第32題在日朝鮮人が海外旅行すると‥

 ちょっと親しくしている在日韓国人がいる。彼女は海外旅行が好きで、1年以上も日本を離れることも多く、いろんな体験を話してくれた。そのなかで、彼女が在日韓国人であるが故のエピソードがあり、それを紹介したい。

 

 フランスの田舎町で滞在中の出来事。ちょっと油断したすきにカバンを盗まれてしまった。中にはパスポートが入っている。お金や品物はどうにかなるが、パスポートだけはどうしようもない。こういう場合はパリの在仏韓国大使館に行くことになるが、パリまで遠いし、また行っても韓国語を知らないのでチンプンカンプンだろうからと、警察の盗難証明書とともに英語で事情を説明した文書を郵送で大使館に送った。しばらくして大使館から返事が来た。

 何とその手紙には漢字が全くないハングルばかりで書かれてある。彼女は一瞬目の前が暗くなった。それを見たフランスの友人たちがどうしたのかと心配してくれて、事情を説明すると、「お前はコリアンなのに自分の国の字が読めないのか。なぜジャパニーズでないのか。なぜジャパニーズにならないのか。」と問われて答えに窮した次第。

 結局は韓国語と英語のできる韓国人(在日ではなく本国生まれの韓国人、当然日本語はできない)を探しだして、翻訳してもらって事なきを得た。彼女は英語ができるので通訳は一人ですんだのであるが、英語も韓国語もできないのが大部分の在日の場合は通訳が二人必要で、訳を重ねることになる。

 自分の国の大使館とコミュニケーションするのに通訳が必要だということは、考えてみればおかしな話である。

 

 行く先々の国で、自分は日本で生まれ育った在日コリアンで、国籍は韓国だが韓国語は全く分からない、韓国のことは何も知らない、と言ってもなかなか理解してくれない。韓国に行ったことのある人に出会うと、韓国について次々と聞いてくる。特に88年のソウル五輪以降は急に多くなった。しかし韓国の歴史・文化・地理・政治経済状況等を聞かれてもさっぱり分からない。日本なら答えられる。

ついに彼女はパスポートを見せる時以外は、「私はジャパニーズです。」と言うようになった。

 

 彼女はまた1年間ほどの海外旅行を計画した。彼女は若い時にマリファナの体験があったらしく、今度もそれをやってみようかなと言った。私はびっくりして、もしそれをやって逮捕でもされたら、強制送還先は韓国になる。日本はたとえ永住権をもった在日でも、麻薬常習者の入国を拒否するだろう。興味本位であってもそんなことはしてはならない、と注意した。彼女はそうだねえ、もう若くないんだし、タバコも長いこと止めてるし、近づかないようにするわ、と答えてくれた。

 

 10年ほど前になるが、彼女は中南米のある国の人と親しくなって、その人の家を訪問しようとした時のこと。大阪にある領事館に行ってビザを取ろうすると、東京の大使館に本人が直接出向かなくてはビザがおりないと言う。なぜなのかと問うと、わが国は世界中の国をA・B・C・Dの四ランクに分けている、日本はAランクなのでこの領事館で簡単にビザを出せるが、韓国はBランクになるので大使館に来てもらって審査する必要があるということであった。

 彼女は、韓国がBランクなら北朝鮮は最低のDランクだろう、北朝鮮の国籍を持っていたら、たとえ在日でも何と海外旅行しにくいことだろうね、と語った。

 

 ほかにもいろんな面白い話があるが、これ位にしておく。

 

 在日朝鮮人は、日本国内だけで活動する分には何ら支障はない。しかし海外に出て世界的に活動しようとすると、その国籍が支障になってくる場合が出てくる。特に北朝鮮国籍の場合は、「テロ支援国家」と国際的に位置づけられているため、その支障は大きいものがある。

また自国の言葉のできない在日は、海外で事件・事故の遭遇や病気などの万一の事態になったとき、言葉の通じない自国の大使館に行くことは躊躇することになるだろう。

あるいは1989年の天安門事件の際、北京大学に留学していた北朝鮮国籍の在日朝鮮人が日本人の学友とともに日本大使館に避難した、という事実がある。この人は日本では一貫して朝鮮学校に通って民族教育を十分受けてきたが、それでも大事件に遭遇すると本国である北朝鮮ではなく、日本に保護を求める行動をとった。つまりは本国が北朝鮮であることは頭の中での理解でしかなかった、ということになろう。

 

在日朝鮮人が海外に出てみると、自分の民族・国家・国籍・言葉などについて、日本国内では見えなかったことが見えてくるのではないかと思う。

 

 

(追記)

 掲示板で、「兎」さんという在日の方から拙論に関して次のような感想を頂きました。(20059月 3日(土)00時22分付け)

 

