これまで4度にわたって実施され、現在5回目が進行中のSSM調査が、日本の社会学を代表する調査プロジェクトの一つであるであることは間違いない。その分析結果はこれまで、いくつかの論文や著書を通じて海外にも紹介されているが、本書は85年SSM調査の中心メンバーたちが、一般の読者をも射程に入れて執筆した概説書である。執筆者は編者の他、盛山和夫、原純輔、直井優の計4名。テーマは階層構造の概観から世代間移動、労働市場とキャリア、階層意識、政治意識など広く社会階層研究の主要な分野をカバーし、女性の社会的地位に関しても一つの章があてられている。
全体として見ると、SSM調査データの分析を通じてこれまで確認され、または指摘されてきた重要な知見を手際良く紹介しており、概説書としての目的は十分に果たされていると思われる。本書の性格上、単純集計にもとづく説明が頻出し、やや退屈に感じられる部分もあるが、複雑な集計や数学的に高度な分析に専心するあまり見落としてしまいがちな基本的事実を確認する意味で、かえって新鮮に感じられることもしばしばだった。この点をまず指摘した上で、気づいた点を二点だけ記してみたい。
まず気になったのは、官庁統計などのより正確なデータを利用すべき問題までをSSMデータに基づいて論じている部分がいくつか見られることである。第1章でも言及されているが、SSMデータには管理職・事務職と高学歴者が過大に現われるという、かなりシステマティックな偏りがある。したがって、教育年数や所得分布、職業構造などについての基本的な事実を把握する目的でSSMデータを用いるのは危険である。この点、センサスデータの併用が必要と思われる部分----たとえば第3章の教育年数に関する箇所や、第7章の女性の職業や学歴に関する箇所----がいくつかみられた。
もっとも多くの場合、これが結論の正しさにまで影響しているわけではない。唯一、疑問と思われたのは、第5章の分析である。ここで盛山はSSM調査の職歴データの分析から、通説に反して日本では大企業から中小企業への下降移動より、その逆の上昇移動の方が起こりやすいという、意外な結論に達している。
盛山によると、これまでの研究は移動の数量を根拠としてきたため、各々の労働市場の規模の違い(中小企業の方が雇用者数が多い)に撹乱されており、事実とは逆の結論に陥ってしまったのだという。しかし「就業構造基本調査」や労働省の「中途採用者就業実態調査」のデータを見る限り、大企業から中小企業への移動の方が起こりやすいという結論は動かせないように思われる。それは両者の雇用規模を調整しても変わらない。
盛山がこのような結論に達した原因が、SSMデータの偏りにあるのか、分析手法の問題か、あるいはそれ以外の理由によるのかは分からない。しかし重大な問題だけに、まず国内での論争を経て結論を確定する慎重さが欲しかった。学問研究に国境はないとはいえ、海外のほとんどの読者には事実上、この結論に反する多くの研究やデータの存在を知るチャンスがないのである。これに対して各章の知見を箇条書きにまとめた第9章で高坂は、第5章のこの結論を限定的にしか採用していない。好ましい配慮と言えよう。
実はこの点は、SSMデータに基づく研究が陥りがちな落とし穴でもある。SSMデータは確かに良質で利用価値の高いデータだが、それだけに既存の調査・研究の検討や自前の調査を省略し、手軽に論文を書くのに利用する傾向がこれまでにもしばしば見られた。95年のSSM調査はこれまでにない大規模な研究者グループによって行なわれるらしいが、こうした危険について注意を促しておきたい。
次に、class(階級)という用語の使用についてである。著者たちを含めた日本の階層研究者が日本語で執筆した著作と本書の大きな違いの一つは、本書にclassという用語が頻出することである。ちなみに私が考案した階級カテゴリーに基づく分析も紹介されており、私としては喜ばしい限りなのだが、それにしても日本語では絶対に「階級」などとは書かない研究者たちが、英文では何のこだわりもなくclassと書くのはなぜだろう。私にはこれが、日本の階層研究における一種の偏向を裏書きしているように思われる。
第6章で高坂は、1920年代以降の雑誌記事の分析を通じ、1960年代以降は「階級」という用語が、日常用語としても共通の術語としても使われなくなったと指摘している。確かに戦後の日本では、「階級」という用語が大橋隆憲に代表される政治主義的な階級論によって過度に政治化され、中立的な術語として使いにくくなったのは事実である。しかしだからと言って、日本語では階層、英語ではclassと使い分けるのが適切だとは考えられない。これまで日本の社会学は、「階級」という用語で指示される社会現象を無視あるいは軽視してきたと言ってよい。本書がこうした現状を再考する契機になることを望みたい。
(『社会学評論』185号 1996年)