54「差別・同化政策」考

「差別・同化政策」とは?

民族差別と闘う団体は、日本政府が「差別・同化政策」を行なっていると主張する。その内容を簡単にいうと、日本政府は戦後在日朝鮮人を外国人としておいて差別を行なう一方で民族性を否定する同化政策をも行ない、それに乗せられて日本人になろうとする者を選んで帰化させる、こういう巧妙な差別政策を意図的に行なっているというものである。彼らは今もその考えを維持しているようだ。

 

かつて在日は差別を受け入れた

 しかし在日朝鮮人は戦後一貫して自分たちが日本人ではなく、朝鮮・韓国を本国とする外国人であることを自ら主張してきた。民族団体(特に総連)は社会福祉、社会保障、教育などで日本人と同様に扱うことは同化につながるからと反対したものだ。従って在日朝鮮人は少なくとも七〇年代までは自分たちが外国人で、その結果受ける差別は当然と思っていた。当時の総連の主張に、「私たちは他のアメリカ人やフランス人と同様の外国人として処遇してほしい。朝鮮人だからといって、不利になったり有利になったり特別扱いしないでほしい。」とあったと記憶している。

 その差別が不当だという主張は七〇年代以降のことなのである。日本政府や自治体が在日を外国人として行政サービス(例えば小学校の入学案内や国民年金、公営住宅入居など)をしないなどという差別的取り扱いをしてきたというのは事実でありその通りであるが、在日自らもそれを主張してきたことも見落としてはならない。なおこの外国人への差別的取り扱いは、難民条約等の締結に伴い八二年より法的には大概が解決した。

 

積極的な同化政策はない

 ところで日本政府が行なっているという「同化政策」とは何か。外国人がその国に居住し、ましてや永住するとなると、政府だけでなく周囲の人々が言葉、習慣、価値観、社会的規範、法律を周知・理解させ、守らせようと努力するだろう。外国人が私の国では合法だからといって違法行為をすることは、やはり許されるものではない。端的に言えば、外国人には家庭外の社会生活において自国民にできるかぎり近づけさせようとするものだ。外国人の方もその国で生活する以上、一旦家の外に出て買物や商売、仕事等で周囲と様々な関係を取り結ぶ時、その社会に自分を合わせようとするだろう。社会生活における同化とはこういうものであり、政府だけでなく社会の当然の要請である。

 少なくとも戦後の日本ではたとえ朝鮮人であろうとも、家庭内でどんな言葉が使われようが、どういう風に名前を呼び合っていようが、どんな人が集まっていようが、また何を考え何をしようが、周囲に迷惑さえかからねば自由であり、ましてや犯罪でもない限り官憲の干渉はあり得ない。つまり社会生活における同化の圧力は当然であるが、その圧力は家庭内にまで及ぶものではないということだ。家庭外においても法を守る限り、同胞が集まり、民族について語り合い、主張し、さまざまな取り組みをすることは禁止されるものではなかったのである。

 要するに日本政府は法を守らせようと強権を発動したり、同化への期待を表明することはあっても、同化させようと積極的な政策を実施したことはない。

 

「同化政策」論は怠慢を隠蔽

 しかし子供たちは学校や近所の子供たちとの付き合いや、テレビ等で簡単に同化される。それは強制されたものではなく自然のなせるわざである。子供たちの同化にどう対処するかは、各自の家庭のとりわけ親の考えにかかっている。もし同化はダメだ、民族の主体性を持つべきだと考える親なら、家庭内での言葉や食事、習慣などは本国と違いのないようにして、できるだけ本国の人々と違和感のない生活スタイルをしようとするだろうし、子供の教育も本国のことを念頭に入れて考えるだろう。本国とは相容れない日本の文化や感性を持とうとする子供たちには叱りつけるしかない。同化を拒否するには大きな努力が必要なのである。

 しかし、いま在日朝鮮人は日本人との文化的・民族的異質感がどんどん薄れてきており、逆に本国の人々との異質感が大きくなっている。そういった在日朝鮮人の同化現象は彼らが同化を拒否する努力を怠ってきた為と言うべきもので、あるいは自ら選択した道と言うべきものである。従って一方の日本政府は「同化政策」という努力をしてこなかったし、また何もそんな努力をしなくても在日の方から同化してきているのである。

在日の同化現象が日本の「同化政策」に起因するという論理は自らの怠慢を隠蔽し、その責任をおのれではなく他に求めるものではなかろうか。

 

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