36題在日二世の心情を告白した詩

在日二世の心情を告白した詩

 在日朝鮮人二世の気持ち・感覚・心情をうまく表現した文章はないかとさがしてみたら、金一勉著『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるか』(1978 三一書房)のなかに、雑誌『未来』に1969年に投稿された次のような詩が紹介されていた。

 

無  題

(宮崎洋子 二六歳)

私を生んでくれた(ひと)は朝鮮人だった

女が私を妊んだところは敗戦国日本

女はチョゴリとチマに身を包み、日本国にめまいを感じた

女はチョゴリとチマに身を包み、朝鮮語しか話せなかった

私を生んでくれた(ひと)は朝鮮人だった

 

私が成長するにつれて女はカタコトの日本語を話せた

何故かそれは朝鮮語なまりの日本語

私の口からは日本語しか出てこなかった

日本人としての日本語、ごく上品な日本語

私の身を包むのは、赤いキモノに白いタビ

私の口からは日本人としての日本語

私を生んでくれた(ひと)は朝鮮人だった

 

私が二十歳の頃、その女は死んだ

女はチョゴリとチマに身を包み、いやしい朝鮮語なまりの日本語

死ぬまでいやしい朝鮮女

死ぬまで顔の皺は深くて黒い

私を生んでくれた(ひと)は朝鮮人だった

 

私がお嫁にいく頃、私の口からは日本語しか出てこなかった

私の身体からは日本の香りしか匂わなかった

上品な香りしか匂わなかった

私を娶った男は私と同じ香りがした

私を娶った男は上品な日本語が話せた

私に子供が出来る頃、何故か私の口から朝鮮語なまりの日本語

何故か私の身体にはいやしい匂い

私を生んでくれた(ひと)は朝鮮人だった

 

私の子供が赤いリボンを結ぶ頃

私の顔には深く黒い皺

女はチョゴリとチマに身を包み、コトバをなくして横たわる

私を生んでくれた(ひと)は朝鮮人だった

私を妊んだ場所は敗戦国日本

 

私なりの解釈

 この詩は、朝鮮人としての自己を否定し、自分の母親を「いやしい朝鮮女」とまで言い、日本文化を「上品な香り」と感じた二世の感覚が表現されている。作者はおそらく日本男性と結婚して帰化したと思われるが、自分に子供ができると、「いやしい」と思って徹底的に排撃してきた朝鮮人としての「匂い」が、いつのまにか自分の身体から滲み出しているのに気付く。「私の子供が赤いリボンを結ぶ頃」というのは、朝鮮では未婚の女性は一本に束ねたおさげ髪に赤いリボンを結ぶ風習があったので、子供の将来と作者自身の十代の頃と重ね合わせているのであろう。「私の顔には深くて黒い皺」と自分が母親と同じ姿になっていくことを淡々と語り、そして「コトバをなくして横たわる」というのは、作者自身の近い時期での死を暗示しているように私には思われた。

 

否定的な評価

一世の評論家である金一勉氏は、この詩について

「被差別者自身がひどく歪められ、自己否定し、自己の肉親をも否定するという醜悪な心情、その醜くて劣悪な心情を表現した典型であろう。」「読んでいるうちに、ふと吐き気をもよおす想いがした。」「できそこないの゙半日本人゙が半朝鮮人゙の中のいじけて歪んだもの、よそものが本物に見せかける際の醜いコンプレックスなのである。」「歪んだ゙同化傾向゙の典型」

などと激しい罵倒の言葉を繰り返し浴びせている。

また兵庫県で解放教育を実践した教師の福地幸造は、この詩を

 「母を拒絶する悲惨」

と評している。

 

二世の心情を発露した詩

 この詩が作られた30年以上前の在日社会では、祖国の統一こそが最大の課題であり、自分たちはいずれ祖国に帰る、日本に居住している家はそれまでの仮の住居だ、という考えが主流だった。日本の学校に行くことや日本の会社に就職しようとすることは「同化」であり、日本での生活をよりよくしよう行政に要求しようとすることは「内政干渉」だとして、徹底的に指弾された時代である。つまり祖国志向こそが正しく、日本志向は祖国と民族を裏切るものであったのである。

 今この詩を読み返してみると、そういう時代にあって、自己の成育史を客観的にそして冷静に見た上で在日二世としての自分の正直な気持ちを発露しており、よく書けたものだと思う。

 

ホームページに戻る