(11)<第32題在日朝鮮人が海外旅行すると‥>を読ませて頂いて、少し辛いと申しましょうか、悲しくなったというのが素直な感想です。

以下、<第32題在日朝鮮人が海外旅行すると‥>からの引用
>、「お前はコリアンなのに自分の国の字が読めないのか。なぜジャパニーズでないのか。なぜジャパニーズにならないのか。」と問われて答えに窮した次第。
> 自分の国の大使館とコミュニケーションするのに通訳が必要だということは、考えてみればおかしな話である。
>しかし韓国の歴史・文化・地理・政治経済状況等を聞かれてもさっぱり分からない。日本なら答えられる。
>ついに彼女はパスポートを見せる時以外は、「私はジャパニーズです。」と言うようになった。
>、日本はAランクなのでこの領事館で簡単にビザを出せるが、韓国はBランクになるので大使館に来てもらって審査する必要があるということであった。

(12)私は、心が引き裂かれるほどに、彼女の辛い気持ちが分かります。私も同類の経験をしてきました。
しかし、辻本さんは以上を次のような言葉で結んでいます。

> ほかにもいろんな面白い話があるが、これ位にしておく。

(13)大変失礼ですが・・・・何が面白いのでしょうか?
日本では朝鮮人と言われ、韓国に行けば「ハンチョッパリ」と言われ、日本人なのか?朝鮮人なのか?自分は一体何者なのか?自己の存在証明を見出す事が出来ないでもがいている彼女のあり様が、辻本さんには「面白い」のでしょうか?

(14)更に、<在日朝鮮人は、日本国内だけで活動する分には何ら支障はない。>と辻本さんは言われますが、本当にそう思われているのなら、真に残念ながら辻本さんの「在日」に対する事実認識は無きに等しいと言わざるを得ません。

<第32題在日朝鮮人が海外旅行すると‥>からの引用
> 在日朝鮮人が海外に出てみると、自分の民族・国家・国籍・言葉などについて、日本国内では見えなかったことが見えてくるのではないかと思う。

(15)これは、「在日」に限らず、日本人、いいえ全ての人に言えることです。海外に出て見ると、誰もが、自分の民族・国家・国籍・言葉について改めて考えさせられるのです。

>  諸外国では、韓国人でもなく日本人でもない「在日」という存在は認知されていません。

(16)認知して頂かなくて結構です。

>  自分のことが分かってもらえないという苛立ちのお気持ちは分かります。

(17)以上(論考第32題)から、辻本さんの<お気持ちは分かります>という言葉は残念ながら信じるに足りません。

 

 在日は韓国人でありながら、中身は全くの日本人であるという存在です。そのことを在日自身がどう感じているかについて、私たちはそういうものなのだからとそのまま受け入れて悩まない人がおれば、この「兎」さんのようにアイデンティティ(自己の存在証明)に悩む人がおられます。そんな悩みを聞かされても、本人がアイデンティティを見出すことのできない人生を自ら選択したのですから、周囲はそういうお気持ちなんですねと聞き置くしかないものです。

 ところで「兎」さんは私の知人の在日女性のことを「私は、心が引き裂かれるほどに、彼女の辛い気持ちが分かります」と書いておられます。しかし彼は彼女と一度も会ったことがなく、私の聞いたエピソードを読んだだけですので、彼女の「気持ちが分かる」わけがありません。その思い込みは一体何だろうかと考えます。在日は等しく自分と同じ感情・感覚を有しているはずだ、というものではないかと想像します。

200629日記)

 

 

(追記)

>天安門事件の際、北京大学に留学していた北朝鮮国籍の在日朝鮮人が日本人の学友とともに日本大使館に避難した、という事実がある>

 拙稿のこの部分について本当かどうか疑問を持つ人がおられるようです。これは金賛汀『在日という感動』(三五館 1994年9月)の次の記述に拠るものです。以下引用します。

民主化を求める中国の多くの青年・学生が中国人民解放軍の戦車に蹴散らされるのをテレビ放送で見ながら、はらはらして連れ合いと娘の身を案じていた。‥‥
 外国から大使館関係の車両が大学に押し寄せ、自国の留学生を連れて帰った。‥‥日本大使館からはバスで留学生を迎えに来た。‥
 京慧(娘)は避難行動は日本人留学生たちと一緒にという気持ちで行動したという。もし、日本大使館より先に北朝鮮大使館から迎えの車が来たらそちらに乗ったかと私が聞くと、“行かなかった”と答えた。‥
 京慧は日本大使館のバスで避難所に当てられた京倫飯店に入り、日本行きの臨時最終便が出る日まで数人の日本人の学友とともに、日本大使館の要請で北京在住の日本人家庭に電話をかけまくり、退避要請と安全確認の作業を続けた。その自分の行動に何の違和感も感じなかったという。」(34〜36頁)

2007年3月10日記)

 

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