52題竹田青嗣氏の在日朝鮮人論

 

1995年8月23日の毎日新聞の文化欄に、竹田青嗣さんの『<在日コリアン>の戦後50年 アイデンティティは多様化 徐々に日本社会の中へ』と題する投稿があった。彼の在日に対する認識は私とかなり共通する。私はこれを読んで自分の認識について自信を深めた。彼の文章のさわりを青色字で紹介し、私なりのコメントを書きたい。

 

「あるところでわたしは、日本人が在日の問題を理解するとき、戦中・戦前の日韓(朝)関係を起点にするのはもはや適切とは言えない、と述べたことがある。強制連行などで連れてこられ、日本社会の差別と悪意にさらされながら、民族としての誇りを保ちつつ生きる少数民族。

 これが今でも日本人のごく一般的な「在日」像だが、しかし、これは実情とはそうとう隔たった像だというほかない。」

 

今の在日朝鮮人はいわゆる「強制連行」の歴史とは関係ない、ということは私もずいぶん前から主張してきたことだ。これに対する反発(根拠があれば批判になるが、根拠のないものは単に感情的な反発でしかない)はかなりあった。竹田さんは在日の有名な評論家だから聞く人は多かろうが、私のような人間には反発はきついものだ。「たとえ事実でも日本人は言ってはならない」という誰かの言葉を記憶している。

 

 

「もはや在日社会はそれほど一枚岩の社会ではなく、まず一世(親)と二世(子)の間のさまざまな心理的確執がある。また二世と三世(孫)という世代の進みゆきの中で、民族的アイデンティティの拡散や分裂という深刻な問題が横たわっているのである。」

 

日本の過去や日本政府、日本社会を厳しく糾弾する在日の活動家の講演を聞いたり、彼らの文章をよく読んだりしたものだが、彼らの家族や在日社会内で深刻な民族的・世代的葛藤というものはないのか。私にはそれを語らない在日の活動家が不思議でならない。

 

 

「かつて、私が学生だった頃(ほぼ20年前だが)、在日の青年にとって「民族か同化か」という問いが圧倒的な力をもっていた。それは、民族の一員としていきるか、それとも日本人に同化して民族の裏切り者となるかといった二者択一的な選択肢を意味していた。この時点では、在日の「民族主義」は不可避なものだった。」

 

私も在日に関わり始めたのは70年代であるから、かれこれ20年以上にもなる。その当時は在日の主張というかほとんどの考え方は、彼の言う通りであった。

1・2年程前にある公立学校の校長先生が在日に「民族教育を受けたいのだったら民族学校に行きなさい。日本の学校では民族教育はできない。朝鮮人は朝鮮に帰るべきだ。」と発言して、これが「暴言」と批判されていた。校長先生の発言は20年前までは暴言でも何でもない、ごく当然の発言であった。その当時「在日の子弟を民族学校の門に連れて行く、日本の学校の先生に出来ることはそれだけだ。」という主張は、在日の側からも革新といわれた日本人の側からも大きく叫ばれたことであった。(ちなみに保守の意見は、反日教育する民族学校の存在は許されないというものであった。)

また「我々はいずれ祖国に帰るのであるから、福祉とかそういうものはいらない。日本は祖国の統一の邪魔をしない、日本に望むことはそれだけだ。」「厚生年金なんて強制的に取られるけど、私等は祖国に帰国するので年金は貰えない。年金を納めるなんて我々には無駄だ。」「日本人と違った取り扱い方をされるから、我々は民族の自覚を持つのだ。日本人と同じ処遇を求めるのは同化を求めることであり、民族を否定するものだ。」というような物言いは、20年前まではごく当たり前のことであった。

「朝鮮人は朝鮮に帰る」というのは彼ら自身の主張で、「暴言」でも「差別発言」でもない話であったのだ。これを思い出すにつけ、今の在日の活動には隔世の感がある。彼らは、自分らの先輩たちが20年前まで担ってきた民族運動の歴史を総括せず、それどころか忘れてしまったのではないか、と思ってしまう。

 

 

「現在では事情は大きく変わっている。祖国に戻って貢献したいという者、反差別の運動に向かう者、市民権獲得を目標とする者、そして韓国系日本人と規定する者など、そのアイデンティティの多様性は決定的になっている。これまでの中心のテーマだった「民族中心主義」をどう変容させていくか。もはやこの難問を避けて通れないことを、誰もが知っている。…

在日の若い世代は、一方では、社会の中での自己実現を求めて日本社会に入っていこうとする。しかしもう一方で差別の劣等感を克服するために、独自のアイデンティティ(例えば「民族」)を必要とする。この二つの力は言うまでもなく逆向きに働いている。だから、日本社会が在日を受け入れる度合いが大きくなるにつれて、「民族」アイデンティティはどうしても拡散せざるをえない。…つまり、まさしくそういう「アイデンティティの不定性」を苦しみながら、在日は徐々に日本社会の中に入り込んでいくことになるのだが、もはやそれを“悪”と捉える根拠もないのである。…

おそらく、ほとんどの日本人は、在日がじつはそのような場所を生きていることを知らないと思う。わたしはそれを非難しようというのではない。しかし問題を、差別する多数者とそれに抵抗する少数者といった単純な図式で見る限り、じつは何が考えられなくてはならず、何が解かれるべきかということの核心が消えてしまうのだ。」

 

長い引用になったが、私が従来から論じてきたことと変わらないというか、私の考えを代弁してくれたような文章である。私にはよくぞ書いてくれたと思うほどだ。

ただ彼は「ほとんどの日本人は、在日がじつはそのような場所を生きていることを知らない」と書いておられるが、これは違う。私の体験では少なからずの日本人はそれを知っている。彼らは在日の問題に関心があっても、在日の活動に違和感を持っている。しかし彼らは、ごく一部を除いて、それをなかなか口に出さない。竹田さんの言う「差別する多数者とそれに抵抗する少数者といった単純な図式で見る」在日や日本人の活動家の声が、あまりにも大きいのである。

 

 

「この問題を解くためには、人々がじつはどのように生き、何に苦しんでいるのかを、まず正確につかむことが前提となるのである。」

 

竹田さんはルソーの『社会契約論』を紹介して、この文章を結論としている。当然の結論であるが、在日の現状を「正確につかむ」ということがなかなか難しい。在日は、生い立ち・意識・経済状態・人間関係などそれこそピンからキリまである。「正確につかむ」ことは困難であるが、議論を重ねてやり遂げねばならないことだ。少なくとも在日を「強制連行などで連れてこられ、日本社会の差別と悪意にさらされながら、民族としての誇りを保ちつつ生きる少数民族」というようなドグマ的な見方からは、早急に解放されねばならないことは確かである。

 

(追記)

 8年ぐらい前にミニコミ誌に発表したものの再録。

在日朝鮮人を「強制連行などで連れてこられ、日本社会の差別と悪意にさらされながら、民族としての誇りを保ちつつ生きる少数民族」「差別する多数者とそれに抵抗する少数者」ととらえる見方は、そろそろ止めにしたらどうかと思います。そして竹田氏のような冷静な意見がもっと取り上げられるべきだと思うのです。

しかし在日の方で、彼のような存在が少ないのは寂しいものです。

 

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