「記憶」の表現 『朗読者』を読んで

宮井秀人

 ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』は、なぜこれほどまでに重く悲しいのだろうか。

 同書は、恋愛小説であり、成長小説である。そして、一面ミステリー仕立ての戦争小説でもある。邦訳でわずか200ページほどの淡々とした文体の中で、非常に多くの、複雑なことを語っている。愛、強制収容所、ドイツ人、ユダヤ人、ナチズム、文盲、知ることの意味、人間の尊厳、人間が成長するということは何か・・・・。そして、それらは全てハンナという一人の女性を通して語られている。

 小説の前半部、主人公である少年ミヒャエルは、年が20歳は離れているハンナと愛し合う。彼女は、非常に誠実で、高潔かつ魅力的な人物である。貧しいながらも清潔で、彼女の石鹸の匂いの描写が幾度となく登場する。激しく愛し合いながらミヒャエルは、ハンナにせがまれて何冊もの本を朗読するのだった。

 しかし、その彼女が、ナチスで働いていたということが、この物語の大きな転機となる。法学部の学生となったミヒャエルは、かつて愛したこの女性と、あろうことかアウシュビッツ裁判で再会してしまう。ショックで彼は極度の感覚的な麻痺状態に陥る。

 ハンナは、ナチス時代、ユダヤ人捕虜を強制収容所に送る仕事をしていた。そして、移送中のユダヤ人捕虜を教会に閉じこめたまま爆撃(連合軍の!)にさらし、大勢の命を見殺しにしてしまう。それが、彼女が裁かれている理由であった。ハンナは、立派に意見を述べるが、その全てが裏目に出て、何人かの被告のうちで最大の責任者の役割を引き受けてしまうことになる。

 裁判の過程で、ミヒャエルは、彼女が文盲であることに気づく。ミヒャエルは、彼女が、自ら文盲であることを告白するには、余りに誇り持った女性であることを、知っている。貧しくて、学校にすら行けなかったに違いない彼女は、裁判に提出された色々な証拠書類を読んで反論することができなかったのである。

 彼女が文盲であることを気づいたミヒャエルは、カントの研究家で哲学者でもある父に相談する。そこでハンナの「自由と尊厳」を大事にすることを説かれ、彼は受け入れる。

 結局、文盲であることは明かされないまま、ハンナは無期懲役となるのだった。

 その後、ミヒャエルは、刑務所の彼女に、朗読テープを送り、「力ずく」で書かれた彼女の手紙を受け取る。しかし、「自由と尊厳」を大事にするためか、彼は個人的なコメントをいっさい挟まず、朗読テープのみを送り続ける。

 刑務所で読み書きを覚えたハンナは、大量の文献を読みあさり、自分の犯した罪をつぶさに省みて、出所日の直前に、ついに厳しい決断を下してしまうのだった。晩年のわずかな期間の彼女は、風呂にも入らず、老いの臭いを発散させる、清潔だったころの彼女とは大きく違ってしまっていた。

 ハンナが出所日直前に下した決断は、彼女の人間的尊厳の高潔さを示して余りある。彼女は、わざわざ老醜をさらしたまま、「(ナチス的には)英雄的ではない」死を死ぬのである。

 彼女はなぜ死んだのであろう。もちろん、ハンナのナチス時代の「記憶」が彼女を突き動かしたのである。彼女との「記憶」がミヒャエルを突き動かしたのと同じように。しかし、彼女の「記憶」は、彼女にとってすら、長くベールに包まれていた。そのため、ミヒャエルは父の言葉の通り、その「記憶」の処理を、彼女の「自由と尊厳」に委ねてしまったのである。はたして、それで良かったのだろうか?作者のシュリンクはここにも疑問を投げ掛ける。カントは、ナチスには無力ではなかったか。

 また、彼女との「記憶」を通して、ナチスの「記憶」を辿ってきたミヒャエルには、現存する強制収容所の跡地とハンナの「記憶」との、ギャップを埋められない。この記念碑すら凌駕する「記憶」の持つ力が、小説の中で浮き彫りにされている。そのため、ハンナを巡る叙述には大変多くのページが割かれていて、読めば読むほど、ハンナの強く、魅力的で毅然とした人物像がありありと浮かび上がってくる。

