35「遺跡捏造」考

 昨年は旧石器の遺跡捏造事件で、考古学や文化財関係は大騒ぎであった。この余震は今なお続いている。しかし「考古学」という学問を考える上で、この事態はなかなか興味のあるものでもあった。

 ところで遺跡の発掘調査現場においては、「捏造」とまでは言わなくとも、それに近いことがしばしば発生する。発掘の経験のない方にはおよそ想像もつかないであろうが、残念ながらよくあることなのである。

 

周囲への暗示

 発掘経験の少ない若い学生などに、遺構などあるはずのない所で、

「これを見なさい。土が違うだろう。ここに遺構の線がこう引けるだろう。これが見えないのか。なぜこれが見えないのか。他の人は見えると言っているのに‥。お前は考古学をやっているのではないのか。考古学専攻生がこれでは困る。」

などと繰り返し繰り返し言うと、彼らは暗示にかかり、「はあ、何とか見えてきました。」と言い出すものだ。しかしなかには、それでもおかしいと感じて何かと疑問を呈する元気なやつもいる。その時には、

「お前はこの遺構が見えたと言い、掘ったのではないか。その事実を厳粛に受け止めて、この検出された遺構をどう解釈して歴史を復元するかを考えよ。」

と言ってやると、「分かりました」と答えてくれる。

かなり古い話だが、こんな性質の悪い悪戯をしたことがある。今から思えば、イジメとしか言いようがない。

私のこの悪戯は1・2日で終わったが、昨年発覚した旧石器捏造では、藤村新一は20年の間に40ケ所以上もの遺跡で、しかも一流のプロの考古学研究者を相手にやっていた。悪意を持ったアマチュアの彼の暗示にプロが軒並み引っかかったというのだから、私なんかは彼に座布団一枚あげたい。騙されたプロ連中は節穴の目と言われても仕方ないだろう。

 

自分への暗示

 発掘調査をやっていくと、ここに古代の遺構があるはずだ、こんな遺構がなければならない、となる場合が時々ある。それでもなかなか見つからないでいると、誰か見学に来た人に見つけられると恥だと思って必死に探すようになる。そうすると何となく遺構らしいものが見えてきて、そのような掘り方をしてしまうことがある。自分で自分を暗示にかけているのである。そしてこれが遺構として記録される。

これが間違いであることが分かると「○○さん(調査担当者)の一念、岩をも通すで、地面に穴があいた」などと周囲から揶揄される。しかし発掘調査の終了後に開発されることがほとんどであるから、多くの場合は現地において間違いかどうかの検証ができずに終わってしまう。悪意のないことが救いである。

 

見落とし

遺跡の発掘調査担当技師(地域によって「調査員」「技官」「先生」と言われる)も人間であるから、見落としは避けられない。というより、よくある話である。

アルバイトや作業員の方たちに、「この遺跡では遺構はこんな感じの土をしている。このようにして精査すると見つけやすい。」という説明を詳しくしてあげると、大抵の場合「ここにありましたよ。」「これも遺構じゃないですか。」と見つけてくれるものだ。こうなると見落としはかなり防げる。

しかし調査技師のなかには、作業員等から見落としを指摘されるのを露骨に嫌がる人がいる。こういう場合の現場に行かされたベテラン作業員は、「ここに遺構があるんだけどな、早く見つけてくれないかな。」と天に向かって独り言を言うことになる。

 

大事な現場の雰囲気

調査技師は、「この遺構はおかしいのではないですか」と指摘されると、「そのように見えたのですが、確かにおかしいですねえ。」とか「成る程そうだ、見落としかな。」と素直に反省すべきである。逆にもしそれが間違った指摘であれば「ここの遺跡ではこうなります」と納得してもらい、さらに「これからも、どしどし言ってください。」と謙虚に言わなければならない。

たとえ先輩・後輩の間でも、あるいは技師と作業員・アルバイトという職務上の上下関係であっても、このような相互批判が自由に行なわれる発掘現場が一番いいのだが、それが許されない雰囲気のところも多いと聞く。これは困ったことである。

暗示によって遺構をつくっても或いはまた見落としがあっても、現地調査終了後に遺構の全体集合図を作ってみると、その遺構だけが不自然な位置にあったり、あるべき遺構がなかったりして、判明することが多い。しかしその時は、既に現場作業が終了した後のことであるから、もはや検証することができず、冷や汗をかくしかない。そうならないためにも、現場の自由な雰囲気が重要になるものだ。

 

ホームページに戻る