吉川 徹著『階層・教育と社会意識の形成----社会意識論の磁界』(ミネルヴァ書房・1998年)

 本書は、社会意識というテーマを正面から取り上げた久々の学術書である。その意義は、強調しておく必要がある。
 かつて、社会意識論が社会学の花形分野の一つだった時期があった。その成果の一端は、たとえば1976年に出版された『社会学講座』(東京大学出版会)の第12巻、『社会意識論』にみることができる。執筆者は見田宗介、田中義久、庄司興吉、栗原彬、宮島喬。後に日本の社会学をリードし続けることになる、当時30代の俊秀たちであった。
 ところが著者も指摘するように、その後、社会意識研究は衰退の一途をたどることになる。もっとも政治、教育、家族などといった個別領域においては、意識に関する研究が蓄積され続けている。しかし社会意識研究そのもの、著者の定義によれば「当該社会に通底する心理的諸傾向の『磁界』を測量する」(P.4)という課題を意識的に追求した研究は、ほとんど目にしなくなった。著者はその原因の一端を、類似する対象を扱う「文化の社会学」という分野が成立したことに求めている。
 しかしもう一つの、より大きな原因を見のがすことはできまい。それは、マルクス主義社会理論の影響力が衰退したことである。先述の『社会意識論』を読むと、社会意識論がマルクス主義社会理論と不可分の関係にあったことは明らかである。そもそも社会意識論の中心課題である「社会意識が存在諸条件によって形成される過程」(P.24)とは、史的唯物論の基本命題の翻案にほかならない。この命題を基本としながら、一方ではフランクフルト学派の権威主義的パーソナリティー研究、他方ではイギリスを中心に展開された労働者意識研究を範例として成立したのが、日本における「社会意識研究」だったのである。だとすればマルクス主義社会理論に対する拒否が広まるとともに「社会意識研究」が衰退するのも、ある意味では当然といえる。
 それでは著者は、こうした現状をどう乗り越えようとするのか。端的にいえば、社会意識を形成する「存在諸条件」を社会階層から切り離すことによってである。従来の社会意識研究が「存在諸条件」の中心とみなしてきたものは、いうまでもなく社会階層所属である。これに対して著者は、こうした関心を「呪縛」(P.77)と断じ、社会階層は社会意識の直接の決定因ではないと結論するのである。
 その理路は、ある意味ではきわめて単純明快である。著者はいくつかの調査データと各種の統計手法を用いながら、権威主義的態度をはじめとする社会的態度、環境保護意識、ヘルス・コンシャス、階層帰属意識、生活満足度といった、諸種の意識変数の規定要因を分析する。その結果から、(1)職業は社会意識の直接の決定因ではない、(2)社会意識を主に決定するのは教育である、と結論するのである。そしてこの結論は、社会意識論の「脱階層化」に道を開くものだ、という。
 仮にこの結論が正しいならば、社会意識論には大きな転換がもたらされることになる。しかもその中で教育社会学は、社会意識の形成過程を扱う学問領域としてクローズアップされることにもなろう。しかし私は、著者の実証手続きには多くの疑問があると思う。
 第1に、社会意識を把握する諸概念や指標が適切に設定されていない。「社会意識が存在諸条件によって形成される」とすれば、社会意識を把握する諸概念や指標は、存在諸条件から社会意識が形成されるプロセスについての概念化に基礎づけられるべきである。著者が最重要の先行研究として位置づけるフランクフルト学派とコーンの研究などをみるまでもなく、従来の社会意識研究では多くの場合、階層構造の変動や労働過程の特質など、存在諸条件の構造との関連のもとに解明されるべき社会意識が概念化されていた。ところが本書で使われている意識変数は、雑多な調査から非体系的に抽出されたものである。権威主義的態度のように従来の研究を踏襲したものもあるが、その内容はあまりにも大時代的で、現代日本における社会意識を把握する目的に、必ずしも適切なものにはなっていない。環境保護意識やヘルスコンシャスに至っては、そもそも存在諸条件に規定される社会意識としての概念化が困難である。こうした概念・尺度構成の不備のために、著者は職業階層と社会意識の内在的関係を把握し損なったのではないだろうか。
 第2に、階層変数と教育変数の規定力を比較する手続きに疑問がある。著者は何度かにわたって、職業威信スコアと教育年数を同時に説明変数として重回帰モデルに投入した結果から、階層変数の説明力が大きくない、もしくは教育変数より弱い、と結論づけている。しかし職業威信スコアは職業カテゴリーにもとづいて作られるものであり、同一の職業に就く経営主と被雇用者が同一視されるなど、階層変数としては問題が多い。没落する旧中間階級の権威主義的傾向という、権威主義的パーソナリティー研究の基本テーマを考えても、その問題性は明らかだろう。ちなみに私は、社会意識の規定要因としては、職業カテゴリーより階級カテゴリーの方が有効であることを、何度かにわたって確認している。
 第3に、著者の使用した教育変数にも問題があると思う。第9章の分析で著者は、「学校教育の複雑性」という変数が青少年の社会意識を決定する要因として有力であるとしているが、「英語・数学の授業時間数」「1週間あたりの合計学習時間数」によって構成されるこの変数は、事実上「進学校尺度」に他ならない。だとするとこれが「学校教育の管理性」と逆相関なのも、生徒の社会的態度と強く相関するのも当然である。他方で著者は、「父親教育年数→知的資質・成績→学校教育の複雑性」「父親職業威信→学校教育の複雑性」の二つのパスが有力であることを示している。ここから結論されるべきは、階層変数の効果がないということではなく、階層変数が学校教育の階層的構造へトラック化されているということではないか。なお第10章で著者が用いている「言語資本」変数は、私を含む研究グループが大学生を対象とする調査のために作成したものだが、あまりに難解すぎて問題があったと反省している。中高生に答えさせるのは、どだい無理な話だと思う。
 しかし、以上のような問題点にもかかわらず、私は本書の意義を認めざるを得ない。それは本書が、社会意識論を社会階層の「呪縛」から解き放そうという大胆な試みであり、しかも社会階層を重視する立場からは、これを否定できるだけの研究がいまのところ出現していないからである。今回は失礼ながら、データの裏付けのない批判を繰り返すこととなった。近いうちに必ず、実証的な根拠を備えた反論を用意したいと思う。

(『教育社会学研究』第64集 1999年)

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