 現在のドイツで「記憶」の表現が問題になる中、私は前回のレポートで、当時の映像をたくさん用いた「映画の記念碑」を提案した。その方が、「公的な記憶」ではない個人の「記憶」の「真実」を叙述することができると感じたからである。この『朗読者』という小説は、まさに映画のように「記憶」の「真実」を、私たちに伝えてくれる。

 私は、この『朗読者』と並行して、「歴史家論争」を記述した文献『過ぎ去ろうとしない過去』を読んだ。その多くは難解であるが、言おうとしていることは驚くほど単純である。歴史家は、ナチスは狡猾な「悪人」とそれに扇動された「愚人」によって「のみ」構成された組織であったと考えてきた。

 しかし、真実がそんな単純なものであったなら、どれだけ気楽であったろう。戦争を生きたリアルな人間の「記憶」が、詳細な歴史書からは見えてくるとは限らない。むしろ逆である。一部の歴史家は、ナチスの罪を「機能的」に分析するあまり、その範疇に収まらない人々や事象を排除しがちになる。かくして、彼らの描く歴史は、単純になる。

 ナチスが本当に恐ろしいのは、ハンナのような誠実で、賢く、優しく、高い「尊厳」を持った女性が、進んでその構成員として入り、その体制を支えていたことにある。『朗読者』の「記憶」が指し示すものこそ、これである。だからこそ、ナチスは恐ろしく、そしてその「悪」が徹底的に追及されなければならないのである。ナチスの犯した罪は、歴史家の単純化にも拘わらず、人々の「記憶」に、生々しく、そして複雑に、今も根づいている。

 ドイツには、ハンナと同じような人がたくさんいたはずである。H・アレントを惹きつけてやまないハイデガーや、戦後厳しく反省したシュペールのような人物も、ナチスには存在した。

 歴史を単純化するもの同士の「歴史論争」や、ナチスの残忍さを描くだけの歴史からは、真のナチスの悪は描かれない。いや、むしろナチスの悪性を弱めてしまうことになるだろう。ハンナのような人物までもが、ナチスに何らかの形で加担していたこと、これこそが、ナチス/ヒトラーの犯した最も恐ろしく、最も追求しなければならない罪なのである。

 ドイツ人ではない私たちも、これは、対岸の火事ではない。例えば、オウムのメンバーにも、ハンナのような、誠実で、賢く、優しい人物がいたはずである。だからこそオウムは、恐ろしいのである。

 私たちは、誠実に、賢明に、他人に優しく生きようとしているが、それが知らず知らずにナチスあるいはオウムへの道を歩んでいるのではないかと、常に自問する必要がある。

 また、ハンナは、老醜をさらして死んだ。それはナチス的な意味で英雄的ではなかったが、見事な、美しい死であった。しかし、彼女の生涯が幸せであったかと言われれば、断固ノーと言わなければならない。彼女たちの不幸を二度と引き起こさないために、彼女たちの人間的自由と尊厳を尊重しながら、我々に何ができるのかをも、考えていかなければならない。

 そのための「記憶」の表現として、『朗読者』のような物語を「心に刻み込む」必要がある。

以上

講義の感想

 私はこの社会思想史の授業を通して、ヴァイツゼッカーの演説に接し、ノルテやハーバマスの歴史観に触れ、シュリンクの『朗読者』を読んだ。この経験を通して私は、「歴史」と「記憶」の処理という非常に困難な作業に、真摯に打ち込んでいる人々の甚大な努力を感じ取れた。これらドイツのケースを安易に日本に取り入れられないことは、第2回のレポートでの思考実験で強く認識できた。しかし、ドイツの先人たちは様々な重要なヒントを私たちに与えてくれている。私たちは、それを議論が20年は遅れている日本において、どのように生かせるか、そしてどのように私たちの手で取り組むべきか、じっくり考えなければならない。それは、戦後、残された私たちのもつ重要な責務である。
 このような機会を与えて下さった、大石先生に感謝したい。