第28題朝鮮語を知らない在日朝鮮人

言葉と民族意識

 私は朝鮮語をほとんど独力で勉強してきた。といっても、語学というのは独学でやるには限界があるもので、数ケ月するとやる気がなくなって2〜3年ほったらかしにし、また思い出したように数ケ月勉強するというパターンの繰り返しであった。10年ほど前に大阪外国語大学朝鮮語学科の人から「うちの学生の一回生の終わりぐらいの学力」と診断された。

 在日朝鮮人二世・三世で、本名を名乗り、民族主体性や民族性の自覚を訴える活動家たちを少なからず見てきたが、彼らの多くが私の大したことのない語学力に及ばないことを知ったときは、ショックであった。少なくとも在日朝鮮人家庭では、我々日本人よりも朝鮮語に接する機会ははるかに多いはずだし、たとえ日本的な家庭であっても、民族性の自覚を考える在日朝鮮人は、自らの民族の言葉を学ぶ気概は日本人よりはるかに大きいはずだと思い込んでいたからである。

 思い起こせば20数年前の七四年頃に、朝鮮総連のHさんに朝鮮語の手ほどきを受けたときは、朝鮮語のできない朝鮮人は民族性を失った者である、という総連の考え方をその通りと思ったものだ。民闘連(民族差別と闘う連絡協議会━現在は在日コリアン人権協会というらしい)の前身の「朴君を囲む会」での日立就職差別反対闘争で、主役の朴君自体が朝鮮語が出来ないことで批判されたことを聞いて、その時は私は批判する側に賛成の意見をもった。かつての植民地時代に、日本は朝鮮人に朝鮮語の使用を禁止し、日本語を強制したという「歴史」が語られている。そして朝鮮人たちは北であれ南であれ、このことを言葉を奪われた屈辱の「歴史」として語り継いでいる。在日朝鮮人で朝鮮語の出来る人は民族意識の高い人、日本語しか出来ない人は屈辱の歴史を引きずる人と私は考えたものであった。

 

朝鮮語を知らない在日朝鮮人

 しかし、在日朝鮮人たちと親しくなるとすぐに気付いたことは、彼らは民族意識の高いはずの総連系の人であっても、家庭内ではほとんど朝鮮語を使っていないことであった。使っているとしたら在日一世のいる家庭で、

「シッロプタ」(うるさい)・「パンモゴラ」(早よ飯食べろ)・「チャンソリマンタ」(ごちゃごちゃ言うな)といったような叱る言葉、

「ピンシン」「パンピン」(ちんば・かたわの類の身体についての差別語=転じて阿呆・馬鹿の意味)、「ムンドゥンイ」(癩病患者の差別語=転じて阿呆・馬鹿の意味)、「ペッチョン」(白丁=日本の穢多・非人と同様の差別語)などのびっくりするような罵倒、

「アッパ」(お父ちゃん)・「オンマ」「オメ」(お母ちゃん)・「ハーベ」(おじいさん)・「ハンメ」(おばあさん)・「コモ」「イモ」(おばさん)といった親族呼称、

「アジェ」(おっちゃん)・「アジメ」(おばちゃん)・「スッカラン」(スプーン)といった身近な言葉、

時には「ハシトン」(箸立て)というような日本語と朝鮮語の合成語、

などの単語が飛び交うのであるが、日常会話は日本語であった。

 生まれ育った家庭で朝鮮語をたたきこまれたという人は、私の知る日本育ちの在日朝鮮人では皆無であった。在日二世・三世で朝鮮語の会話が出来る人は、ほとんどが民族学校に通った人であろう。それ以外では、日本人で朝鮮語の会話が出来る人と同様で、韓国に留学した人、大学の朝鮮語学科を専攻した人ぐらいであろう。

家庭内で幼い頃から日本語で話をし、日本語でものを考えてきた在日二世・三世にとって朝鮮語というのは、自然に覚える母国語というより、意識的に学ばねば習得できない外国語になってしまっているのである。朝鮮語の出来ない朝鮮人は民族性がないという考えでは、家庭教育そのものに民族性を失わせるものがあったと言わざるを得なくなるだろう。在日二世・三世は、親から朝鮮語を教えられず、まわりの人はすべて日本語を使うという環境の中で育ちながら、朝鮮語が出来ないことを批判されては踏んだり蹴ったりである。

 

日本を選択した在日朝鮮人

 なぜ在日一世たちは、子供たちと家庭内で朝鮮語ではなく日本語でコミュニケーションしてきたのか。現代コリア研究所の佐藤勝己氏は「子どもに日本語しか教えなかったということは、その一世が、在日として生きていることを選択したということではないか。」(『在日韓国・朝鮮人に問う』亜紀書房 1991)と分析している。おそらくその通りだろうと思う。日本志向が否定しきれず、本国に帰国することがもはやあり得ないことが決定的になった在日朝鮮人の現在の姿は、在日一世は感覚的に知っていたのだろう。

 しかし在日一世のお宅におじゃました時、子供や孫に「この先生は日本人やのにこれだけ朝鮮語ができる、少しは見習ったらどないや」と言う一世の心情を察するには、いくら祖国に帰ることがなく日本に定住することがはっきりしているとは言うものの、朝鮮語の分からない子供たちに淋しさ、あるいは苛立ちを持っているものと思う。一方、息子を民族学校に通わせている在日二世のCさんは「私は朝鮮語ができない。子供だけには自分の国の言葉が話せるようにさせてあげたい。」という話をしてくれた。家庭では与えることの出来ない民族性を、学校で教えてもらおうということなのであろうが、朝鮮語のできないことにコンプレックスを抱く二世の姿を感じた。

 従軍慰安婦問題の集会を見に行った際に、講師の在日二世の女性が「私は朝鮮語ができません」と恥ずかしそうもなく堂々と述べるのにはびっくりした。民族に関わる運動を担う在日の活動家で、自分の民族の言葉が出来ないことを居直る人が出てきているのである。

 朝鮮で生まれ育った在日一世は、朝鮮の言葉や風習、感覚を忘れることはないだろう。私がこれまで出会った一世は、多かれ少なかれそうであった。しかし日本で生まれ育った二世・三世は、なぜこんな人が同胞なのかと本国では首を傾げる程に日本の言葉・文化・習慣が身についてしまっている。逆に我々日本人にとっては、なぜ彼らは外国人なのか不思議に思う程である。

 いま在日朝鮮人は一世がかなり高齢化し、二世から三世・四世へと世代が移りつつある。彼らが母語としての朝鮮語を取り戻すことは、もはや不可能である。彼らの母語は自民族の言語ではなく、他民族の言語である日本語なのである。

 在日朝鮮人は自らの意思で母語としての日本語を選択した、と言うしかないであろう。

 

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