、その作品は日本文学のジャンルに入るのであって、韓国文学や朝鮮文学のジャンルではない、ということと同じです。

在日朝鮮人の文化は言葉や気質も含めて今や本国とは断絶し、日本との間の溝がなくなりつつあります。しかし彼らの文化は全く喪失することはなく、前述のように冠婚葬祭や祭祀等では残るでしょう。そしてそれは日本文化の多様性の一つとなって受容されていくことでしょう。拙論ではこれを「同化」と表現しています。

 

(参考)

在日の範囲とルーツを隠すこと http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/04/472555

在日の慣習と族譜 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/08/12/481465

 

ホームページに戻る